CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

行者堂 on 2019-2-9

2019年02月19日 04時10分28秒 | 神戸情報
本日は神戸市垂水区朝谷町9にあります行者堂を紹介します。
所在地は朝谷町の一番北側の東よりの第2神明道路に近いところにあります。
(住宅街の一角)



上の写真は道路側から観た行者堂の遠景です。


上の写真は奥側から観た行者堂の遠景です。






上の3枚の写真は行者堂の祠の近景です。


上の写真は現地説明板。
大和団地株式会社から寄贈

以下現地の説明板より要約引用
行者堂は神変大菩薩役行者をおまつりする堂である。
修験道の祖で欽明天皇の時代の欽明5年(633)大和国に生まれ仏道に帰依し
各地で厳しい修行を積み32歳で座禅三昧の中に大黒天の法力を感得し、大菩薩に
なったという行者を祀ってあるお堂です。
この行者は大宝元年(701)6月7日に68歳で入寂されたそうです。
寛政11年(1800)朝廷は神変大菩薩の号を与えられました。

このお堂は昭和61年(1986)4月吉日に当地に遷座されました。

信仰する人には諸願成就、福徳円満、悪病消除の功徳が授けられると
されています。


役行者についてWikipediaの解説を引用紹介します。
役 小角(えん の おづの /おづぬ /おつの、舒明天皇6年(634年)伝 –
大宝元年6月7日(701年7月16日)伝)は、飛鳥時代の呪術者である。
役行者(えんのぎょうじゃ)、役優婆塞(えんのうばそく)といった呼び名でも
広く知られている[1]。姓は君。 修験道の開祖とされている。 実在の人物だが、
伝えられる人物像は後世の伝説によるところが大きい。
天河大弁財天社や大峯山龍泉寺など多くの修験道の霊場に、役行者を開祖として
いたり、修行の地としたという伝承がある。


役行者は山へ籠もって厳しい修行を行う事により、様々な「験」を得る事という「修験道」
という神仏を融合させた新しい宗教形態を確立させた。
山を神として敬う日本古来の山岳信仰と神道・仏教・道教・陰陽道などが習合して奈良時代に
成立した日本独特の宗教である。
修験道は、明治5年(1872)に太政官名で「廃止」を命じられ、この時点で17万人を数えた
修験先達は激減し、太平洋戦争終了時まで、宗教法制上は非公認となった。


上の写真は行者堂の境内に祀られている山の神の祠

山の神は山に宿る神聖の総称で、農民・山民・漁民と信仰する人々によってその性格や
祀り方は異なっています。農民の信仰する山の神は作物の神で毎年山と村との間を往復し、
春になると村に降りてきて田の神となって稲の成育を守り、秋に稲が実ると、山に帰って
休むと信じられています。

朝谷町(あさたにちょう)について神戸史学会編の神戸の町名(2007)より引用紹介します。
下畑の旧集落の少し南で、塩屋谷川の支流にあたる。鉄拐山への登山道があったこの谷筋には、
朝谷をはじめ雲星・向井・関東林山・栗ノ木山・奥唐戸などの旧小字があった。
朝谷は浅い谷から、栗ノ木山のクリは土砂が崩れ落ちる所をさすのか。奥唐戸のカラトは、
枯れるとか干上がったの意で河川が伏流している様子からか。あるいは、穴・釜・鍋・唐の
つくものは、崖地に因むものが多いという(松尾俊郎説)。また落合重信氏によれば播州地方
では古墳のことをカラトといっている。なお下畑町には塩屋谷川の西に唐ケ谷・唐ノ谷・
唐ケ谷山の小字があり、水の無い川に由来すると考えられる。さらに美ノ谷の小字もあったが、
これは北区山田の箕谷とおなじく「水(み)の谷」からと考えられる。
谷間であったこの地を利用し、鉄拐山の下をトンネルでくぐり、県道神戸明石線が作られた。
その後、昭和57年から60年に「須磨西ネオポリス」が造成され、昭和60年から小字の朝谷を
町名にした。






最後に、2014年4月3日に訪問した吉野山で撮った役行者関連の写真を添付して
終了します。

上の写真は金峰神社の役行者像


上の写真は行者堂 岩組総講




上の2枚の写真は大峰奥駆道の説明板

関連ブログ:後藤大峰研修の碑 on 2014-4-3


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

堀田義次郎の銅像 in 石山寺前のバス停近く on 2017-10-12

2019年02月18日 06時37分36秒 | 滋賀県情報
2017年10月12日、石山寺を訪問していた時に帰りのバスの時刻表を確認する為に
バス停に行った時に偶然に堀田義次郎の銅像を見つけましたので写真紹介します。

