夢中人

sura@cosmic_a

仁王

2009年04月15日 | 狂言
「仁王」


博奕打 野村萬斎

何某 野村万之助

参詣人 月崎晴夫 高野和憲 竹山悠樹 時田光洋 岡 聡史 

男 深田博治

後見 野村万作 



博奕で負け続けて、財産もつきてしまった博奕打の男がおりました。
そのは博奕打困って、ある知人に相談すると、その博奕打を仁王の格好にさせ、
仁王が天下ったと触れ回って信心深い人々から供え物を騙し取ろうと提案するんです。
早速仁王の格好をし待っていたところ、期待通り参拝人が次から次へとやってきて、
さまざまな願い事をしては供え物を置いていったんです。
味をしめた博奕打が次ぎの参拝人を待っていました。
参拝人がやってきました。その参拝人はどうやら足が悪い様子。
少しでも自分の足が良くなるようにと、仁王の身体を触りまくるんです。
(どうやら中世では、仏像などに触ってよかったみたいですね。
今じゃ仁王様に触るなんてありえないのにね。この仁王の身体を触りまくるというのは、
自分の身体の悪い部分を治してくれると信じられていたんでしょうね)
偽仁王に触りまくる参拝人。触りに触りまくる。触りに触りまくる。あっちこっち触る。さらに触る。
仁王に扮した博奕打はくすぐったいくすぐったい。あぁ~くすぐったい。たまんないっ。
とうとう、くすぐったさに我慢できなくなった博奕打は動いてしまって、
正体をあかしてしまうんです。
驚く参拝人。まずいとばかりに博奕打は逃げていっちゃいました。
。。。と、こういうお話でした。

私はこのお話に「姿勢」を感じました。
この博奕打はお話の最初から「姿勢」が悪かったんです。それは自分でも感じていたのではないでしょうか。
この博奕打はある知人に相談にいくのですが、この時、どんな気持ちで相談にいったのかなと思ったんです。
本当は、自分の姿勢を正したくて相談に乗って欲しかったかもしれない。
でも、その相談相手は、さらに姿勢の悪い方向へと導いてしまったのです。
どんどんどん姿勢が悪く醜くなっていく博奕打。そうなっているところに現れた足の悪い参拝人。
その参拝人はその偽仁王を本物のの仁王と扱うことで化けの皮をはいであげたんです。
最初はうまくいったけど、そのあとはひどい目にあったと博奕打は思ったんじゃないかな。
もう、仁王になんてならない。。。と、同時にこのままじゃいけない、
自分は姿勢を正さなきゃなと思ってくれればいいなと思うんですけど。。。
でも、少しは反省してくれたかもしれませんね。きっとそうだと思う。
そう思わせてくれたのは、あの足の悪い参拝人のおかげですね。
参拝人がそう思わせた。
私が思うに、あの足の悪い参拝人は本当の仁王様なんですよ。
仁王様は博奕打のことを見ていたんですね。
博奕打の姿勢の悪さが目に付いてしまった。
だから、ちょっと痛い目にあわせて姿勢を正してあげようと思われたんです。

「姿勢」というのは、見た目の姿勢だけではないんですね。
生き方の「姿勢」というのもあるようです。
姿勢の正しい人は美しいといいますが、それは見た目の美しさでだけではなく、
生き方も含まれて言うんですね。

本物のの仁王様に姿勢を正しなさいと言われた博奕打。
そのことに気付けたのならば、姿勢を正していったはず。
そして、そのことがまわりの人々によい影響をあたえ、それらの人々から、真に心のこもった品物が贈られたはず。
きっとそう思うんです。

今回の狂言を見てわかったことは、
多方面の知性や教養を磨くことによって「豊かさ」は生まれるかもしれないし、
「美しさ」は、外見の美しさだけではなく、自分自身の中身の姿勢からも強く感じ取れるものなのかもしれない。
そしてまた、「豊かさ」と「美しさ」はひとくくりになるのかな?
たまたま観たお話が自分が最近気になっていたことと合ったのか、
それとも自分がお話にうつしだされたのかわかりませんが、いろいろ感じとれることができました。
「豊かさ」とはなにか「美しさ」とはなにか、もうちょっと感じていきたいと思います。
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萩大名

2009年04月15日 | 狂言
狂言を観に行ってきました。ああ。。。久しぶりだった。。。

「萩大名」

大名 野村万作

太郎冠者 竹山悠樹   茶屋  深田博治

後見 岡 聡史


長らく在京していた田舎大名がお国に帰る途中で、萩の花が美しいという庭園に
太郎冠者の案内で出かけるんですよ。
で、太郎冠者は、そこの庭主は来客者には、必ず一首所望するということを知っていて、
田舎大名にそのことを教え、さらに、その時に詠む歌まで教えるんです。
しかし、大名は歌に慣れていないのか、その歌をなかなか覚えられず、
太郎冠者は、このジェスチャーをしたらこの部分を詠んでというような感じで
なんとか大名に歌を詠ませようとしたんです。
そして、二人は庭園に入り、庭主に会いました。
そこで、庭主と大名が会話をするんですけど、ぜんぜんかみ合っていない。。。
で、庭主から歌を詠んでくれませんかと依頼があるわけです。
太郎冠者から教えてもらった歌がでてこない田舎大名。
打ち合わせしたようにジェスチャーで教えようとする太郎冠者。
でも、大名の口からはチンプンカンプンな言葉が出てきて、太郎冠者は
あきれて、大名が歌を詠み終える前にどこかに行っちゃったんです。
歌を詠んでくれと迫る庭主。
あせりながらもなんとか思い出し歌を詠み終えた大名。
そして、大名はその場から逃げるように立ち去っていくんです。
。。。と、こんなお話でした。

