かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

京の町家、または消えたハンドバッグその2

2013年10月16日 | エッセー

     
 手ぶらで電車に乗って、引き返して探してもハンドバッグが見つからなかった時、今考えると、タクシーで叔母の家に帰ってお金を払って貰うという手もあった。18歳の田舎娘にはタクシーという選択肢は思いつかなかった。叔母の夫である義理の叔父が同じ京都大学に勤務していて、時々二人でタクシーに乗って帰宅していたのに、である。土曜日の午後でも叔父は大学内にいたはずだが、病院から文学部まで10分か15分、38度の熱で歩くのはきつかった。

 ちなみに叔母の家は比叡山の麓にあった。「宝ヶ池」で鞍馬貴船方面と八瀬大原方面とに分かれるのだが鞍馬方面にひとつ行った「八幡前」というのが最寄りの駅だった。その家は典型的な京の町家で、やたらと長い廊下が奥まで続いていた。その廊下を毎朝雑巾がけしてから勤めに出かけた。おばあちゃん子で、高校を卒業するまで毎朝靴を揃えてもらい、鞄を手渡されて通学していたので、家事はおろかお茶っぱひとつ入れたことがなかった。それで毎朝出勤前の雑巾がけはけっこうきつかった。叔母夫婦には一歳になったばかりの従弟がいて、叔母は次の子を妊娠していてお腹が大きかったので、日曜日には従弟を乳母車に乗せて近くの国際会議場まで散歩に出かけるのが私の仕事だった。

 今思えば、あこがれる人も多い京の町家ぐらし、もっと楽しんでおけばよかった。

消えたハンドバッグ

2013年10月15日 | エッセー
 京都大学病院に勤務していた四十数年前の話。比叡山の麓の叔母の家から叡電と市電を乗り継いで通勤していた。
 ある半日勤務の土曜の午後、頭痛がして38度少しの熱があったので内科で時間外の診察を受けた。薬をもらって、ボーとしながら病院の正門近くの停留所から、いつものように電車にに乗り込んだ。乗ってからふっと気がついたらハンドバッグを持っていない。財布も定期券もハンドバッグの中だ。運転手にお願いして次の停留所で降り、病院に引き返した。病院の薬局で薬をもらってお金を払って薬をハンドバッグにしまった、そこまでは覚えている。あの後、ハンドバッグをどこへやったんだろう。念のため薬局で聞いたがそこに忘れてはいなかった。後は病院の門まで100メートルちょっと、門から停留所まで100メートル、失くすような場所はない。土曜日の午後で同僚もみんな帰宅しているし、仕方がないので先ほど診察してくれた教授がたまたま顔見知りの方だったので1000円お借りした。当時市電はどこまで乗っても15円、叡電は区間によって金額が違い、私の乗る出町柳から八幡前までは30円だった。

 裸の1000円札を握りしめて、ふらふらしながら停留所に戻った。その時、自転車の後ろにリヤカーを曳いたおじさんが停留所の前の道路を通りがかった。リヤカーの上には廃材らしいトタンとか釘の付いたままの木材とかが積み上げてあった。その廃材の山の上に、何と私のハンドバッグがちょこんと乗っていたのだ。慌てて追いかけて、「それ、私のハンドバッグです」と言った。おじさんは驚いて、こんなものが乗っているの知らなかったと言いながら、バッグを取って投げてくれた。バッグには財布も定期券も薬も元のままに入っていた。おじさんとリヤカーはたちまち過ぎて行き、すぐ後ろから電車が来たので乗り込んだ。

 あのリヤカーは病院とは反対側からやってきた、なのにどうしてあの荷台に私のハンドバッグが乗っていたのか、分からない。しかも、私が停留所に戻った時、なぜちょうどに目の前を通りかかったのか?1分、時間がずれいたら、あのリヤカーには出会えなかった。あれは何だったのか?四十数年経った今でも謎のままだ。

追加版 渡辺松男の一首鑑賞  43

2013年10月15日 | 短歌1首鑑賞
     ◆最後の行に忠治の歌を二首追加したので、再度掲載します。

                 【からーん】『寒気氾濫』(1997年)34頁
         参加者:崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
         レポーター:鈴木 良明 
         司会と記録:鹿取 未放

