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ダンスとか。

ピナ・バウシュ ヴッパタール舞踊団 『バンドネオン』

2004-07-15 | ダンスとか
新宿文化センター(大ホール)。
大きくコの字型にくぼんだ室内セットによる薄暗いカフェ・バー、イスとテーブル、壁にかけられた巨大なボクサーの写真、で何となくヴィデオで見た『カフェ・ミュラー』のようなのをイメージしていたが、不条理コントみたいな要素がかなり多かった。ただしダンスらしいダンスもごくわずかで、その代わりダンスらしくないダンスがたくさん見られる。F・スエルスが「マリアと聞いて何を連想しますか」と聞いて回る冒頭シーンの、男性たちの動きは美しかった。何となく所在なさげに、上着を脱いだり着たりしながら歩き回ったりイスに腰掛けたりするのだが、その上着のスルッスルッという滑り具合と、男たちの物静かな佇まいとが絶妙にシンクロしている。あるいは、総勢19人ものダンサーたちが舞台上手のドアからドドーッと入場してきて、下手壁沿いのイスに次々着席していくところ。まるで重力の向きが90度ズレて、右から左へと人が落下していくように見え、しかもその中から一人が立ち上がって舞台中央に出てきて、仰向けになって赤ん坊のように泣き喚く、それを残りの人々はじっと見ている(見上げている)。大人のまま生まれ落ちてきて、宇宙に浮かぶ赤子を眺める。さらには、いくつものカップルが互いの肩をはだけて、わずかに肌を接触させるシーン。その控え目さが、全員を脇役であるかのように見せ、個々の身体ではなく空間全体を細かく震えさせる。こういうところだけでもやはりバウシュは凄いと思う。どうしてこんな発想が出てくるのか。なぜかはしゃいだH・ピコンが皆にブラヴォーと讃えられながら一人でグラン・ジュテを連続していたら、それが伝染したかのように突然全員がピョンピョン跳ね始める、という無邪気きわまりないシーンもいい。これは例によって最後の方で変奏される。L・フェルスターが男性ダンサーを誘って、サッカーの試合で小競り合いになった時の様々なテクニックを披露し、皆の喝采を受けたと思いきや、なぜか何もしていないピコンがその喝采を横取りしてしまうというもの。理屈を超えたナンセンスを作り出すことにかけては、バウシュの右に出るものはいないかもしれない。しかし印象に残るシーンを次々思い起こしてみると、それ以上に印象の薄いシーンも沢山あったことに思い至る。2時間半もやっていればいくつか当たりが出て当然という気さえしてくる。ナンセンスというのは要するに「意味」を外れていればいいわけで、しかもそれは意味内容を欠いているということじゃなく、適切なコードを受信者側が持っていないような振舞いであるということだ。そのような条件を満たしさえすれば、ナンセンスはとりあえずそのようなものとしての意味(意味ならざる意味)を持つことができる。観客側に解釈コードがなければ、どうにかしてそれに対応せざるを得ないから、発信者側にも受信者側にも属さない第三の意味がそこでひねり出されたり、出されなかったりし、それが面白かったり、どうということもなかったりする。これがバウシュの2時間半ではないかと思う。テーマがタンゴであることは明らかだったが、そこにバレエへの揶揄が横溢していることは意外だった。もちろん全体は「タンゴ抜きで踊るタンゴ」とでもいうべき作品で、男女がペアで踊るシーンは主に三つある。二人とも床に尻をついて足を投げ出したまま体を揺する。男性が女性を逆向きに肩車する(顔の前に乗せる)。女性の股間に男性が手を入れて片腕で持ち上げ、宙に浮いたままの女性がやがて全身で男性にしがみついていく。いずれの場合も、足からステップが奪われている。こうやって様式としてのタンゴを一旦空洞化しつつ、他方でバレエが皮肉られる。アン・ドゥオールを強制されるシーンが出てきたり、なぜか一人でバー・レッスンしている男がいたり、グラン・バットマンを振り子みたいに反復する群舞があったり、D・メルシーがチュチュを付けて情けないプリエをカーテンコールまで続けていたりする。バレエを「強制されるダンス」の象徴として置き、それを反射板としつつ、「エロティックなダンス」としてのタンゴを、特定のステップや様式ではなくイデア=「タンゴの精神」(?)として表象して見せているようだ。しかし問題は、そこに何のリアリティがあるかということだろう。こんな表象の図式は、予め用意され、妥当な解読を待っている記号体系にすぎない。全くの印象でしかないが舞台に緊張感がひどく欠けていたことは確かで(特に複数のモティーフが同時に重ね合わされるところ、典型的には、皆がふざけて大騒ぎしている背後で女が絶叫している、などのシーンは、矛盾したアンビヴァレントな感情をもっと強烈に引き起こすべく意図されているはずなのだ)、ルーティン化すればするほど弱まっていくだろう「情念」の水準よりも、ルーティン化すればするほど強度を高めていく可能性のある「ダンスらしくないダンス」の水準の方に、今回は惹かれた。おそらくエロスということに関して、バウシュがもっているジェンダー観や、セクシュアリティ観がもう古いのではないかと思う。あるいは「性」を中心化して間身体的な「力」学という主題に取り組もうとする姿勢自体が時代遅れなのかもしれない。その意味では近作にダンス(特にソロ)が増えているのは考えあってのことなのかも、という気がする。
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