夢中人

sura@cosmic_a

告発~MURDER IN THE FIRST~

2010年06月23日 | Weblog
「告発」という映画を観ました。

舞台は、アメリカのサンフランシスコにあるアルカトラズ刑務所。
そこに一人の青年がいるのです。
彼は、17歳の時に、貧しさから5ドルを盗んだ罪でその刑務所に収監されているのです。
そこで、1000日間、独房にいさせられたのです。

そして、一人の若き弁護士。二人は、めぐり逢うのです。
二人の会話の中で、この弁護士も子供の頃に、兄の財布から5ドルを盗んだことがあって、
その時どうだったかというと、「次はやってはいけない」と注意されたと言っていたのです。

青年がなぜ長期に独房に入れられたかと言うと、刑務所の副所長の存在があるのです。

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この話は実話みたいで、この事件がきっかけで、1963年にアルカトラズは閉鎖されて、現在では観光地になっていますよね。
映画の撮影に使われていたり、あと、ミュージックビデオなどでもみたことがあります。
この映画の事件以前から、アルカトラズでは、収監者にひどいことが行なわれていると噂にはなっていた様子でなのですが、
三人がめぐり逢ったことで、裁判でその事実が確認されたのです。

私は、この話には、阿修羅が潜むと感じました。
阿修羅は、正義を司る神。正義は闇に潜むと感じた。
以前、話題になった、興福寺の阿修羅像は三面六臂(三つの顔に六つの腕)ですよね。
なぜそうなのかと言うことを、いろんな風に解釈されていると思うのですが、この映画を観て思ったのですが、
一人の作用では正義にはならないのかなと思ったのです。人のめぐり逢いによって、そうなるのかなと。
その何人かの作用によって、一つの事となるのかなと。
だから阿修羅像には、顔が三つあって、身体は一つ。
腕のことは、はっきりはわかりませんが、それぞれのありかたというか、感情かなと思ってみました。

阿修羅のことをWikpediaで読み返してみたら、「阿修羅は帝釈天とよく戦闘をした」とあったんですよ。
そして、「阿修羅は正義を司る神。帝釈天は力を司る神」とのこと。
この「告発」からすると、裁判をするのですけど、相手は国なんですよ。いわゆる権力と戦っているのです。
それってつまり、力かなと思ったのですよね。

別に、権力が悪いと言っているワケではないのです。あの話をよく観てみると、彼らが戦っている相手は、
その時の常識のようにもみえるのです。
あの時に、アルカトラズに収監されていた青年を救い出すのは、どうやら非常識的なことの様だったのです。
でも、若き弁護士が、疑問を持って、あきらめず戦い続けたのです。常識の中で、非常識を訴えた。
そして、若き弁護士は、無関心ではなかったのですね。
世間は、どうやらアルカトラズで、非人道的なことが行なわれているという噂は聞いていたみたいなのですが、
(たぶん)無関心だった思うんですよ。
でも、若き弁護士が、法廷で戦う姿勢をみせて、それでマスコミが騒ぎ、世間が関心を持ったのではなかろうかと思いました。
あの裁判の結果は、世論も反映しているのではないのかなとも思います。

それまで非常識だったことが、常識に変わった。その瞬間が「正義」かなとも思うのです。
アルカトラズの収監された青年。若き弁護士。そして、刑務所の副所長。
この3人がぶつかり合って、その作用でそうなった。その姿が阿修羅像かなと思いました。
正義というのは、長く続かないのじゃないかな。きっとその瞬間だけじゃないかなと思った。
非常識が常識に変わる。逆に、常識が非常識に変わる。
それは、めぐり逢いによって、ぶつかり合う人の作用でそうなるのかもしれない。

なんか、そんなことを思う映画だったんですけどね、お話もよかったのですけど、俳優さん達がよかった。
刑務所の収監されている青年役に、ケビン・ベーコン。
若き弁護士役に、クリスチャン・スレーター。
このお二人のお名前は聞いたことはありましたが、あまり気にしてはいなかった。
でも、今回、この映画を観て、関心が湧きました。他の作品も観たいと思います。
そして、刑務所の副所長役に、ゲイリー・オールドマン。
よかった。。。ゲイリー・オールドマンが、副所長役で本当によかった。信頼できる悪役といいますか、
こぅ、なんていうんですか、いいんですよ。本当に、俳優さん達がすばらしかったです。