77 彫像の国定忠治の首を立てたいらなる地は霧這いてくる

(レポート)2013年10月
 国定忠治の彫像はいくつも作られており、上州長脇差の典型的人物として、地元でも永く語り継がれてきた。この歌からは、忠治の首から上だけの彫像が強くイメージされるが、(そのような彫像はたぶん野外にはなく、)平坦な地を這ってくる霧によって首より下が隠されていると読むのが至当だろう。風土の中に置かれた忠治のこのような姿こそ、義賊・侠客として磔刑にあい、英雄化された者にふさわしい。
 ※国定忠次 (国定忠治とも書く) 江戸末期の侠客。上州国定村の富農の子として生まれ、二十一歳で博徒の親分になる。罪を重ね、磔刑。歌舞伎・新国劇などで義賊・侠客として英雄化される。


(記録)2013年10月
 ★国定忠治の歌、この作者は何首か作っていますよね。レポーターが言われるように首だけの像
  はなくて、霧で胴体の部分は隠れているのでしょうね。私もネットで調べてみましたけど。二
  宮金次郎の彫像が首だけだったら意味がないように、忠治の首だけって意味がない気がします。
  写真で顔知っている訳じゃないし。(鹿取)
 ★生首のような効果をねらっているのかなあ、まともな死に方じゃなかったし。とても力強さが
  ある。(鈴木)
 ★霧が巻いてくるのが、音もなく追っ手が迫ってくるようなイメージもあるし。この頃の侠客
  というのはそれなりの哲学を持っていたから。(崎尾)
 ★そういうところに渡辺さんの思いがあるんでしょうね、忠治を何回も歌っているんだ
  から、単なる郷土の英雄として見てるわけではない。(鹿取)
 ★でも、風土性がありますね。(鈴木)
 ★「首を立て」の所は必ずしも首にポイントがあるのではなくて、彫像を首で代表させ
  ている気もします。どこまでも平らな土地に垂直に立つ像の存在感というか強さ。
    (鹿取)


(追記)2013年10月
 作者は部分に注視する。ヤンバルクイナは脚だったし、首の歌も既に一首鑑賞した。

  62 乳白色の湯船に首を浮かばせて首はただよいゆくにもあらず
  69 敗走の途中のわれは濡れてゆくヤンバルクイナの脚をおもいぬ

 目に付いた国定忠治の歌。
     あかぎ山ゆ博徒かなしみ下りしときこの世のことはとほいゆふばえ 『蝶』 
殺さるる覚悟で殺すあたりまえ忠治は知れどブッシュは知らず 『自転車の籠の豚』
     小太りのその相貌をおもうだに何にかなしき国定忠治 『自転車の籠の豚』
                            (鹿取)

渡辺松男の一首鑑賞  48

2013年10月14日 | 短歌1首鑑賞
                 【からーん】『寒気氾濫』(1997年)36頁
         参加者:崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
         レポーター:鈴木 良明 
         司会と記録:鹿取 未放

82 「いかなくちゃいかなくては」と歌う声虹消ゆるごとく行ききりうるや

(レポート)2013年10月
 ある特定の場所に「行く」場合は、その場所に着くことが目的であるから、到達したときに「行ききった」といえる。ところが、「行く」が手段で、目的が別にある時には、「行ききった」という感慨は生まれにくい。この歌は井上陽水の「傘がない」(72年)だと思うが、「行かなくち
ゃ君に逢いに行かなくちゃ」「君の街に行かなくちゃ」「君の家に行かなくちゃ」と続くのである。この場合には、行けば目的を達したことにならず、君に逢って愛を伝えるなど、その先の目的を果たして「行ききった」になるのである。ましてこの歌は、「雨にぬれて行かなくちゃ 傘がない」で終わっており、それでなくとも「行ききること」はほとんど絶望的なのである。「いかなくちゃ」と繰り返される歌の違和感から、この短歌が生まれたのだろう。

(記録)2013年10月
 ★私は解釈がお手上げだったので、鈴木さんのお陰で分かりました。(慧子)
 ★どこへ行ききるのでしょうね。79番の歌のように「空間へ踏みいりて出られなくなりし」場
  所からどこかへ出ていくんでしょうかね。(鹿取)
 ★ただおそらく作者はこういうことではないのかもしれないですよね。さっき鹿取さんが言った
  ようにもっと大きい話かもしれないと思う。ただ大きいものであるという手がかりが全然ない
  ので、まずはこういう解釈で仕方ないのかなと。(鈴木)
 ★「虹消ゆるごとく」だから79よりもう少し小さいところかもしれないなと。もちろん大きい、
  小さいって空間とか距離だけの問題じゃないんだけど。79と同じ空間ならつまらない気もす
  るし。行ききる先は未知の異空間か何かで、少なくとも東京とか横浜とか現実の土地ではない。
    (鹿取)
 ★行ききるというからにはやっぱり目的があるんだよね。難しいなあ。(鈴木)
 ★「いかなくちゃいかなくては」は、ひょっとしたら光の向こう側じゃないかしら。
    (慧子)
 ★そうかもしれないですね。そうなんでしょうね。(鹿取)