尚、石山寺の訪問記は下記ブログで書きました。
 比叡山延暦寺と坂本 訪問記 on 2017-10-10~1017-10-12 その16(最終回) 石山寺


上の写真は堀田義次郎の銅像です。

所在地は大津市石山寺3丁目2-37

Goo地図を添付しておきます。


Wikipediaによる堀田義次郎の略歴を引用紹介します。

堀田 義次郎(ほりた ぎじろう、1874年(明治7年)4月14日 - 1942年(昭和17年)11月19日)は、
日本の政治家、内務官僚。衆議院議員、滋賀県知事、大津市長。弓道家(大日本武徳会弓道範士)。

福岡県出身。第五高等学校を卒業。1902年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。
1904年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し内務属となる。
以後、愛媛県事務官、島根県事務官・第四部長、長野県事務官・警察部長、三重県内務部長、
滋賀県内務部長、愛知県内務部長などを歴任。
1919年4月、原内閣により滋賀県知事に登用され、1923年10月まで在任。道路改良計画の推進、
各種学校の新設、開墾者への補助金支給、養蚕業奨励策の実施などを行った。
1924年に退官し、同年5月、第15回衆議院議員総選挙に三重県第一区から出馬して当選し、
衆議院議員を一期務めた。1933年に大津市長(第13代で任期は1933年-1942年)となる。
弓道家としては、1936年(昭和11年)5月に大日本武徳会から弓道範士号を授与された。
1933年(昭和8年)9月、当時の弓道界の懸案であった射型統一のため、大日本武徳会会長
鈴木莊六により全国の著名弓道家からなる「弓道形調査委員会」が構成されたが、
堀田もこれに参加した。




上の写真は銅像のある場所付近から石山寺の遠景を撮ったものです。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

比叡山延暦寺と坂本 訪問記 on 2017-10-10~1017-10-12 その16(最終回) 石山寺

2019年02月18日 04時54分25秒 | 滋賀県情報
2017年10月10日から10月12日まで比叡山延暦寺と坂本を訪問しました。

本日はその第16回として2017年10月12日に訪問した石山寺
を写真紹介します。

長い間、完結することなく記事を書くのを中断していましたが、延暦寺の中心的な根本中堂
のある東塔の諸堂と石山寺について記事を書いていなかったので再開することにしました。

今回、やっと最終回に漕ぎつくことができました。
今回紹介する石山寺には宇治市の小学校時代に遠足で訪問した記憶があります。

本シリーズの過去15回の記事一覧
 比叡山延暦寺と坂本 訪問記 on 2017-10-10~1017-10-12 その1 日吉東照宮

 比叡山延暦寺と坂本 訪問記 on 2017-10-10~1017-10-12 その2 ケーブル坂本駅

 比叡山延暦寺と坂本 訪問記 on 2017-10-10~1017-10-12 その3 求法寺走井元三大師堂

 比叡山延暦寺と坂本 訪問記 on 2017-10-10~1017-10-12 その4 日吉大社

 比叡山延暦寺と坂本 訪問記 on 2017-10-10~1017-10-12 その5 穴太衆積み石垣

 比叡山延暦寺と坂本 訪問記 on 2017-10-10~1017-10-12 その6 慈眼堂(恵日院) 

 比叡山延暦寺と坂本 訪問記 on 2017-10-10~1017-10-12 その7 滋賀院門跡

 比叡山延暦寺と坂本 訪問記 on 2017-10-10~1017-10-12 その8 三井寺(園城寺)

 比叡山延暦寺と坂本 訪問記 on 2017-10-10~1017-10-12 その9 琵琶湖第一疎水のトンネルと大津閘門

 比叡山延暦寺と坂本 訪問記 on 2017-10-10~1017-10-12 その10 大津城跡

 比叡山延暦寺と坂本 訪問記 on 2017-10-10~1017-10-12 その11 延暦寺(横川地区)

 比叡山延暦寺と坂本 訪問記 on 2017-10-10~1017-10-12 その12 延暦寺(西塔地区)

 比叡山延暦寺と坂本 訪問記 on 2017-10-10~1017-10-12 その13 伝教大師像と伝教大師伝

 比叡山延暦寺と坂本 訪問記 on 2017-10-10~1017-10-12 その14 延暦寺(東塔地区諸堂

 比叡山延暦寺と坂本 訪問記 on 2017-10-10~1017-10-12 その15 延暦寺会館での食事と喫茶

石山寺の基本情報
住所:大津市石山寺1-1-1  TEL:077-537-0013
宗派:東寺真言宗 山号:石光山 御本尊:如意輪観音
西国三十三箇所観音霊場13番札所
創建:天平19年(747) 
    前身は、弘文元年(672)、壬申の乱で敗れた大友皇子を祀るために建立
開基:良弁 聖武天皇(勅願) 
拝観料:600円(30名以上500円) 参拝時間:8:00~16:30
近江八景:石山秋月