このお話は、歴史と言うストーリーの一部なんでしょうね。
その当時も、刑務所の収監者に処罰を加えることは禁止されていたようなのですが、
日本国憲法にも、それが書いてあって、「第36条 公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる」とあります。
あと、青年が5ドルを盗む行為をしたのは、17歳の時だったんですよ。
アメリカではどうだかはわかりませんが、未成年者ですよね。彼は、なぜ5ドルを盗んだかというと、妹の為だったんですよ。
妹は、その場にいて、青年は刑務所に連れて行かれ、妹は孤児院に連れて行かれたのです。
今だったら、青年も孤児院に連れていかれるかもしれませんよね。その時の時代背景というのもあったのだろうなと思うのです。

レ・ミゼラブルのジャン・バルジャンも、ひとかけらのパンを盗んだことによって、すごく長い間、強制労働をさせられたんですよね。
そこから逃れられたのものの、彼は、牧師の家で罪を犯してしまう。でも、その牧師は、彼を許すのです。
そこから新たな彼の人生が始まったかのようでした。
歴史は、人のめぐり合わせによって創られるのかもしれない。
映画「告発」は、いろんなことを感じさせてくれるお話でした。
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普遍の理想

2010年06月22日 | Weblog
日本国憲法の前文は、ストーリーだと思った。

何のストーリーかというと、それまでの人類の歴史ではないかと思った。
その中でも、一般市民の人々が創り上げてきたストーリーではないだろうか。
フランス革命やレ・ミゼラブのような話が、一つ一つ積み上がってきてるように思える。

で、私は思ったんですよ。
このストーリーは、完成されることなく、永遠に未完成であり、話が続いていくのではなかろうかと。
日本国憲法が出来て60年くらいですが、その間に、前文の前半の方に書いてある「国民主権」のことは
その通りになっているのかなぁと思うのですが、後半に書いてある「世界平和」のことはですよ、
世界全体が書いてある通りになっているかというと、そうではないと思うのですが、
少なくとも日本は平和な状態だと思うんですよ。

平和を手に入れて、その先に何があるかということなんですけど、
たぶん普遍的かなと思うのですが、「ぬるさ」が生じてくるのではないかと思うのですよ。
「ぬるさ」ってナニかなと思うのですが、「ぬるさ」なんてゆるく言ってるけど、
もしかしたら、それは、キリストの七つの大罪(Pride・傲慢 Envy・嫉妬 Wrath・憤怒 Sloth・怠惰 Greed・強欲
Gluttony・暴食 Lust・色欲)とか、仏教もそいういのがあると思うのですが、
それに繋がっているのかなとも思うのです。

それと、平和になって、物質的に豊かになってくると、「環境問題」というのが出てきますよね。
これも普遍的じゃないかなぁと思うんでよ。
それらの兆しというのは、なんとなく見えている感があると思うのですが、
もしですよ、本当に世界平和が訪れて、世界中が豊かになってきた場合、
その先に人類がすることはナニかなと思ったワケです。
世界平和という「人類普遍の理想」が達成された場合、次の「人類普遍の理想」ってなんだろう。

なんか、日本国憲法の前文を読んでみて、そんなことを思ってみました。
確かに、世界平和というのは達成されていないけど、前文のストーリーが少し進んでもいいのではないかと思いました。
というか、憲法がずっと同じというのも不自然な感じがします。
ま、頻繁に変わるというのも違うと思うのですが、「崇高な理想」を現実化するというのは、
すごく時間がかかると思うのですが、歴史というかストーリーは動いているのであって、
憲法というか、あの前文は、現実より、先のことが書いてなければいけないような気がするんですよね。

憲法を改正するとなると、「第9条」がどうなるかということになりそうなのですが、
でも、憲法は今より進んでいいのではないのだろうかと言うよりも、進まなければいけないような気がしました。
ちょっと気が早いかなとも思いましたが、いやでも、必要っぽい感じもあると、なんか、そんなことを思ってみました。
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日本国憲法

