櫻井家のお兄さん、正上さんが二世の兄弟姉妹に宛てたメッセージをいただきました。すでに、櫻井正上さん自身がご自分のブログで紹介。また当ブログ村でも何人かのブロガーの方が取り上げておられますが、一人でも多くの二世やに読んでもらいたいし、もとより一世の方たちにも読んでもらいたい内容ですので、当ブログでも掲載させていただくことにいたしました。
お父さん、お母さんであれば、息子娘に読ませてあげてもらいたいですね。そして一人でも多くの兄弟姉妹に読ませてあげてください。
とても真摯な内容です。そして深い愛を感じます!
<以下櫻井正上さんが二世に宛てたメッセージです>
二世の兄弟姉妹の皆さんへ
先日、教会の責任者に宛てた私のメッセージが外まで広がり、多くの方々の目に留まるようになりました。特に二世は情報も早く、既に多くに知れ渡っているに違いありません。本来、二世の皆さんには、もう少し違った角度で、それぞれの事情に合わせて伝えようと思っていました。今更かもしれませんが、こうした観点から、何点か補足させてください。
まずは、純粋に信仰している二世の兄弟姉妹の皆さんに伝えます。
驚かせてしまったこと、すまなく思います。中には、不安を覚えたり、傷ついてしまった兄弟姉妹もいるかもしれません。しかし、私は神様への信仰をなくした訳でも、父母様を不信した訳でもありません。ただ、顕進様を愛し、支えることが、神様のみ旨を果たし、本当の意味で父母様を支え、解放して差し上げることだと、本気でそう思いました。
もし、顕進様の歩まれる動機が「真の愛」でなかったなら、単なる意地や虚栄心、歪んだ感情でしかなかったなら、私はそれを支持しようと思わないでしょう。また、神様の摂理を忘れ、父母様への心情を失い、自分本位な道に進もうとされているのであれば、私は顕進様を証ししたいとも思いません。
皆さんは周囲から、かつて顕進様が「父母様の前に自己否定できず、絶対服従できなかった」ことから、今日の困難が生じてきたと聞かされてきたかも知れませんが、私は違うと思います。むしろ、カインの子女である私たち祝福家庭が、またその代表たちが、当時、アベルの子女として立っておられた顕進様を正しく侍ることができず、逆に、自らの立場と観点から父母様の前に讒訴し、これを「打った」ことが大きな問題を引き起こしたと感じています。サタンがいるなら、それを讒訴しない訳がないでしょう。
天一国時代は「子女の責任時代」であり、ここで起こってきた課題は、父母様に背負わせるべき課題ではなく、私たち子女たちが自らの責任をもって解決すべき内容だと、私は思います。子女の基台を立て直すことなく、父母様が安着できる基台はないからです。それが今、私が顕進様を支えようと思う理由であり、教会が変わらなければならないと願う理由です。
また、遠巻きに教会をシビアに見つめている兄弟姉妹の皆さんに伝えます。
ある意味では、皆さんが最も客観的に、教会の課題を見据えているのかも知れません。「船内」にいれば、内装が変わったり、施設が補強されたり、補修作業がなされていることを実感しますが、外から見れば、船の行き先が違うとか、船体が傾いているとか、外装が古びている等、内側からは気付けない点に気付くでしょう。信仰論での「ごまかし」が効かない分、「白は白、黒は黒」「問題は問題」となるのでしょう。
私もこれまで皆さんから数々の指摘を受けてきました。「教会よりも社会に貢献している団体は沢山ありますよ」「改善する、変革すると聞き続けてきましたが、正直、変化を感じません」「そもそも教会は一体、何がしたいんでしょうか」…etc。
教会に批判的な声を挙げる二世ほど、関心が高いのかも知れません。もっとこうすべきだ、なぜこうしないのか、と。特に過去、教会に通い、熱心に活動していたメンバーほど、批判精神も旺盛なのではないでしょうか。私は思います。今、遠巻きに見つめている二世たちの多くも、心のどこかに、かつて純粋に信仰し、涙ながらに祈った、その時の「魂」を宿しているのではないか、と。
私は統一運動の本質とさらなる可能性とを、顕進様の中に見ています。無論、顕進様のもとに行ってみない限り、分からないことも多々ありますが、一つだけ確かなことは、顕進様には「ビジョン」があるということです。教会という枠を越え、宗教の垣根も越えて、統一運動を、父母様の理想を、社会に広げる力をもった方が顕進様だと私は思います。
教会から非難され、迫害される中でも、顕進様は社会からの信頼基盤を着実に築いて来られました。皆さんなら、教会内で聞かされる顕進様の情報と、社会の人々の評価と、どちらを信頼しますか? 真の父母様の伝統がどこに結実し、神様の摂理がどこに生き続けているのか、関心をもって見つめ続けてみてください。
次に、私をよく知る兄弟姉妹の皆さんに伝えます。
皆さんには最も辛い思いをさせてしまっているに違いありません。そのうち、私と会ってはいけない、といった通達が出るのかも知れませんが、私は躊躇わずに、皆さんに会いに行こうと思います。二世の関係というのは、何かそうした組織に縛られるような関係ではないと思うからです。
また、私はたとえ立場や役職が変わろうとも、自らの置かれた状況が変わろうとも、指向する方向性や言わんとする本質は、何も変わらないと思います。私はこれまで、ただただ、真の家庭が一つとなり、この運動が再び一つになることだけを願い続けてきました。それは今も、またこれからも変わらないでしょう。それを成すための方法論が一つだけだとは言いませんが、私は真の家庭を一つにするために、私にできる全てのことをしていくつもりです。
