NY, Dance Theater Workshop.
40年前から続いている、新人登竜門的なショーケースであるらしい。
▼The Labor Union, The Labor Union's Dance Work 1
振付=Isabel Lewis。ダンサーは女性2で、上手にミュージシャンが2人(チェロやベースなど)。ダークで時にブルージーなノイズっぽい音楽に比して、ダンサーの動きは昔のドイツの踊りのようなノシノシとした歩行や、壁を使った体操的な動きなどのユニゾンが中心で刺激がない。かといって「労働」というほど無味乾燥なわけでもなく、狙いが(あるとすれば)よくわからなかった。途中で一瞬ベーシストがユニゾンに加わるのなども、ぼくの理解を完全に超えていた。12分。
▼Rachel Bernsen, experiment in progress
無音で正面向きに立ち、横に伸ばした左腕をヒラヒラ、クネクネさせる動きを様々に変化させながら、徐々に胴と下半身の小さな上下動が加わっていき、右腕も動き始め、体の向きを変えてグルッと一周したところで終わるソロ。8分。こういう踊りはNYでは珍しい。しかし日本の(多かれ少なかれ舞踏の影響を受けた)ダンサーならば、まずじっと動かないところから始めて、動きが立ち上がってくる過程をつぶさに観察するかのように動こうとするだろう。彼女の場合は、とりあえず動き始める。周期的な動きの持続とその定型化した変化の中で自分の体の行く末を見守っている。エスカレートする腕の動きに足腰がつられていく、など。つまり疑わなくてもいい土台があり、そこから実験を開始する。これは共同体に関わる差異、また文化の歴史の差異でもあり、ある意味では羞恥心をめぐる差異でもあると思った。これを煎じ詰めれば、フォーサイスと土方のような方法論の差異に行き着くことだろう。
▼Paul Turner/c o u r t, TOUCHED
人種問題や社会的不平等などを背景に自暴自棄になっているアフリカ系の若者のスピーチと小芝居、そして(なぜか)ダンス。男女6人の群舞はあまりにも稚拙な振付で見ているのがしんどい。ダンスは学校で習うもの、学校で習った人(ないしプロ)が作り、踊るものだという考え方が前提になっていることと、表現の仕方がこうして「啓蒙」的なもの(芝居か説教)になることとの間には関係がある。何か自明なダンスなるものへの安心感が、観客との間身体的なコミュニケーションの回路を閉ざしてしまう。自明でない(記号化されていない)何かを曝け出すのでなければ、演劇的な関係は生まれてもダンス的なそれは生まれない。16分。
▼Chase Granoff/Jon Moniaci, Boredom with objects!
アンプやスピーカー、ラップトップやケーブルをたくさん散らかして、ジャージにジーンズの男二人が機材に手をかけてじっとうずくまっている。ドローンやパルスがどうでもいい感じに変化しながら鳴っており、一方が腹にスピーカーを乗せてしばらく仰向けに寝たりする。最後は二人そろって上手に座って誰もいない空間に散らかった機材を眺めたまま終わる。15分。「ノン・ダンス」といえば何でもかんでも了解されてしまう時代にこのイージーさは厳しいものがあるし、彼らもまた単に奇を衒っているだけにも思えるが、見ていると電子的な機械がもっている時間の流れとそれに囲まれている彼らの時間の流れ(息遣い、呼吸に伴う腹の膨張と収縮)の絶望的な隔たりが面白くて仕方なかった。退屈に生きているだけですでに「ダンス」だった。つまり彼らは「退屈」な日常を、それそのものとして思考するために「ダンス」という手段を選択しているのではないか。ダンスのためにダンスが当然の如くあるのではなく、彼らの生にとって必要な何かとしてダンスを捉え直そうとしているのではないか。
▼John Wyszniewski, Ground Control
デヴィッド・ボウイの『Space Oddity』がかかって、照明が入ると段ボールで作った箱から小太りのおじさんがズルズル這い出してきている。体にはプチプチのついた梱包材が巻かれていて、立ち上がって音楽とともに床へスライディング(発射)すると何事もなかったかのようにまた立つ。梱包材を剥ぎ取ると腹に手紙がついている。彼は16年前から文通サークルに入っていて、これは最近来た返事の一通。ダラダラとそれを読み上げた後、おもむろに舞い始める。あまり気張っていないバレエのステップに、細かい手振りで、クルクルと軽やかに、そして情けなく。この体型でやられたら否応なしに「可愛い」テイストになってしまう。最後はまた箱にもぐりこんで何か赤い紙テープのようなものを大量に外へ排出する。火のようにも血のようにも見えた。7分。ちょっと日本っぽい。
▼Jessica Morgan, You Are Gone Goodbye
女性4でデュオ2組が基本、どんよりとしたエレクトロニカに薄暗い照明。特徴のない振付で何を見たらいいのかわからなかったが、後半は床に寝て互いに絡まり合ったり、何ともだらしない感じにエロエロしく。最後は上半身を脱いで背中に文字。それぞれV, IT, IS, MEと書かれていてアナグラムを促すかのように入れ代るのだが、 VISIT ME 以外に何と読めるかをずっと考えて、何も思いつかないなあと思っているうちに終わってしまった。15分。
