狂言を観に行きました。
舟渡聟
船頭 野村万作
聟 高野和憲
姑 深田博治
後見 月崎晴夫
聟が初めて舅の家に挨拶に行く途中、渡し船に乗る。酒好きの船頭は、聟の持つ酒樽に目をつけ、その酒を振舞えと言う。
でも、その酒は、舅への贈り物の品であるので、聟は振舞うことを断る。
振舞うことを断られた船頭は、舟を漕ぐのをやめたり、激しく揺らしたりして強引に無心する。
聟は仕方なく酒を飲ませて、軽くなった酒樽を持って舅の家へ出向く。
舅の家に着くが、舅は外出中とのことで、姑の家に向かいいれられる。やがて、外出していた舅が帰宅する。
舅は、聟の顔を見てびっくり仰天。そこにいる聟は、先ほど自分が無理やりに酒を飲ませろと言った男ではないか。
姑は、舅と聟を合わせようとするが、舅はちょっと待ての状態。なかなか聟に合うことができない。
自分が、先ほどの舟頭とわかってはまずい。どうしよう。。。ということで、舅はりっぱな長い髭を剃ることにして様を変え、
顔がはっきりと見えないようにして、聟と対面する。
聟は、舅に酒を持ってきたというが、舅は、自分は酒が飲めないと言って、聟に飲ませる。
その間、舅は顔がわかりにくく隠してしたが、聟が舅の顔をちゃんとみたところ、目の前にいる舅が、先ほどの舟頭とわかる。
舅は、自慢の髭を剃ってまで様を変えたのにとがっくり。
南無三宝(なむさんぼう・しまった!驚きや後悔を表わす感動詞)と言って逃げも隠れもできない状態になってしまう。
最近ですね、「自由すぎることは、自由を奪うこと」ではないかとよく考えているんですよ。
この舅は、自分の欲を抑えられなかったばっかりに、自慢の髭を剃るはめになったり、初めて酌み交わすはずだった聟との酒も飲なかった。
いそればかりか、聟は義理の息子であって、家族なわけで、今後、舅としてどうあればいいのか。。。
きっとそこで舅に、いままでなかった「罪の意識」というのが芽生えてくるのかなと思ったんですよ。
さすがに舅も、やっていけないことをやっていると、わかっていたとは思うのですが、
それまでのいろいろな状況がどうだったのかはわかりませんが、やってしまった。
いわゆる「理性」がなかったんですね。だけど、そこで芽生えた「罪の意識」が「理性」を育てるのかもしれない。
だから、舅が最後に「南無三宝」と言うわけなのかなと思ったのです。
南無三宝とは、仏(覚者)・法(仏の教え)・僧(教えを信奉する教団)を宝の例え、その三宝に帰依すること。
三宝に帰依を表明することは仏教徒としての基本的条件である。。。だそうです。
では、帰依とは、神仏を信仰して、その威徳にすがること。威徳とは、厳かで徳の高いこと。威徳と人徳「~が備わる」。
これからすると、舅が言った「南無三宝」とは、懺悔をしているんですね。
人は、自由を求めるものと思うのですが、自由でいるためには、抑える何かが必要と本能でわかっているのではないのかなと思うのです。
定かではないけど、そうではないかと。もしそうだとすると「理性」は本能かなと。
でもそれは、なんでもそうだと思うのですが、いろいろな状況の中で育っていくものなんでしょうね。
蝸牛
山伏 野村萬斎
主 野村万之助
太郎冠者 石田幸雄
後見 深田博治
出羽の羽黒山から出てきた山伏が、葛城山での修行を終え、疲れた体を癒すために竹藪で休んでいる。
そこへ主人に命じられ、長寿の薬になるという蝸牛をとりに太郎冠者がやってきた。
太郎冠者は、主人に命じられた時に、蝸牛というのをまったく知らないということで、蝸牛の特徴を主人に訊く。
