夢中人

sura@cosmic_a

2008年大晦日

2008年12月31日 | Weblog
今日で2008年も終わりだなぁ。。。本当に早い1年だった。
今年の初めは、どうなっていくのかなぁと思っていたところもあったけど
ごくごく普通の一般的な生活を送っていました。
でも、そんな普通の生活を送る中でも、自分は何かに向かって行ってるんだなと感じます。
。。。なんだろう?日本のルーツかな?
なんだかそんな感じのものに自分の気がいっていると思います。
それはまだ入り口の扉を開けたくらいなもので、これから、いろんなものに出会いながら
「気付いていく」んだと思います。

それにしても2008年のこのブログの投稿数が少ない。
感じることや思っていることがあるのに、ここに残さずに置き去りにしているものもあったりで、
もう少しがんばらねばと思っているところです。
よく、忙しそうな方が本を出版されていますよね。
私はすごいなと思うんですよ。いつどこで書いているんだろうって感じです。
なんかこう。。。コツがあるんでしょうか。気になるところです。

さて、もうすぐ2009年になろうとしています。
私の2009年は、いったいどんな年になるんだろう。
この答えはきっと自分次第なんだと思います。
平穏な日常生活を送るのもよし。。。もしくは、一歩踏み出すか。
この一歩を踏み出すってすごく勇気がいることです。
いままでの人生の中でも、自分の意思で一歩を踏み出す場面があったけど、
踏み出すまではかなりのドキドキ。でも、踏み出してからはあっという間に時間が過ぎていくんですよね。
そんなこんな考えているうちに時間はどんどんと過ぎていっているんです。
フフフフ。。。

今年も1年間本当にお世話になりました。
よいお年をお迎えください。
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2008年12月27日 | Weblog
今頃の時期になると、私は、木材やのこぎり、電気ドライバーなどを扱ったりする。
日頃はやらない動きになってくるので、なんとなくぎこちないが、やっていると楽しく思える。
工具を使って物をつくるって楽しい。
なんとなく、家具職人って楽しそうじゃない。。。と感じたりする。
今年もそんな工具を使う季節がやってきた。
はじめに木材を使っての制作。やっぱり楽しいと思った。
次に竹を使っての制作。竹は電気ドライバーなどは使わずにのこぎりを中心に使った。
あんなこんな竹を見回しながら思った。
竹ってすごいすぐれ物じゃない?って。
だって、竹をスパッて切っちゃうだけで器になっちゃうんだよ。
立てに使ってもいいし、横にも使ってOK。
焼いて炭にしちゃえばいろんな生活用品として使えちゃうわけでしょう。
竹細工としていろんなものに加工もできちゃう。
筍はおいしいし、しかも、竹の皮は、おにぎりを包めるし。。。
他にも竹の力が発揮できるところってあるんじゃないかな。
なんていうかこう。。。竹って、神様からの贈り物のような物じゃない?
私はそう思いました。
 
「竹」といえばやはり、かぐや姫。
竹取のおじいさんが竹林の中で光り輝く竹を見つけて、それをスパッと切ったら
竹の中にかわいらしい赤ん坊がいたんです。それがかぐや姫。
私は、なんとなく。。。なんとなくなんとなく、このかぐや姫が竹の中にいたというのが
なんとなく意味がわかったような気がしました。
竹は、神様からの贈り物なんですよ。。。
そういえば、以前からちょっと思っていたことなんですが、かぐや姫は求婚してきた男達に
無理難題を押し付けて、それをかなえた者と結婚するなどとわがまま言いたい放題なのに、
なぜか悲劇のヒロインのように言われてますよね。
それにひきかえアマテラスはお仕事を一生懸命にやっているのになぜかワガママと言われる。。。
これってさ、なんか違わなくない?
スサノオは、あそこまでやってしまったんですよ。なぜワガママ。。。納得いかなくない?
そう思うんですけど。。。どうですかね。
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言霊

2008年12月25日 | Weblog
図書館で空海和尚にかかわる本を探していたら、『「いい言葉」は3日で人生を変える!』
という本をみつけました。
いい言葉は3日で人生を変える!―この言葉で、きっと何かが見えてくる!
池口 恵観
三笠書房