石山寺公式サイト:https://www.ishiyamadera.or.jp/

紫式部所縁の寺

上の写真は源氏物語の作者の紫式部の像です。(土佐光起の筆)
紫式部が「源氏物語」の着想を得たのが石山寺と言われています。

境内図




東大門(重文)

運慶と湛慶作の仁王像も見もの


上の写真は東大門の現地説明板




上の2枚の写真は仁王像は、鎌倉時代の仏師、運慶とその長男、湛慶の作

朗澄大徳ゆかりの庭園





上の写真は石山寺を中興した名僧の朗澄大徳ゆかりの庭園と現地説明板

境内図の朗澄大徳(ろうちょうだいとく)遊鬼境の位置にあります。

大黒天


くぐり石



上の写真はくぐり石と現地説明板。

閼伽井屋

御本尊(如意輪観音)にお供えする水はここから汲まれるそうです。

東池坊密蔵院



上の2枚の写真は東池坊密蔵院と現地説明板
明治26年(1893)、島崎藤村が22才の時、茶丈跡地の「密蔵院」に2か月ほど逗留し
「密蔵記」を著した。後に「瀬田の清流」、「石山の源氏蛍」の作品を執筆

明治学院を卒業後に明治女学院の教師となった藤村は、婚約者がいる教え子(佐藤輔子)に
恋心を抱いたが、失恋して教師を辞して関西を漂白した。
この頃、傷心の藤村が石山寺を参詣したのが明治26年2月であった。
石山寺を参詣した時にハムレット一冊を献じ、その後、四国を旅し、
5月に石山寺に戻り、「密蔵院」で2ヶ月間の居候生活を始め、本格的に文学を志した。
藤村は敬愛する西行や芭蕉の様に旅をすることで情感を養い執筆活動を目指したと思われます。

西国三十三ケ所霊場

上の写真のお堂の中には西国三十三ケ所の全部の尊像を拝観できます。

明王院


蓮如堂



上の2枚の写真は蓮如堂と現地説明板

毘沙門堂





上の3枚の写真は毘沙門堂と現地説明板

御影堂

右端に御影堂が写っています。真ん中は多宝塔の遠景




上の2枚の写真は御影堂の近景と現地説明板

天然記念物 珪灰石



上の2枚の写真は天然記念物(大正11年3月に指定)となっている珪灰石と説明板
石山の起こりになったものです。


当日、咲き誇っていた草花

本堂(国宝)







上の4枚の写真は本堂(正面)と現地説明板
尚、遠景の左手は蓮如堂

ここで石山寺の縁起について簡略に述べていきます。
西国三十三所観音霊場の第13番札所。
聖武天皇が、奈良・東大寺の建立と十六丈の盧舎那仏(大仏)の鋳造を発願されたのは
天平15年(743)でした。それに必要な黄金が日本にないので、良弁僧正に祈らせます。
お告げにによって良弁僧正は近江国石山に草庵を建て、天皇の念持仏をその巖の上に
安置して祈祷すると、陸奥国から金が掘り出されて無事大仏は完成しました。
この時の草庵がもとになって、天平19年(747)に石山寺が開かれたと「石山寺縁起絵巻」が
伝えています。

源氏の間



上の写真は源氏の間の紫式部と現地説明板。

三十八社





上の3枚の写真は三十八社と現地説明板

経蔵



上の2枚の写真は経蔵と現地説明板

重要な経典類などが収蔵されていました。


紫式部供養塔

本堂から上の経蔵の東にあるもので、寺伝紫式部供養塔ともいう。
ふつうは一重である笠(かさ)の部分が三重となっている特殊型で、上層軸部を
ほりだしている点からよせあつめでないことが知られる。
無銘であるが鎌倉時代中期ころの様式をもつ。

芭蕉句碑


鐘楼


多宝塔(国宝)



上の写真は多宝塔の遠景と近景
源頼朝の寄進で建久5年(1194)年に建立されたと伝えられています。




上の写真は多宝塔内部にある大日如来に関する説明板と多宝塔の説明板

宝篋印塔



上の2枚の写真は江戸時代に建立と思われる宝篋印塔




上の2枚の写真は源頼朝と亀ケ谷禅尼の供養塔とされる宝篋印塔と現地説明板
昭和36年(16917)に重要文化財に指定。南北朝時代のものと推定されています。
亀ヶ谷禅尼は頼朝の乳母で頼朝の家来の妻


