櫻井正上さんの声明文(2/3)
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2001年に始まる天一国時代は、子女様と祝福家庭とが一つとなって、ご父母様の勝利圏を受け継ぎ、天一国創建に向けた最後の峠を越えて行く時代でした。その摂理が座礁した原因は何だったのでしょうか?顕進様が父母様に従順屈服できず、財産を強奪して飛び出した、と、本気でそう信じておられるのでしょうか?私はたとえ数年間であれ、顕進様から直接、指導を受け、その思想や信念、人格に触れてきた人間です。教会から聞かされる顕進様像には、大きな“歪み”を感じざるを得ませんでした。
もし顕進様が自らの立場に固執し、父母様の座を狙うような“政治的”な方であったなら、むしろ当時、お父様の元を離れはしなかったでしょう。それは誰が見ても“賢くないから”です!人々の誤解や不信を買い、十年来の信頼基盤を失うことにしかなりません。それよりも、“先代”に寄り添い、自らの立場を伝えていく方がよっぽど“賢い”でしょう。また、もし本当に弟たちに嫉妬心を覚えたなら、むしろ何もせずに静観し、お父様の傍らにあって、彼らを讒訴する機会を待ち続けたに違いありません。
顕進様は自らの信仰生命を賭して摂理を守り、父母様の伝統を守ろうとした…。それが、私自身が数年にわたり、当時の文書に目を通し、起こってきた事実をもとに考え、その場にいた人々を訪ね、議論し、祈り、真実を求めようとして至った結論でした。さらに言えば、そうした顕進様と父母様との間を引き裂いたのは、他ならぬ、私たち祝福家庭であり、私たちを代表する指導者たちだった!と、私は思います。
批判を恐れずに言うなら、“真の父母宣布文”は、本来、世に出てはいけない文書だったと思えてなりません。“真の父母様の指示と命令に絶対服従する”のが、本当に父母様の打ち立てたかった“統一家の伝統”だったのでしょうか?私は違う!と思います。父母様が一生涯を通して打ち立てられた伝統とは“真の愛の伝統”であり、“神のみ旨のために生きる伝統”です。私はあの文書が最初に発表された時、戦慄を覚えました。内部の組織闘争にお父様まで巻き込んだ!と思えてならなかったからです。
皆さんにもう一度、思い出して頂きたいのです!父母様の結実は“真の家庭”であり、天一国時代における中心的課題は“アベルの子女とカインの子女の一体化”にありました。当時、天から見て“善・悪”があったとすれば、真の家庭を守り、アベルの子女をお守りする側が“善”であり、真の家庭の関係に亀裂を生じさせ、アベルの子女を打つ側が“悪”だったはずです!
周藤先生はかつてこう教えられました。「祝福家庭はカインの子女として全存在をかけてもアベルの子女を守らなければならない…カインの子女がこの責任を果たせない時にはアベルの子女が犠牲となり、ひいては既に勝利された真の父母に対してさえサタンが打ってくるようになる…(成約摂理解説P272)」
こうしたことは、かつての私たちにとっては“常識”でした。しかし、今や“真の父母”のみを絶対視し、“真の子女”は相対化され、天の摂理が“真の家庭”にあったことなど、とうに忘れ去られてしまったかのようです。かつて、顕進様が公的に立たれ、これを中心に二世圏が立ち上がっていたあの時代、サタンが何よりも打ち砕きたかったのは、未来へと続く“真の家庭の基台”でしょう。父母様の勝利圏と伝統を本気で相続しようとする未来の指導者を、サタンは何よりも恐れたはずです!当時、顕進様を激しく糾弾した一連の事件が“サタンの業”でなくて何だったのでしょうか? 私たちは全員で“真の子女を打った”のです! あの時の私は、半ば真実に気付きながらも、“自分のような小さな者にできることなど何もない”として沈黙し、傍観した“二千年前の弟子たち”と同じだったのかもしれません。
“お母様を信じよう、必ず解決してくださるはずだ”…、私もそう考えようと努めました。が、起こって来る現実をみる時、深刻な思いにならざるを得ませんでした。“真の父母”の勝利圏は“真の子女”に相続されなければなりません。原理的に見るなら、“父”の伝統を受け継ぐ“息子”を立てることこそ“母”の最も本来的な使命であり、それを助けるのがカインの子女の務めではないでしょうか。
お母様が今、語られる“独生女”の御言に対して、皆さんは本当に心から納得しておられるのでしょうか?本当にそれがお父様の語ってこられた内容と同じものに聞こえるのでしょうか?私は祝福の講義を担当してきた者として、どうしても疑問を抱かざるを得ませんでした。批判しようと思ってきたのではありません。皆さん同様、“苦悩”してきたのです。
天聖経が編纂された時、私たちは「お母様はお父様の御言に手を加えたのではない、ただ整理されたのだ」と説明してきました。その後、お母様が胎中聖別をほのめかす話をされた時、本部では「血統転換を意味しているのではなく、お母様の出生の価値を強調されたのだ」と解説してきました。しかし今や「お母様の無原罪誕生」はほぼ公式見解となり、異論を唱えるのもはばかられるようになりました。
今後、「お父様には原罪があった!」とされても、「お母様の御言なのだから信じよ」となるに違いありません。お母様がそれを語られたのは“事実”だからです! 気付かぬうちに、私たちが価値視すべき原理観や信仰観の根幹がずれてきているように感じるのは、私だけではないはずです !