このアイテムの詳細を見る

最近、3日とか1週間くらいで何かを可能にできるといっている本がありますが、
そんな本をみて、私は、「そんなのありえないし」と、冷ややかにそれらの本を眺めていました。
が、この本のタイトルを読んだ時「ありえるかも」と思いました。
そして、この本の中には、私が最近気になっている「日本は、言霊の力によって幸せがもたらされる国と
考えられてきました」というのが書かれてありました。
この考えって、いつ頃まで言われ続けていたんだろう。
だって、この言葉を私が知ったのは、ほんの1週間くらい前ですよ。
前向きな気持ちはとても大事とはわかっていましたが、それを言葉に発することも大事だったんですね。
本当にこの言葉に出会えてよかったと思います。
みんなでよき言霊を発信していかねばなんですね。

この本は、お坊さんが書かれていて、本当に勉強になることが沢山書かれてありました。
その中でも、心に残る言葉があって、それは「「中心をとる」という言葉。
中心をとれとは、原点に立ち返って基本を見据えなさい、ということだそうです。
私は、とても大事なことだと思いました。
本にも書いてありましたが、生きているといろいろなことがあるわけです。
さまざまないろんなことが。
そう、例えば、仕事をしていて、いろんなことがあるとするじゃないですか。
自分の気持ちの中にいろいろなことがモヤモヤ~っとね。
そんな時、どう思っていたかというと、「自分はなぜここ(仕事場)にいるのか」「何のためにここにいるのか」と考えるんですよ。
そうすると私の中の答えは「仕事するため」とでてくるんです。
そして「仕事は何のためにするの?」と考えるんです。
そうすると、そこには自分なりの答えが出てきて、そこにあったモヤモヤ~の影を薄くしてくれるんです。
そしてまた、そのモヤモヤ~も、いつまでも続かないと思っているところもあります。
自分が仕事でもなんでもいいんですが行動するうえで、原点となる言葉をはっきりともつ
というのはとても大事なことなんですね。
なにかに迷った時に、その言葉を思えば迷いに押し流されるのは少ないかも。
これも一つの言霊かもしれませんね。自分を迷いから解き放つ言葉。
自分がつくる自分の為の魔法の言葉。。。そっかぁ、それは呪文なんですね。
言霊は魔法の呪文になるんだ。
そんなすてきな呪文をたくさん持っているといいですよね。

なんだか言霊についてもっと知りたくなってきました。
大人は魔法使い。そして、呪文も使いこなせる。。。なにかそんなふうに繋がってきて
もっといろんなことに繋がっていきそうな気がしてきました。
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気になる

2008年12月17日 | Weblog
。。。まぁ、なんというか、いろんな言葉が気になる時ってのがあるわけで、
その言葉がぐるぐると頭の中から離れないわけで。。。

今、気になる言葉が3つあります。
1つ「文化」、2つ「言霊」、3つ「弘法大師」。。。なんなんでしょうか。

1つめの「文化」
「文化」は何かの支えになるらしい。
いったい何の支えなんだろう。
それにしても文化ってなんだ
「文化」って。。。と、このようなことを考えているわけで。。。

2つめの「言霊」
ことば ことば。。。と考えていたら、「言霊」と出てきたんですよ。
へ~言霊ねぇ、聴いたことあるなぁ、でもなんとなくしか意味がよくわからないなぁと思って
ネットで調べてみたら「日本は言魂の力によって幸せがもたらされる国『言霊の幸ふ国』とされた」とあった。
「言霊の幸ふ国」。。。初めて聴いたかも。
なんとなく雰囲気的なものはわかるけど、今のところ、しっかりとはつかみきれていません。

3つめの「弘法大師」
以前からなんとなく名前はちらついていたんですよ。
「弘法大師」は「空海」ですよね。
陰陽師でも安倍清明が「空海和尚が持ち帰った蝶」と言われているんですよ。
先日狂言を観にいった久留米市城島町の川にはエツという魚が泳いでいて、
そのエツは、弘法大師が投げたヨシの葉っぱがエツに変わったということなんです。
どうやらお礼の意味でそうされたみたいですね。
このことからすると、弘法大師というお方は、なにか不思議な力をお持ちだったんでしょうか。
あとですよ、私は名前にも反応するところがあるみたいで、
弘法大師の「幼名」というか本名(でいいのでしょうか)は「まお」と言われるんですね。
「まお」と言えば、今、スケートで活躍されている「まおちゃん」、女優として活躍されている「まおちゃん」がいる。。。
この弘法大師というお方、ネットで調べてみると、日本の歴史というか文化にすごく影響されている方みたいですね。
弘法大師がすごく気になる。。。よし、図書館に行くとするか。
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小傘

