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思索 電子回路 論評等 byホロン commux@mail.goo.ne.jp

迷走

2008-11-16 18:22:37 | 思索
gazami さん、こんにちは、ホロンです。
私が「迷走」を読んだ時の最初の印象は、「散文」もいいな、というものでした。

gazami さんの日記は文字形態に囚われない明らかな「詩」だと、僕は思っていますが、この「迷走」はそれに対する散文で、要点を捉えたメリハリのよい気持ちのいい文章、というのが僕の最初の感想です。また、バランスの良さとノーマルさを感じました。
やはり、一番スカッと爽やかな気持ちにしてくれるのは、文末のまとめの一節でしょう。

 行くとこまで行って だめならしょうがない。
 けど まず 行ける所まで行かなきゃ 話にならない。
 行ってから 考えよ。 てな 風です。

正に!ってな風です。(^^)
これは僕の信条にとても同調するもので、拳を空に突き上げたいほどのものですね。ィエーィ!ってね。
そして、この一節でまとめるからには、gazami さんもパワーゲームを否定しないスタンスであり、また、そうあるべきだとの個人的信条を持ってられるのではないかと想像しているのですが、間違っていたらごめんなさいね。

日頃、gazami さんの詩を読んでいると、

 己にしか見えない「宝石」を
 後生大事に 譲る部分は譲るが
 そうで無い部分は 決して譲らないで
 日々を送り「終末」をニュートラルに
 受け入れられれば良いと

という部分に、確かに引っかかりもするのですが。

終末については、個人としての死は、かなり早くに観念として認識されるのだと思いますが、集団の死は意識されにくいものですね。特に右肩上がりの潮流に乗っている時には、それは無いのではないかという、錯覚に陥ることもあるのでしょう。
しかし、いまの社会、世界、情勢、などなど、人々は明らかに、終焉に類する何かに気づき始めているでしょうね。
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ショートショート

2008-11-14 22:47:12 | 思索
彩乃さん、こんにちは。

「生きてみなくちゃわからない」の貼り付け、ありがとう。またしても懐かしく、またしても、ぷっと笑ってしまいました。でも、これも確かに真理ですよねえ。

でも、20歳前後の少年少女達も、ゲーテやマン、ドストエフスキーに確かに感動する。これは決して空々しいことではないですよね。彼らの感動は、そこに描き表されている人生が分かる故のことなのでしょう。

それと、実年齢と魂の年齢は必ずしも一致しませんね。僕は自分をまだまだ、それこそ少年くらいに思ってます。もしかしたら、僕の魂の年齢は彩乃さんよりも幼いかも知れませんよ。(笑)

人生についての「ほんとうのこと」は、僕の中にもその幾つかがあって、彩乃さんや他の人の中にも、それと同質のものと、それと異なる幾つかのものががあるのでしょうね。
なかよく見せやいっこしましょうね。(^^)

ホロン
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トニオ・クレーゲル

2008-11-10 19:32:44 | 思索
ありがとうございます、って私が言うのも変ですよね、と彼女は言っていましたが、やはり、読んでくださったことは、とても嬉しいことで、ありがとうございます、なのです。

読むことで、azimutが想起されたことは、やはり博識から多くがもたらされているかのごとくですね。私の場合はイマジネーションが拡がるというよりも、描かれる世界に限定されて、果てしなく深く吸い込まれていく感じでした。

  混沌から吹き上がる 一本の 火柱

  みずみずしさ。

みずみずしさ、は誰もが感じるでしょうね。青春の情感を、あれほど生き生きと描いているものはそれほど多くは無いのではないでしょうか。

話は少しそれますが、「トニオ・クレーゲル」はマンの「ウェルテル」とも称されるということで、改めて興味を惹かれ、現在、ゲーテの「若きウェルテルの悩み」に挑戦しています。これは過去に数回トライしていずれも途中リタイヤに終わっていますので、今回は頑張って完読を目指します。生来に散文的な私は、ゲーテはどうも苦手なようですね。

ではでは。
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人の意味

2008-11-02 20:03:07 | 思索
 病院で看護婦さんの顔を見ると、
 「ママ!」って叫んだそうだ。
 う~う。ちょっと、痛い。

うん。すごく痛いね。僕もここが一番の弱点だな。なぜ辛いのか痛いのか悲しいのか、それを理解しない幼児の痛みほど辛いものはない。幼児の虐待死など、その状況を思い浮かべようとした瞬間に精神が停止しそうになる。顔面に冷や汗がにじむ。

 人生とこの世界は、
 意味があるようでいて、意味が無い。
 意味が無いようでいて、実は意味がある……。
 どうして神様は、こんな風に、ややこしく、
 この世界を創ったのだ?

