京都 最古の日蓮門下寺院

2008年05月25日 | Weblog
本山・宥清寺が京都でもっとも古い日蓮聖人門下のお寺だったとは驚きです。
1308年(延慶元年)、日蓮聖人の直弟・日辨(にちべん)上人を開基と仰いでいます。宥清寺は本来は、青柳厨子・本門寺(あおやぎずし・ほんもんじ)という名称でした。
日辨上人は越後の阿闍梨と称し、日蓮聖人上足の御弟子、六老僧に次ぐ十八中臈(老)の一人です。日辨上人は広く諸国をめぐって弘通教化に精励されました。
京都においては藤原(青柳)定家の末裔を教化し入信に至りました。それが後に、日辨上人の御弟子として、第二世に列せられる日寿上人です。
日寿上人はみずからの藤原家(青柳家)邸宅を寺院としました。そこで、青柳厨子と称したのです。
ともかく、このような歴史と伝統を有し、日蓮聖人ご直筆の御本尊、そして、我が国最古の日蓮聖人の御霊像をお護りしてきている本山。素晴らしいのひと言です。
今日は、大雨の予報に反して、雨も上がり昼には青空もみえました。
700年万歳!

さて、日辨上人の後、京都には日像上人(1269~1342)が苦難の末、京都に入られ、三回も追放されましたが、ついに妙顕寺を創建されました。その後、京都の町衆に日蓮聖人の教えが受け入れられ、21本山が建立されたといいます。
ところが応仁の乱、そして比叡山延暦寺による天文法華の乱によって、ことごとく日蓮聖人門下の寺院も破却、焼失。多くの寺院が京都郊外や遠方に避難しました。
本山宥清寺も丹波に移転、京都に帰ってきたのは1599年(慶長4年)です。
その後も、いろいろな所を転々としました。そして、元禄7年(1694年)、種々の事情があり本門寺あらため宥清寺と号することになりました。
しかし、一貫して護持してきたのが、先ほどふれた日蓮聖人ご直筆、南無妙法蓮華経の「御本尊」と日蓮聖人がまだご存命中に、手ずから、たましいを入れられた(手自開眼・てじかいげん)日蓮聖人の御尊像です。
この日蓮聖人のお姿を謹刻したのは、やはり日蓮聖人直弟、日法上人という方です。この御霊像は文化庁によって20年以上前、鎌倉中期の典型的祖師像であると鑑定され、重文指定を受けました。
ともかく、明治2年当時、荒れ寺であった宥清寺に入られた開導日扇聖人は、この御霊像にめぐりあい、お仕えすることになったことをことのほか、喜ばれました。
この御霊像については長い歴史の中、ご祈願をかけて不思議な御利益を頂いた方が沢山あります。多くの佛立宗の寺院もご信者のお宅の御尊像もこの本山宥清寺の御霊像をそのまま写すように謹刻されています。

コメント (2)
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