2008年12月11日 | 狂言
「小傘」

田舎者が村に草堂を建立したのだが、堂守がいないので街道に出て探していると、
僧と新発意(しんぼち・出家して間もない修行中の僧)がやって来たのですぐに連れて帰る。
しかしこの二人、実は博奕で食いつめた主従であった。
法事が始まると、僧は場賭場で聞き覚えた傘の小歌をお経のように唱えて参詣人たちをごまかし、
皆が法悦に浸っている内に新発意に施物を盗ませようとするのだが、なかなかうまくいかない。
そうしているうちに念仏は益々高揚していき・・・。
中世ののどかな様子がうかがい知れる曲です。
にわか坊主と新発意は、施物を盗むことができるのでしょうか。

パンフレットそのまま丸写しですが、そういうお話でした。
私、このお話を観て、「日本文化って。。。」というのを感じたんです。

この「小傘」を観るちょっと以前に「彦市ばなし」というのを観ました。
出演は、(彦市)野村萬斎・ (天狗の子)月崎晴夫・ (殿様)・石田幸雄 
という方々だったんです。
で、この「小傘」。他の方も出演されていたのですが、「彦市ばなし」の方々も
出ていらっしゃったんです。
なんていうか、役者さんに、あの「彦市ばなし」の印象はまったくないんですね。
当たり前なんだろうけど、まったく感じないんですよ。
お面という道具が使われていたにせよまったくなんです。
「彦市ばなし」で天狗の子を演じていた月崎晴夫さんは、この「小傘」では
法事に集まってきた人を演じられていました。
確かに「彦市ばなし」での子天狗役ではお面を付けられていたけど、
動きは子天狗だからして子供なんですよ。さらに天狗という精霊系だから、
それも入ってるわけで。
二本足でぴょんぴょんぴょんと飛んで立ち去っていったりするんですよ。
でも今回は普通の一般男性。あの時の印象はなにもなくなんです。
そしてまた、「彦市ばなし」で殿様役だった石田幸雄さんは、今回はなんと
「老婆」なんですよ。
石田さんは、結構体格がいいほうじゃないかなぁ。
それがあんなおばあちゃんになれちゃうんですよ。
おばあちゃん役ではお面を使われていたけど、どこからどうみてもおばあちゃんなんですよ。
黙っていればあれが男性だなんてわからないんじゃないかな。
解説の時に萬斎様が「小さく見える方法があるんですよ」と言われていたけど、
それにしてもって感じなんです。

その「小さく見える方法」というのは、よく萬斎様が言われている「型」というやつなのかな。
だとしたらその「型」ってすごくないです。いろんな技術も入っているんだろうけど
その役者さんに印象がつかないんでしょうね。
役者さんに印象が付かないということは、いろんな役がこなせるということかな。
現代の常識からしていうと、大体役者さんにはイメージが付いてますよね。
だからして、大体イメージ範囲内の役をこなされているような気がするんです。
(そうじゃない方ももちろんいらしゃいますよ。良い人から悪い人までこなされるか方もいらしゃいます。
でも、大体そうじゃないかな)
でも狂言ではイメージが付かない。。。ということは、役者さんがいろんな役がこなせる。。。
ということは、一つの曲で役者さんの配役が変わることで何通りもの見方ができるということなんですね。
「型」があって印象がつかないといっても、配役がかわることで何かは違うでしょうね。
それって、同じ曲でもフレッシュな気持ちで何度も観れるということでしょうね。
ムム~これって、なにか「合理的」じゃないです?私はここに「合理的」さを感じました。