このお話を観て私は思いました。
この田舎大名は非常にもったいないことをしていると。
だって、大名に歌を詠む知識があったり、また、そこの庭は日本各地の名産品の
砂や岩などなどで創り上げられみたいなんですが、それらの知識も多少でもあれば
その庭主と話がはずんだことでしょう。
そうすれば、もしかしたらその庭主から、その名産品の入手ルートを教えてもらったり、
それらを扱っている人を紹介してもらえたかもしれない。
それをきっかけに自分の領土にもりっぱな庭を創り上げることができたかもしれないんですよ。
このお話の田舎大名は非常にもったいないことをしています。。。
そう、私が最近読ませたいただいた本「竹中式マトリクス勉強法」でいうところの
「人間力を鍛えるための人と人を結ぶ勉強」が足りなかったんです。
この田舎大名は、裁判に勝訴して国に帰ることになったみたいなので、
「人生を戦うための武器としての勉強」は身についていたのかもしれませんね。
でも、それだけでは人生は豊かにはならないんでしょうね。
やはり、勉強をする、教養を身につけるということは、人と人を結びつける潤滑油になるんですね。
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小傘

2008年12月11日 | 狂言
「小傘」

田舎者が村に草堂を建立したのだが、堂守がいないので街道に出て探していると、
僧と新発意(しんぼち・出家して間もない修行中の僧)がやって来たのですぐに連れて帰る。
しかしこの二人、実は博奕で食いつめた主従であった。
法事が始まると、僧は場賭場で聞き覚えた傘の小歌をお経のように唱えて参詣人たちをごまかし、
皆が法悦に浸っている内に新発意に施物を盗ませようとするのだが、なかなかうまくいかない。
そうしているうちに念仏は益々高揚していき・・・。
中世ののどかな様子がうかがい知れる曲です。
にわか坊主と新発意は、施物を盗むことができるのでしょうか。

パンフレットそのまま丸写しですが、そういうお話でした。
私、このお話を観て、「日本文化って。。。」というのを感じたんです。

この「小傘」を観るちょっと以前に「彦市ばなし」というのを観ました。
出演は、(彦市)野村萬斎・ (天狗の子)月崎晴夫・ (殿様)・石田幸雄 
という方々だったんです。
で、この「小傘」。他の方も出演されていたのですが、「彦市ばなし」の方々も
出ていらっしゃったんです。
なんていうか、役者さんに、あの「彦市ばなし」の印象はまったくないんですね。
当たり前なんだろうけど、まったく感じないんですよ。
お面という道具が使われていたにせよまったくなんです。
「彦市ばなし」で天狗の子を演じていた月崎晴夫さんは、この「小傘」では
法事に集まってきた人を演じられていました。
確かに「彦市ばなし」での子天狗役ではお面を付けられていたけど、
動きは子天狗だからして子供なんですよ。さらに天狗という精霊系だから、
それも入ってるわけで。
二本足でぴょんぴょんぴょんと飛んで立ち去っていったりするんですよ。
でも今回は普通の一般男性。あの時の印象はなにもなくなんです。
そしてまた、「彦市ばなし」で殿様役だった石田幸雄さんは、今回はなんと
「老婆」なんですよ。
石田さんは、結構体格がいいほうじゃないかなぁ。
それがあんなおばあちゃんになれちゃうんですよ。
おばあちゃん役ではお面を使われていたけど、どこからどうみてもおばあちゃんなんですよ。
黙っていればあれが男性だなんてわからないんじゃないかな。
解説の時に萬斎様が「小さく見える方法があるんですよ」と言われていたけど、
それにしてもって感じなんです。

その「小さく見える方法」というのは、よく萬斎様が言われている「型」というやつなのかな。
だとしたらその「型」ってすごくないです。いろんな技術も入っているんだろうけど
その役者さんに印象がつかないんでしょうね。
役者さんに印象が付かないということは、いろんな役がこなせるということかな。
現代の常識からしていうと、大体役者さんにはイメージが付いてますよね。
だからして、大体イメージ範囲内の役をこなされているような気がするんです。
(そうじゃない方ももちろんいらしゃいますよ。良い人から悪い人までこなされるか方もいらしゃいます。
でも、大体そうじゃないかな)
でも狂言ではイメージが付かない。。。ということは、役者さんがいろんな役がこなせる。。。
ということは、一つの曲で役者さんの配役が変わることで何通りもの見方ができるということなんですね。
「型」があって印象がつかないといっても、配役がかわることで何かは違うでしょうね。
それって、同じ曲でもフレッシュな気持ちで何度も観れるということでしょうね。
ムム~これって、なにか「合理的」じゃないです?私はここに「合理的」さを感じました。

この考えに繋がったのが「着物」。
なんだかね同じ考えじゃないかなぁと感じたんですよ。
だってですよ、着物は着物だけじゃなくて帯とかその他もろもろの付属品で着ちゃうわけなんですよ。
私はまったく着物は着ないんですけど、確か、付属品の変化によって着物の表情が変わると聞きました。
付属品によってその着物がいつまでもフレッシュに感じちゃうんですね。
まぁ、現代の洋服の着方でも女性のファッション雑誌を観れば「1ヶ月コーディネイト」の
コーナーも多く、決められた洋服の組み合わせで1ヶ月着まわしていきましょうと言ってますよね。
これも組み合わせによって、その洋服の印象が違ってみえてくるんですよ。
でも洋服には、あきちゃうんですよね。それはやっぱり流行があったりするからですよ。
つまり洋服には、着物のような「型」がないんですね。一応、ベーシックなものはあるんだけど、着方に「型」がない。
別の言い方をすれば、洋服の着方は無限に広がっているんですよ。
新しいデザインを見つけてそれが流行した。でもそれは終わっていくんです。
別の新しい何かが出てくるんです。
つまり現代の考え方は「使い棄て」なんですね。使っては棄て使っては棄て。
それはなぜかというと、その素材の印象が強いからでしょうね。
印象が強いって、もしかしたらその物にすでに「気」が吹き込まれているということかなぁ。。。
だとしたらすぐに飽きちゃいますよね。
だって、その物に「気」を吹き込むのは使い手であるべきなんですよ。
使い手がその物に「気」を吹き込み生かしていくんだと思う。

