HOPE 

Day of Hope「希望の日」の到来は間近!

櫻井正上さんの声明文(2/3)

2017-10-04 13:52:10 | 統一家の行くべき道

櫻井正上さんの声明文(2/3)  

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2001年に始まる天一時代は、子女と祝福家庭とが一つとなって、ご父母の勝利を受けぎ、天一創建に向けた最後の峠を越えて行く時代でした。その理が座礁した原因は何だったのでしょうか?が父母順屈服できず、財産を奪して飛び出した、と、本でそう信じておられるのでしょうか?私はたとえ年間であれ、から直接、指導を受け、その思想や信念、人格にれてきた人間です。教会から聞かされる像には、大きな“歪み”を感じざるを得ませんでした。

 

もしが自らの立場に固執し、父母の座を狙うような“政治的”な方であったなら、むしろ時、お父の元を離れはしなかったでしょう。それは誰が見ても“賢くないから”です!人の誤解や不信を買い、十年の信基盤を失うことにしかなりません。それよりも、“先代”に寄り添い、自らの立場をえていく方がよっぽど“賢い”でしょう。また、もし本に弟たちに嫉妬心をえたなら、むしろ何もせずに静観し、お父の傍らにあって、彼らを讒訴する機を待ちけたに違いありません。

 

は自らの信仰生命を賭して理を守り、父母統を守ろうとした…。それが、私自身が年にわたり、時の文書に目を通し、起こってきた事をもとに考え、その場にいた人を訪ね、議論し、祈り、真実を求めようとして至った結論でした。さらに言えば、そうしたと父母との間を引き裂いたのは、他ならぬ、私たち祝福家庭であり、私たちを代表する指導者たちだった!と、私は思います。

 

批判を恐れずに言うなら、“の父母宣布文”は、本、世に出てはいけない文書だったと思えてなりません。“の父母の指示と命令に絶する”のが、本に父母の打ち立てたかった“統一家の統”だったのでしょうか?私は違う!と思います。父母が一生涯を通して打ち立てられた統とは“の愛の統”であり、“神のみ旨のために生きる統”です。私はあの文書が最初に表された時、慄をえました。部の組織闘争にお父までんだ!と思えてならなかったからです。 

 

皆さんにもう一度、思い出して頂きたいのです!父母の結は“の家庭”であり、天一時代における中心的課題は“アベルの子女とカインの子女の一体化”にありました。時、天から見て“善・悪”があったとすれば、の家庭を守り、アベルの子女をお守りする側が“善”であり、の家庭の係に裂を生じさせ、アベルの子女を打つ側が“”だったはずです! 

 

周藤先生はかつてこうえられました。「祝福家庭はカインの子女として全存在をかけてもアベルの子女を守らなければならない…カインの子女がこの責任を果たせない時にはアベルの子女が牲となり、ひいてはに勝利されたの父母にしてさえサタンが打ってくるようになる…(成約理解P272)」

 

こうしたことは、かつての私たちにとっては“常識”でした。しかし、今や“の父母”のみを絶視し、“の子女”は相化され、天の理が“の家庭”にあったことなど、とうに忘れ去られてしまったかのようです。かつて、が公的に立たれ、これを中心に二世が立ち上がっていたあの時代、サタンが何よりも打ちきたかったのは、未へとく“の家庭の基台”でしょう。父母の勝利統を本で相しようとする未の指導者を、サタンは何よりも恐れたはずです!時、を激しく糾した一連の事件が“サタンの業”でなくて何だったのでしょうか? 私たちは全員で“の子女を打った”のです! あの時の私は、半ば真実付きながらも、“自分のような小さな者にできることなど何もない”として沈し、傍した“二千年前の弟子たち”と同じだったのかもしれません。 

 

お母を信じよう、必ず解決してくださるはずだ”…、私もそう考えようと努めました。が、起こってる現をみる時、深刻な思いにならざるを得ませんでした。“の父母”の勝利は“の子女”に相されなければなりません。原理的に見るなら、“父”の統を受けぐ“息子”を立てることこそ“母”の最も本的な使命であり、それを助けるのがカインの子女の務めではないでしょうか。