この考えに繋がったのが「着物」。
なんだかね同じ考えじゃないかなぁと感じたんですよ。
だってですよ、着物は着物だけじゃなくて帯とかその他もろもろの付属品で着ちゃうわけなんですよ。
私はまったく着物は着ないんですけど、確か、付属品の変化によって着物の表情が変わると聞きました。
付属品によってその着物がいつまでもフレッシュに感じちゃうんですね。
まぁ、現代の洋服の着方でも女性のファッション雑誌を観れば「1ヶ月コーディネイト」の
コーナーも多く、決められた洋服の組み合わせで1ヶ月着まわしていきましょうと言ってますよね。
これも組み合わせによって、その洋服の印象が違ってみえてくるんですよ。
でも洋服には、あきちゃうんですよね。それはやっぱり流行があったりするからですよ。
つまり洋服には、着物のような「型」がないんですね。一応、ベーシックなものはあるんだけど、着方に「型」がない。
別の言い方をすれば、洋服の着方は無限に広がっているんですよ。
新しいデザインを見つけてそれが流行した。でもそれは終わっていくんです。
別の新しい何かが出てくるんです。
つまり現代の考え方は「使い棄て」なんですね。使っては棄て使っては棄て。
それはなぜかというと、その素材の印象が強いからでしょうね。
印象が強いって、もしかしたらその物にすでに「気」が吹き込まれているということかなぁ。。。
だとしたらすぐに飽きちゃいますよね。
だって、その物に「気」を吹き込むのは使い手であるべきなんですよ。
使い手がその物に「気」を吹き込み生かしていくんだと思う。

日本文化ってもしかしたら「素材」なのかなと思ってきています。
「素材」としての「型」があって、それに「気」を吹き込むのは使い手。
だからしていつまでもフレッシュ。合理的。
狂言もそうじゃないかな。狂言のお話に「気」を吹き込むのは「観客」なのかもね。
それぞれがそれぞれに「気」を吹き込めるんだ。
提供側の押し付けは少なく、提供される側の入り込む隙間があるということかな。
それはつまり、提供される側のイマジネーションを大切にしてきたのが日本文化なのかな。。。
。。。ちなみの日本はいったい何千年の歴史があるの?
そういえば先日、奈良県橿原市で土偶が発見されたというニュースをみたなぁ。
その土偶は縄文時代晩期のもので約3000年前のものだとあった。
。。。3000年前。。。
晩期で3000年前なんだからその前があるというこなんですね。
日本の歴史って長っ!
そんな歴史のある日本。
みんなで「素材」を大事にして今の日本を創り上げてきたのかなぁ。。。
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佐渡狐

