4日;水曜日 13:00より市民大学受講する。
例のごとく学生食堂で昼食を摂り
本日の選択は トンカツ2切れ 野菜炒め マカロニS キャベツ
ご飯小、みそ汁付きで 626円 ちょっと頑張り過ぎたかな?
時間調整をして教室に入る。
一般学生も受講してるのでかなりの生徒数なのである。
本日の授業は 門司区 若松区 八幡区の面白歴史の抜粋である。
北九州市は旧5市の対等合併である。
旧5市を呼ぶ場合 どの市を最初に言うか? 面子の問題がある。
しかも江戸時代 、5市はそれぞれ豊前国、と筑前国に分かれてい
た! (ここで へ~ の方もおられるのではないだろうか?)
豊前国には門司市 小倉市
筑前国には八幡市 若松市 戸畑市
これらの市が合併したのである。
問題; さて旧5市を並べて言う場合の順序は?(こんなことにも拘るのかいな!)
小倉城を絡めて小倉の歴史は先週終了したので 本日は門司の歴史
から説明がある。
門司は九州の玄関で海上、陸上共に交通の要所であり、戦国時代には
山城が築かれていた。
当然近隣の大勢力に翻弄されていた。
毛利と大友の戦い、等
関門海峡を見下ろす古城山にそれらしき遺構がある。
関門海峡を巡る戦いの説明が続く。
余談だが 巌流島で 宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘した、のは
良く知られているが、 正式文書、資料には佐々木小次郎の名前が
無い! 文書には巌流と流派だけの記載しかないそうで、佐々木小次郎の名前は後から誰かつけた名前で本名は判らないそうである。
”へ~ ”
豊前国の戦国時代から江戸時代にかけての歴史の説明
筑前国の戦国時代から江戸時代にかけての歴史の説明
を北九州を舞台にした歴史の説明がある、時間が足りないのが残念
である。
その中で 関ケ原の戦い時の状況、 戦後の状況など興味が尽きない。
秀吉の部下だった毛利勝永が小倉城主となったが同じ豊前の国の
中津には黒田官兵衛が中津城を構えていた、関が原以降 豊前国を
細川家が納め 黒田家は西軍に付いた筑前小早川の後に入る、
その際その年に収穫された年貢米を引っ提げて移封した。(通例では置いて行くそうである。)これに腹を立てた細川といざこざが起こる!
”へ~ ”
それで黒田家は豊前と筑前の国境6つの拠点に城を築く。(米を持参して行ったので財力が有ったのか?)
後の一国一城のお触れで取り壊ししたのだが何とも無駄な。その後
細川は肥後国に移封になる。
6つの拠点の内 北九州の小倉と八幡の間に3箇所あり歴史観光地に
しようとしている。
洞海湾の入り口の中島に若戸城を築く、この城跡は 明治時代
管制八幡製鉄所が出来た後 大型船の入港の邪魔になるので島毎
根こそぎ削り取ってしまって跡形もない! これ又 ”へ~ ”
略史[編集]
天正15年(1587年)、豊臣秀吉の家臣であった森勝信が豊前小倉6万石(一説に10万石)を与えられ、小倉城に入城。なお、子の勝永にも豊前国に1万石(4万石とも)を与えられ、この際に秀吉の計らいによって元の姓である森から、中国地方の太守・毛利氏の姓を名乗らせている。毛利勝信・勝永父子は関ヶ原の戦いで西軍に付き改易となった。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの際に細川忠興は東軍に属して戦い、居城である丹後国田辺城は父細川幽斎が田辺城の戦いで勅命によって講和するまで西軍に頑強に抵抗したことなどから丹後田辺・豊後杵築合わせて18万石から豊前一国と豊後国国東郡・速見郡39万9千石へと加増され当藩が成立した。当初は中津城に入城したが、直ちに毛利氏の旧小倉城の跡地に大大名の居城として相応しい規模の城郭・城下町の建築に着手し、慶長7年(1602年)小倉城に藩庁を移した。宮本武蔵(一説では小倉藩家老の食客)と佐々木小次郎(同じく小倉藩剣術指南役)との決闘が、当時は小倉藩領であった巌流島(現在は山口県下関市域)で行われたのは細川氏の時代である。2代・忠利は寛永9年(1632年)加藤忠広の改易に伴い、更に加増され熊本藩54万石に移封した。
同年、播磨国明石藩より小笠原忠真[1]が入封し、小倉城主として豊前北部15万石を領した。なお、支城の豊前中津城には忠真の甥長次が8万石で入封し中津藩が、同じく豊後杵築城には忠真の弟忠知が4万石で入封し杵築藩が成立した。
忠真は徳川家康の外曾孫(母は松平信康の娘)であり、以後小倉小笠原氏は西国譜代大名の筆頭として九州の玄関口を押さえる九州探題の任を受け外様大名の監視を行った(これが幕末動乱における小倉城落城の遠因ともなる)。忠真の家臣宮本伊織(宮本武蔵の嗣子)は、父子ともに出陣した島原の乱の軍功等により知行4000石の小倉藩筆頭家老となり、以後宮本家が代々その地位を世襲した。 2代忠雄は寛文7年(1667年)藩主襲封の際、弟の真方に小倉新田藩(千束藩)1万石を領内分藩させた。
享保15年(1730年)6月には、第3代藩主・忠基の二男長逵が、継嗣のいなかった播州安志藩初代藩主・小笠原長興の養子となり、同年12月に第2代藩主となる。以後、江戸時代の間を通じて小倉藩・小倉新田藩・安志藩の小笠原三家は継嗣の養子縁組等により関係を深め、小倉新田藩のみならず本来小笠原氏の嫡流であった安志藩もが小倉藩の分家筋のように位置付けられていくこととなった。
問題答え; 市政を布いた順番で呼ぶことで合意した。
古い順に 門司 小倉 若松 八幡 戸畑と呼ぶらしい!
八幡の人口が多いのは製鉄所が出来た後なので歴史的には
黒崎宿が繁栄していた。