そう、核心部分だね。いま先端部の分岐点を眺めてるんだと思うよ。ここから先は、恐らく道は二つに分かれているんだろうね。何食わぬ顔をして右へ左へと流れていく人の背中を、呆然と見送りながら、真理に謙虚な人はこの分岐点に佇んでいるしかない。
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いたいけ

2008-11-01 01:20:13 | 思索
「数学ができるコがいちばん頭がいい」と子供に向かっていう親がいる。この言い分は間違ってはいるが、直感的にはそんな気がしないでもない。これは普遍的なものだろう。しかし子供にとっては、親や教師の言葉は絶大な影響を与えることが多い。言われた子供が、数学が得意ならまだしも、国語や社会が得意でも数学が苦手な子供であれば、自分は頭が悪いのだ(だからダメなコなのだ)と悲しい気持ちになることも少なくないだろう。冗談ではない。健やかでいたいけな子供の価値が、このようなことで決まるはずははない。

そもそも人の価値はどのようにして決まるのだろう。山田花子よりも麻生太郎の方が人としての価値が高いのだろうか?イラクで死んだ一兵士よりもジョージ・ブッシュの方が人としての価値が高いのだろうか?公園でテントを張っている浮浪者よりも毎日会社と家を往復している私の方が人としての価値が高いのだろうか?

真摯にこれらのことを考えたとき、「視点を定める」ことなく、一言でこの問いに答えられる人はまずいないだろう。これほど難しい問題に対し、いとも簡単に文初のように言い切る親は、思慮が極めて足りないとしか言いようがない。子供に断定的なものの良し悪しを聞かせるのは、はなはだ好ましくない。子供特有の自由な感性や広い視野は、できるだけ長く保たせてあげるべきなのだ。いずれ成長に伴い、定型化した社会の中で概念が固定化し、感性も鈍く視野も狭くなっていくのだから。さりとて、そんな親をことさら責めるつもりもない。ただ素朴に大人になったというだけのことだ。

ところで、話は少し脱線するが、橋下知事がのたまった「言って分からない子供には、身体で分からせるしかない」という言葉には驚愕した。あんたいったい、いつの時代の人なの?この言葉だけで、橋下さんはリーダーの資質も資格もないと明確に断言できる。
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逆数は無限大

2008-10-27 21:16:38 | 思索
keganiさん、こんにちは。
もう、こんばんは、の時間ですね。周りが暗くなってきました。このところ穏やかな天気が続いてくれますね。今日も気温が25度を超えたとか。などと言いながら、僕は会社の蛍光灯の下でPCとパコパコ戯れていました。

京都までの、音楽と本を読みながらの数時間の旅、いいですね。僕は車で移動することがほとんどなのですが、車と列車では旅の味わいが全然違いますね。まあ当たり前ではありますが。ふと列車で旅をして見たい気持ちになりました。

無限小の逆数は無限大。この数学的関係を、おもしろいな、とよく思います。

「凪」は我々にとっては無限小のような時間かも知れませんね。「悟り」というのは、この時間が無限大になるのかな?って、気がしたりもしています。

確かに、「悟り」は「欲する」の逆数のようでもありますね。
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日記

2008-10-24 23:38:05 | 思索
改めて「澪にっき」をゆっくりと見せてもらったけど、言葉が胸にビンビン来るね。そこに確かな真実が見えるような気がするよ。

 いい加減にしろの加減…。
 どのくらいですか?
 何度目から
 そう言われるのですか?

とても素朴で、誰もがその答えを知りたいと求めながら、分からなくて、切ない思いをしてるんだよね。「いい加減の加減」なんて無い。そんなことを言う方がおかしい。澪ちゃんは、自分がこれくらいだと思うとおりにやったらいいよ。それが最適だ。

 遊べない人生は
 人生じゃない
 なら勉強をやめて
 その時間を遊びにまわそぅか

そう、遊べない人生は、人生じゃない。澪ちゃんの言うとおり。実は、知らないことを知ることが、一番楽しい遊びだったりもするんだけどね。

 なんだか嫌な予感がするの…
 大きな何かが来そぅ…
 ぁたしは生き残れるかな…
 不気味なくらい模様が変わらない
 空が教えてくれたの
 気をつけなさいって。。
 鳥が急にいなくなったのは
 そのせいなんかじゃないよね…?