    ◆◆番外編
 ★ときどき、自歌自注してほしいと思う歌があるわね。(鹿取)
 ★私は自歌自注はいらない。歌だけでいいんです、私は。こっちが読むんだから。作者
  が違うよって言っても、読むのはこっちだから。(鈴木)
 ★うーん、渡辺さんのことではないけど、自分の解釈の方が作者の説明よりいいのにと
  思うことはあるわね。(鹿取)
 ★もう作者の手は離れているんだから。どう読まれようと作者は口を出すべきではない。
  渡辺さんが考えていることが何か、聞きたいんじゃないんだもの。(鈴木)
 ★まあ、おおむねそうなんだけど、ケースバイケースで。読み手の自由と言っても恣意
  的な読みはまずいし。たとえば分かりやすい例でいうと、本歌取りなのに読み手が全
  然気がついてないと可愛そうだな、きちんと芸をみてあげてよとか、第三者として思
  うことが時々あるもの。だから自分がいい読み手になるには努力がいるし、いつも読
  み切れていない、全然届いていないなって感じる。それこそ常に不全感がある。
    (鹿取)

渡辺松男の一首鑑賞  47

2013年10月13日 | 短歌1首鑑賞
                 【からーん】『寒気氾濫』(1997年)35頁
         参加者:崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
         レポーター:鈴木 良明 
         司会と記録:鹿取 未放


81 ドッペルゲンガー花木祭に光(かげ)を曳き知らざれば笑みてすれちがいたり

(レポート)2013年10月
 ドッペルゲンガー(二重身)には、次の三つがあるそうだ。①自分とそっくりの分身、②自分がもうひとりの自分を見る自己像幻視、③同一人物が同時に複数の場所にあらわれる現象。この体験をした芥川龍之介は、帝劇と銀座で自分を見かけたと言っているから、たぶんこれは①のケースだろう。それに対して本歌では「知らざれば」とある。すれ違った人をもうひとりの自分(姿かたちが似ていないので知らない人だが確実に自分だ)のように幻視した②のケースだろうか。あるいは二重身の存在はありそうだがまだ出会ったことがないという意味か。いずれにしても「光を曳き」すれちがう映像的なシーンが、ドッペルゲンガーをより一層リアルに感じさせる。


(記録)2013年10月
 ★渡辺さんが芥川龍之介のようにドッペルゲンガーを体験したかどうかは分からないけれど、ド
  ッペルゲンガーそのものを歌にしたかったんだろう。(鈴木)
 ★賑やかな花木祭ですれちがった人が、あああれは自分だったっていうのかなあ。その時は自分
  と知らなかったからほほえんですれちがったんだけどと。何でその時分からなくて後でわかっ
  たんだろう?(鹿取)
 ★どの程度ドッペルゲンガーとして思ったのか、よく分からない。自分とそっくりだったら出会
  ったとき分かるよねえ。(鈴木)
 ★不思議な歌で、魅力的な歌ですねえ。精神の病気で見えるということはないんですか?(鹿取)
 ★レビー小体が侵されると幻視が起こることがあるらしい。でもなぜ見えるか本人が納得すれば
  見えても気にならなくなるらしい。(鈴木)
 ★まあ、ドッペルゲンガーを作者が体験したかどうかはどっちでもよくて、この歌謎はあるけど
  明るいですよね。花木祭でさまざまな色がイメージできるし。(鹿取)