2008年12月10日 | 狂言
先日見た狂言の感想です。

「佐渡狐」
年貢を納めに上京する途中でたまたま出会い一緒に行くことになった
佐渡のお百姓と越後のお百姓。
いろいろ世間話をしながら旅をするんですよ。
ふとした会話で越後のお百姓が佐渡のお百姓に「佐渡には狐がいないと聞いたけど本当?」
と訊いたんです。
そしたら佐渡のお百姓は、佐渡に狐がいないのに「えぇ?なにそれ、佐渡には狐はいるけど」と
嘘を言っちゃうんです。
そしたら越後のお百姓は「うっそー。佐渡には狐はいないって聞いたけどぉ。」と言い返す。
佐渡のお百姓「いや、いるって。佐渡には狐いるよ」、越後のお百姓「いや、佐渡には狐はいないって聞いたってば」
。。。とお互いむきになっちゃって、しまいには、お互いの小刀を賭けて、佐渡に狐がいるかいないかの証明をするんです。
そしてそのジャッジを年貢を納める取次ぎ人にお願いしようということになったんです。
絶対に越後のお百姓に佐渡には狐はいないと認めたくない佐渡のお百姓。
絶対に認めたくないという気持ちからか、越後のお百姓より先回りして、取次ぎ人に会い、
いきさつを話して、なんとか佐渡には狐はいると言ってもらえないだろうかとお願いするんです。
取次ぎ人は、「嘘はつけないからさぁ、やめてくれるぅ。そういうのに巻き込まないでくれるかなぁ」とそんな感じで断るんですけど、
佐渡のお百姓がワイロを差し出しはじめたんです。
えぇ!?ナニそれ。そんなの困るし。。。と思いつつも、取次ぎ人はそのワイロを受け取っちゃうんです。
佐渡には狐がいないと知っている取次ぎ人。
ワイロを受け取ってしまったからには、佐渡に狐がいると証明させなければならない。
だからして、佐渡のお百姓と打ち合わせをするんです。その内容は、狐がどんな姿をしているかの確認。
取次ぎ人は、佐渡のお百姓に丁寧に教えてあげます。狐の顔、身体、毛の色の特徴などなど。
佐渡のお百姓は「これでばっちり」という感じです。
そんなこんなしているうちに、越後のお百姓がやってきて、取次ぎ人に訊きます。
「私は、佐渡には狐がいないと聞いたんですが、取次ぎ人さんはどう思われます?」みたいな感じでしょうか。
取次ぎ人は当然「佐渡には狐はいるよ」と答えちゃうんですね。
それで、むきになっちゃう越後のお百姓。
「えぇ!?いや。聞いた。佐渡には狐はいないって聞いた。佐渡に狐はいないはずっ」
な感じでしょうか。
越後のお百姓は納得がいかない。ここで引き下がれない。
「よし、本人に最終的な確認確認だ」な感じで、佐渡のお百姓を呼んで、狐の特徴を訊くんです。
これはしめたと佐渡のお百姓と取次ぎ人。。。のはずが、佐渡のお百姓はチンプンカンプンな
返答をしてしまうわけです。
「まずい!」とばかりに取次ぎ人は、越後のお百姓が背中を向けている隙にゼスチャーなどでせわしなく教えようとするんです。
その場はなんとかしのぐことはできたものの、最後に「狐はどういう風に鳴く?」と訊いたんですよ。
なんと、この狐の鳴き声は、取次ぎ人は佐渡のお百姓に教えていなかったんです。
答えなければいけない佐渡のお百姓。そこで断念することもなく、なにものともわからない
鳴き声を発してしまったのです。
この時点で佐渡には狐がいないと証明されたのです。
が、佐渡のお百姓は負けを認めず、越後のお百姓の小刀を持って逃げていっちゃうんです。


。。。このお話、なんというか、「むき」になっちゃうお話なんですね。
ありますよねぇ。なんかむきになってしまう時って。。。
自分でもなんでかわかんないんだけどむきになるときってあるんです。
このお話のように「この人だけには負けられない」というむきさもあるし、
あと物にもむきになる人がいますよね。むきになってある物を集める人とか。
むきななって仕事や勉強をする人もいる。
むきになってる時って、他人には理解できないことが多いんじゃないかな。
「なんであの人あんなのにむきになっているんだろう」ってね。
そうじゃなくても、本人にとっても時間がたてば「どうしてあんなむきになれたんだろう」と思うこともある。
でも、むきになっている最中の人にはかなり重要なことなんですよね。
むきになるって、周りが見えていない状態だよね。それしか見えない。
ある意味、集中力といってもいいかもしれないね。
それってエネルギーだよね。むきさはエネルギーでもあるんだ。
むきになる時期って大事だよね。むきになるむきは「向き」と書くんだね。
だからして、いい方向の向きでなければいけないんだけど。
純粋にむきになる時期って若い時が多いんじゃないかな。
むきになっていると周りが見えない。だから、周りの人がちょっと見守ってあげなきゃいけないんだね。
だからといって、むきになることが恥ずかしいことではないと思う。
これが大人になってくると、むきのコントロールができるようになってくるんじゃないかな。
じゃ、ちょっとむきのエリアにはいろうかなとか、今はやめといたほうがいいかなとか。
でも、コントロールが利かない時もあるかもね。
この「佐渡狐」の中のむきさはよくない方向のむきさだね。
そのよくないむきさに巻き込まれる人たちも、よくない方向へといってしまっている。
だからして、良い方向のむきさには巻き込まれてもいいのかもね。
まぁ、それぞれのエネルギー、ペースなどあると思うけど、いいのかもしれない。
でも、これに巻き込んじゃう人は、ちょっと気をつけなきゃいけないかもね。
そう思うんだけど。
むきさはエネルギー。それに輪をかけたのが「ひたむき」なんだね。
「ひたむき」は「直向き」と書くんだね。さらにまっすぐなんだね。
この「ひたむき」さって、強大な力を発揮してしまいそうな感じだな。
だから「見守ってもらう」ということが大事なんだ。そう思わない?
それは、自分達も「見守ってあげなきゃいけない」ということに繋がってくるんだね。
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古典