そうすると主人は、蝸牛というのは、角があって、腰のあたりに貝を背負っていてなどの特徴を教える。
そして、太郎冠者は竹藪に蝸牛を探しに行くと、そこに、角があって、腰の辺りに貝がある者が寝ているではないか。
それは、身体を癒すために休んでいる山伏であった。太郎冠者は、山伏を蝸牛と思い込む。
そこで目覚めた山伏は、太郎冠者と話していると、どうやら自分の事を蝸牛を思い込んでいると知ると、
それを面白がった山伏は、自分は蝸牛であるといい、太郎冠者にそれを信じさせ、からかいついでに「でんでんむし」の囃し物で、太郎冠者とうち興じる。
そこへ帰りが遅いことを不審に思った主人がやってきて、竹藪の様子をみてみると、そこには、太郎冠者と山伏が楽しげに踊り舞っているではないか。
それはなんとも楽しそう。それをずっと見ていた主人は、その踊り舞っているなかに自分も入り込んでしまう。
蝸牛とは、かたつむりの事です。太郎冠者はなぜ山伏をかたつむりと勘違いしたのでしょうか。
主人は、かたつむりを知らない太郎冠者に、かたつむりとは、角があって、腰の辺りに貝を背負ってるなどの特徴を言いました。
その山伏は、角みたいな帽子をかぶっていて、腰には山伏の必需品なのか、ほら貝をぶら下げていたのです。
それで太郎冠者は休んでいた山伏をかたつむりと勘違いしてしまった。。。って、だからといって山伏をかたつむりと勘違いするかなぁ。
そもそも、これは最初の情報が悪いのではないのではないかと思いました。
かたつむりを見たことないと言っているのに、あの情報だけで、かたつむりがわかるのか。。。?
せめて、絵を描いてあげて説明してもよかったのかも。というか、かたつむりは、虫と言う肝心な情報が抜けているように思える。
一方の太郎冠者も、もう少し、情報を取り入れてもよかったのではなかったのでしょうか。
一つの情報の発信から、とんでもない勘違いに走ったりするワケなんですね。
「抑」。。。この字、なんと読むかわかります?「蝸牛」の感想の中で使っているんですけ、「そもそも」と読むみたいです。
自分的には「基」と書くのかなぁと軽く想像していたのですが、「抑」だったんです。
知るきっかけは、最近、「そもそも」という言葉が気になっていたんです。
「そもそも」という漢字ってあるのかなぁと思って、携帯電話の辞書で「そもそも」と入力してみたら「抑」がでてきました。
そして意味は、①ことの初め。第一。「そもそものきっかけ」②【接】あること柄を説き起こす時に使う語。元来。③【副】一体。もともと。
漢和辞典の方では、①おさえる(おさふ)。イ、おさえつける。ロ、とどめる。しずめる。ハ、しりぞける。二、へりくだる。ホ、こらえ忍ぶ。へ、へらす。
②おさえつけられる。また、ふさがる。むすぼれる(ここ、むすぼれると書いてあった。むすばれるも間違いかな?)抑鬱ヨクウツ」
③そもそも。イ、発語の辞。いったい。さて。ロ、転意の辞。それはそうとして。それともまた。○あきら
原字印(辞書では鏡にうつった状態)指事。抑は形声。印を裏返しにした形で、押し付けるの意を示す。
抑はそれを音符とし、意府の(手)を加えたもの。音ヨクは、イン(印)の転音という。
なるほど。。。「印」を裏返した形なんですね。これに、シンニョウとかニンベンとかを付ける漢字もあるなぁ。
「印」ですかぁ。印鑑ですねぇ。印鑑って、随分と大昔からあるんだよなぁ。それこそ、卑弥呼の時代からあったんじゃなかったっけ?