(追記)2013年10月
 渡辺さんには、掲出歌の他にもドッペルゲンガーを扱った歌がある。

   山火事のごとく踊るよばんばらばんドッペルゲンガーばんばらばんばん 『泡宇宙の蛙』
   わたしはわたしと擦れ違ったから明日死ぬ 空中にある青い眼球 『歩く仏像』

 そこで不確かな情報源ではあるが、ネットでドッペルゲンガーを調べてみた。レポーターのあげている3種類に分類すると、渡辺さんの掲出歌と『歩く仏像』の歌は「自分がもうひとりの自分を見る現象」(=自己像幻視)のタイプか。自己像幻視はボディーイメージを司る脳の分野に腫瘍ができると起こることがあるらしい。古くから「自分に出会ったらまもなく死ぬ」と恐れられていたが、死因は脳腫瘍だったのかもしれない。また偏頭痛でも自己像幻視は起きるそうなので、必ずしも自分に会ったら死ぬわけでもない。芥川のケースは頭痛持ちだったからドッペルゲンガーが起きたのではないかと考えられているようだ。しかし19世紀のフランス人の教師サジェという人は、教室と外の花壇に同時にいるのを40人以上もの生徒によって目撃されたそうなので、脳腫瘍や偏頭痛では説明がつかないケースもまれにあるらしい。
   
 ちなみに私もかつて入眠時幻覚を毎夜経験したし、今でも頭が疲れたり、眠る時間が遅く(およそ午前2時以降)になると入眠時幻覚をみることがある。自分の寝ている枕元へ、だいたい人間が来るのだが、来るのは気配で分かるし、締め切ったドアや窓からすーと入ってくる。息づかいから衣擦れの音までものすごくリアルだ。しかもこの幻覚、生きている人のこともあれば死んでしまった人も現れる。
 幻覚ではないが、二十歳の頃、夢で死んでいる自分を眺めている場面を見た。京都風のコの字型の廊下が取り囲む坪庭の木に、縊死した自分がぶら下がっていた。それを廊下から他の家族と共に眺めているのだ。夢の中でその状況をそれほど恐いとは思わなかった。目覚めて考えてみると夢の家も、夢に出てきた家族の顔も見たことのないものだった。四十年以上経った今でもこの夢のことはよく覚えている。

   床(とこ)の間(ま)に祭られてあるわが首をうつつならねば泣いて見てゐし
                     『植物祭』前川佐美雄

 生きている自分にはまだ会ったことがない。(鹿取)

近藤かすみ歌集『雲ヶ畑まで』

2013年10月12日 | 短歌の鑑賞
        近藤かすみ歌集『雲ヶ畑まで』10首
                            鹿取未放

a 小さくて気にするほどのこともない石がわたしの靴のなかにある

b 「夜の梅」切りたるのちの包丁のひかり静かに鞘に納めつ

c ひさびさに響もすをとこの寝の息を聞くたのしさや歳時記ひらく

d 銀紙を剥がしてチョコをもうひとつ食べる ぎんがみ一枚を生む

e むらさきに艶めく茄子を掌でおさへ首を落とせりもう日が暮れる

f ママレモンの透明な液を二度かけて子どものムカデを殺す 秋晴れ

g 常識の二つ手前は正直で「新明解」の表紙くれなゐ

h ほどかるるやうに抱かれしことありき遠く近くに風鈴のおと

i 飼ひ犬が死ねばその日はちよつと泣き次を探すとあの人は言ふ

j 逞しきあぎとなりけりそのむかし人差し指もてなぞりしことも


  ※aは何でもない日常の違和感から、深いところが歌えていると思います。
    bやd、その他の歌も何気ないところを詠っていて手触りがあります。
   いつも大づかみな私は近藤さんの技術を学びたいです。

   京都でお知り合いになった近藤かすみさんに御歌集いただきました。
   近畿在住の若い歌人達と互角に渡り合っていらっしゃる、頼もしい方です。

渡辺松男の一首鑑賞  46

2013年10月12日 | 短歌1首鑑賞
                 【からーん】『寒気氾濫』(1997年)35頁
         参加者:崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
         レポーター:鈴木 良明 
         司会と記録:鹿取 未放


80 松の葉のふるえこまかき昼さがり手を洗わざる不安にいたり

(レポート)2013年10月
 何かをきっかけに手の汚れが気になりだすと、いつまでも手を洗い続けないと気がすまない不潔恐怖症がある。症状に至らないまでも、誰でもこれに近い気分になることはある。それは心のとらわれであり、心の影を掃いているようなものであるから、行為を繰り返せば繰り返すほど、現実から遊離して常に不全感にとらわれる。この不全感を実感させる上句は、実に巧みだ。松の葉は、わずかな風や光にもいつもちりちりと震えている。その様は、不全感にとらわれた心のふるえのようだ。

