櫻井正上さんの声明文(3/3)
私はかつて母の行動を止めようとしました。それは母を「守ろう」としたからです。しかし、母が切実な祈りの中で、自らの立場よりも、名誉よりも、生活よりも、自らの聖和のことよりも、神の摂理を思い、父母様を思い、食口を思い、「私は父母様から愛された者だ、日本教会の長女なのだから」と、自らの全てをかけて声を上げようとする姿に触れた時、これを止めることはできませんでした。
私も今、それと同じ思いです。私は日本教会を、これ以上、顕進様、神の摂理を進めようとする方を打つ側に立たせたくないのです!どうか、一方的で誤った情報を食口たちに伝えることを中断してください。その責任は牧会者の方々が負うべきではありませんし、負って頂きたくもないのです!今からでも、この船の方角を変えたいのです!お母様を本当に支え、食口たちを神の摂理の方向性へ向かわせることのできる方は顕進様だ !と、私は信じます。
もし、皆さんがこのメッセージを、単に分派の“毒”に冒された気違いの叫びだと思われるなら、石を投げつけてくださっても構いません。しかし、もし皆さんの中に、“別の声”を聞かれる方々がおられるなら、周囲の声や偏見にとらわれず、“真実”を求め続けてください。母の二つの書簡をはじめ、自らの信仰生命をかけて真実を伝えようとしている人々の言葉に耳を傾けてください!“財産泥棒”“食口泥棒”という汚名を着せられ、あらゆる迫害を受けながらも、必死な思いで私たちに働きかけてきた、顕進様の真実の言葉に耳を傾けて頂きたいのです!
また、真実を求めようとする食口たちがいるなら、それを断罪しないでください。人は真実を求めるものです。皆さんもこの道に来られる時、同じだったのではないでしょうか?本当に“真実”に立っている側は、「見るな、聞くな、触れるな」とは言いません。見て、聞いて、触れて、祈って判断せよ、と言うはずです。幼い二世や食口は別かも知れませんが、先輩家庭や青年食口に対して「あちらの集会に行ったら罪人とする」などといった状況は、“正常”とは言えないでしょう!
真実は周囲が認めるから真実になる訳ではありません。たとえ周りの全員から反対されようと、真実はそれだけで真実でしょう。私たちが御言を知る者であり、神を信じる者であるなら、真偽を見分ける判断基準は、本部の見解でも、権威ある者の言葉でもなく、“原理”であり、“神の摂理”でなければならないのではないでしょうか?また、自らが何を信じるべきかは“神霊”と“真理”によって判断しなければならないのではないでしょうか?私にとって、この行動はその結果でした。
仮に、皆さん一人一人が自らの信じる“真実の声”を挙げ始めることで、この教会に“混乱”が生ずるのだとすれば、それは今、この教会が“本来的な状態でない”ことの現れではないでしょうか?私も“混乱”を恐れてきた人間です。しかし、もしそれが、この運動の本来的状態を取り戻そうとする過程の中で生じる混乱であるなら、私は、その混乱を“避けてはいけない”と思うのです。
最初に記したように、この運動の方向性を誤らせた原因に、祝福家庭の言動や姿勢があったのだとすれば、私たち一人一人はこの問題に対する5%の責任を負っています!それを果たさないまま、全ての責任を真の家庭に負わせてはいけない、と思うのです。また、ただ信じて、沈黙し、傍観することが、その5%を果たすことではない、と、私は思うのです。
今、私にとって大切なことは、自らの内なる本心の声を信じ、沈黙を破って、自らが信じる真実を、皆さんに伝えることです。一人の声はほんの小さなものでしかないのかもしれません。しかし、それが真実から語られる言葉であり、声であれば、人の心にも届くはずです。また、一人一人の声はどんなに小さくとも、それが一つの声になるなら、“潮の流れ”も変えることができるのではないでしょうか?
かつてのお父様のように、数年間、どんな迫害にも、苦難にも、誹謗中傷にも、変わることなく、自らの抱いた信念を、真実を語り続け、叫ばれ続けた方の姿を見た時、また、その方の根底にあるものが、恨みでも、怒りでも、憎しみでもない、天に対する、父母様に対する、食口たちに対する“真の愛”であったことに気付いた時、私にも、一つの覚悟が生まれました。
難しい時代、困難な時代だからこそ、“信仰”が求められるに違いありません。私は改めて神の導きを信じたいと思います。また、真実に立つ一人一人によって、この運動がこの難局を越え、対立と混乱の時代を越えて、神の摂理の中で全てが一つとなる日が来ることを、心から信じてやみません。
2017年10月1日 櫻井正上
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