2010年06月17日 | Weblog
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、

われらとわれらの子孫のために、

諸国民との協和による成果と、

わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、

政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、

ここに主権が国民に存することを宣言し、

この憲法を確定する。

そもそも国政は、

国民の厳粛な信託によるものであつて、

その権威は国民に由来し、

その権力は国民の代表者がこれを行使し、

その福利は国民がこれを享受する。

これは人類普遍の原理であり、

この憲法は、

かかる原理に基くものである。

われらは、これに反する一切の憲法、

法令及び詔勅を排除する。

日本国民は、

恒久の平和を念願し、

人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、

平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、

われらの安全と生存を保持しようと決意した。

われらは、

平和を維持し、

専制と隷従、

圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようとつとめてゐる国際社会において、

名誉ある地位を占めたいと思ふ。

われらは、

全世界の国民が、

ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、

平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

われらは、

いずれの国家も、

自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、

政治道徳の法則は、

自国の主権を維持し、

他国との対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

日本国民は、

国家の名誉にかけ、

全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

********************************


日本国憲法の前文です。私は、今回、この前文を(たぶん)初めて読みました。
もしかしたら、どこかで読んだことがあるかもしれないけど、記憶にないです。

この前文を読んでみて思ったことは、まず、文章が2つに分かれるのではないかと思いました。
最初は、「日本国民は」から「法令及び詔勅を排除する」までと、
次に「日本国民は」から最後の「全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」までかなと。

最初の文は「国民主権」のことが書いてあるのかなと思いました。
今となっては、当たり前のことが書いてあると思うのですが、出来たばかりの頃は、もしかしたら一般市民には、
どういうことなのかわからなかったかもしれないなと思いました。
ここには、「人類普遍の原理」が書いてあるのですね。

最初の方が「人類普遍の原理」だとしたら、後半の方は「人類普遍の理想」が書いてあるのかなと思いました。
文章の中に「人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって」とあるのですが、
これって、人間というのは、何かに支配されるワケであって、それが「崇高な理想」が望ましいということかな?
その「崇高な理想」とはナニかなと思ったワケで、それは、「「国民主権」「平和主義」「基本的人権の尊重」なのかなと
思ってみた。
で、よく考えてみると、この3原則って、三つに分かれているけど、結局は一つではないのかなと思った。
それぞれがそれぞれの意味をなすのかなって。
三原則って、一言で言ってしまうと「愛」かなとも思ったんですよ。でも、「愛」といってしまうと抽象的な感じかなと思った。

そういえば、話はそれますが、「ハーバード白熱教室」というテレビ番組で「愛国心は義務か正義か」と言っていたんですよ。
それは自由だと思うのですが、それが「義務」になると歪むのかなぁと思って。
もう一つの「正義」は、まだ正義のはっきりとした意味がわからないので、なんとも言えない。
この「白熱教室」の本が、今、出ていますよね。本屋さんに並べられています。
「これから正義の話をしよう」そのタイトルが目に飛び込んできました。

日本国憲法に戻りますが、後半の文章の中に「名誉ある地位を占めたいと思ふ」とあるのですが、なんか、どうかなとも思うのです。
名誉や地位があっても全然いいと思うのですが、なぜ「名誉ある地位を占めたいと思ふ」なのかなと思って。
なんか、別の言い方がありそうな気もしないのですが。。。
あと、「日本国民は」とあるのですが「われらは」ともあるのです。この「われらは」は、日本国民はもちろんのこと、
「地球人類」をさしている感じもあります。
グローバルっぽいことも書かれてありますよね。地球規模でみていくということ。
それは「政治道徳の法則」であり「普遍的なものである」ということでしょうか。

この前文を読んでみて最終的に思ったのは、「人のあり方」が書いてあるのかなと思った。
「人は、理想を持って生きていくのだよ」って。この中では「崇高な理想」になるのかな。
なんというか、ここに書いてあるのは、一つの物語なのかなって。
あるストーリーが書かれてあるのかなと思った。
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公共の福祉

2010年06月11日 | Weblog
基本的人権
人権は、人が個人の尊厳を保持する上で不可欠な権利であり、人が人であることによって当然に認められる権利です。
そして人権は、原則として公権力によっても侵害されることのない権利であり、人種、信条、性別、社会的身分等とは無関係に、
誰にでも等しく認められるものです。

これは、日本国憲法に書いてあることなのですが、これを読んでいると、とても普遍的な感じですよね。
特に日本国民がというワケではない感じがします。

でも、日本国憲法が保障する基本的人権は絶対的なものではないそうです。場合によっては制限されざるを得ないとか。
それはなぜかというと、人間は、複数の人間が共同で生活する社会という場で生きているのであって、この中で生きていく以上、
他の人の人権と、自分の人権が衝突することは避けられないからだそうです。
そこで、人権対立の調整役として「公共の福祉」という概念が用いられるそうです。