  
(記録)2013年10月
 ★普通だと心配な気持ちもありながら何とかやりすごすんだけど。誰でも神経症の症状が出る可
  能性はありますよね。渡辺さんが不潔恐怖症というのではなくて、不全感を持っている人なの
  かな。逆にその不全感があるから渡辺さんの歌はいい歌になっている。これでいいというのが
  ない。どんどん新しいところに出ていく。これで上手いだろうという人には進歩がない。歌人
  の中ではこういう資質はすばらしい。「松の葉のふるえこまかき」ってリアルですね。病
  院か何かに行く時、松の葉があってふるえていたような気がしてくる。きっと体験し
  ているんですよね。(鈴木)
 ★手水鉢のあたりから庭の松の木を見ているような感じですよね。あの松の長細い葉の一本一本
  が細かく震えているって、言われてみればそのとおりですけど、的確な把握ですよね。(鹿取)
 ★やっぱり見ているんですよね。想像では書けない。(鈴木)

渡辺松男の一首鑑賞  45

2013年10月11日 | 短歌1首鑑賞
                 【からーん】『寒気氾濫』(1997年)35頁
         参加者:崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
         レポーター:鈴木 良明 
         司会と記録:鹿取 未放


79 空間へ踏みいりて出られなくなりし一世(ひとよ)にてあらん  紙を切る音

(レポート)2013年10月
 結句の「紙を切る音」がこの歌を深遠なものにしている。「紙を切る音」は、誰かが、その空間の一角を切り開いていく音として暗示されており、その音によってこの空間の存在、その外側の存在、紙を切ったものの存在が強く意識されてくる。そして、この空間とは、単に、大気圏といった狭い意味ではなく、ビッグバンによって拡がった宇宙全体に及ぶものであり、その誕生の謎にまで思いを馳せさせる。

 
(記録)2013年10月
 ★「紙を切る音」が効いていますよね。(鹿取)
 ★ただ、この空間といった場合、宇宙全体を思い起こすのではなく、もっと形而上的に別の空間
  というのかなあ、それを考えた方が面白いのかなあという感じもしている。空間というひとつ
  の閉ざされた形而上的なもの。そこから紙を切る音が出てくるので。それが精神的なものなの
  か認識の問題か分からないけど。科学的な空間よりもそういった認識の壁って考える方がおも
  しろいのかな。ある人はもう紙を切っているかもしれないんですよ、認識の空間を飛び越えて。
  でも自分を超えるなんってその一つの空間を超えていることになるし。まあとにかくレポート
  なので一応分かりやすい形で書いてみたんですけど。(鈴木)
 ★空間から出ちゃった人というのは、今の話では悟りとかそういうことなんですか?(鹿取)
 ★そうでもなくて、ひかりの向こう側というのと同じような。でもこの歌、実感として分かる。
  紙を切らないと閉じこめられているという意識は出てこないんですよね。(鈴木)
 ★そうですよね。閉じこめられて出られない一世というのはある程度の人が言えそうだけど「紙
  を切る音」は渡辺さんにしか出てこない。そしてここが言えないと歌にならない。でもこれは
  難しい歌ですよね。(鹿取)
 ★先に紙を切った人の存在を暗示する歌ではないですかね。(曽我)
 ★後先とかはあまり関係ないように思います。誰が紙を切って真っ先に空間を出るか、というよ
  うな競争ではないと思います。現実には奥さんが紙を切る鋭い音が響いてきたのかもしれない。
  そこからはっとなって、一字空きより上の部分の認識が瞬時に脳裡をかすめた。ダリの夢の絵
  みたいに遡って。(渡辺さん、ダリは嫌いみたいですけど。)でも、できあがった歌では、「紙
  を切る音」は形而上的なものとして鋭く作用している。また、「踏みいり」と自発ですから、
  生み落とされて否応なくどの人間も閉じこめられている、そういう空間でもなさそうですね。
   (鹿取)


(追記)2013年10月
 次の一首は、掲出歌と同じ行為という以上の関連性があるように思われる。

    紙やぶる音ぴっとして冬ふかし配偶者すこし哲学をする  『泡宇宙の蛙』

(鹿取)

渡辺松男の一首鑑賞  44

2013年10月10日 | 短歌1首鑑賞
                 【からーん】『寒気氾濫』(1997年)34頁
         参加者:崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
          レポーター:鈴木 良明 
         司会と記録:鹿取 未放


