dm_on_web/日記(ダ)

ダンスとか。

Regina Nejman & Company

2006-02-26 | ダンスとか
Regina Nejman & Company, The Velocity of Things

NY, Joyce SoHo.
縞々の水着のような衣装で揃えているフライヤーは全くそそられなかったのだが、「Outstanding Choreography Award - Fringe NYC 2005」と書かれてあって、その受賞作の再演らしいので、日本のようにコンペが多くはないNYでどんな作品が賞に選ばれるのかという興味もあり見てみた。振付家はリオ出身で、93年からNYで活動している。カンパニーの結成は97年。ダンサーは彼女を含む女5、男1。男と女がそれぞれバケツを持って、中に入っている砂のような粉末を交互に受け渡していく冒頭が、「物の速度」というタイトルを端的に示すものだということは、この時点ではまだよくわからなかった。ハイヒールを履いて仮面をつけたダンサーたちが現れて、猛烈なスピードのブラジリアン・ポップスがかかり、以降はひたすらオーソドックスな動きの展開になる。語彙もその組み立ても、これといって奇抜なことはやっていない。ただ次から次へかかる高速のサンバやドラムンベースとともに、途轍もない運動量がダンサーたちに強いられ、そしてその運動量は動きの大きさ(アクロバティズム)ではなく細部まで周到に作り込まれた動きの総量に由来している。有限な身体が多くの部分に分化させられ、それらのアンサンブルが音楽に同期する。分化した諸部分は、他の身体の諸部分とも等価で、だからそうした部分と部分が個々の身体の境界を超えて連動してしまうこともあり得るし、その時に、個々の身体こそが新たな境界線によって分断されているということもあり得るだろう。つまり身体と身体を分け隔て不連続なものにしている境界線が、音楽=ダンスの構造という新しい地図によって上書きされてしまう。この新しい地図の連続的な更新プログラムを書くことがすなわち「群舞」なるものの振付なのだとしたら、レジーナ・ネイマンは相当に高度な技術の持ち主といえるだろう。スピードの変化、方向のコントラスト、質感の飛躍が至るところにリズミカルに仕掛けられて、分割された複数の身体の諸部分が目まぐるしく再組織化されていく、その変化の速さ、自在さ、音楽性に興奮させられてしまった。もっとハイレヴェルなダンサーが踊ったらどうだろうかと想像しつつも、しかしむしろこの研ぎ澄まされ切っていない身体の動きが孕む様々なノイズ(遅れ、不正確さ、強引さ、疲労)もまた一種の味となっているように思えた。やがて中盤で突然ダンサーたちが消え、大きなタライの上に砂が落下し続ける場面がおそらく2、3分あり、多分ここはダンサーを休ませるための時間なのだが、落ちる砂の幅がよどみなく変化するさま、中心に近い方と外縁の辺りとでは全く違う運動が起こっていることなどに心を奪われてしまったのは、今しがたまで目を釘付けにされていた身体のカオスによる残響なのだろう。後半はバケツやハイヒールなど道具を使うシーンや、演劇的な要素、フロアワーク、コンポジションの要素が増えるが、速度感は衰えず、最後は再び冒頭の砂の受け渡しで終わる。62分。確かに、短い曲をただ繋げているだけなので流れがブツ切れになり、単調さの印象が生まれてしまっている(「長い」と感じるというより、「長い」と感じさせられてしまう要因がはっきり知覚できる)点が惜しいが、特に奇抜なことをしなくても強度が出ているという意味では金森穣の振付を思わせる。この振付家の作品は機会があればまた見たい。
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Danzahoy

2006-02-26 | ダンスとか
Danzahoy, Exodo

The Joyce Theater, 昼。
芸術監督 Adriana Urdaneta、振付家 Luz Urdanetaを中心に1980年から活動しているヴェネズエラのカンパニー。二人はロンドンの The Place で学んでいる。ダンサーは男女10人(DV8からの客演2名を含む)。90年代末に作られたらしいこの作品は全編がタンゴで踊られ、衣装や照明も黒と赤が基調で、舞台手前に赤のカーネーションで帯が作られている。ヴェネズエラとタンゴの関係についてはよくわからないが(十月に見た Grupo Corpo といい、南米北米問わず、社交ダンスという題材はそれほど珍しいものではないようだ)、ここではフラメンコ風の足の動きがアイリッシュダンスのようなステップにつながっていったり、様々なものがフュージョンしており、しかもそうした諸々のネタを用いながら、この振付家は至るところで既成の語彙やパターンとは違う独自のものを作り出そうと格闘しているように思われた。あくまでも「格闘」が伝わって来るのであり、必ずしもそれが良い成果をあげているわけではない。動きの語彙は全体に弱く、あまり展開しようのないものだったりするし(両足を揃えたジャンプ移動、あるいはただ両手の拳で床を叩くとか)、ひねりの加わったコンポジション(例えば男2女1のタンゴなど)もどちらかというと生硬で、観客をニヤリとさせるようなスマートさには欠けている。ただ見慣れた型を繰り返すことを細部に至るまで断固拒否しているために、常に一体これはなにをしようとしているのかと微妙な緊張感を抱きながら見ていられた。その頑なさにはとりあえず敬服せざるを得ない。モノクロのヴィデオを使って、聖堂のステンドグラスや、水面の光の反射、高速で流れていく景色などを照明のように当てるというのも渋いし、カーネーションの帯をダンサーたちが腕に抱えて横一列に佇む、というラストシーンから、一人ずつ奥へ下がっていく形で退場するカーテンコールも面白い。しかし、ここもこれで終わっていればスマートなのに、ダンサーは舞台奥へ下がってそこで再びカーネーションの帯を床上に作り、それを飛び越えて前へ出てきて、最終的にはまた花を掴んで空中に放り上げ、その中を後ろ向きに去って行くとかゴチャゴチャやるので不恰好になってしまう。作品全体に感じられる、こういうキレの悪さ、曖昧さは、おそらく既存の形式からの逸脱=「ハズし」を狙うというアプローチに由来するのかも知れない。他との差異を作ろうとして、他に縛られ、ぎこちなくなってしまう。62分。
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