日本文化ってもしかしたら「素材」なのかなと思ってきています。
「素材」としての「型」があって、それに「気」を吹き込むのは使い手。
だからしていつまでもフレッシュ。合理的。
狂言もそうじゃないかな。狂言のお話に「気」を吹き込むのは「観客」なのかもね。
それぞれがそれぞれに「気」を吹き込めるんだ。
提供側の押し付けは少なく、提供される側の入り込む隙間があるということかな。
それはつまり、提供される側のイマジネーションを大切にしてきたのが日本文化なのかな。。。
。。。ちなみの日本はいったい何千年の歴史があるの?
そういえば先日、奈良県橿原市で土偶が発見されたというニュースをみたなぁ。
その土偶は縄文時代晩期のもので約3000年前のものだとあった。
。。。3000年前。。。
晩期で3000年前なんだからその前があるというこなんですね。
日本の歴史って長っ!
そんな歴史のある日本。
みんなで「素材」を大事にして今の日本を創り上げてきたのかなぁ。。。
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佐渡狐

2008年12月10日 | 狂言
先日見た狂言の感想です。

「佐渡狐」
年貢を納めに上京する途中でたまたま出会い一緒に行くことになった
佐渡のお百姓と越後のお百姓。
いろいろ世間話をしながら旅をするんですよ。
ふとした会話で越後のお百姓が佐渡のお百姓に「佐渡には狐がいないと聞いたけど本当?」
と訊いたんです。
そしたら佐渡のお百姓は、佐渡に狐がいないのに「えぇ?なにそれ、佐渡には狐はいるけど」と
嘘を言っちゃうんです。
そしたら越後のお百姓は「うっそー。佐渡には狐はいないって聞いたけどぉ。」と言い返す。
佐渡のお百姓「いや、いるって。佐渡には狐いるよ」、越後のお百姓「いや、佐渡には狐はいないって聞いたってば」
。。。とお互いむきになっちゃって、しまいには、お互いの小刀を賭けて、佐渡に狐がいるかいないかの証明をするんです。
そしてそのジャッジを年貢を納める取次ぎ人にお願いしようということになったんです。
絶対に越後のお百姓に佐渡には狐はいないと認めたくない佐渡のお百姓。
絶対に認めたくないという気持ちからか、越後のお百姓より先回りして、取次ぎ人に会い、
いきさつを話して、なんとか佐渡には狐はいると言ってもらえないだろうかとお願いするんです。
取次ぎ人は、「嘘はつけないからさぁ、やめてくれるぅ。そういうのに巻き込まないでくれるかなぁ」とそんな感じで断るんですけど、
佐渡のお百姓がワイロを差し出しはじめたんです。
えぇ!?ナニそれ。そんなの困るし。。。と思いつつも、取次ぎ人はそのワイロを受け取っちゃうんです。
佐渡には狐がいないと知っている取次ぎ人。
ワイロを受け取ってしまったからには、佐渡に狐がいると証明させなければならない。
だからして、佐渡のお百姓と打ち合わせをするんです。その内容は、狐がどんな姿をしているかの確認。
取次ぎ人は、佐渡のお百姓に丁寧に教えてあげます。狐の顔、身体、毛の色の特徴などなど。
佐渡のお百姓は「これでばっちり」という感じです。
そんなこんなしているうちに、越後のお百姓がやってきて、取次ぎ人に訊きます。
「私は、佐渡には狐がいないと聞いたんですが、取次ぎ人さんはどう思われます?」みたいな感じでしょうか。
取次ぎ人は当然「佐渡には狐はいるよ」と答えちゃうんですね。
それで、むきになっちゃう越後のお百姓。
「えぇ!?いや。聞いた。佐渡には狐はいないって聞いた。佐渡に狐はいないはずっ」
な感じでしょうか。
越後のお百姓は納得がいかない。ここで引き下がれない。
「よし、本人に最終的な確認確認だ」な感じで、佐渡のお百姓を呼んで、狐の特徴を訊くんです。
これはしめたと佐渡のお百姓と取次ぎ人。。。のはずが、佐渡のお百姓はチンプンカンプンな
返答をしてしまうわけです。
「まずい!」とばかりに取次ぎ人は、越後のお百姓が背中を向けている隙にゼスチャーなどでせわしなく教えようとするんです。
その場はなんとかしのぐことはできたものの、最後に「狐はどういう風に鳴く?」と訊いたんですよ。
なんと、この狐の鳴き声は、取次ぎ人は佐渡のお百姓に教えていなかったんです。
答えなければいけない佐渡のお百姓。そこで断念することもなく、なにものともわからない
鳴き声を発してしまったのです。
この時点で佐渡には狐がいないと証明されたのです。
が、佐渡のお百姓は負けを認めず、越後のお百姓の小刀を持って逃げていっちゃうんです。