2008年12月07日 | Weblog
文化ってさぁ。。。ナニ?
文化が発祥したところはどこ?
。。。インドあたりなのかな。
サンスクリット語ってさ、インドあたりの言葉なんだよね?
もし、文化がインドから発祥されているとしたら、文化の源は宗教となるのかな。
「宗教」ということは、それは「感謝」から生まれたということかな。
。。。確か、狂言は日本の縄文時代以前に大陸にあったと言われていたなぁ。
なんかね、私、思うんですけど、狂言ってなにか封じ込められてるんじゃないかなぁって。
狂言だけじゃなく、古典的なものってそうなんじゃないかなぁと感じるんだけど。
お話の内容をよく考えてみると、なにかしら見えてくる感じなんだよね。
解き明かしていかなきゃならいんだね。
あとね、狂言を観ていてもう一つ感じるんだけど、
狂言て、現代風というか、今風に言っちゃうと「生産性が高い」んじゃないかな。
なんかねそう感じるんですよ。
これもだよ、狂言に限らず、古典的なものはそうなのかもしれないと思い始めてる。
逆に、現代のシステムというか、やりかたというのは、生産性がよさそうに見えて、
実は悪いんじゃないかな。。。

以前、マザーテレサが来日された時に、厳しい事を言われていて、
でも「日本は文化が支えになっている」と言われていたと思うんですよ。確か言われていた。
私は思うんですよ。その文化の支えがなかったらどうなっていたんだろうって。
それがすごく気になるんですよ。
ダライ・ラマ14世も同じようなことを言われていたと思う。
あの方達は、何かを見てちゃんと言われてるんですよ。
霊感とかそんなんじゃなくて、あの方達の目で見て、それは確実なものじゃないかな。
その確実なものを見て助言して下さってると思う。
いったい何を見ていらっしゃるんだろうと思ってそれが妙に気になるんです。

もしかしたら、そんなこんな疑問は、古典の中に答えがあるのかもしれない。
古典を解き明かしていくこと。。。今はそれが大事なことなのかもしれないと感じる。
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狂言への誘い

2008年12月05日 | 狂言
久留米市城島総合文化センターにて「狂言への誘い~万作・萬斎を迎えて~」を観に行ってきました。

場所は、久留米市城島総合文化センターのインガットホールというところだったんですけど、
このホールがある場所が、なんというか。。。交通アクセスがイマイチ悪いというか、
いわゆる不便な場所にあるわけですよ。
だいたいホールって交通の便がいいところにあるじゃないですか。
このインガットホール付近のバス停には1時間に1本くらいしかバスが停まらないということを言っていらっしゃいました。
私的には、迷いなく車で行こうと思っていたのですが、無事たどり着けるんだろうか。。なんて少々不安ありの出発。
まぁ、なんとか無事にたどり着けることはできました。
たどり着くと、狂言鑑賞するお客さん用の駐車場が。
あの感じからいうと、ほとんどの方がマイカーじゃないかな。たぶん。
私はへ~。。。と思いました。なんでこんな場所にホールが??って。。。
城島というところからしてみればアクセスしやすいのかな?いやそんなはずはない。
だって、電話してだいたいの場所を聞いたとき、「ここは不便な場所にありますからねぇ」といわれていたし。
まぁいいか。とりあえず、私は無事にたどりつけたし、と思っていたら、
萬斎様が書かれている「MANSAI◎解体新書」に書かれてことを思い出したんです。
「私は狂言公演を通じて、日本全国の劇場、ホールなどをくまなく回っています。
もちろん、活気を感じる劇場もたくさんありますが、その多くがハコモノ行政の産物として、
ソフト不足、機能不全を起こしている状況に接するにつけ、劇場というのは、舞台芸術と通して、
社会的還元をもたらす施設であらねばならないと強く思うようになったのです。」
ここの所を思い出したんです。
。。。そっかぁ。。。そうだよねぇ。
そこのホールがあるからには使わなければいけないんだよね。
このインガットホールは小さかったけど、なかなかいい感じのホールでした。
電話でお聞きした時も、「場所はイマイチなんですけど、ホール自体はいいんですよ」といわれていた。
確かにそうだった。
そっか、立派なハードがあっても、それはソフトがないといかされないんですね。
そのハードをいかす「人」が必要なんですね。
今回のインガットホールがハコモノ行政の産物かどうかはわかりませんが、
そうであろうと、そうでないだろうとどっちにしろそこをいかしてくれる「人」つまりソフトが必要になってくるんですね。
チラッときいたことがあるんですが、そんなハコモノ行政の産物がソフト不足と言っていいのでしょうか、使われずにあると。
それらって結構立派なハードなんですよね。
ハードはばっちり。ということは、あとはソフト(人)なんですね。