信仰歴の長い方々は、こうも言われます。“私たちがそれを指摘したところでお母様が考えを変えてくださる訳ではないのだから、たとえ間違っていようとも、侍って行くことが子女の道理ではないか” と。しかし、本当に、ただ黙って付き従うことが“お母様のため”なのでしょうか?
私はお母様を愛する者です。二世である私にとって、父母様は、御言を知る前から父母様でした。しかし、お母様を愛することと、お母様を神格化して無批判的になることとは違うはずです。また、私はお母様のお父様に対する深い愛情を信じる者です。しかし、そのことと、お母様の語られる言葉と示される方向性とがお父様の原理観・摂理観と一致しているかは別の話ではないでしょうか?どこまでも“神の摂理”の方向に向かってお母様を支え、共に歩むことが“子女の道理”ではないでしょうか?
統一運動は“神の摂理”に生き、それを果たそうとする運動でした。私たちは、父母様を崇めて天国に行こう、という宗教を信じてきたのではありません!父母様の生き方を相続し、神の願いに生きようとする群れが統一家であり、それが私にとっての統一運動でした。いつから、真の父母様の“一代記” を信じ崇める信仰集団へと変わってしまったのでしょうか?
HJ 天苑は誰のためのプロジェクトなのでしょうか?食口のためでしょうか?世界平和のためでしょうか?それを見た人々が、本当に心から父母様を慕い、そこに“神の摂理”を実感するようになるのでしょうか? 私は清平の地に新たな建造物が立ち並んでいく姿を見る度に、喜びや感動よりも“痛み” を覚えました。私の信仰のなさ故でしょうか? 食口たちの苦労と窮状を知る牧会者の皆さんなら、同じような思いを抱かれないでしょうか?
真の父母様の生涯の結実は、天一国の起点は、荘厳な建造物などではなく、“真の家庭”であり、“祝福家庭”であるはずです!私たちの運動の本質が、“行き先”が、変わって来てしまっているのではないでしょうか? 私は日本教会の改革の努力を否定したいのではありません。教会改革、祝福推進、環境創造…、それは私が最も成したいことであり、皆さんと共に、昼夜なく、力を尽くしてきた内容でもありました。しかし“船の中”の改革を必死に進めたとしても、もしその船の“行き先”が間違っているとしたら、そうした努力はどこに結実し得るのでしょうか?
私は今回の祝福が終わったら、またその一連の業務を終えたら、“辞表”を出そうと考えていました。その間、責任者の方々に、自らの思いや危惧するところを伝えてきましたが、顕進様に対する姿勢も、UCI訴訟も、独生女理論も、HJ天苑プロジェクトも、それらは全て“大本営”の方針であって、日本教会でどうこうできる問題ではありませんでした。
組織の方針を受け入れられないなら、己の信念を貫きたいなら、自らが潔く、静かに身を引くのが組織人としての筋でしょう。しかし、辞表を書き上げてみた時、思いました。これは本当の意味で、責任ある行動ではないんじゃないか!と。“行き先が違うから”と言って、“家族”を残し、自分だけ“船”から降りるという選択ができるのか!と。私にとって、食口たちは“家族”です!苦労の中を、共に“神の御旨”を果たそうと歩んできた方々に他なりません。
私はこれまで、こう考えてきました。もし仮に家庭連合が“セウォル号”であるなら、私は最後までその改革に死力を尽くして共に沈もう、と。この思いは、多くの牧会者の方々の思いと同じでしょう。それが“船員”としての道理なのかも知れません。しかし、私は今、思います。“船員”の本当の使命とは“乗客”の命を最後まで守り、彼らを“目的地”に届けることなのではないだろうか!と。私たちは“船”を守ろうとするあまり、本質的なことを見失っているのかも知れません。私たちが“船”に乗り込んだ理由は“目的地”のためでした。“乗客”もまた同じであり、彼らをその目的地まで運ぶことが“船”の目的であったはずです!
