夢中人

sura@cosmic_a

表現の自由

2010年05月28日 | Weblog
なんか、憲法って、「過去・現在・未来」のような気がする。。。それっていったいなんだろう。
そしてまた憲法は、気さくに語りかけてるような気もする。

日本国憲法は、第21条1項で表現の自由を保障している。
表現の自由・・・精神的自由権には内面的自由と外面的自由がある。表現の自由は外面的自由の一種。
        情報を伝達する自由、そして受けて側の知る権利も保障。
外面的自由
人の心の中で形成された思想や信条は、それ自体が人格形成にとって重要で価値のあるものです。
そして、その思想や信条は外部に表明されることで社会的効用を発揮します。
人は言論活動を行なうことによって自己の人格を発展させることができるのです。
また、国民の言論活動は国家の政治的意思決定に関与するという、民主制に寄与する価値もあります。
                           「図解雑学 六法より」


これを読んでいて思ったのは、表現の自由とか言論の自由とかを言っていたのは、
今までは、マスコミだったような気がするんですよね。
だいたいのことは、マスコミが物申していたり、文章を書いていたりしていた。
でも、今は、インターネットがあるから一般国民も意見を書くことができたりする。
ここで、憲法が語りかけてきました。「インターネットができてよかったね」と。。。

日本国憲法は、1946年にポツダム宣言に基づいて制定されたもの。
今から60年以上前に出来たものなんですね。この表現の自由に関しては、今のことが書かれているような気がするのです。
もしくは、未来でもいいかもしれない。

でも、表現の自由は、他人の人権との衝突も起こるので、
内面的自由とは異なり無制約なものとすることはできないとのこと。
しかし、表現の自由の重要性から、その制約は必要最小限のものでなければならないと考えられている。

表現の自由は、自己の人格を発展させ、民主制に寄与する価値もある。
自由とは、発展に繋がっていくということなんだろうけど、
そこに、多少のルールもあるよということかな。
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六法

2010年05月27日 | Weblog
法律というと、「六法全書」なんて浮かんでくるけど、六法っていったいナニ?ということで本を開いてみたら、
憲法、民法、商法、民事訴訟法、刑法、刑事訴訟法の6種類の法典をさすのだそうです。
この六法が法律の「中心」「核」となる。

法というピラミッドがあった場合、最上部に「憲法」があり「法律」「命令」となる。

憲法・・・日本国憲法は国家の最高法規。あらゆる法の中でも最も上に位置する。
     3つの基本原理「基本的人権の尊重」「国民主権」「平和主義」
 
法律・・・唯一の立法機関である国会が制定する。

命令・・・行政機関の制定する成文法。
     内閣が制定するものを政令
     各省の大臣が制定する省令



図解雑学 六法 (図解雑学シリーズ)
三木 邦裕,豊田 啓盟
ナツメ社

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日本国憲法では、第13条に個人の尊重とともに生命・自由および幸福追求の権利が、
第14条に法の下の平等が定められている。広い意味での人権・・・総則的人権

人権の核となる基本的人権は、3つに分けることができる。
自由権的基本権 社会権的基本権 参政権・・・個別的人権

自由権的基本権・・・国家の介入をなるべく排除し、個人の自由な意思決定に基づく活動を保証する人権
「精神的自由権」「経済的自由権」「人身の自由」に分けられる。

「精神的自由権」
内面的自由・・・思想・良心の自由、学問の自由のように精神的な活動を営んだりする自由
外面的自由・・・内面的自由により形成された意思内容を外部に表現する自由

「経済的自由権」
職業選択の自由、居住・移転の自由、財産権の不可侵の総称。これらの権利は、国民が自由な経済活動を行なう上で必要な権利

「国家からの自由」



社会権的基本権・・・資本主義の発展によって生じた労働条件の悪化や貧困等の弊害から、
          社会的経済弱者が人間に値する生活を営めるようにするために保障されている人権