うん。僕もね、とってもそんな予感がしてるんだよ。僕も空に教わったんだよ。
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愛のコリーダ

2008-10-22 23:20:51 | 思索
フィルム「愛のコリーダ」のカットオフと言えば、そうですねえ、”切り落とされた”になりますよねえ。(^^)

画面サイズのファクタは確かにありますよね。例えば「ゴジラ」をテレビで観ても面白さは激減しますね。それ故、シネラマなどの上映方式も意味があるのでしょうね。しかしこれも、劇場の最前列、中ほど、最後列で観るのではそれぞれ異なってきそうです。また、「ゴジラ」に比べると「寅さん」や「愛と死を見つめてなどは、テレビでもまあ不足無く観ることができるものですね。

映画の鑑賞そのものと、その前後を含めた心象風景の中で映画そのものが、どれくらい現れ出るか、どれくらい周囲の風景に溶け込むか、という現象はとても現代芸術的でもありますね。どんな作品でも、アウトプットされた瞬間に作者の意図とは無関係に独立して自己を主張しますが、その点、「愛のコリーダ」などは鑑賞者の心象風景の中の大半を自分が占めようと主張している作品のように思えます。まあ、一言で言い換えると、具体的であるということですが。

ちなみに、カットオフされた部分と言うのは、画面全体が、ほぼ赤色一色に染まり(正確には肌色の赤を極端に強くしたような色)、それが数分続くという描写で、それが全編の数箇所に配置されていて、この映画を象徴している部分のように僕には思えました。

「妖怪百物語」は、子供心に怖ろしい映画でしたよねえ。(^^)
スクリーンの中の非現実と、夜景の中の帰り道の現実との境目が曖昧になって、ずっと怖い思いが後を引いていたのがよく分かります。

20年前に、僕の心に展開された「愛のコリーダ」、現在、僕の心に展開された「愛のコリーダ」、一回目の鑑賞と二回目の鑑賞。違っていて当然なのかも知れませんねえ。
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おはようございます

2008-10-19 13:40:00 | 思索
今朝も空がどんよりと曇っていましたが、いまになって少し明るくなってきました。

坑ウツ剤は通常2週間くらいで効果が現れると聞いていますが、これは一般的な話ですから、速く効いてくれればそれに越したことはないですね。
しかし”息苦しい”というのは、私も経験有りませんが、あまり聞きませんね。極度に緊張した時などに、過換気症候群になることがあると聞いたことがありますが、それほど酷くはないんですよね。

>…c(゜^ ゜ ;)ウーン 鬱って治らないのかなぁ?
>10年以上も長引くなんて。。。

いえ、純粋な鬱病なら完治します。僕の場合は、神経症と鬱病が複雑に絡み合っているから、完治ということは無いでしょうね。いかに上手く付き合うかということだと思います。だから薬も棺桶まで持っていくつもりですよ。(笑)

>急に薬をやめてしまったりが多いんですが、
>ホロンさんはやめたらどうなります?

僕の場合は、もう身体の一部のようになっているので、やめたらきっと怖いことになるのでしょうね。と言うか、都合がつかなくて一週間ほど薬の補充に行けないことがあったのですが、まず眠れなくなりましたね。

>凄く具合が悪い時って、薬を飲むのも面倒だと思ってしまうんですが、

うん、これは良く分かります。私もとても具合が悪いときは同じように感じで、薬を飲むのも辛く感じられたものですが、これもやはり十数年前のことですから、そういう意味では、私は既に克服できているのかも知れませんね。

>天気がいいと朝の一時だけやるぞ~って気にだけなったりします。

うんうん、一般的にはその通りですね。私も今はもちろん快晴が好きです。ただ鬱の真っ只中にあって、非常に辛いときは逆に晴れていることが辛く感じられることもありますね。

それではまた。(^^)
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ゲーテの色彩論

2008-04-02 20:56:56 | 思索
量子力学は、自然と人間を切り離したニュートン以来の近代科学に対する問題提起となった。しかし、量子力学のはるか以前に、ニュートンの自然科学を批判したのがドイツの詩人ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe 1749-1832)だった。ゲーテがみずから、最も重要な著作と考えていたのは、戯曲「ファウスト」ではなく「色彩論」だった。ゲーテは、光と闇の境界線にこそ「色」は存在すると考えていた。プリズムを通して光を見ても、色は現れない。光と闇の境界の部分にだけ、あざやかに色が並ぶことを、ゲーテは発見した。ニュートンの光の理論には表わされてない現象だった。「色彩は、なかば光、なかば影である。そして、光と闇の結婚である」それが、ゲーテの結論であった。ゲーテは、観測する者と観測されるものが、一体となったときに初めて、自然が本当の姿を現すと考える。実験によって切り刻まれた自然、数字に置き換えられた自然は、もはや、本当の姿を失っているのである。ゲーテの思想は、量子力学者によって再評価されている。「不確定性原理」を発見したハイゼンベルクは、こういっている「ゲーテがニュートンを攻撃したのは、深い意味があった。もし、ゲーテに非難すべき点があったとすれば、ニュートンにとどめを刺さなかったことだ」
(アインシュタイン・ロマン NHKエンタープライズ 1991年)より