。。。このお話、なんというか、「むき」になっちゃうお話なんですね。
ありますよねぇ。なんかむきになってしまう時って。。。
自分でもなんでかわかんないんだけどむきになるときってあるんです。
このお話のように「この人だけには負けられない」というむきさもあるし、
あと物にもむきになる人がいますよね。むきになってある物を集める人とか。
むきななって仕事や勉強をする人もいる。
むきになってる時って、他人には理解できないことが多いんじゃないかな。
「なんであの人あんなのにむきになっているんだろう」ってね。
そうじゃなくても、本人にとっても時間がたてば「どうしてあんなむきになれたんだろう」と思うこともある。
でも、むきになっている最中の人にはかなり重要なことなんですよね。
むきになるって、周りが見えていない状態だよね。それしか見えない。
ある意味、集中力といってもいいかもしれないね。
それってエネルギーだよね。むきさはエネルギーでもあるんだ。
むきになる時期って大事だよね。むきになるむきは「向き」と書くんだね。
だからして、いい方向の向きでなければいけないんだけど。
純粋にむきになる時期って若い時が多いんじゃないかな。
むきになっていると周りが見えない。だから、周りの人がちょっと見守ってあげなきゃいけないんだね。
だからといって、むきになることが恥ずかしいことではないと思う。
これが大人になってくると、むきのコントロールができるようになってくるんじゃないかな。
じゃ、ちょっとむきのエリアにはいろうかなとか、今はやめといたほうがいいかなとか。
でも、コントロールが利かない時もあるかもね。
この「佐渡狐」の中のむきさはよくない方向のむきさだね。
そのよくないむきさに巻き込まれる人たちも、よくない方向へといってしまっている。
だからして、良い方向のむきさには巻き込まれてもいいのかもね。
まぁ、それぞれのエネルギー、ペースなどあると思うけど、いいのかもしれない。
でも、これに巻き込んじゃう人は、ちょっと気をつけなきゃいけないかもね。
そう思うんだけど。
むきさはエネルギー。それに輪をかけたのが「ひたむき」なんだね。
「ひたむき」は「直向き」と書くんだね。さらにまっすぐなんだね。
この「ひたむき」さって、強大な力を発揮してしまいそうな感じだな。
だから「見守ってもらう」ということが大事なんだ。そう思わない?
それは、自分達も「見守ってあげなきゃいけない」ということに繋がってくるんだね。
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狂言への誘い

2008年12月05日 | 狂言
久留米市城島総合文化センターにて「狂言への誘い~万作・萬斎を迎えて~」を観に行ってきました。

場所は、久留米市城島総合文化センターのインガットホールというところだったんですけど、
このホールがある場所が、なんというか。。。交通アクセスがイマイチ悪いというか、
いわゆる不便な場所にあるわけですよ。
だいたいホールって交通の便がいいところにあるじゃないですか。
このインガットホール付近のバス停には1時間に1本くらいしかバスが停まらないということを言っていらっしゃいました。
私的には、迷いなく車で行こうと思っていたのですが、無事たどり着けるんだろうか。。なんて少々不安ありの出発。
まぁ、なんとか無事にたどり着けることはできました。
たどり着くと、狂言鑑賞するお客さん用の駐車場が。
あの感じからいうと、ほとんどの方がマイカーじゃないかな。たぶん。
私はへ~。。。と思いました。なんでこんな場所にホールが??って。。。
城島というところからしてみればアクセスしやすいのかな?いやそんなはずはない。
だって、電話してだいたいの場所を聞いたとき、「ここは不便な場所にありますからねぇ」といわれていたし。
まぁいいか。とりあえず、私は無事にたどりつけたし、と思っていたら、
萬斎様が書かれている「MANSAI◎解体新書」に書かれてことを思い出したんです。
「私は狂言公演を通じて、日本全国の劇場、ホールなどをくまなく回っています。
もちろん、活気を感じる劇場もたくさんありますが、その多くがハコモノ行政の産物として、
ソフト不足、機能不全を起こしている状況に接するにつけ、劇場というのは、舞台芸術と通して、
社会的還元をもたらす施設であらねばならないと強く思うようになったのです。」
ここの所を思い出したんです。
。。。そっかぁ。。。そうだよねぇ。
そこのホールがあるからには使わなければいけないんだよね。
このインガットホールは小さかったけど、なかなかいい感じのホールでした。
電話でお聞きした時も、「場所はイマイチなんですけど、ホール自体はいいんですよ」といわれていた。
確かにそうだった。
そっか、立派なハードがあっても、それはソフトがないといかされないんですね。
そのハードをいかす「人」が必要なんですね。
今回のインガットホールがハコモノ行政の産物かどうかはわかりませんが、
そうであろうと、そうでないだろうとどっちにしろそこをいかしてくれる「人」つまりソフトが必要になってくるんですね。
チラッときいたことがあるんですが、そんなハコモノ行政の産物がソフト不足と言っていいのでしょうか、使われずにあると。
それらって結構立派なハードなんですよね。
ハードはばっちり。ということは、あとはソフト(人)なんですね。

狂言は、「佐渡狐」と「小傘」を観ました。
感想は後日書かせていただきます。
でもまぁ、一言でいうと「役者さんの技量」を感じました。
先日、世田谷パブリックシアターでの狂言を観て、続いて今回観てそう思いました。
ではではまた。。。
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狂言劇場その伍

2008年11月27日 | 狂言
野村萬斎様が芸術監督を務められている世田谷パブリックシアターに行ってまいりました。
 
場所は、三軒茶屋。
三茶ってどこにあったけ~?と思いながら調べてみると渋谷駅から二駅目。
しかも、駅を出てすぐに、世田谷パブリックシアターにたどり着いちゃうんですね。
いい感じの場所にあるんですねぇ。そうなんだぁと思って、会場にはいってみると、
目の前には、写真でみたことのある「三間四方」の舞台。そして、しめ縄。
ここにやってきたんだなぁと思って席に着き会場全体を見まわす。
そこで目に付いたのが天井。空が画かれてあった。
へ~天井に空の絵が描かれてあるんだぁ。それって意味があるんだよねえ。。。などと
感動しつつ、いろんなことを思う。
で、この空間って・・・と思った時間があるんですよ。
それは、笛と太鼓の演奏があったんですけど、その演奏を聴いていたら、
「陰陽師2」で清明と博正が天岩戸に行く場面が浮かんできて、映画を観ている時はピンとこなかったけど、
笛は風で太鼓は時間だと感じたんですよ。
笛と太鼓が演奏される場所は、あの世とこの世の堺目なんですね。
笛の風と太鼓の時間で、時空を乱して、あの世とこの世の境目をつくっているんだと感じました。
映画の中では太鼓はなかったけど、だからあの場面で笛を吹いたんだぁと思ってしまった。
その笛と太鼓の生演奏を聴きながら、目の前の舞台上にあるしめ縄と会場の天井に画かれている
「空」が妙に気になりながら、なんていうんですか。。。こう。。。「ほっとけない空間」がそこにありました。
笛と太鼓のちゃんとした生演奏って初めて聴いたけど、よかったように思えます。