「抑」って、抑える、抑え付けるなどで使うことが多いと思うんですけど、それって抑制ですよね。
だとすると、「そもそも」って、「抑制」なのかな。「そもそも」というか「もともと」というのに人は抑制されて人でいられるのかな。
ちょっとよくわからないのですけど、「そもそも」という漢字が「抑」←これというのがすごく意外だったんです。
ネットにも詳しい説明はないような気がする。だとすると解釈か?。。。のはずない。だって、ちゃんと漢字があるんだもん。
「抑」って、別の言い方がありそうな気がする。古典も「抑」な感じだなぁ。
「舟渡聟」の感想で書いた「自由すぎることは自由を奪うこと」であるならば、自由を抑制することによって自由であるのかな。
ムム~。。。秋の夜長に「抑」を考えるのであった。。。つづく。
舟渡聟
船頭 野村万作
聟 高野和憲
姑 深田博治
後見 月崎晴夫
聟が初めて舅の家に挨拶に行く途中、渡し船に乗る。酒好きの船頭は、聟の持つ酒樽に目をつけ、その酒を振舞えと言う。
でも、その酒は、舅への贈り物の品であるので、聟は振舞うことを断る。
振舞うことを断られた船頭は、舟を漕ぐのをやめたり、激しく揺らしたりして強引に無心する。
聟は仕方なく酒を飲ませて、軽くなった酒樽を持って舅の家へ出向く。
舅の家に着くが、舅は外出中とのことで、姑の家に向かいいれられる。やがて、外出していた舅が帰宅する。
舅は、聟の顔を見てびっくり仰天。そこにいる聟は、先ほど自分が無理やりに酒を飲ませろと言った男ではないか。
姑は、舅と聟を合わせようとするが、舅はちょっと待ての状態。なかなか聟に合うことができない。
自分が、先ほどの舟頭とわかってはまずい。どうしよう。。。ということで、舅はりっぱな長い髭を剃ることにして様を変え、
顔がはっきりと見えないようにして、聟と対面する。
聟は、舅に酒を持ってきたというが、舅は、自分は酒が飲めないと言って、聟に飲ませる。
その間、舅は顔がわかりにくく隠してしたが、聟が舅の顔をちゃんとみたところ、目の前にいる舅が、先ほどの舟頭とわかる。
舅は、自慢の髭を剃ってまで様を変えたのにとがっくり。
南無三宝(なむさんぼう・しまった!驚きや後悔を表わす感動詞)と言って逃げも隠れもできない状態になってしまう。
最近ですね、「自由すぎることは、自由を奪うこと」ではないかとよく考えているんですよ。
この舅は、自分の欲を抑えられなかったばっかりに、自慢の髭を剃るはめになったり、初めて酌み交わすはずだった聟との酒も飲なかった。
いそればかりか、聟は義理の息子であって、家族なわけで、今後、舅としてどうあればいいのか。。。
きっとそこで舅に、いままでなかった「罪の意識」というのが芽生えてくるのかなと思ったんですよ。
さすがに舅も、やっていけないことをやっていると、わかっていたとは思うのですが、
それまでのいろいろな状況がどうだったのかはわかりませんが、やってしまった。
いわゆる「理性」がなかったんですね。だけど、そこで芽生えた「罪の意識」が「理性」を育てるのかもしれない。
だから、舅が最後に「南無三宝」と言うわけなのかなと思ったのです。
南無三宝とは、仏(覚者)・法(仏の教え)・僧(教えを信奉する教団)を宝の例え、その三宝に帰依すること。
三宝に帰依を表明することは仏教徒としての基本的条件である。。。だそうです。
では、帰依とは、神仏を信仰して、その威徳にすがること。威徳とは、厳かで徳の高いこと。威徳と人徳「~が備わる」。
これからすると、舅が言った「南無三宝」とは、懺悔をしているんですね。
人は、自由を求めるものと思うのですが、自由でいるためには、抑える何かが必要と本能でわかっているのではないのかなと思うのです。
定かではないけど、そうではないかと。もしそうだとすると「理性」は本能かなと。
でもそれは、なんでもそうだと思うのですが、いろいろな状況の中で育っていくものなんでしょうね。
蝸牛
山伏 野村萬斎
主 野村万之助
太郎冠者 石田幸雄
後見 深田博治
出羽の羽黒山から出てきた山伏が、葛城山での修行を終え、疲れた体を癒すために竹藪で休んでいる。
そこへ主人に命じられ、長寿の薬になるという蝸牛をとりに太郎冠者がやってきた。
太郎冠者は、主人に命じられた時に、蝸牛というのをまったく知らないということで、蝸牛の特徴を主人に訊く。
