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思索 電子回路 論評等 byホロン commux@mail.goo.ne.jp

行儀、礼儀、作法

2010-01-11 20:05:33 | 思索
行儀、礼儀、作法とは何か?何故そのようなものが存在するのか?それらは本当に必要なものなのか?と、あれこれ思い巡らせているうちに、それはたぶん「快感と不快感」に関係するものであり、またそれは「美的感覚」に起因し、根本にあるものは「感性」だろうと思うに至った。

「感性」、これは非常に難しい概念であり、いまなお心理学や哲学の研究対象となっているようであるが、Wikipediaは「感性」について次のように概説している。

【感性とは、美や善などの評価判断に関する印象の内包的な意味を知覚する能力と言える。これは非言語的、無意識的、直感的なものであり、例えば何らかの音楽に違和感を覚えるように人間に作用することもある。】

やはり。以降、「感性」の意味はこの記述を基準として考えてみる。
一般に人は感性として美的感覚を持つ。絵画や音楽が成り立つのもそれ故のことだろう。この感性は人であること故の普遍性と、地域や時代の文化、風土が大きく反映する流動性を併せ持ち、本質的に個々人が別々であることにより、個人固有のものである。つまり美的感覚は全体性が占める割合があるものの、個人によって異なる。

行儀、礼儀、作法における評価判断は、個々人の異なる美的感覚に基づくものと考えられる。例えば、肘をついてご飯を食べるという行為を、多くの人は美しくない、つまり行儀が悪いと感じるだろうが、そう思わない人もいる。よってその行為を美しくないと感じる人にとっては悪であり、そう感じない人にとっては悪ではない。ということは、行儀を絶対的に決めつけることはできないということであり、礼儀、作法についても同様である。ただし集団において、美的感覚の是非が圧倒している場合、少数派は悪として決めつけられることになる。ここで注意しておきたいのは、少数派は本質的な悪ではなく圧倒的多数決に過ぎないということだ。これは地域性や時代の変遷によって逆転する場合もあり得る。

食事の本来的目的は空腹を満たすことである。その時、手でつかんで食べようが、箸を使おうが、フォークとナイフを使おうが、肘をついて食べようが、寝転んで食べようが、本来的目的に対してまったく関係がない。あえて言えば、自分がもっとも食べやすい方法や動作で食べるのが快適であり合理的である。

しかしながら、人の美的感覚は如何なる場合も働くもので、それは動作に対しても同様であり、何故かはともかくとして、ここに行儀、礼儀、作法が生まれたものと考えられる。私個人としては、たぶん徹底した唯物論者であることもあり、行儀、礼儀、作法に反する行為を見ても特に美しくないとは感じない。とはいえ私も集団の中の一員であり、その集団には行儀、礼儀、作法というものが実際にあるのだからそれに背くつもりはない。バカバカしいとは思いながらも、できるだけその集団が決めた行儀、礼儀、作法の通りにしようと思う。

しかしながら、この行儀、礼儀、作法というものは、にわかにやろうとしてもできるものではない。ここが大きな問題なのである。行儀、礼儀、作法は無意識な自然な立ち振る舞いなのだ。これには訓練が必要であり、とりわけ幼少であるほど効果が高いため、「しつけ」「教育」なる用語も含めて、大人は子供に行儀、礼儀、作法を教えようとする。大人向けの教室なども商売として成り立ち、けっこう繁盛していることは驚きでもあるが、ではお前は子供に行儀、礼儀、作法を教えないのか?と聞かれると、う~ん、と考え込んでしまう。結果としては、家庭ではまったく教えてこなかった。(自分が行儀、礼儀、作法をさして知らなかったこともあるかも知れない)。その子供も今や大学生。けっこう友達と楽しくやっているようではあるが。

蛇足ながら、行儀、礼儀、作法はとどのつまりとして「品格」とか「品位」という、これまた不可思議で胡散臭い言葉へと至ることになる。後日また、品格、品位、上品・下品について考えてみよう。

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