教会の責任者の中には、私が顕進様の側に行けば、私に近い二世たちが一緒に行ってしまうのではないかと心配する声があるようですが、私はそんなに単純な話ではないと思っています。人にはそれぞれコミュニティーがあり、つながりがあります。また、多くは現状に「変化」をもたらせることを望まないでしょう。私もそれは重々、承知しています。皆さんがどうするかは皆さん自身が決めることですが、私はただ、私の知った「真実」を伝えに行きたいと思っています。
中には、そうした行為を「組織間における人の奪い合い」だとする人もいますが、私はそうは思いません。組織が人を所有することなどできないからです。人は自らがそこに喜びを見いだし、希望を見い出した時、それを最も親しく、大切に思う人たちに伝えようとするものです。それを規制することなど、誰にもできないでしょう。
無論、私が最も願うことは、この教会が顕進様側を分派とみなしてきた見解を改め、姿勢を変えることです。一つになることを妨げてきたのは、教会が喧伝してきた誤った情報であり、外の情報を遮断してきた「見えない壁」だと思うからです。私は人が何を信じ、何に人生を賭けるかは、見て、聞いて、触れて、祈って決めるべきだと思っていますし、皆さんにもそうあって欲しいと思っています。
最後に、顕進様を愛する兄弟姉妹の皆さんに伝えます。
皆さんは今、顕進様をどう見つめていますか?皆さんは顕進様が本当に、お父様に背を向け、教会を飛び出したと思っているのですか? 顕進様はかつてこう語られました。「私はただ父母様が可哀想だからこの道を行くのではない。あらゆる迫害の中でも、神様の夢と願いを叶えようとされる父母様を見つめているうちに、その神様の夢と願いとが、私自身の夢となり、願いとなったのだ」と。顕進様にとって、大切なことは、神様の願い、父母様の願いを果たすことでした。誤解されたり、否定されたくらいで、顕進様が自らの生き方を変えられるでしょうか?
顕進様の語られることは、昔から一貫していました。それは「神様の夢」です。「キリスト教徒たちはイエス様を愛すると言いながら、イエス様が果たそうとされた神様の願いを見ていなかった。私たちが本当に父母様を愛するなら、父母様が生涯をかけて果たそうとされた神の願いに生きなければならない。神様の夢に生きなければならない」。
神様の夢の主人になる―。それが当時から今に至るまで、顕進様が言い続けて来たことの核心であり、私をはじめ、多くの教育者たちが、今に至るまで皆さんに伝え続けてきた二世教育の本質であったと信じます。皆さんは、神様の夢と父母様の夢が「違う」と思いますか? 或いは、父母様が見ている神様の夢と、顕進様が見ている神様の夢とが、本当に違うものだと思いますか? もし、同じ夢を目指しているのに対立や葛藤が生じているのだとすれば、それはどこかに「歪み」があるからに違いありません。
皆さんは以前、こんなふうに学んだことを覚えていないでしょうか? 一世と二世、教会とCARP、カインとアベル、各々が様々な違いから衝突した場合、両者が互いに向き合い、自らの横的観点で主張し合っても溝は埋まりません。しかし、両者が共に目指すべき「大きな夢と目標」に向かって立つ時、その両者の間に立ちはだかる壁を越えることができるのです。それが「組織の観点よりも、ビジョンと方向性を見つめるべきだ」と私が考える理由です。
そしてもし、両者の向かうべき「方向性」そのものが違ってしまっていることで対立してしまっているとするならば、私は「神の原理と摂理」からみて、正しい方向性を志向している側に立たなければならないのではないか、と思うのです。
様々な情報が錯綜し、混沌としている時代です。何を信じ、どう考るべきか、混乱することも多いでしょう。また、「何かがおかしい」「このままでいいんだろうか」という疑問を抱きながらも、「信じて歩もう」「不信仰に陥っちゃいけない」「何か意味があるんじゃないだろうか」として、逆に「考えるのをやめてしまっている」ケースもあるに違いありません。
ある人々はいいます。「そもそも信仰とは、分からないもの、信じ難いものを信じることなのだ」と。しかし、私はそう思いません。信仰とは「問いかけ」です。信仰生活は「なぜ」「どうして」の連続であって、問うことをやめ、考えることをやめ、祈ることをやめてしまったら、そこから信仰は薄れて行くのです!
そしてまた、信仰は時として、私たちに「決断」を求めます。私にとっては、それが「今」でした。これが賢明なことなのか、愚かなことなのか、それは後世の歴史からしか判断できないでしょう。ただ、この決断は、天の前に必死に祈り求めた結果でした。今後、自分がどう導かれるかは分かりませんが、迷わずに進んで行こうと思います。
皆さんにおいても、「問いかけ」をやめないでください。問いかけなくして、答えは与えられないからです。私が皆さんに与えられるのは「回答」ではなく、「問いかけ」です。その中で皆さんが見出す「回答」に、また「決断」に、天の導きが共にあることを心から祈っています。
2017年10月16日 櫻井 正上
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