夢中人

sura@cosmic_a

天地創造

2014年11月14日 | Weblog
初めに、神は天地を創造された。

地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた神は言われた。

「光あれ。」

こうして光があった。神は光を見て良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった第一の日である。

神は言われた。
「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」
神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。

神は言われた。「天の下の水は一つの所に集まれ。乾いた所が現れよ。」
そのようになった。神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。神は言われた。
「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」
そのようになった。地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草とそれぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。
夕べがあり朝があった。第三の日である。

神は言われた。
「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。天の大空に光る物があって、地を照らせ。」
そのようになった。神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さなほうに夜を治めさせられた。神はそれらを天の大空に置いて、地を照らさせ、昼と夜を治めさせ、光と闇を分けさせられた。神はこれを見て、良しとされた。夕べがあり、朝があった。第四の日である。

神は言われた。
「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ。」
神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。神はこれを見て、良しとされた。神はそれらのものを祝福して言われた。
「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」
夕べがあり朝があった。第五の日である。

神は言われた。
「地は、それぞれの生き物を生みだせ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」
そのようになった。神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て良しとされた。




旧約聖書っていろんなことが書いてあるなと思って。
再び、歯医者の待合室で雑誌を読んでいたら、「有名企業を目指すならこの大学」という記事があって読んでみた。
大学生就職企業人気ランキングなど書いてあって、あぁそうか、ここに書いてある企業がグローバリゼーションのルールに持っていかれてしまう企業なんだろうなと思ってみた。グローバリゼーションって日本語にした場合に人によって違う感じなのかな。いろいろありそう。グローバリゼーションを考えなたくなった。
で、それらの企業に入っていく若者がハムなのかなと思ってみた。このグローバリゼーションのことについても旧約聖書のどこかも部分に書いてあるのかなと思った。

日本を支える大企業がグローバリゼーションのルールに持って行かれてしまうからこそ、国内での新しい産業や企業が必要になってくるのかなと思ってみた。それが地方創生なのかな。
新しい商品や企業を見つけるのって、なかなかできることではないな。ていうか、どういう動きになれば新い商品や企業を見つけれるのかなと、11月5日岸 博幸さんのお話を聴いて思ったことです。
岸さんのお話はあっという間に終わってしまって、もう少し聴いていたかった感じでした。
コメント (2)
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ハム

2014年11月10日 | Weblog
本を読み返してみた。佐藤優さん「人間の叡智」。
以前に読んでいたのだが読み返してみる。ここのところ、旧約聖書のある部分が気になっていて、なぜだ、なぜだと思っていたところに再び読む。
人間の叡智 (文春新書 869)
佐藤 優
文藝春秋


佐藤さんの本を読んでいると、シンプルな感じで書かれてあるようなのですが、見たことがないような字や言葉、いろんな人物、そしてその人物の出来事などが書かれてあって、新しい世界が開けるような感じです。あと何と言っても、他のストーリーとリンクすることが多くて、また、こうなのだろうなと感じることが多い。

旧約聖書の気になる所というのは、創世記に書かれてあるノアと息子達のストーリーです。
創世記9-20『さて、ノアは農夫となり、ぶどう畑を作った。あるとき、ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。カナンの父ハムは、自分の父の裸を見て、外にいた二人の兄弟に告げた。セムとヤフェトは着物を取って自分たちの肩に掛け、後ろ向きに歩いて行き、父の裸を覆った。二人は顔を背けたままで、父の裸を見なかった。ノアは酔いから醒めると、末の息子がしたことを知り、こう言った。
「カナンは呪われよ
奴隷の奴隷となり、兄たちに仕えよ。」』
このお話の意味は何なのだろうと、しばらく思っていたのです。旧約聖書のことだから、そのままストレートではなく、解釈であって、その裏にある愛のはずなのですよ。
お話のタイプ的には、黄泉の国で見てはいけないというのにイザナキがイザナミの姿を見てしまった話とか、また「鶴の恩返し」のように見てはいけない物を見てしまって話が動く系統なのかなと思ったりしていたのですが、それだけじゃないなとしっくりこなくて、そんな時に佐藤さんの「人間の叡智」を読んでみたところ、この話は「後継者選び」なんだなと感じました。
「カナンは呪われよ」の「呪い」は「願い」の意味。マイナス的な感じがするのですが、プラス思考で考えると「試練」の意味なのかなと思いました。ハムに試練の試練を与えよという感じでしょうか。いろんな試練、いろんな訓練が後継者には必要なのですね。

ノアは、エリート。つまり神にお願いされた人。神に魅入られた人だと思うのですが、ノア的には、この神に魅入られたことが辛いことで、なんといいましょうか、呪縛的な感じだったのかなとも思ったのです。そうなってしまったからには、もうそれからは逃れられない呪縛でしょうか。
ノア的には、実はそれが辛くて折れそうな時もあった。ノアには後継者が必要で、その後継者は引き継いでいかなければいけない。だからこそ「試練」を与えた。
エリートとは、いいことばかりではなくて、いろんな状況に陥るのだと思います。それは現代の状況をみていても思います。それで「脆さ」もあると思います。エリートであり続けるというのはリスクもあるのかなと思うワケで、それに打ち勝っていくには試練、訓練が必要なのかもしれませんね。
最近、本を読んだり、お話を聞いたりしていると「エリート」という言葉を目や耳にします。
今、このエリートが動いていないというか、動きにくい状況なのでしょうか。
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