そうすると主人は、蝸牛というのは、角があって、腰のあたりに貝を背負っていてなどの特徴を教える。
そして、太郎冠者は竹藪に蝸牛を探しに行くと、そこに、角があって、腰の辺りに貝がある者が寝ているではないか。
それは、身体を癒すために休んでいる山伏であった。太郎冠者は、山伏を蝸牛と思い込む。
そこで目覚めた山伏は、太郎冠者と話していると、どうやら自分の事を蝸牛を思い込んでいると知ると、
それを面白がった山伏は、自分は蝸牛であるといい、太郎冠者にそれを信じさせ、からかいついでに「でんでんむし」の囃し物で、太郎冠者とうち興じる。
そこへ帰りが遅いことを不審に思った主人がやってきて、竹藪の様子をみてみると、そこには、太郎冠者と山伏が楽しげに踊り舞っているではないか。
それはなんとも楽しそう。それをずっと見ていた主人は、その踊り舞っているなかに自分も入り込んでしまう。
蝸牛とは、かたつむりの事です。太郎冠者はなぜ山伏をかたつむりと勘違いしたのでしょうか。
主人は、かたつむりを知らない太郎冠者に、かたつむりとは、角があって、腰の辺りに貝を背負ってるなどの特徴を言いました。
その山伏は、角みたいな帽子をかぶっていて、腰には山伏の必需品なのか、ほら貝をぶら下げていたのです。
それで太郎冠者は休んでいた山伏をかたつむりと勘違いしてしまった。。。って、だからといって山伏をかたつむりと勘違いするかなぁ。
そもそも、これは最初の情報が悪いのではないのではないかと思いました。
かたつむりを見たことないと言っているのに、あの情報だけで、かたつむりがわかるのか。。。?
せめて、絵を描いてあげて説明してもよかったのかも。というか、かたつむりは、虫と言う肝心な情報が抜けているように思える。
一方の太郎冠者も、もう少し、情報を取り入れてもよかったのではなかったのでしょうか。
一つの情報の発信から、とんでもない勘違いに走ったりするワケなんですね。
「抑」。。。この字、なんと読むかわかります?「蝸牛」の感想の中で使っているんですけ、「そもそも」と読むみたいです。
自分的には「基」と書くのかなぁと軽く想像していたのですが、「抑」だったんです。
知るきっかけは、最近、「そもそも」という言葉が気になっていたんです。
「そもそも」という漢字ってあるのかなぁと思って、携帯電話の辞書で「そもそも」と入力してみたら「抑」がでてきました。
そして意味は、①ことの初め。第一。「そもそものきっかけ」②【接】あること柄を説き起こす時に使う語。元来。③【副】一体。もともと。
漢和辞典の方では、①おさえる(おさふ)。イ、おさえつける。ロ、とどめる。しずめる。ハ、しりぞける。二、へりくだる。ホ、こらえ忍ぶ。へ、へらす。
②おさえつけられる。また、ふさがる。むすぼれる(ここ、むすぼれると書いてあった。むすばれるも間違いかな?)抑鬱ヨクウツ」
③そもそも。イ、発語の辞。いったい。さて。ロ、転意の辞。それはそうとして。それともまた。○あきら
原字印(辞書では鏡にうつった状態)指事。抑は形声。印を裏返しにした形で、押し付けるの意を示す。
抑はそれを音符とし、意府の(手)を加えたもの。音ヨクは、イン(印)の転音という。
なるほど。。。「印」を裏返した形なんですね。これに、シンニョウとかニンベンとかを付ける漢字もあるなぁ。
「印」ですかぁ。印鑑ですねぇ。印鑑って、随分と大昔からあるんだよなぁ。それこそ、卑弥呼の時代からあったんじゃなかったっけ?
「抑」って、抑える、抑え付けるなどで使うことが多いと思うんですけど、それって抑制ですよね。
だとすると、「そもそも」って、「抑制」なのかな。「そもそも」というか「もともと」というのに人は抑制されて人でいられるのかな。
ちょっとよくわからないのですけど、「そもそも」という漢字が「抑」←これというのがすごく意外だったんです。
ネットにも詳しい説明はないような気がする。だとすると解釈か?。。。のはずない。だって、ちゃんと漢字があるんだもん。
「抑」って、別の言い方がありそうな気がする。古典も「抑」な感じだなぁ。
「舟渡聟」の感想で書いた「自由すぎることは自由を奪うこと」であるならば、自由を抑制することによって自由であるのかな。
ムム~。。。秋の夜長に「抑」を考えるのであった。。。つづく。