「国家による自由」


参政権・・・国民が国政に参加する権利。国民が国政に参加することで、国民自身の人権の確保に貢献している


「精神的自由権」が侵害されてしまうと、選挙権の行使等の民主的な手続きが機能しなくて、
民主政治は崩壊、そして、精神的自由権の回復は不可能とありました。
民主政治が機能するためには、精神的自由権は不可欠な人権であるので、
精神的自由権には、経済的自由権と比較して優越的な地位が認められているそうです。


これからすると、自由=人権ということになるのかな。
それとも、自由の中には、人権というのもあると思ったほうがいいのかな。
憲法の3つの基本原理は義務教育の中で教わるのですが、詳しく知っていくと、それがさらに細かくなっているのですね。
今回、憲法のこと少し知りましたが、なんというか、興味深いというか、おもしろそうな感じです。

この中の、「自由権的基本権」・・・国家からの自由  「社会的基本権」・・・国家による自由
とありましたが、小さい政府、大きい政府などが重なりました。
あと、精神的自由権ですが、これをたどっていくと、民主政治に繋がっていくのですね。
国民には「参政権」というのがある。
もうすぐ参議院選挙があって、いろんな方々が立候補されているみたいですが、
どう選んでいくかというか、「そこのところ大事じゃない」と憲法が言ってるような気がします。


日本国憲法の14条1項で「すべての国民は法の下に平等である」と定めている。

平等・・・差別がなく、すべてにおいて等しい取り扱いをするという意味。平等には「機会の平等」と「結果の平等」がある。
「機会の平等」 すべての人にチャンスを与えるという意味での平等
「結果の平等」 過程はまったく考慮にいれず結果の平等だけを見るという意味での平等
日本国憲法の第14条1項で述べられている「平等」とは、「機会の平等」である。


「相対的平等」と「絶対的平等」
「相対的平等」 人にはそれぞれ能力や年齢、性別等さまざまな違いがある。
これらの事情や条件の違いを認めた上で、同じ事情の条件の下では均等に取り扱うこと。

「絶対的平等」 事情や条件の違いを考えず、いかなる場合にも人を均等に取り扱うこと。
日本国憲法の14条は「相対的な平等」を保障するものである

本の中に「絶対的平等は不平等?」とあったんですよね。
なんというか、憲法って、世間に流れている「きれい事」は言ってないような気がしました。
普通のことが書いてあるような気がする。
あと、思ったのが、憲法は解釈されるのですね。
そこに言葉が書いてあるのだけれど、それがいろんな風に解釈されている気がする。
今読んでいる「図解雑学 六法」と言う本は、2004年12月に出版されているのですが、
憲法ということで、そうそう変わってないだろうということで読んでみることにしたんですよね。
憲法を改正するって、すごい大変みたいですね。憲法改正の手続きとしては、
「国会で各議員の総議員の3分の2以上の賛成による発議」→「国民投票で過半数の賛成」→「天皇による公布」
ということで、日本中が大騒ぎになるということですよね。
ここ5年くらいの間で、そんなことはなかったよなぁとは思いはしたのですけど、
もしかしたら解釈は変わるのかなぁと思いました。。。けど、いくら変化が激しい今の世の中であっても、
さすがに憲法はその波にさらされないだろうなとは思うのですが、でも、ちょっとはあるかもしれないなと思ったワケです。

ちょこっとだけ憲法を知りましたが、憲法っておもしろいかも。
他には、どんなことが書いてあるのだろう。。。
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常識

2010年05月23日 | Weblog
法律の世界では、社会生活とは相互に影響し合うことを前提としており、
生活する以上ほかの者に全く影響せずに存在することは不可能と考えられているそうです。
ですから、個人の自由を奪うためには、誰が見てもその行為が異常であるとの
判断がくだされる必要があるとありました。

「生きる」とは、いろいろな要素があると思うのですが、
「人に携わっていくこと」というのもあるのですね。
人に携わっていくことによって、もめごとが発生することもあって、
そのもめごとを公明正大に解決するシステムが「裁判」とありました。