狂言ですが、「「苞山伏」「磁石」「彦市ばなし」を観ました。
この3つの狂言のテーマは「嘘」。
「嘘」によって物語が展開していくんです。
そして、この狂言を観終わった後に、自分なりのこの3つの狂言のキーワードをみつけました。
それは「道具」です。
「彦市ばなし」では隠れ蓑という道具が使われていました。
そして、「苞山伏」と「磁石」では、「嘘」というものが「おろかな刃」という道具となり、
また、自分を守る「盾」にもなるものだと教えてくれました。
嘘はついてはいけないけど、でも「盾」として使わなければいけない場合もあるんです。
「磁石」では、田舎者が旅の途中にたまたまであった詐欺師達に売り飛ばされそうになるんですよ。
それで、その気配に気が付いた田舎者は、逃げ出るんですが、
詐欺師が田舎者を追いかけて、追いついて刀で田舎者を切ろうとするんです。
その時に、田舎者はとっさに口を大きく開けて「私は磁石の精で、刀がのみたい」と嘘をいうんです。
それを見ていったいなんだと詐欺師はあっけにとられるんです。
この場面を観た時に、以前DVDで見た「ホテルルワンダ」を思い出しました。
ホテルルワンダの主人公の支配人は自分がかくまった人たちの命を守るために嘘をつくんです。
そこで争っている兵隊達に「このホテルを守った人には、会社が報酬をだすといっている」とか、
「ここで起こることはアメリカがスパイ衛星で見張っている」などの嘘をいうんです。
そして、この嘘を「盾」という道具にして彼は大勢の人の命を守ったんです。
嘘という言葉の道具を使ったんです。
これは、この田舎者も同じだと思います。

「彦市ばなし」は、自称「ウソつきの名人」彦市が、ただの釣竿を望遠鏡と偽って、
天狗の子から隠れ蓑をうばっちゃうんですよ。
たまたま出会ってしまった二人。
彦市が天狗の子から奪った隠れ蓑は、それを肩にかけると透明人間になっちゃうんです。
彦市は、その隠れ蓑を使って、お酒をたくさんただ呑みしようなどと自分の欲望を満たそうと考えるわけです。
この、彦市の考えは、私的にはせめられません。
だって、私だって隠れ蓑が手に入ったら、飛行機や電車などにそっと乗って、
あっちこっちに行きたいかもぐらいの考えはでてきます。
あの隠れ蓑を普通の人間が手にした場合、それを正しく使える人もそうそういないんじゃないかな。
隠れ蓑という「道具」は、人間の許容範囲外の力があるわけですよ。
日頃想像していたあれやこれやをやってしまおうとろくでもないことに使ってしまうのが普通の人間かもしれませんね。
あの隠れ蓑を天狗がどのように使っているかはわかりませんが、
天狗が使ってこそ隠れ蓑の力が発揮できるのではないのでしょうか。

私がこの話と重ねあわせたのが「薬」です。
たとえば、薬の中で麻薬系は病院で取り扱う場合はプラスに作用するんですよ。
病院には、傷みを抱える人がいて、それは、他人にはわからない想像を絶する痛みかもしれなくて
そんな時、麻薬系の薬がその痛みを抑えてくれるんです。
そんな薬を自分の欲望を満たすためや遊び感覚で使うパターンがあるみたいですね。
それはマイナスの作用だと思います。
また、睡眠薬も悪戯に使うパターンもあるみたいですね。

その「道具」というのは、正しく使える人の手元にあってこそその力を発揮できる物なんだと思います。
それで、ちょっと思ったんですけど、あの隠れ蓑を殿様が手にしていたらどうなっていたんだろうって。
私の想像は、殿様というのは、ある意味、天狗と近いような力があるわけですよ。
隠れ蓑を手にして、透明人間になったとしばらくは珍しがっているかもしれないけど、
殿様には、ある程度の物はあるし、ちょっとお願いすればなんでもかなえられる状況にあるはずです。
だから、隠れ蓑を持っていても、持っていなくてもだいたい同じような状況じゃないかな。
だから、殿様は、すぐに隠れ蓑にあきちゃって返しちゃうと思うんです。
彦市と天狗の子と殿様。
それぞれに環境がまったく違う3人。ここに私は「国」を感じました。
そしてそこに浮かんだ道具は「核兵器」です。
核兵器を持つ国それぞれに、核兵器を持つことの意味があって、それは意味が違うのではないのでしょうか。
ムム~。。。自分でもすごいところにたどり着いたなと思いました。
でもだよ、「核兵器」を「嘘」として当てはめた場合どういう風になるかな。。。ちょっと考えてみたい。

今回テーマになっていた「嘘」。
この「嘘」ってもっと深そうな気がする。
「嘘」って人間が持っている道具の一つですよ。
嘘をついてはいけない。でも嘘をつかなければいけない場合もある。
でもそれは「盾」として使う場合だ。
人をだまし、なにかを奪い取るような「おろかな刃」としての嘘はいけない。
嘘ってさぁ、結局は言葉なんだよね。
言葉って・・・
もう少し掘り下げてみよう。
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十五夜狂言の夕べ