上の写真は毘沙門堂近くの宝篋印塔
四方に四国八十八箇所霊場の土が埋め込まれているそうです。
宝篋印塔の周りを一周すると八十八箇所を巡る時と同じ功徳があるそうです。

めかくし石



上の2枚の写真はめかくし石と呼ばれる石造宝塔と説明板
多宝塔の西側にあります。

月見堂


心経堂


豊浄館



上の2枚の写真は豊浄舘の建物外観と当日の企画展

光堂




紫式部像


土産物

上の写真は紫式部、大津絵、の土鈴


上の写真は琵琶湖の天然しじみ



志じみ茶屋 湖舟のランチ

石山寺門前の食事処「志じみ茶屋 湖舟」でシジミの釜めしをいただきました。
大津市石山寺3丁目2−37


上の写真はお店の外観




上の2枚の写真はメニュー表

石山寺名物 石餅




上の写真は帰りにいただいた石山寺名物の石餅 300円(税込)です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

須磨消防署 新庁舎が間もなく完成します on 2019-2-16

2019年02月17日 06時44分53秒 | 神戸情報
須磨消防署 新庁舎が急ピッチで工事が進んでおり間もなく完成します。

最近撮った写真を紹介します。

神戸市消防局 須磨消防署の基本情報

住所:神戸市須磨区中島町1丁目1-1 TEL:078-735-0119
職員数:115名 消防車両:17台


公式FB:https://www.facebook.com/sumafire/

新庁舎の工事関連
 入札:2017年6月21日と22日 23日に開札
 工事完成予定:2019年2月28日 落札:明和工務店 9.8億円
 設計:エーアンドディー設計企画
 新庁舎の仕様:5階建て 延べ3,085㎡


工事の範囲は、庁舎棟新築工事、ホース干塔新築工事、訓練棟新築工事、
それに伴う外構工事・土木工事

免振装置不正で話題にのぼりました。
報道された内容は免震・制振装置の検査データ改ざん問題で、KYBは2018年11月9日、
改ざんの有無を調査中のものも含め不正な装置が設置された建物名5件を追加公表した。
須磨消防署(神戸市)と多治見市民病院(岐阜県多治見市)の2件では、顧客と約束した
基準を満たしていない製品を納入していた。

 

2019年2月16日(土)撮影







2019年1月19日(土)撮影







2018年12月15日(土)撮影







2018年10月20日(土)撮影


2018年9月15日(土)撮影

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

比叡山延暦寺と坂本 訪問記 on 2017-10-10~1017-10-12 その15 延暦寺会館での食事と喫茶

2019年02月17日 04時26分27秒 | 滋賀県情報
2017年10月10日から10月12日まで比叡山延暦寺と坂本を訪問しました。

本日はその第15回として2017年10月11日の宿泊場所であった延暦寺会館での
食事の内容と喫茶の内容を写真紹介します。

長い間、完結することなく記事を書くのを中断していましたが、延暦寺の中心的な根本中堂
のある東塔の諸堂と石山寺について記事を書いていなかったので再開することにしました。


本シリーズの過去14回の記事一覧
 比叡山延暦寺と坂本 訪問記 on 2017-10-10~1017-10-12 その1 日吉東照宮

 比叡山延暦寺と坂本 訪問記 on 2017-10-10~1017-10-12 その2 ケーブル坂本駅

 比叡山延暦寺と坂本 訪問記 on 2017-10-10~1017-10-12 その3 求法寺走井元三大師堂

 比叡山延暦寺と坂本 訪問記 on 2017-10-10~1017-10-12 その4 日吉大社

 比叡山延暦寺と坂本 訪問記 on 2017-10-10~1017-10-12 その5 穴太衆積み石垣

 比叡山延暦寺と坂本 訪問記 on 2017-10-10~1017-10-12 その6 慈眼堂(恵日院) 

 比叡山延暦寺と坂本 訪問記 on 2017-10-10~1017-10-12 その7 滋賀院門跡

 比叡山延暦寺と坂本 訪問記 on 2017-10-10~1017-10-12 その8 三井寺(園城寺)

 比叡山延暦寺と坂本 訪問記 on 2017-10-10~1017-10-12 その9 琵琶湖第一疎水のトンネルと大津閘門

 比叡山延暦寺と坂本 訪問記 on 2017-10-10~1017-10-12 その10 大津城跡

 比叡山延暦寺と坂本 訪問記 on 2017-10-10~1017-10-12 その11 延暦寺(横川地区)