いろいろ本を覗いてみたのですが、トラブルとしては、全般的にお金が絡んでいる事が
多いみたいですね。
あと、男女間の事も多かったように思えます。
これは、女性の地位向上と関係するような事も書いてありました。

それらの本を見ていると、「裁く」基準というやつですか、
それは、その国のその時代の一般的な考えが基になっているのかなと思いました。
まぁ、その時の「常識」ってやつですね。この常識ってやつは変化していくものですよね。
今は常識でも、時間が経つと非常識になることもある。
逆に、今は非常識でも、時間が経つと常識になることもある。
それって、物理的なものの変化によってもたらされるものもあるだろうし、
先を読み取った先駆者が変えていくのかもしれない。
先駆者とは勇気ある者ですよね。常識といわれる中で、非常識を訴えていくワケですよ。
その支えになるのは、信念なのかな。
でも、結果的にそれ選ぶのは、世間ですよね。世間が選ぶことによって常識となる。
。。。なんて思っているけど、変化していく常識でも、「中心」はあるような気がするなぁ。
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狂言の現在 2010

2010年05月16日 | Weblog
5月12日 長崎チトセピアホールに狂言を観にいきました。



『鈍太郎』

鈍太郎 野村万之介

下京の妻 深田博治

上京の妻 高野和憲

後見  岡 聡史

三年振りに九州の旅から都へ戻った鈍太郎は、下京の本妻と上京の愛人のもとを訪れるが、二人とも本当の鈍太郎と思わず、
追い払われてしまうのです。
悲観した鈍太郎が出家して修行の旅に出ようとします。
訪ねてきたのが、本物の鈍太郎と知った妻と妾が、二人で力を合わせて出家するのを思いとどまるように頼み込むのですが、
鈍太郎はなかなか承知してくれません。
ますます懸命に詫びて引き止める妻と妾に、鈍太郎は虫のいい条件を突きつけてくるのです。
最後は、妻と妾の手車に乗って帰って行くのです。


この狂言のことを、「女狂言」というそうです。
「女狂言」ってどんなのをいうのかな?単に女子が出てくるものというわけでもなさそうだし、
夫婦ものとか、男女関係もののことをいうのかな。
でも「女狂言」と言うわりには、「鈍太郎」という男子の名前がタイトル。
まぁ、狂言と言うのは、だいたいが男子が主役ですもんね。
歌舞伎は何回かしか観た事がないのですが、女子が主役のものも少なくないような気がする。
なんてったって、玉三郎なんていますからね。時代の移り変わりなのでしょうか。

この「鈍太郎」という話。普通にみている分に関しては、なんで妻と妾が力を合わせて男を引き止める?
などと疑問も出てくるのですが、、鈍太郎、そして妻と妾の三人の背景がわからないのでなんともいえないところもあるワケです。
もしかしたら、この鈍太郎は、女子に「私がいなければダメだわ」なんて思わせるタイプなのか。。。
それは置いといて、私はこのお話に、今のメディアのことを当てはめてみました。

妻はテレビ。妾はネット。鈍太郎はユーザー。
私個人的には、今はほとんどテレビは見ません。ネットばっかりです。
ちゃんと見るのは朝のNHKニュースくらいかなぁ。あとは本当にチラ見です。
でも、以前はテレビが大好きだったんです。しかし、今はネットが楽しい。

今はネットが楽しくてしょうがない私ですが、でも、もしかしたら、ネットはもういい、なんて日が来るかも。
テレビもネットもイヤになっちゃった。。。なんてね。
今は、テレビやネットというのが(他もいろいろあるけど)いろんなことを教えてくれるけど、情報なんていらないと拒否反応がでてくる。
もしだよ、多くの人が、情報なんていらないなんて状況になったら、世の中はどんな風になるのだろう。想像できそうで、できないなぁ。。。
でもまぁ、そういうワケにはいかないでしょうね。。。。と思うのですが、「情報なんていらない」なんて流れができつつあったらですよ、
素人的に考えてもマズイことなのかなと思うワケです。
もしそうなったら、この流れをなんとか変えようと、各業界が力を合わせて、人々の意識を変えていくかもなと思ったワケです。