2008年09月18日 | 狂言
今回の旅の不思議がもう1つあるんですよ。
それは、今回の旅は「法隆寺」が目的て行こうと思った旅なんです。
この法隆寺にさえ行けば、飛鳥文化はわかるだろうぐらいに思っていたんです。
よしっ、法隆寺に行こうと思って、ネットでいろいろ検索していたら、
なぜかリニューアルしたばかりの「万作の会」の公演スケジュールをチェックしたくなったんです。
で、よくよくみてみたら、16日の夜に橿原文化会館にて「十五夜狂言の夕べ9」で萬斎様が出演されるとのこと。

へ~と思って、でもこの橿原というのがどこにある街だかわかんなくて、それよりも、なんと読むのかもわかりませんでした。
でも、よくよくホームページなどを読んでいると、橿原市は奈良県にあって、まさにそこ辺りが飛鳥文化の発祥の地だったんです。
法隆寺は、飛鳥時代を代表するお寺なのかもしれませんが、そこは聖徳太子の研究所みたいなところで、
そこが政治の中心地ではなかったんですよね。
飛鳥文化を知りたければ、この橿原市に行かねばならなかったんです。
この萬斎様の狂言がなかったらこの橿原市には足を運んでいなかったような気がします。
。。。そう思うんですよ。


この「十五夜狂言の夕べ9」ですが、初めて観させていただく大蔵流狂言と和泉流狂言がありました。
そして、トーク&ワークショップは茂山宗彦さん。あのNHK朝の連続テレビ小説に出演されていた方ですね。
おしゃべりはとっても快調な感じでお上手でした。
その中で、何人かの方の物まねをされていたんですよ。その中に、萬斎様がいらっしゃいました。
「遠いと思っていたけど意外に近いね・・・」とか「橿原文化会館なのに橿原じゃないというフェイント的な・・・」などと
宗彦さんの物まねはとってもお上手でした。
もう一回観たいかも。。。

この旅は台風が近づいているということで、天気が心配されたんですが、そんな心配はなんのその、良い天気に恵まれたと思います。
この狂言が終わって、会場を出たら夜空に真ん丸い月が。
あの月ではウサギが餅つきをしているんですよね。
その考えは、すでに飛鳥時代にはあったらしく、聖徳太子がお亡くなりになられた時に、
お妃様の橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)が太子の往生した天寿国の情景を見たいといってつくらせた
天寿国繍帳というのがあるんです。
その天寿国繍帳の左上に月があるんですが、そこにはウサギが餅つきをしているんです。
お月見の習慣は縄文時代からあったらしく、すでに飛鳥時代には確立されていたのかもですね。
すごいですねぇ。。。飛鳥時代はだいたい今から1400年前。。。だからぁ、縄文時代はさらにその何百年前?
とにかく、その時からの習慣がまだ残っているんですよ。
いろんな意味や形がその時代によって異なるかもしれませんが、みんなで、知らない土地の人々も、遠くにいる人も、
同じ月を見上げるという習慣が。
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大分「万作・萬斎の会」

2008年07月25日 | 狂言
先日、大分県へ狂言を観に行ってきました。
会場は平和市民公園能楽堂。私にとっては、初の能楽堂。
ここが能楽堂ねぇ、ほほ~うと、きょろきょろと周りを見渡して自分の席に座って
再び周りを見渡せば、舞台はもちろん目に入るが、客席までもが目に入ってくる。
座っている場所にもよると思うが、会場全体が見渡せる。
通常ホールなら、客席は観客の後姿しかみないのだけど、
能楽堂だと観客の表情がわかっちゃうんですね。
それって、いままでとは違う感じ。
なんだろう。一体感なのかな。

狂言は「入間川」と「悪太郎」でした。

狂言のおはなし:深田博治

「入間川」
大名:野村万作  太郎冠者:高野和憲  入間の何某:石田幸雄  後見:岡 聡史

「悪太郎」
悪太郎:野村萬斎  伯父:野村万之介  僧:深田博治  後見:高野和憲


「入間川」
長らく都に来ていた遠国の大名が、太郎冠者を連れて本国へ帰っていました。
この大名は都で、なにか勝訴したみたいなんです。
大名はきっと、うれしかったんでしょうね。その感じが大名から伝わってくるんですよ。
観てるこっちもうきうきしちゃって、やったね!感じ。見えるもの全てがキラキラ見えるのがわかるんです。
そして、二人は入間川へ行き当たったんです。
どこを渡ればいいんだろうと思っていたら、川の向こう側に人がいて、
大名がその人に尋ねたんですが、その尋ね方が悪かったみたいで、それがそのまま
川の向こう側の人に対応にあらわれたみたいなんです。
まぁ、あらわれたというか、大名の姿がその人に写し出されたんでしょうね。
で、太郎冠者が、大名の聞き方が悪かったから、もう一度ていねいに聞いてみたらいいと思うと言ってたんです。
ここで私は、えぇ?と思いました。
太郎冠者といえば、そんなしっかりしたキャラクターじゃないのに、この太郎冠者は
しっかりものだったからです。しっかりした太郎冠者もいるんですね。
そして、大名がちゃんとした聞き方で尋ねると、川の向こう側の人はちゃんと答えてくれたんです。
その人は、ここは川底が深いから、もうちょっと向こう川の方から渡った方がいいですよ
といいました。
でも、大名はその人の言うことをきかずに、目の前の川を渡っちゃったんです。
そしたら、そこの川は深くて大名は「あれ~」とおぼれそうになっちゃって
やっとこさ川から這い上がりました。
そして大名は「おのれ!なんということを!成敗してくれる!」というんです。
教えた人は、まってくれ、自分はちゃんと教えたではないかと主張。
そしたら大名は、昔から入間では「入間様(いるまよう)と言って逆さ言葉を使うはずだと怒っちゃってるんです。
そんな無茶苦茶なぁ、そんな風習もあるかもしれないけど、その土地の人全てがそういうわけじゃないよね。
それって、今でもあること。
でも、その教えた人は機転が利いたみたいで、大名が聞くことに対して、
逆さ言葉を使って返答していったんです。。
そしたら、大名はその逆さ言葉にうけちゃって、気分がよくなったようなんです。
これって「ほらね、やっぱり」というのもあったろうし、
勝訴した気分のよさも復活してきて「まっ、いいか」という気分にもなったんじゃないかな。
それから大名は超ごきげんな感じになっちゃって、教えた人が入間様を言うたびに
うけちゃって、うけちゃうたびに刀とか着物とかあげちゃうんです。
でも、ハッと気がついたんでしょうね。調子にのりすぎたってね。
最後には、大名が入間様をくつがえして、あげたものを全部奪い返してしまったんです。
そして、そそくさとどこかに逃げていっちゃったんです。
。。。なんかこのお話は、飲み屋でお酒を呑んでいて、盛り上がっちゃって気分良くなって、
「よ~し、みんな分おごってやる」となっちゃって、
次の日目覚めたら、ちょっと後悔してしまうような感じのお話だな。。。
気分がウキウキしたときは自分にご注意ですね。うんうん。
この大名のウキウキ感はめちゃくちゃ伝わってきて私までウキウキ。
間違いなく光を放たれていました。