食口の“霊的生命”を守るため、と言うなら、今、この家庭連合の“本丸”がどこに向かっているのか、食口たちの汗と涙と精誠が、日本教会の変革の努力が、本当に神の摂理に直結しているものなのか、とことん追求しなければならないのではないでしょうか?それが“船員”の務めであるはずです!
無論、現状にあって、食口たちが求めているのは教義論争や真実の追求ではないのかも知れません。苦労の中にあって、彼らが欲しているものは癒しであり、慰めであり、身近なサポートであることを、私もよく知っています。目の前にいる一人を助けることがこれまでの私の務めであり、私にできる唯一の貢献でした。しかし、どんなに真心をもって尽くしたとしても、食口たちを導く“行き先”が誤っているとすれば、また、私たちが食口たちを誤導してしまっているのだとしたら、私たちは何をもって、彼らの“霊的生命”に責任をもつことができるのでしょうか? 船員が何よりも見失ってはならないものは、彼らを導く“目的地”であり、“行き先”ではないでしょうか?
思えば、顕進様がかつて私たちに教えてくださったことは“舩の行き先”についてでした。顕進様は“自分に付き従うこと”を私たちに教えたのではなく、私たちが共に“神の御旨”を見つめ、その御旨に生きることを教えてくださいました。父母様を愛するということは、父母様に名前を覚えられ、愛されることではなく、父母様が生涯をかけて果たそうとされた“神の願い”を果たすことであり、その御旨に生きることだと教えてくださったのです!
顕進様がお父様に異を唱えることも躊躇わなかったのは“神の御旨”に対して真剣だったからだと、私は思います。弟の子女様方の言動を深刻に見つめられたのも、この運動が“行き先”を見失うことを危惧されていからだ、と思うのです。かつて教会側が躍起になって顕進様への批判キャンペーンを展開していた真っ只中でさえ、顕進様の関心はただ、お父様のご存命中に、また基元節までに“どうお父様の悲願を果たすか”だけだったように思えました。当時、顕進様側のメンバーと議論する度に思い知らされたのです。顕進様にとっては、ご自分の真実を明かすことよりも、父母様の願い、神の摂理を成すことのほうがよっぽど大切なことなのだ!と。顕進様は言わば、この運動の“行き先”のために、自らの首をかけて闘って来られたのです!
私は心を決めました。顕進様の真実とその声を食口たちに届けます。顕進様の語る言葉に真実と原理を見出し、指し示す方向性の中に“神の摂理”を見るからです。「お母様を守らなければならない」と語る指導者たちの孝情よりも、悲痛な心情で「お母様を“勝利されたお母様”として立てて差し上げなければならない !」と涙される顕進様の中に“本物の孝情”を見るからです!
もし兄弟たちが誤った方向に進もうとするなら、声を荒げてでもそれを食い止め、万一、親が方向性を見誤るようなことが生じたなら、自分がどう言われようと、必死になって、それを食い止めようとするのが真の孝子ではないでしょうか? 顕進様は「自らの力をもってお母様の権威に挑もう」というような、そんなレベルの低い方ではありません!お母様を最後まで背負って、御旨を歩まれる方です! それが、私がその間、見聞きし、実感してきた顕進様の真実の姿でした。
私たちが作り上げた歪んだ情報と“城壁”ゆえに、また相次ぐ分派闘争によるトラウマゆえに、その方の言葉が食口に届かなくなってしまっているのだとすれば、それを正しく届けなければならない…、そう思いました。その間、悩まない日はありませんでした。しかし、何度祈っても、拒んでも、躊躇っても、恐れても、私の内に強く示される思いはそれでした。
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