「情報はいらない」なんていうのは極端なのかもしれませんが、今、テレビ離れが言われてますよね。
それはいろいろ要因があるのかもしれないけど、1つにネットの存在があるみたいですよね。私も、ネットがあるからテレビを観なくていいのです。
テレビにとってネットは、ライバル的な存在なのかもしれないけど、その一方で、テレビとネットの融合というやつですか、ありますよね。
テレビ(妻)とネット(妾)が力を合わせてユーザー(鈍太郎)を離さないのです。

「鈍太郎」は、自分に頼み込む妻と妾にワガママ言いたい放題。
自分の思い通りになってると思いきや、でもよく見てみると、結果的には「妻」と「妾」の思惑通りに流れているワケです。

その辺りが、「鈍太郎」という名前になったのかなとも思いました。




『木六駄』

太郎冠者 野村萬斎

主 月崎晴夫

茶屋 石田幸雄

伯父 野村万之介

後見 高野和憲

六頭の牛に撒きを、六頭の牛に炭を積み、酒樽を添えて都に届けよと命じられた太郎冠者。
大雪の中、思うように動かない十二頭の牛を追いながら山道を急ぎ、ようやく峠の茶屋にたどり着くが、
身体を温める、お目当ての酒がない。
つい届け物の酒樽に手を付けて、上機嫌で謡い舞ううち、すっかり飲み干してしまい、
盛り上がって酔ったあげくに、薪を茶屋にくれてやり、炭を積んだ六頭の牛を連れて、主人の伯父を訪ねる。

季節感は大事だと思うのですが、私は、季節はずれの話を観るのは好きかも。
今は春まっさかり。でも、この曲は、真冬の話。
舞台となっている、峠辺りは、すごく雪が降っているみたいで、黒い雪が降っていると言ってました。
十二頭の牛と太郎冠者が、そんな雪の中を、都を目指して歩いているのです。
寒い。すごく寒いのです。太郎冠者は、頭や肩に雪を積もらせています。
十二頭の牛達は、言うことをききません。太郎冠者は、ムチ1本で、なんとか牛を動かします。
その場面はおもしろい反面、太郎冠者のつらさも伝わってくる場面でもあります。
下手すれば、凍え死んでしまいそうな感じなのです。
でも、そこで、峠の茶屋が現れてくるのです。
そこで、さっきまで凍えてしかたがなかった身体がだんだんと暖まってくるのです。
観ている方としては、ちょっとホッとする場面。

狂言を、しばらく観てきていますが、たまにこのように、つらいかなという場面もあったりするのです。
狂言というと、「笑い」なんてイメージがあるけど、いろいろ知っていくとそれだけじゃない。
いろんな感情が詰まっていると思うのです。

太郎冠者は、その峠の茶屋で、凍えた身体を温めようと、お酒を注文するのですが、無いとのこと。
で、ここからが狂言と言う感じなのですが、太郎冠者は茶屋の主人と一緒に、贈り物にたのまれたお酒を飲み干してしまうのです。
ムム~。。。やってしまいました太郎冠者。酒の勢いで、やりたい放題。
しかし、この太郎冠者が、おいしそうに酒を呑むワケです。楽しそうに踊るワケです。気分上場、千鳥足もかろやか。
さっきまでつらかった反動か、この酒盛りの場面が、えらく楽しく見える。
峠は大雪。黒い雪が降っているのです。でも、茶屋は暖かく、大盛り上がりです。

この「木六駄」という曲は、とてもドラマティックに感じました。
今回は、ホール会場だったので、照明の演出があったりしたせいかなぁ。。。
能楽堂では、照明の演出というのは無いみたいなんですよ。でも、能楽堂の舞台には、ホール会場とは違う光と影が存在するに感じがします。
なんというか、能舞台任せの光と影という感じでしょうか。能楽堂で、狂言を観たのは2回くらいなのですが、そう感じました。
能楽堂は、ホール会場とは空間の広さや、観る角度も違う。