40年前から続いている、新人登竜門的なショーケースであるらしい。
▼The Labor Union, The Labor Union's Dance Work 1
振付=Isabel Lewis。ダンサーは女性2で、上手にミュージシャンが2人(チェロやベースなど)。ダークで時にブルージーなノイズっぽい音楽に比して、ダンサーの動きは昔のドイツの踊りのようなノシノシとした歩行や、壁を使った体操的な動きなどのユニゾンが中心で刺激がない。かといって「労働」というほど無味乾燥なわけでもなく、狙いが(あるとすれば)よくわからなかった。途中で一瞬ベーシストがユニゾンに加わるのなども、ぼくの理解を完全に超えていた。12分。
▼Rachel Bernsen, experiment in progress
無音で正面向きに立ち、横に伸ばした左腕をヒラヒラ、クネクネさせる動きを様々に変化させながら、徐々に胴と下半身の小さな上下動が加わっていき、右腕も動き始め、体の向きを変えてグルッと一周したところで終わるソロ。8分。こういう踊りはNYでは珍しい。しかし日本の(多かれ少なかれ舞踏の影響を受けた)ダンサーならば、まずじっと動かないところから始めて、動きが立ち上がってくる過程をつぶさに観察するかのように動こうとするだろう。彼女の場合は、とりあえず動き始める。周期的な動きの持続とその定型化した変化の中で自分の体の行く末を見守っている。エスカレートする腕の動きに足腰がつられていく、など。つまり疑わなくてもいい土台があり、そこから実験を開始する。これは共同体に関わる差異、また文化の歴史の差異でもあり、ある意味では羞恥心をめぐる差異でもあると思った。これを煎じ詰めれば、フォーサイスと土方のような方法論の差異に行き着くことだろう。
▼Paul Turner/c o u r t, TOUCHED
人種問題や社会的不平等などを背景に自暴自棄になっているアフリカ系の若者のスピーチと小芝居、そして(なぜか)ダンス。男女6人の群舞はあまりにも稚拙な振付で見ているのがしんどい。ダンスは学校で習うもの、学校で習った人(ないしプロ)が作り、踊るものだという考え方が前提になっていることと、表現の仕方がこうして「啓蒙」的なもの(芝居か説教)になることとの間には関係がある。何か自明なダンスなるものへの安心感が、観客との間身体的なコミュニケーションの回路を閉ざしてしまう。自明でない(記号化されていない)何かを曝け出すのでなければ、演劇的な関係は生まれてもダンス的なそれは生まれない。16分。
▼Chase Granoff/Jon Moniaci, Boredom with objects!
アンプやスピーカー、ラップトップやケーブルをたくさん散らかして、ジャージにジーンズの男二人が機材に手をかけてじっとうずくまっている。ドローンやパルスがどうでもいい感じに変化しながら鳴っており、一方が腹にスピーカーを乗せてしばらく仰向けに寝たりする。最後は二人そろって上手に座って誰もいない空間に散らかった機材を眺めたまま終わる。15分。「ノン・ダンス」といえば何でもかんでも了解されてしまう時代にこのイージーさは厳しいものがあるし、彼らもまた単に奇を衒っているだけにも思えるが、見ていると電子的な機械がもっている時間の流れとそれに囲まれている彼らの時間の流れ(息遣い、呼吸に伴う腹の膨張と収縮)の絶望的な隔たりが面白くて仕方なかった。退屈に生きているだけですでに「ダンス」だった。つまり彼らは「退屈」な日常を、それそのものとして思考するために「ダンス」という手段を選択しているのではないか。ダンスのためにダンスが当然の如くあるのではなく、彼らの生にとって必要な何かとしてダンスを捉え直そうとしているのではないか。
▼John Wyszniewski, Ground Control
デヴィッド・ボウイの『Space Oddity』がかかって、照明が入ると段ボールで作った箱から小太りのおじさんがズルズル這い出してきている。体にはプチプチのついた梱包材が巻かれていて、立ち上がって音楽とともに床へスライディング(発射)すると何事もなかったかのようにまた立つ。梱包材を剥ぎ取ると腹に手紙がついている。彼は16年前から文通サークルに入っていて、これは最近来た返事の一通。ダラダラとそれを読み上げた後、おもむろに舞い始める。あまり気張っていないバレエのステップに、細かい手振りで、クルクルと軽やかに、そして情けなく。この体型でやられたら否応なしに「可愛い」テイストになってしまう。最後はまた箱にもぐりこんで何か赤い紙テープのようなものを大量に外へ排出する。火のようにも血のようにも見えた。7分。ちょっと日本っぽい。
▼Jessica Morgan, You Are Gone Goodbye
女性4でデュオ2組が基本、どんよりとしたエレクトロニカに薄暗い照明。特徴のない振付で何を見たらいいのかわからなかったが、後半は床に寝て互いに絡まり合ったり、何ともだらしない感じにエロエロしく。最後は上半身を脱いで背中に文字。それぞれV, IT, IS, MEと書かれていてアナグラムを促すかのように入れ代るのだが、 VISIT ME 以外に何と読めるかをずっと考えて、何も思いつかないなあと思っているうちに終わってしまった。15分。