「悪太郎」
悪太郎とは、悪い人ということではなく「暴れん坊」などのことらしいです。
悪太郎を演じるのは野村萬斎様。
萬斎様は、もさもさのお髭に薙刀を持って超きらびやかな羽織に帽子。
あの羽織に帽子は、きっと流行の服と髪型なんですね。
そんな暴れん坊の悪太郎がいつも小言をいう伯父さんを脅かしに行くんです。
伯父さんの家に行って、伯父さんに失礼なことをするにもかかわらず、
お酒を散々と飲みまくるんです。
その悪太郎の姿は「怖いものなし」の若者。
私の想像するところ、17歳~20歳くらいかな。
そして、散々お酒を飲みまくって、伯父さんの家を出て帰ろうとするんです。
その帰る道すがら悪太郎は道端に寝込んでしまいます。
伯父さんは、悪太郎のあとを追いました。そしたら、道端に寝ている悪太郎を発見!
悪太郎はお酒の臭いをぷんぷんさせていました。
まったくこんなところに寝ちゃって。。。本当に悪太郎は。。。
と、きっと伯父さんはそんなことを思ったはず。
そして、悪太郎が身につけていた流行の羽織(ジャケット?)を脱がせ、
そして、流行の髪型も髪を剃ってしまって坊主頭にしてしまい、悪太郎の薙刀を処分して、
頭の上にはお坊さんの衣装を置いて、悪太郎に「今後は南無阿弥陀仏と名づける」といいのこして
その場を立ち去りました。
悪太郎が目を覚ましました。
悪太郎はその伯父さんの話を夢うつろで聞いたいたみたいで、
それを仏のお告げと信じて「南無阿弥陀仏」の名前で仏修行することを決心するんです。
でも。あれ?薙刀がない。あれれ、自分をかっこよくみせる羽織を着ていない。
しかも自慢のヘアースタイルも姿を消し坊主頭。。。
悪太郎は「え~ん、え~ん」と泣いちゃったんです。
自分を大きくみせるアイテムがなくなっちゃったんだもんね。悲しかったろうねぇ。
と、その時、向こうの方から「南無阿弥陀仏~南無阿弥陀仏~」と言いながら
お坊さんがやってきました。
悪太郎は、「自分の名前を呼んでる」と当たり前に思い、お坊さんが「南無阿弥陀仏~」というと、
「ナニ?」「ナニか用?」みたいな返事をするんです。
お坊さんは「はてはて??」と思い、気でも狂っているのか相手にしないと思ったんですけど、
あんまりしつこいから話をしてみたんですね。
私も「南無阿弥陀仏」って何?と聞かれると、お経としか説明できないなぁ。
語句解説には「阿弥陀仏に帰依する」意の仏語。これを唱えて極楽浄土を願う。念仏。とある。
そうなんだ。
なにか悪太郎とともに1つ知ることができたような気がしました。
悪太郎は怖いもの知らずの若者。でも、このことをきっかけに「南無阿弥陀仏」を知ることができました。
「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」という諺がありますが、
悪太郎は、暴れん坊だけれども、どこか素直なところがあるみたいで、
これから先も「それはいったいなんですか」と聞いて、もしかしたら、
笑われたりして恥をかいたりしたかもしれないけど、そうやって大人になっていって
いつしか自分が教えることもでてきたかもしれない。
そして、あの時伯父さんに坊主頭にされたなぁとか、お坊さんに出会ったなぁと
なつかしく思い、あの日が愛おしく、感謝する日が来たかもしれない。
若い日の失敗って(その度合いにもよりますが)その時は恥ずかしいものだけど、
大人になるにつれて、それも愛おしくなっていって、いつしか宝物になるんじゃないかな。
宝物って、探すだけじゃなく、つくっていくのもでもあるんですね。
そんなことを感じるお話でした。

今回は「狂言のお話」のところで、「にほんごであそぼ」で観ていた「蚊相撲」をやってくれました。
萬斎様が「やっとな、やっとな」と扇子を振れば、蚊となっている石田博治さんが
ふわふわと気持ち離れていくもののまたやってくる。
「蚊相撲」とはよく言ったものですね。
蚊との格闘って、ホントそんな感じですもんね。
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万作・萬斎狂言

2008年03月06日 | 狂言
北九州芸術劇場にて「万作・萬斎狂言」を観に行ってきました。
なんというか、自分のこの行動からして、結構きてるなというのがわかります。
きてますよ。。。萬斎様に。
あんな連ドラなんてやられるとダメですね。はまってしまう。
なんというか、こうなってしまったら誰にも止められません。
自分でもどうすることもできない。
すみません。