個人的には、「事物は人に認識されて初めて意味を持つ。人に観測されない存在はもはや存在してはいない。」とする量子力学者達の意見に賛成である。つまり外の宇宙は内の宇宙の源ではあるが、どちらが重要かと問えば、内の宇宙が重要であると言わざるを得ない。逆説的には、人は時として実在しないものを見、聞くことがある。これも実際にはそのようなものが存在しないということよりも、見たこと聞いたことの方が重要であり、それは存在していると言ってよい。
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純粋な目

2008-03-29 23:55:06 | 思索
「物ごとを明確に考えるために、言葉から離れなければならないことがよくある。」言葉をつかった推論は精神ヒエラルキーのきわめて高いレベルとかかわっているが、まかりまちがえば堅いペダンティックなものになり、それがリアリティと推論者のあいだに壁をうちたてる。創造性はしばしば言語が姿を消したところに-つまり前言語的、前理性的な精神活動のレベルまで退行することによって-生まれてくる。その精神活動の状態はある点で夢にたとえることもできるだろうが、おそらく睡眠と完全な覚醒との間にある一時的な状態の方がそれに近いだろう。

そして精神は、堅苦しい、あまりにも厳密な図式的論理から、あるいは生来の偏見から、一時的に解放される。さらにまた、精神は知識を捨て、かわりに新しい純粋な目と柔軟な思考を獲得し、それによって隠れたる類似を発見したり、いつもならとても受け入れるはずもない無謀な思考の組み合わせを考え出したりする。偉大な科学者の伝記にはこうした話はいくらでもある。かれらは異口同音に自然発生的な直感や未知の力を強調するが、それは、芸術だけでなく精密科学においても、創造的なプロセスにはつねに多くの不合理が深くかかわっていることを示唆している。
「ホロン革命」
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レスポンス

2008-03-25 21:37:05 | 思索
こんばんは、ホロンです。

”Words”の僕の拙い記述にコメントくださってありがとう。このページをアップして以来、何人もの人と言葉を交わしてきましたが、このような形で直接コメントをいただいたのは、ほぼ初めてで嬉しいです。また率直に語ってくださったこともとても嬉しいですね。

さて、対論や合論などは必ずしも必要ではないのではないでしょうか。ある論議に対する対論は議論に否定や修正を加えながら一致点を目指すものだと思うのですが、価値観や世界観が人の数だけ合ってそれぞれに異なるように、全てを一致させようとすること自体に無理があるように思います。「人は何故生きるか」などは、それこそ模範的回答が幾つもあるわけですよね。

以前、ある方と少し哲学的なやりとりをしたのですが、その方曰く、「必ずしも合意など得られる必要は無いのではないか、異なる観点からの考え方を、自分の世界の構築の参考にすればよい。」と仰ってられましたが、これは僕も全面的に賛成しています。ただ誤解はできるだけ避けた方がいいでしょうから、確認は十分やってある観点からの議論に対する正しい理解はしたいですね。

「倫理判断の正当性と強制力」ですが、これは法学になるのでしょうか、それともやはり哲学かな?別の言葉で、「善悪の判断と悪に対する罪と罰」と表現しても大きなズレは無いでしょうか?これらはとても難しい問題ですね。絶対的な回答を人が得ることはこの先も永久に無いのではないかとさえ思えます。例えば社会形態や生活風習の違いで、同一の事柄も善と悪が正反対に入れ替わったりしますものね。
僕としては、判断基準は常に自分の中に持ち、それを信じてよい、と常々思っています。
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生きる意味

2008-03-07 21:39:17 | 思索
ひるがえって、生きる目的を見出せず、生きる内実を失い、生きていてもなにもならないと考え、自分が存在することの意味をなくすとともに、がんばりぬく意味も失った人は痛ましいかぎりだった。そのような人びとはよりどころを一切失って、あっというまに崩れていった。あらゆる励ましを拒み、慰めを拒絶するとき、彼らが口にするのはきまってこんな言葉だ。「生きていることにもうなんの期待ももてない」こんな言葉にたいして、いったいどう応えたらいいのだろう。