狂言は、「佐渡狐」と「小傘」を観ました。
感想は後日書かせていただきます。
でもまぁ、一言でいうと「役者さんの技量」を感じました。
先日、世田谷パブリックシアターでの狂言を観て、続いて今回観てそう思いました。
ではではまた。。。
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沿線

2008年12月01日 | Weblog
渋谷駅の連絡通路に、岡本太郎さんの「明日の神話」が設置されたということで観に行ってきました。

この「明日の神話」は岡本太郎さんの最高傑作であり、岡本絵画で最大の作品となるそうです。
完成後は行方不明となっていたのですが、故岡本敏子さんが2003年にメキシコで発見したことを機に
再生プロジェクトがスタートしたそうです。
少なからず受けた壁画の破損を修復、さまざまな困難を乗り越え、今、渋谷マークシティ内連絡通路にて
一般公開されているということです。

すごい迫力でした。
これを創り上げるというのがすごい。
すごいパワーなんですね。

この「明日の神話」が公開されている場所は渋谷。
あたりまえですが、人がいっぱいで、それもすごいという感じ。
「明日の神話」を目の前にして、後ろを振り向けばこんな景色が。。。

パッみただけで、大型モニターが4つも。
ちょっと先にいけば、もう1つ、2つくらいあったんじゃないかなぁ。。。
この状況って、それぞれのモニターの効果ってありなのかな?
どれをみていいのかわからない状況のように思えるけど。
音声も出ていて、さらにお店の呼び込みの音声もあったりで
どんなもんかなぁ。。。と感じる瞬間もありなわけです。
東京に行くと何かと渋谷へは行っているような気がします。
前回は、Bunkamuraに行ったし、今回は、三軒茶屋に行くのに通ったし。
渋谷は多少興味のある街だけど、どっちかというと東急線沿線に興味があるかも。
今回、三軒茶屋に行ったでしょう。そして等々力渓谷に行ったけど、
本当は、桜新町の長谷川町子美術館に行きたかったんだけど休館日でだめだったの。
あともう少し時間があったら二子玉川にもちょっと寄ってみたかったなぁ。
なんか二子玉川はおおがかりな工事をしてた。
田園都市線っていい感じなんですね。
私的には東横線が好きだったけど、田園都市線もいい感じw

今回東京に行って思ったけど、私、完全におのぼりさん状態だなぁって。
だって、街を歩いている人の速度が速い速い。
こんなに速かったけぇ?と思ってしまったのよ。
私、ちょっとのた~と歩いていたかもしれない。
まぁ、仕事じゃないし、休みの時くらいのた~と歩かせてよ。
ま、それはいいとして、田園都市線に気になるモードが入りそうです。
なんていうんですか、芸術の香りも漂っているし、あと都会の中の自然ですがそれも感じられたし
なかなか楽しめたかも。
もちろん三茶もよかった。
やっぱり三茶みたいな街好きかも。
いろいろ探検したくなる。おもしろそうなお店に出会えたらうれしい。
三茶探索しちゃう?この長崎に住んでいながら。フフフ。。。
今度行く時はもうちょっと下調べしていこうかな。
そうしよう、そうしよう
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経済の事

2008年12月01日 | Weblog
経済の事を考えた時に変わっていかなきゃいけないところはきっと「消費者の意識」だ。
それは降ってくるように自分にやってきた。
意識を変えていかなきゃなんだ。
あるチラシをみていたんですよ。そしたらそこに「お買い物は、地球を救う」とあったんです。
確かにそうかもしれない。お買い物も地球を救うかもしれない。
でも、それは、今までの意識のお買い物じゃくて、ちょっと違う意識のお買い物だね。
それが地球を救う1つかもしれない。
「消費」していくというのは、いろんな意味があるんだね。
だた単純に消費していくんじゃなくて、その意味を知ってもいいのかもしれない。