光と影でドラマティック。
誰も立っていない能舞台の光と影を見ているだけでも、いや、街角の陰日なたを見ているだけでも、そこにドラマテックなものを感じれるのかもしれない。
そんな事を感じた曲でした。
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検察審査会

2010年05月12日 | Weblog
先日、池上彰さんの番組を観ていたら、検察審査会の事を言われていたんですよ。
おぉ~、検察審査会と思ってその解説を聞いていました。

Wikipediaによると、検察審査会とは、検察官が独占する権限(公訴権)の行使に民意を反映させ、
また、不当な不起訴処分を抑制するために、地方裁判所またはその支部の所在地に設置される、
無作為に選出された国民(公職選挙法上における有権者)11人によって構成される機関。
検察審査会法(昭和23年7月12日法律第147号)に基づき設置されている。

なるほど。。。「起訴」というのは、検察の独占なんだ。起訴独占主義とも書いてあった。
起訴とういのは、裁判を受けるための流れ?手続きみたいなものかなぁ。それが、検察が独占してるんだ。
ということは、裁判するしないの判断は、検察にあるということなんだね。
ということは、裁判って、検察側が罪を暴く場ってこと?もしくは、検察の正当性を確認するところ?
だって、起訴した件って、ほとんど有罪なんですよね。
で、その中で、検察が起訴しないやつもあるんですよね。不起訴ってやつ。
それに疑問を持った人が、申し立てをして、検察審査会で起訴することもできるということなんですね。

何冊か読んだ本の中に「裁判を受ける権利」という言葉があったのですが、
それって、検察に委ねられているということなのかな。

池上さんの番組の中で、検察が不起訴にした件に疑問をもったら、検察審査会で起訴できると説明されていいたのですよ。
で、検察が、起訴したものに関しては、裁判によって有罪か無罪が決まると言われていたのですけど、
その現状って、検察が起訴したものに関しては、ほぼ100%に近い感じで有罪なんですよね。
それに、もし、無罪だとしても、その無罪を取るのに、何年も、もしくは、何十年もかかっているのではないのでしょうか。
その説明を聞いている時に、疑問があったのですよね。
明らかに、罪を犯している人であればいいと思うのですが、どうかな?という人もいるワケですよね。
そのどうかな?という人が裁判に何十年も費やしているワケですよね。


こないだ、携帯をいじっていたら、ワンセグを見るつもりではなかったのに、ワンセグ画面になってしまったのです。
そしたら、どうやら、外国の大学教授の白熱授業風景が映し出されているみたいで、悪くはなさそうだと思い、
それをしばらく見ていたのですか、その中で、「理性が行動を決める」などなど哲学の話をしていたのです。
その大学教授は、いろいろ話していたのですが、その「理性が行動を決める」という言葉だけが印象に残ったのです。
。。。例えば、思ったのです。
取調べというのは、どんな人でも、まいってしまう状況だと聞きましたが、それは、理性を打ち崩す感じなのかもしれないなと。

。。。などと、映画や本からの情報で思ったことを書いていますが、今は、一つの視点から見てるものだと思うのですよね。
本当に罪を犯してしまって、隠し通している人もいるだろうし、そういう人達は、白状してしまった方がいい状況なワケなんだろうし。。。
私が読んだ、司法に関する本は、本当に簡単に書いてあるものだと思うのですが、いろいろなことが書いてあるのですよ。
いろいろな事が絡んでいるのだろうなと思うワケで、なんていうのですか、的というか、焦点がありそうで、ないのかもみたいな。
なんかこぅ、モヤモヤ感がある感じなのですが、まぁ、司法に興味を持ったのも、つい最近のことであって、
引き続き興味を持っていかなければなと思っています。

そんな中でも1つだけ感じたことがあります。
それは、「正義」とは、孤独で、痛くて、つらいものかもしれないと。
「正義」は光の中にあるワケでもなく、人々の前に現れるワケでもなく、闇の中にあるのかもしれないと。
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小額訴訟