 

お母が今、語られる“生女”の御言にして、皆さんは本に心から納得しておられるのでしょうか?本にそれがお父の語ってこられた容と同じものに聞こえるのでしょうか?私は祝福の講義を担してきた者として、どうしても疑問を抱かざるを得ませんでした。批判しようと思ってきたのではありません。皆さん同、“苦”してきたのです。 

 

天聖が編纂された時、私たちは「お母はお父の御言に手を加えたのではない、ただ整理されたのだ」と明してきました。その後、お母が胎中聖別をほのめかす話をされた時、本部では「血統換を意味しているのではなく、お母の出生の値を調されたのだ」と解してきました。しかし今や「お母の無原罪誕生」はほぼ公式見解となり、異論を唱えるのもはばかられるようになりました。

 

今後、「お父には原罪があった!」とされても、「お母の御言なのだから信じよ」となるに違いありません。お母がそれを語られたのは“事”だからです! 付かぬうちに、私たちが値視すべき原理や信仰の根幹がずれてきているように感じるのは、私だけではないはずです ! 

 

信仰の長い方は、こうも言われます。“私たちがそれを指摘したところでお母が考えをえてくださるではないのだから、たとえ間違っていようとも、侍って行くことが子女の道理ではないか” と。しかし、本に、ただって付きうことが“お母のため”なのでしょうか? 

 

私はお母を愛する者です。二世である私にとって、父母は、御言を知る前から父母でした。しかし、お母を愛することと、お母を神格化して無批判的になることとは違うはずです。また、私はお母のお父する深い愛情を信じる者です。しかし、そのことと、お母の語られる言葉と示される方向性とがお父の原理・摂と一致しているかは別の話ではないでしょうか?どこまでも“神の理”の方向に向かってお母を支え、共にむことが“子女の道理”ではないでしょうか? 

 

統一運動は“神の理”に生き、それを果たそうとする運動でした。私たちは、父母を崇めて天に行こう、という宗を信じてきたのではありません!父母の生き方を相し、神の願いに生きようとする群れが統一家であり、それが私にとっての統一運動でした。いつから、の父母の“一代記” を信じ崇める信仰集へとわってしまったのでしょうか? 

 

HJ 天苑は誰のためのプロジェクトなのでしょうか?食口のためでしょうか?世界平和のためでしょうか?それを見た人が、本に心から父母を慕い、そこに“神の理”を感するようになるのでしょうか? 私は平の地に新たな建造物が立ち並んでいく姿を見る度に、喜びや感動よりも“痛み” をえました。私の信仰のなさ故でしょうか? 食口たちの苦と窮を知る牧者の皆さんなら、同じような思いを抱かれないでしょうか? 

 

の父母の生涯の結は、天一の起点は、荘厳な建造物などではなく、“の家庭”であり、“祝福家庭”であるはずです!私たちの運動の本質が、“行き先”が、わっててしまっているのではないでしょうか? 私は日本教会の改革の努力を否定したいのではありません。教会改革、祝福推進、環境創造…、それは私が最も成したいことであり、皆さんと共に、夜なく、力をくしてきた容でもありました。しかし“船の中”の改革を必死に進めたとしても、もしその船の“行き先”が間違っているとしたら、そうした努力はどこに結し得るのでしょうか? 

 

私は今回の祝福が終わったら、またその一連の業務を終えたら、“表”を出そうと考えていました。その間、責任者の方に、自らの思いや危するところをえてきましたが、する姿勢も、UCI訴訟も、生女理論も、HJ天苑プロジェクトも、それらは全て“大本”の方針であって、日本教会でどうこうできる問題ではありませんでした。

 

組織の方針を受け入れられないなら、己の信念を貫きたいなら、自らが潔く、かに身を引くのが組織人としての筋でしょう。しかし、表を書き上げてみた時、思いました。これは本の意味で、責任ある行動ではないんじゃないか!と。“行き先が違うから”と言って、“家族”をし、自分だけ“船”から降りるという選ができるのか!と。私にとって、食口たちは“家族”です!苦の中を、共に“神の御旨”を果たそうとんできた方に他なりません。