この「公共の福祉」なんですけど、「自由国家的公共の福祉」と「社会国家的公共の福祉」があるみたいで、
どちらにしても人権制約みたいなのですが、イマイチ掴めないのです。
その説明を読んでいると、経済にも関わってくるのかなぁという感じで、「規制緩和」などという言葉がありますが、
ここに関係してくるのかなぁという感じがしました。
「福祉」の意味をみてみると、「国家によって国民に等しく保障されるべき安定した生活および社会環境」
「福祉」は「国家によって」ということみたいですね。
そうすると、「福祉国家」とかたまに聞きますけど、あれは「国家による国家」ということかな?
。。。よくはわかりませんが、「福祉」というのを、もうちょっと詳しく知りたくなりました。


ところで、話は変わりますが、もうすぐワールドカップが開催されますね。場所は南アフリカ。
つい先日まで、なぜ、まだ治安が悪いと言われる南アフリカで、ワールドカップなんかをやるんだろうという疑問があったのですが、
なぜそうするのかというのがわかったような気がします。
一つに、世界が注目することによって、お金が集まってくるのでしょうね。いわゆる、投資をしてくれる。
そのお金を使って国を発展させていくんだ。
日本も、東京オリンピックがありましたが、そうだったのだろうなぁ。

南アフリカはですね、たまたま見た報道などでの情報でぐらいしか知らない国だったけれども、
これからは、自ら進んで知ろうという国になりました。
突如、今日からそうなったのですが、南アフリカから見える世界はどんな感じなのだろう。。。
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選挙

2010年06月04日 | Weblog
鳩山総理が辞任された。
なぜだ。なぜそうなってしまう。
日本中が驚いている感じもなく、世界の反応もそんなでもないらしい。

正直に言わせていただくと、さすがにまずいのではないのかなと思うのですよ。
申し訳ないのですが、そう思うのです。
なぜそうなってしまうのだろう。なぜ同じことが何度も繰り返されるのだろう。

鳩山総理は、「普天間」と「政治と金の問題」の事を言われていたが、
本当にそうなのだろうか。
それらもあるのかもしれないが、もっと別のものがあるような気がするのです。
それは「選挙」です。
選挙があるがために同じことが何度も繰り返されるのかなと感じるのです。

最近、ギリシャの金融危機のニュースがありましたが、あのギリシャの原因は、元をたどれば
選挙ではないのかと感じました。
ギリシャの人口は1120万人で、その中の公務員数は100万人ということで、人口の1割弱。
全労働人口の25%を占めているとか。
なぜここまで公務員の数が多くなったかというと、右派、左派が政権交代を繰り返してきたのだけれど、
そのたびに自分達の支持者を公務員として採用してきたみたいで、公務員には両派の支持者が混在して、
政権基盤を固めるために、自派側の公務員労組の要求を次々に受け入れて、公務員の既得権が膨れあがっていった。
。。。という内容の記事を読んだのですが、これって、選挙の為だったのだろうなと思ったのです。
それが原因かどうかわからないのですが、2009年の10月に巨額の赤字隠しが発覚し、
さらにその赤字隠しには、米大手金融機関が関与して、あげくの果てに破綻へと追い込んだと。
この記事を読んだ時に、ギリシャ国民が怒るのも無理ないなぁと思いました。

元をたどれば選挙だよなぁ。。。
選挙に勝たなければいけないというのもわかるんですけど、選挙のための政治になってしまうと、
違うような気がするのですけど。
それで国が変になるのなら、選挙をしないほうがマシだと思うのですが。。。
その選挙のために、いろんな人が巻き込まれる事もある。
あと、気になるのが連立ってやつですね。自民党と公明党の時は、そんなに気にならなかったけど、
今回の民主党との連立は、ものすごく気になりました。
連立している所って、基本、国民からの支持は少いところですよね。でも、なぜあんなに主張してくるんだ。
あんな感じだったら、連立をたのまれた方が、おいしいような気もするのですけど。
連立によって、大臣になった場合、大臣としての立場と、党首としての立場があったら、どちらを優先させるのだろう。
そこのところも、すごく気になったのですが。

以前、現役の政治家の方が、政治家はボランティアでやればいいと言われていたんですよ。
この言葉が、ずっと頭に残っているのですよね。
。。。それは置いといて、今のような状態を続けていくワケにはいかないですよね。