2010年05月06日 | Weblog
私は、前の記事で、「小額訴訟」の事を、小額の金額で裁判が出来る事だと思っていたのですが、
それは違ったみたいで、小額訴訟制度とは、日本の民事訴訟において、60万円以下の金銭の支払い請求について争う裁判制度
。。。ということです。

そうなんだ。。。と思って、で、なんで「小額訴訟の充実」なのだろうと思ったのです。
「裁判官と司法改革を考えよう!」では、最初は、小額訴訟は、丁寧におこなわれていたけど、
だんだんと事件数が増えてきて、原告、被告に余計なことを言わせないという裁判官が増えてきて、
原告、被告にとって、何がなんだかわからないうちに和解で終えられてしまうというような事件が増えてきて、
やっぱり裁判所は、いきたくないところだという印象が変わってないという感じだということが書いてありました。
これからすると、もっと、裁判所を一般市民に利用して欲しいということかなと思いました。
それはなんでかなと思ったのですよ。
まぁ、想像なのですけどね、法律というのは、お金持ちとか権力者向けにつくられているのが多いのかなと思って。
なぜかというと、そういうか方々が、裁判というものに触れる機会が多いのだろうし、
また、法律を気にかける機会が多いからかなと思いました。
そうすると必然的に、法律というのは、お金持ちや権力者向けになるのではないのだろうかと思ったワケです。
お金持ちや権力者というのは、そんなに多くいないワケで、一部の人々だけが、司法に触れているということになるワケですよね。
一般市民からしてみれば、裁判や法律とかは、遠いものになってしまって、なかなかそれを利用しないワケですね。
ということは、一般市民向けの法律が出来にくいということかなと思いました。
だから、小額訴訟の内容を充実をさせて、一般市民に裁判を身近に感じてもらい、利用してもらって、
一般市民向けの法律をつくっていこうと言ってるのかなと思ったのです。
法律というのが、どんなのがあるかわまだわからないのですが、そうかなと。

今、浜辺洋一郎著「司法改革」というのを読んでいるのですが、これも10年前に出版されたものですよ。
それを読んでいると、裁判をしようとした時に、弁護士さんにお願いしますよね。
その時に、弁護士選びというのは、なんていうのですか、医者選びと同じような感じかなぁと思って。
この本にはいろいろなことが書いてあるんですよ。まだ読んでいる途中なのですが、その中に、『陪審制を導入する場合には、
徹底した「証拠開示制度」、すなわち証拠をより広範に、早い段階で提出させる制度が不可欠となります』とありました。
これって、映画「それボク」で、証拠を提示してといわなければ提示されないんだと言っている場面を思いだしたのですけど、なんでだろう?
なぜ、その証拠をはっきりと出さないのだろう。。。いわゆるそれは、そうしなくてもいいと法律で決まっているのかな?
陪審員制度がはじまっているけど、今でもそうなのかな。

なんというか、「司法」というか、権力辺りというのは、新しい風が吹きにくいのでしょうね。
特に司法は、一般市民の関心も低く、携わる人がなんとなく決まっている感じで、そうだったのかもしれませんね。

今の司法は、どうなんだろうと思って本屋さんに行ってみたのですが、自分みたいな素人が読むのに、いい感じの本がなかった。。。。
周りを見渡すと、経済に関する本は沢山あるのですよ。でも、司法に関する本は少ない。
裁判になるようなトラブルは、お金のことも少なくないようなのですが、日本は、経済が発展して、
また、経済という「お金」のことに興味がある人が多いから書店に、その類の本が沢山あるワケであって、
それは、プラスの面もあれば、もちろん、マイナスの面もあるワケで、その繋がりで「司法」に関心を持っていた方がいいのかなと思ったのです。
知っといて損はなさそうですよね。
なにかあった時に、法律というのは、守ってくれるものなのでしょうね。
でも、なんか現状はそうじゃなさそうな雰囲気っぽいのです。
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