 

私はこれまで、こう考えてきました。もし仮に家庭連合が“セウォル”であるなら、私は最後までその改革に死力をくして共に沈もう、と。この思いは、多くの牧者の方の思いと同じでしょう。それが“船員”としての道理なのかも知れません。しかし、私は今、思います。“船員”の本の使命とは“客”の命を最後まで守り、彼らを“目的地”にけることなのではないだろうか!と。私たちは“船”を守ろうとするあまり、本質的なことを見失っているのかも知れません。私たちが“船”にんだ理由は“目的地”のためでした。“客”もまた同じであり、彼らをその目的地まで運ぶことが“船”の目的であったはずです!

 

食口の“的生命”を守るため、と言うなら、今、この家庭連合の“本丸”がどこに向かっているのか、食口たちの汗とと精誠が、日本教会革の努力が、本に神の理に直結しているものなのか、とことん追求しなければならないのではないでしょうか?それが“船員”の務めであるはずです! 

 

無論、現にあって、食口たちが求めているのは義論真実の追求ではないのかも知れません。苦の中にあって、彼らが欲しているものは癒しであり、慰めであり、身近なサポトであることを、私もよく知っています。目の前にいる一人を助けることがこれまでの私の務めであり、私にできる唯一の貢でした。しかし、どんなに心をもってくしたとしても、食口たちを導く“行き先”が誤っているとすれば、また、私たちが食口たちを誤導してしまっているのだとしたら、私たちは何をもって、彼らの“的生命”に責任をもつことができるのでしょうか? 船員が何よりも見失ってはならないものは、彼らを導く“目的地”であり、“行き先”ではないでしょうか? 

 

思えば、がかつて私たちにえてくださったことは“の行き先”についてでした。は“自分に付きうこと”を私たちにえたのではなく、私たちが共に“神の御旨”を見つめ、その御旨に生きることをえてくださいました。父母を愛するということは、父母に名前をえられ、愛されることではなく、父母が生涯をかけて果たそうとされた“神の願い”を果たすことであり、その御旨に生きることだとえてくださったのです! 

 

がお父に異を唱えることも躊躇わなかったのは“神の御旨”にして真剣だったからだと、私は思います。弟の子女方の言動を深刻に見つめられたのも、この運動が“行き先”を見失うことを危されていからだ、と思うのです。かつて教会側が躍起になってへの批判キャンペンを展開していたっ只中でさえ、心はただ、お父のご存命中に、また基元節までに“どうお父の悲願を果たすか”だけだったように思えました。時、側のメンバと議論する度に思い知らされたのです。にとっては、ご自分の真実を明かすことよりも、父母の願い、神の理を成すことのほうがよっぽど大切なことなのだ!と。は言わば、この運動の“行き先”のために、自らの首をかけてってられたのです! 

 

私は心を決めました。真実とそのを食口たちにけます。の語る言葉に真実と原理を見出し、指し示す方向性の中に“神の理”を見るからです。「お母を守らなければならない」と語る指導者たちの孝情よりも、悲痛な心情で「お母を“勝利されたお母”として立てて差し上げなければならない !」とされるの中に“本物の孝情”を見るからです! 

 

もし兄弟たちが誤った方向に進もうとするなら、を荒げてでもそれを食い止め、万一、親が方向性を見誤るようなことが生じたなら、自分がどう言われようと、必死になって、それを食い止めようとするのがの孝子ではないでしょうか? は「自らの力をもってお母威に挑もう」というような、そんなレベルの低い方ではありません!お母を最後まで背負って、御旨をまれる方です! それが、私がその間、見聞きし、感してきた真実の姿でした。 

 

私たちが作り上げた歪んだ情報と“城壁”ゆえに、また相次ぐ分派闘争によるトラウマゆえに、その方の言葉が食口にかなくなってしまっているのだとすれば、それを正しくけなければならない…、そう思いました。その間、まない日はありませんでした。しかし、何度祈っても、拒んでも、躊躇っても、恐れても、私のく示される思いはそれでした。 

 

 

 


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