Movement Research at the Judson Church "About Town"
NY, Dance Theater Workshop.
本来はジャドソン教会で行われている新進アーティストのショーイングで、現在は教会の改装中のためDTWに会場を移している。毎週日曜夜、三組が出演し、入場は無料。
遅刻して最初の Deganit Shemy, Epidermic は見れず。数時間前に見たばかりのをまたやっていて驚いたが、モニターで見たところ広い舞台上に白のテープで空間を区切ってあるところが違っていた。
▼Misty Owens, Concerto in d
ピンクや紫系のレオタードを着た女性五人が踊るバレエ。音楽は新古典期のストラヴィンスキーで、全体にバランシンを意識しているが、幾何学的なフォーメーションを展開する中に若干のフロアワークなども。「何でもあり」の場にあえて明確なディシプリンを伴ったダンスを持って来られると、バレエも確固たる一種の「民族舞踊」として見えてくる。つまり数あるディシプリンの中でそれを選んでいるという事実、そしてそもそも何らかのディシプリンに忠実たろうとするその身振りが、その人々の「帰属意識」をはっきりさせ、必ずしもそれを共有しているわけではない観客に無条件のリスペクトを要請する。これが「民族舞踊」であると思う。
▼Daniel Linehan, Anorexia, Failure, and Puberty
『食欲不振、落第、思春期』とでも訳せそうだが、思春期の少年というよりホームレス(あるいはその両方?)を演じている。ジーンズにジャケット、眼鏡をかけた子供っぽい男が、ドル札を大量にバラ撒いて歩いて去る。今度は「今日は~で30ドル、一時間あたり3ドル」といった淡々とした報告をラジオからずっと流しながら、片足をジーンズの中へ引っ込めてのた打ち回る。客席の通路へ入ってきて観客の靴にキスをして回る。さらにもう一本のジーンズを頭からかぶって立ち尽くすなど。自虐的に「負け犬」を演じるパフォーマンスで(偶然だが昨日見た Sara Juli も「お金」を題材にしていた)、アメリカにもこんな人がいたかと複雑な気分に。しかしいかにも言い訳っぽくちょっとだけフツーに踊って見せるところがセコい。このセコさはこうした名もなき身体表現と「ダンス」というカテゴリーの間の屈折した関係を表現しているが、どうせならば片足を引っ込めた状態での中身のないジーンズが床をバタンバタンとリズミカルに叩くそのさまをもっと精緻に、紛れもなくダンスとしてエスカレートさせてもらいたかった。そんなものにダンス的な感動を覚えてしまった時こそ本当に観客は戦慄を覚えるだろう。中途半端に「ダンス」に間借りして、その身分を戦略的に利用していないところに弱さを感じる。
NY, Dance Theater Workshop.
本来はジャドソン教会で行われている新進アーティストのショーイングで、現在は教会の改装中のためDTWに会場を移している。毎週日曜夜、三組が出演し、入場は無料。
遅刻して最初の Deganit Shemy, Epidermic は見れず。数時間前に見たばかりのをまたやっていて驚いたが、モニターで見たところ広い舞台上に白のテープで空間を区切ってあるところが違っていた。
▼Misty Owens, Concerto in d
ピンクや紫系のレオタードを着た女性五人が踊るバレエ。音楽は新古典期のストラヴィンスキーで、全体にバランシンを意識しているが、幾何学的なフォーメーションを展開する中に若干のフロアワークなども。「何でもあり」の場にあえて明確なディシプリンを伴ったダンスを持って来られると、バレエも確固たる一種の「民族舞踊」として見えてくる。つまり数あるディシプリンの中でそれを選んでいるという事実、そしてそもそも何らかのディシプリンに忠実たろうとするその身振りが、その人々の「帰属意識」をはっきりさせ、必ずしもそれを共有しているわけではない観客に無条件のリスペクトを要請する。これが「民族舞踊」であると思う。
▼Daniel Linehan, Anorexia, Failure, and Puberty
『食欲不振、落第、思春期』とでも訳せそうだが、思春期の少年というよりホームレス(あるいはその両方?)を演じている。ジーンズにジャケット、眼鏡をかけた子供っぽい男が、ドル札を大量にバラ撒いて歩いて去る。今度は「今日は~で30ドル、一時間あたり3ドル」といった淡々とした報告をラジオからずっと流しながら、片足をジーンズの中へ引っ込めてのた打ち回る。客席の通路へ入ってきて観客の靴にキスをして回る。さらにもう一本のジーンズを頭からかぶって立ち尽くすなど。自虐的に「負け犬」を演じるパフォーマンスで(偶然だが昨日見た Sara Juli も「お金」を題材にしていた)、アメリカにもこんな人がいたかと複雑な気分に。しかしいかにも言い訳っぽくちょっとだけフツーに踊って見せるところがセコい。このセコさはこうした名もなき身体表現と「ダンス」というカテゴリーの間の屈折した関係を表現しているが、どうせならば片足を引っ込めた状態での中身のないジーンズが床をバタンバタンとリズミカルに叩くそのさまをもっと精緻に、紛れもなくダンスとしてエスカレートさせてもらいたかった。そんなものにダンス的な感動を覚えてしまった時こそ本当に観客は戦慄を覚えるだろう。中途半端に「ダンス」に間借りして、その身分を戦略的に利用していないところに弱さを感じる。