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思索 電子回路 論評等 byホロン commux@mail.goo.ne.jp

信仰と国家

2009-04-13 23:20:38 | 思索
「信仰」の文字をYahoo!辞書で引くと、神仏などを信じ崇めること、の他に、特定の対象を絶対のものと信じて疑わないこと、とある。信仰する者と、そうでない者との違いは、自身の主体を他におくか、己におくかにおいて表裏のように相反することである。信仰者のことを「主(あるじ)持ち」などと言うが、主従の関係において信仰者は絶対的従者であり、絶対的主によって全てを支配されている。因みに僕は信仰はないので、僕の主体は己であり、何者にも支配されず全ての言動は僕自身の責任に基づいている。

さて、絶対的主に従属する信仰者を、戦前の昭和天皇に対する日本国民に重ね合わせて見ることができる。これは寸分違わない。天皇イコール国家でもあったであろう。国の主権は天皇にあり、国民は皆天皇を信仰する信者であった。天皇を絶対のものと信じて疑わなかったのである。これは正に宗教国といえる。よって天皇のため、国のために国民が命を投げ出すことは大きな名誉であった。これはイスラム原理主義などとも一致する。イラクでは今なお自爆テロが続いているが、自爆する彼らに恐怖など無く、主に命を捧げることはこの上ない喜びなのである。

戦後、天皇は象徴となり主権は国民に移った。ここに日本国民は主を失い、自らが従から主へと転換して現在に至る。天皇制日本帝国も含め、信仰、宗教の名の元に、これまで幾人の人が命を落として来たのだろう。人や集団は如何様にも変わり得るが、国家主義であれ新興宗教であれ、思想統一ほど恐ろしいものはないことを、主体を己とし、自らの責任に基づいて発言し行動する日本人は、決して忘れてはならない。
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