神が存在するか否かを論理で証明することはできない(神の定義は難しいが、ここではキリスト教の理念による神とする)。しかし、ドストエフスキーは著書「カラマーゾフの兄弟」の中で、神の不在を倫理で証明している。人の中には断じて覆せない倫理があり、そこに基づいて語られるものは証明と言える。とはいえ難しい話ではない。ドストエフスキーのように子供のを想えばいいのだ。親に虐待されて死ぬ子供、白血病であと数ヶ月の命の子供、地雷で吹き飛ばされる子供を想う時、そこに神の姿はまるで見えない。
しかし子供を身勝手に殺す親の倫理はどうなのだ。人の中には不動の倫理の反存在も確かに在る。そして時折現れる。それがモラルハザードだろう。しかしモラルハザード自体がまた神の姿を虚しく霞ませる。つまり倫理もその反存在も、同様に神の不在を証明しているのである。
しかし子供を身勝手に殺す親の倫理はどうなのだ。人の中には不動の倫理の反存在も確かに在る。そして時折現れる。それがモラルハザードだろう。しかしモラルハザード自体がまた神の姿を虚しく霞ませる。つまり倫理もその反存在も、同様に神の不在を証明しているのである。