78 父は酔いて帰りてゆけり寒々と罅われし樹のごとき銀河よ


(レポート)2013年10月
 作者の家に父が訪れ、酒食をともにした。日もすっかり暮れて、酔った父が自宅へ帰ろうとする。見送りながら戸外にでてみると、「寒々と罅われし樹のごとき銀河」が展かれている。「冷え冷え」ではなく、「寒々と」とあるから、季節は、初冬であろうか。星空だけが煌々と照り輝き、罅われた樹皮のような銀河に、まるで呑み込まれるかのように、父は帰っていったのである。

 
(記録)2013年10月
 ★「寒々と罅われし樹のごとき銀河」というのがお父さんの比喩でもあるんだろうと思
  ったけど。まあ、景と重なっているんだろうけど。(鹿取)
 ★人間の体は宇宙っていうことがあるから、下の句はお父さんのことだと思っていました。
    (慧子)
 ★樹が2本あったらやっぱり罅われた方に目を向けるから、その銀河の表現が見事だなあ
  と思った。私はお父さんとは思わなかった。(崎尾)
 ★今の崎尾さんの意見はよく分からないな。「罅われた方に目を向けるから」とお父さ
  んじゃないというのとどう繋がるの?(鹿取)
 ★………(崎尾)
 ★直接には「罅われし樹のごとき」は銀河を形容しているのよね。単純に考えると星々
  の塊が何本かの見えない線で区切られ、片寄せられているる。それを映像化して「罅
  われし樹のごとき」と詠んだのかなと思うけど。でもその「罅われ」がお父さんの精
  神の亀裂のようにも作用しているのかなあと読みました。まあ、戸外に出たとき見た
  景であっても、お父さんの精神の象徴であっても、結局は同じ事ですね。(鹿取)

渡辺松男の一首鑑賞  43

2013年10月09日 | 短歌1首鑑賞
                 【からーん】『寒気氾濫』(1997年)34頁
         参加者:崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
         レポーター:鈴木 良明 
         司会と記録:鹿取 未放

77 彫像の国定忠治の首を立てたいらなる地は霧這いてくる

(レポート)2013年10月
 国定忠治の彫像はいくつも作られており、上州長脇差の典型的人物として、地元でも永く語り継がれてきた。この歌からは、忠治の首から上だけの彫像が強くイメージされるが、(そのような彫像はたぶん野外にはなく、)平坦な地を這ってくる霧によって首より下が隠されていると読むのが至当だろう。風土の中に置かれた忠治のこのような姿こそ、義賊・侠客として磔刑にあい、英雄化された者にふさわしい。
 ※国定忠次 (国定忠治とも書く) 江戸末期の侠客。上州国定村の富農の子として生まれ、二十一歳で博徒の親分になる。罪を重ね、磔刑。歌舞伎・新国劇などで義賊・侠客として英雄化される。


(記録)2013年10月
 ★国定忠治の歌、この作者は何首か作っていますよね。レポーターが言われるように首だけの像
  はなくて、霧で胴体の部分は隠れているのでしょうね。私もネットで調べてみましたけど。二
  宮金次郎の彫像が首だけだったら意味がないように、忠治の首だけって意味がない気がします。
  写真で顔知っている訳じゃないし。(鹿取)
 ★生首のような効果をねらっているのかなあ、まともな死に方じゃなかったし。とても力強さが
  ある。(鈴木)
 ★霧が巻いてくるのが、音もなく追っ手が迫ってくるようなイメージもあるし。この頃の侠客
  というのはそれなりの哲学を持っていたから。(崎尾)
 ★そういうところに渡辺さんの思いがあるんでしょうね、忠治を何回も歌っているんだ
  から、単なる郷土の英雄として見てるわけではない。(鹿取)
 ★でも、風土性がありますね。(鈴木)
 ★「首を立て」の所は必ずしも首にポイントがあるのではなくて、彫像を首で代表させ
  ている気もします。どこまでも平らな土地に垂直に立つ像の存在感というか強さ。
    (鹿取)


(追記)2013年10月
 作者は部分に注視する。ヤンバルクイナは脚だったし、首の歌も既に一首鑑賞した。

  62 乳白色の湯船に首を浮かばせて首はただよいゆくにもあらず
  69 敗走の途中のわれは濡れてゆくヤンバルクイナの脚をおもいぬ

 目に付いた国定忠治の歌。
     あかぎ山ゆ博徒かなしみ下りしときこの世のことはとほいゆふばえ『蝶』 

                            (鹿取)