私は何をすればいいんだ。自分で考えろってかっ。
などと考えていたら、今朝の携帯ニュースで見た、飛鳥時代の遺跡の事が頭をよぎった。
「推古天皇は、政治の場を遷したが、そこ以外にも、重要な場所があったかもしれない」みたいな内容だったと思う。
このことが関係するかどうかはわかりませんが、今の事を考えていたら、それがやってきました。
なので、書いてみました。あとでまた読み返してみよう。。。
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憲法の番人

2010年06月01日 | Weblog
「違憲審査権は憲法の番人」という言葉がありました。

違憲審査権・・・最高裁判所は法律、命令、規則などが法律に適合するかどうかを最終的に決定する権限を持つ(日本国憲法第81条に定めれれている)


違憲審査・・・国家の行為が憲法にしたがって行なわれることを現実に確保するため、さまざまな国家行為が憲法に適合しているかどうかを
裁判所が審査する制度。基本的人権が立法権や行政権によって侵害された場合、それを救済するために違憲審査という制度が必要になる。

しかし。。。
そのようなことは、違憲審査専門の特別な裁判所を設置しない限り現実には不可能みたいです。
日本の違憲審査制は、違憲審査を専門とする特別な裁判所で行なうのではなく、通常の事件を扱う裁判所で行なわれるとか。
だから、裁判所に違憲審査権があるといっても、国会が制定した法律や内閣の行政行為のすべてを、
1つ1つ裁判所が審査して憲法に適合しているかどうかをチェックしているワケではないそうです。
では、日本ではどんな違憲審査の方式なのかといったら、具体的審査制(付随的審査制)という方式だそうです。
具体的審査制とは、日本の違憲審査制は、通常の事件を扱う裁判所が、裁判の際、
その前提として事件に必要な限度で適用される法律等の違憲審査を行なうという方式を採用したものだそうです。

。。。この「具体的審査制」なのですけど、なんかこぅ、つかめない。
これは、行政に関する裁判においてということなのかな。とりあえず、他の本も見なければなと思っているところです。

また、違憲審査によって憲法に違反するとされた法令は、問題となった事件についてのみ適用が排除されるに過ぎないとのこと。
そして、その法令は後日改めて改廃があるまでの間は、以前として効力を持つと考えている。


これからすると、日本には「違憲審査権」という名前はあるのだけれど、その名の通りの力はないということなのかな。
違憲審査権は「憲法の番人」とありますが、以前、その「憲法の番人」が、「権力の番犬」と揶揄されることがあると書かれてあったのですよ。
この違憲審査権の存在のあり方がそう言わせるのかなぁ。

ていうかだよ、「立法権」「行政権」「司法権」という三つの権力があるワケだけれども、この中で「司法権」というのは
あまり力がないということかな。もしくは、存在感がイマイチ?
この三つの機関がお互いを抑制し合いバランスをとっているとありましたが、そんな感じではなさそうな感じがするなぁ。
司法権は立法権に対して、国会が制定した法律の違憲立法審査権を持つ。
また、行政権に対しては、行政訴訟に対する終審裁判権と違憲審査権を持つ。。。となってるけど、今までに、その権限を使った事ってあるのかな?
あんまりニュースとかで聞いたことがないような気がする。

司法権が、立法権、行政権とバランスよく存在しているかはよくわからないのですが、最高裁判所とは別に、
違憲審査専門の特別な裁判所が必要ということですが、それがあると、司法が、立法、行政とバランスのいい関係になれるということ?
というか、今の違憲審査権のありかったて、憲法に背いているワケではないんだ。

なんというか、日本は、そのような状態で今があるワケで、これから先に違憲審査権の裁判所というのは必要なのだろうか。。。どうかな。
しかしですよ、「憲法の番人」という言葉を聞いたときに、「あぁ。。。憲法の番人がいるんだぁ」と思ったんですよ。
でもそれは、「権力の番犬」と言われていることもあるらしく、今回ちょっと本を読んでみて、
もしかしたら、そこには「憲法の番人」もしくは「番犬」どころか誰もいないのじゃないのかと感じたワケで。。。
まぁ、まだ表面的なところしかわかっていないのですが、それでいいのかなぁと疑問がモヤモヤとするワケで。
司法って、存在の出し方が難しいのかな。

最高裁判所は、「人権の最後の砦」であり「憲法の番人」であるんだ。。。司法のあるべき姿なのか?
他にも要素はあるのだろうか。。。探さなければだ。
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