先日見た「彦市ばなし」の感想で、私は、もしあの隠れ蓑を殿様が持ったら、
すぐに飽きて返してしまうにちがいないと書きましが、それは違うと気付きました。
あの隠れ蓑で彦市は、お酒のただ呑みを思いつき、そしてそうした。
もし殿様が隠れ蓑を手にして、お酒をただ呑みできる状況にあったらそうしただろうか?
私の中の答えは「しない」です。
それはなぜか。殿様には、お酒を呑んだ際に「お金を払う」という意味がわかるからですよ。
そのお金が世の中にどんな効果をもたらすのか、そしてそこで払ったお金が自分にも影響をもたらすというのが
理解できているから。
だから、殿様が隠れ蓑を手にしたら、その場ですぐに返したんじゃないかと思うんです。
その隠れ蓑は、人間社会に意味をもたらすことはないとすぐに理解できるから。

なんだかいままでの流れで、経済発展の良い所と悪い所をちょびっとみれたような気がします。
「消費者の意識」を考えてみたいと思います。
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経済の事

2008年12月01日 | Weblog

東京。
現在の日本の政治の中心地。
東京には高層ビルが立ち並ぶ。
そんな高層ビルをぼんやり眺めていて思ったの。
「やっぱり経済発展の象徴は高層ビルにもありかな」って。
こう言っちゃうと、それは違うと言っちゃう方もいらっしゃるかもしれませんが、
経済大国というのは、消費大国と言うのかもしれないけど、別のいいかもあると思ったんです。
それは、お仕事大国。
経済大国=お仕事大国だと。
お仕事がたくさんあるんですよ。いろんな種類のお仕事が。
私もそうですが、みんなそれぞれにお仕事をして生きていってるわけです。
お仕事をするには、お仕事場所が必要になってくる。まぁ、いわゆるオフィスがですね。
経済が発展していくとオフィスが必要になってくるんだ。
1階、2階、3階建てのビルでは足りない。
だから上に上に積み上げてオフィスをつくっちゃったんだ。
高層ビルというのは、だいたいがオフィスビルだよね?(まぁ、違う場合もあるけど。ホテルとかもある)
だから高層ビルというのは経済発展の象徴の一部分なんだなと思った。

だからしてだからして、経済が発展している時というのは、お仕事が生み出されているわけなんですね。
いろんな業種もそうなのかもしれませんが、量も増えるんだ。
そのお仕事をこなすのは人であって、それは「雇用」が増えるということなんだね。
経済関連のニュースでは「雇用」のことがよく言われてる。
ということは、つまり、経済状態が下がるということは、「雇用」が減るということなんだ。
。。。それって大変なことだ。
生活に影響があるだろうし、そうじゃなくても、人間の内面的なところにも影響してくるような気がする。
雇用が下がっていくとオフィスが減っていく。そうすると高層ビルいかされない。
とりあえず、高層ビルは「塔」みたいなものだし、目立つわけですよ。
そんな目立つ高層ビルに入れるオフィスは、上向き加減の業種とか会社でしょう?
その時の日本の経済を支えていると言ってもいいのかもね。
そんなオフィスが少なくなってきて高層ビルに空室が多くなり、そんなビルが目立つ存在になってしまうと
。。。なんか嫌じゃない?心理的によくないように思える。

経済が下がる=雇用が下がるとなっちゃうわけだから、
それはつまり「魔法使い」が生み出されにくい状況にあるということなんだね。
魔法使いを生み出すには、その国の環境が大事なんだ。
。。。でもだよ、いままで通りのやり方じゃ違うような気がする。
世界恐慌って何十年かに一度やってくるっていってるでしょう。
それって、同じあやまちを繰り返してきてるということじゃなくて?
だとしたら、そこから脱出しなくちゃいけないんじゃない?
そうしないとまた同じことの繰り返しになっちゃうと思うけど。
お金は大事。でも、お金に振り回されるようじゃだめだ。
人がお金を動かさなきゃなだめだ。
お金あってのお仕事じゃないよね。お仕事あってのお金だもんね。
うん。。。考えなきゃだ。
コメント
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