で、狂言なんですけどね、今日は「隠狸」と「六地蔵」というのを観てきました。
「隠狸」は狸狩りができるくせにできないと主人に嘘ついちゃう太郎冠者。
主人は太郎冠者が狸狩りが出来ると噂で聞いていて、お客さんを招待し狸汁を
ご馳走しようとしていたので、狸狩りができないのなら市場へ行って買ってきてくれと
言うんです。
承知いたしましたって感じで太郎冠者は市場へ行っちゃうわけなんだけど、
その手には昨晩捕まえた狸があるわけなんですよ。
なんと太郎冠者は主人に黙ってその狸を売ってしまおうとたくらんでいたわけです。
でも主人は、なんかあやしいと思い、市場へ様子を見に行ったところで
太郎冠者にばったり出くわしちゃうわけ。
「なんで~マジで~?!」って感じで驚く太郎冠者。
「ほほ~う、なんだおまえ」と様子をみる主人。
そのうち主人が太郎冠者にお酒を沢山勧めてそれで隠していた狸がばれちゃうというお話でした。
狂言というのは、それぞれ感じるのは自由ということで、私なりの感想を書きますと、
私はこのお話に人間関係を感じました。
私の中の太郎冠者は若いんです。そして主人はそこそこって感じ(ってどれくらい?)。
太郎冠者がこの主人のところにお勤めしてちょっとの月日はたってるはず。
そんな太郎冠者のことを主人はみてきてるんです。
太郎冠者が狸狩りができないと嘘ついた時にきっと主人はそれが嘘だとすぐにわかったはず。
「おまえ嘘だろ。何年付き合ってると思ってるんだ。おまえの嘘ぐらいすぐに見抜くぞ」
くらいな感じでしょうか。
主人は太郎冠者に無関心じゃなかったんです。
無関心だったら狩りはできないと言った時に「あっそう、じゃぁ市場へ行ってきて」
で終わっちゃって、太郎冠者は悪い事をやっちゃう。
でも無関心じゃなかったから悪い事をしないですんだんです。
主人に怒られたと思うけど、太郎冠者にとってはよかったことなんです。
そこに主人の愛があったんだなぁと感じました。

もう一つのお話は「六地蔵」
ある田舎者は六体の地蔵を発注しようと都に仏師を探しに行ったところ
一人のすっぱ(詐欺師)に出会ってしまう。
そのすっぱは、自分は仏師で一晩で六体のお地蔵さんをつくると約束。
そんなことできるはずもなく、どうしようと考えたところ、
仲間を3人呼び出しお地蔵さんに化けさせる。
とうぜん嘘のお地蔵さんは三体しかなく、もう三体は別の場所に移動させ
ながらとりつくろうことにした。
翌日、田舎者がお地蔵さんを受け取りにやってきた。
目の前にあるのは三体。それらの確認が済んだらもう三体の確認がしたいという。
にせ地蔵達はばたばたと移動。
その確認が終わったら、さっきの地蔵がまた確認したいという。
う~ん、またさっきのが確認。。。って感じでばたばたばたばたしてるんですよ。
で、結局最後には嘘だとばれちゃうお話。
なんというか、このお話は単純に楽しめるお話だった。
おもしろかった。
しいていえば、どちらにしろ人を見る目というのが必要になってくるのかなぁって。
意外に純粋な人にこそ振り回されるのかもね。

私、狂言にだんだんと慣れてきてる感じがする。
解説されていた石田幸雄さんが言われていたが
1回、2回見ただけじゃ狂言はわからないと思うといわれていたが、そうかもしれない。
映画やドラマの観かたと狂言の観かたは違うかもね。
狂言などを先に見慣れていて、そのあと映画やドラマを観たらどんな印象をうけるんだろう。
それはそれであれ?なんか違う。なんで?って感じなのかなぁ?
狂言には(確か)254のお話があると言ってたなぁ。
その中のどれだけのお話を知ることができるだろうか。
次はいつかなぁって今思っているところであります。


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長崎みなと薪能

2005年11月03日 | 狂言
本日、観に行ってきました。「長崎みなと薪能」

今年にはいって3回目の狂言。完全にはまってます。

今回の薪能は室内ということで、燃え上がる火は薪ではなく
「ガス」の炎でした。
なので、火の粉や煙が舞い上がったりなどはなかったのが残念。
「幽玄の世界」とは、あの薪があってこその表現なんじゃないかと
思うんです。

そして今回3回目ということで、だいぶ慣れてきました。
何に慣れたかというと「間」にです。
得に「能」の間はすごい。
主役の人が舞っている時など、たまにピタッと止まったまま
動かない時があるんです。
・・・いつになったら動くんだろう・・・?なんて思ってると
ゆっくり、ゆっくり動きだす。。。
それでも薪が使われていれば炎の熱で陽炎ぽくみえたり
煙や火の粉の奥で演じられているので、それはそれで「幽玄の世界」として
美しく見えるのです・・・が、本日はガスであって、炎の演出がなかった。
そのせいか本日の演目は刀を振りかざすなど、いままで観てきたなかでは
ハードアクション気味だった気がします。

うん。でも観てよかった。
萬斎さまにまたお会いできたんだもん。言うことない。

でもよぉ、萬斎さまこの半年くらいの間で長崎県内での公演を
3回もやってるんだよ。
ものすごくハードスケジュールじゃない?
どんなに売れているライブバンド(死語かな?)でも
1年に1回来るか来ないかなのに、ここ半年で3回!
長崎だけじゃないんだよねぇ。その他、福岡や宮崎や。。。あちこちにも
まわっていらっしゃる。。。。

ファンとしてはうれしいけど、お身体お大事にされてください。
萬斎さまがいらっしゃる時は行ける範囲で観にいき続けます~。
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