ここで必要なのは、生きる意味への問いを百八十度転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。哲学用語を使えば、コペルニクス的転回が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。(P129)

強制収容所にいるわたしたちにとって、こうしたすべてはけっして現実離れした思弁ではなかった。わたしたちにとってこのように考えることは、たったひとつ残された頼みの綱だった。それは、生き延びる見込みなど皆無のときにわたしたちを絶望から踏みとどまらせる、唯一の考えだったのだ。(P131)「夜と霧」
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少年

2008-02-23 22:50:58 | 思索
人は「制限された自由」の中では無く、実は「何者にも制限されない自由」の中に生きているのではないか、と思い始めている。魂の自由は戒めを受けることも無く、自ら踏みとどまる必要もない。本来的に魂の自由は何の拘束も受けることの無い存在として作られているのでは無いだろうか。

それは、私自身、繰り返される日常を生きていて、自由を制限されているというもどかしさ、息苦しさ、つまり不自由さを、さほど感じることが無いからでもある。現実社会の中では、人は無数の規則や規制に従って生きているのに、何故これほど自由なのだろうか。

そもそも魂の自由とは何処に生まれるのか。それは、喜びと満足に至る心の要求と相対的に存在し得るものである。故に元々無い要求を制限されたところで別に不自由ではない。

一般に、個人の自由は単独で存在する時が最大で、複数となった時点で他者を受け入れることにより、自由が減少すると考えられがちであるが、果たしてそうだろうか。喜びと満足に至る心の要求は、複数の中で自己を最大限に主張し実現たいと欲するだろうか。否、元々個の中に生まれた自己が他に見いだされること、他者の中に他者の自己を見いだすこと、そしてそれを共に分かち合い共有することを、より強く欲するはずである。それは個であることの喜びと満足よりも、複数を構成する個であることの喜びと満足の方が遙かに大きいからである。よって魂の自由は如何なる状況下においても決して減少することは無い。

人が他者を傷つけ、おとしめたいという心の要求を持つだろうか。仮に、その目的を遂げたとしても、また果たせなかったとしても、その結果が喜びと満足に至るとはとても思えない。自らがより深く傷つき、自らをおとしめるだけである。これ以上の不自由さは他にないだろう。つまり人は本来的にこのような自由は持ち得ないのである。

だから、その時点その時点の、喜びと満足に至る心の素直な要求のままに人は生きて良い。魂は何者にも制限されること無く自由なのである。
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薬という方法

2008-02-21 19:46:06 | 思索
ひどく頭痛がするとき、バファリンは良く効いて、飲めば痛みが引いて頭痛は止まります。痛みは無くなったけど、何故、頭が痛かったのかは分からない。とにかく鎮痛作用が痛みを止めたのです。薬の効果が切れても尚、痛みのない状態であれば、痛みの原因もその時消失している訳ですね。でも、また頭痛はいつかやって来る。

たおさんは痛みをかなり強く感じているけれど、あえてバファリンは飲まないのですね。痛みを感じ続けることで、その痛みの正体、由来を見いだしてみようと。

”私が常に「責任」と感じ、逃げだそうとしていたそれは、はたして、本当に外部からもたらされたものだったんだろうか?”

そして今はその根元が自分の内から発生しているものではないかと思い始めている。自分の内に潜むものならば、その居所を探し、しっかり掴み取るために、痛みや焦燥感は、その道しるべになる。見事クリヤできたものならば、痛みを根元ごと葬り去ることができるかも知れない。そのために薬で、安易に道しるべを、曖昧にしてしまいたくはないと。

真っ向から構えた、実直すぎると思えるほどの対決姿勢ですね。見事なものです。もし、心の負荷に完治というのもがあるのであれば、この方法以外には無いのかも知れません。ただし、長く耐え難い苦戦を強いられるのが、見えるようでもありますね。

でも、たおさん、道しるべは今実感している、忌むべき焦燥感だけでは無いようにも思います。痛みや焦燥感は静的なものとして、とどまっているので、時間をかけて向き合うことができますが、心が変化する動的なものにも、短期間的に多くのヒントを見つけることが出来るのではないでしょうか。僕は、そこにも薬の有用性があると思っています。仮に、薬で焦燥感が軽減するなら、そこにもメカニズムが働いているはずです。これも、心の負荷の根元を特定するのに、強力な味方になってくれるように思うのですが。
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