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パラダイス鎖国 忘れられた大国・日本
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オタクはすでに死んでいる
この二冊を同時併読する形で読んだのですが、日本を外側と内側から対称的な視点で捉えた感じで、大変面白く読めました。
日本と言う国は、(ある一つの視点から見れば)日本人にとって綿でくるまれたユリカゴの様に温かく快適で、望めば何でも手に入りやすく、何でも間に合ってしまう場所になってしまっているんですね。外(海外)へ出る必要性もないし、あらゆる欧米文化に興味がなくなり、大人にならず子供のままで居て良く、そして何でも済ませることができてしまう。独特の文化が高度に発達し、ガラパゴス化し、オタク化している。良くも悪くも、誰に強制されるでもなく、一億総引き籠もりと言って良い状態になっています。
オタクについては、近年よく使われる世代論を多用してますが、これは世代と言うよりも変化という方がシックリする感じがします。個人的には自分とおたくとの距離感の変遷というような。
中森明夫氏により命名されたとする80年代前半、"おたく"と言うのはミーハーな存在であり、アニメやマンガに対して真剣に取り組み研究する身にとっては「ああ言う輩とは違う、一緒に見られたくないよなぁ」と言う意識で見ていた気がします。
80年代後半に宮崎勤事件が起きると、マスコミが大きく動き出し、便利な言葉として"おたく"を乱用し、危険な趣味を持つ犯罪予備軍かのようなイメージが定着してしまいます。この時も距離を置きたい気持ちでいっぱいになり、自分の仕事さえ公言するのが憚られる雰囲気がありました。
90年代半ばに岡田氏が"おたく論"を定義・提唱をし、「おたくよ、自信を持て!」みたいなエールをおくり始めました。このあたりからサブカル的に、あるいは社会学的に扱われ始めて、おたくは濃くて高尚なモノとして論議された感じがします。
この時に岡田氏のおたくの定義として、何かを生みだし創り成す者ではなく、一方的に求め消費する存在であると言うような事を書かれていたのが印象的です。生業としてはイケナイとね(^_^; なもんで、あ~それじゃ自分は違うわと思ったものでした。「やっぱりおたくなのかな…」と思い始めた時に突き放された感じ。さらによりディープなモノに昇華された感もあり、自分を卑下する意味で敵わない存在としてみていたようにも思えます。
そして20世紀に入ると、電車男やメイド、「萌え」という言葉、アキバという場所とともに、マスコミに盛に取りあげられ、旨味のあるビジネスとして捉えられて、急速に社会現象化し、一般化してしまいます。そして気がつくと皆が皆おたくを認め、自分は○○おたくだと普通に語っていたり…。国の固有文化として海外に対して気づいたのもそんな流れの中でのこと。こうなると最早、自分自身もおたくの一部であることに抵抗もなくなってしまった感じ…というのが正直なところでしょうか。
両書ともに、これからはネットをさらに活用し、ドンドン外へ向けて発信すべきであると結んでいます。閉じこもるのはやめて、ライトな感覚で気軽に外に出ようよ…というような。まぁ特に新しい提案ではないんですが、何か自分自身のこれまでを総括された気持ちになってしまいました(^_^;