 比叡山延暦寺と坂本 訪問記 on 2017-10-10~1017-10-12 その12 延暦寺(西塔地区)

 比叡山延暦寺と坂本 訪問記 on 2017-10-10~1017-10-12 その13 伝教大師像と伝教大師伝

 比叡山延暦寺と坂本 訪問記 on 2017-10-10~1017-10-12 その14 東塔地区諸堂


まず延暦寺会館の基本情報から書いていきます。

延暦寺会館の基本情報

住所:大津市坂本本町4220  TEL:077-578-0047
チェックイン:15:00   チェックアウト:10:00


公式サイト:http://syukubo.jp/

宿泊料金
 1泊2食で2人1室 1人14,000円で宿泊しました。

夕食


朝食


喫茶




上の2枚の写真はカフェラテとアイスコーヒーなど当日頂いた喫茶




上の2枚の写真は名物のカフェラテのメニュー表と干支と梵語一覧表
私が注文したカフェラテにはイノシシの梵語が描かれていました。


上の写真は喫茶の全メニュー表


景観

延暦寺会館からは琵琶湖方面の素晴らしい眺望を観ることができます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

比叡山延暦寺と坂本 訪問記 on 2017-10-10~1017-10-12 その14 延暦寺(東塔地区諸堂)

2019年02月16日 03時58分14秒 | 滋賀県情報
2017年10月10日から10月12日まで比叡山延暦寺と坂本を訪問しました。

本日はその第14回として2017年10月11日と10月12日に訪問した東塔諸堂
を写真紹介します。

長い間、完結することなく記事を書くのを中断していましたが、延暦寺の中心的な根本中堂
のある東塔の諸堂と石山寺について記事を書いていなかったので再開することにしました。


本シリーズの過去13回の記事一覧
 比叡山延暦寺と坂本 訪問記 on 2017-10-10~1017-10-12 その1 日吉東照宮

 比叡山延暦寺と坂本 訪問記 on 2017-10-10~1017-10-12 その2 ケーブル坂本駅

 比叡山延暦寺と坂本 訪問記 on 2017-10-10~1017-10-12 その3 求法寺走井元三大師堂

 比叡山延暦寺と坂本 訪問記 on 2017-10-10~1017-10-12 その4 日吉大社

 比叡山延暦寺と坂本 訪問記 on 2017-10-10~1017-10-12 その5 穴太衆積み石垣

 比叡山延暦寺と坂本 訪問記 on 2017-10-10~1017-10-12 その6 慈眼堂(恵日院) 

 比叡山延暦寺と坂本 訪問記 on 2017-10-10~1017-10-12 その7 滋賀院門跡

 比叡山延暦寺と坂本 訪問記 on 2017-10-10~1017-10-12 その8 三井寺(園城寺)

 比叡山延暦寺と坂本 訪問記 on 2017-10-10~1017-10-12 その9 琵琶湖第一疎水のトンネルと大津閘門

 比叡山延暦寺と坂本 訪問記 on 2017-10-10~1017-10-12 その10 大津城跡

 比叡山延暦寺と坂本 訪問記 on 2017-10-10~1017-10-12 その11 延暦寺(横川地区)

 比叡山延暦寺と坂本 訪問記 on 2017-10-10~1017-10-12 その12 延暦寺(西塔地区)

 比叡山延暦寺と坂本 訪問記 on 2017-10-10~1017-10-12 その13 伝教大師像と伝教大師伝

東塔諸堂配置図







上の4枚の写真は東塔諸堂の配置図です。

東塔諸堂の概要解説は下記サイトで紹介されています。
延暦寺の公式サイト:https://www.hieizan.or.jp/keidai/toudou

根本中堂(国宝)
Wikipediaより根本中堂についての概要を引用紹介します。
伝教大師最澄が延暦7年(788年)に、一乗止観院という草庵を建てたのが始まりとされる。
本尊は最澄が一刀三礼して刻んだ薬師瑠璃光如来と伝えられており(秘仏)、その宝前に
灯明をかかげて以来最澄のともした灯火は1200年間一度も消えることなく輝き続けているので、
「不滅の法灯」と呼ばれる(焼き討ち後の再建時には立石寺から分灯を受けた)。
中堂という呼称の由来は、最澄創建の三堂(薬師堂・文殊堂・経蔵)の中心に位置すること
から薬師堂を中堂と呼ぶようになり、この三堂は後に一つの伽藍にまとめられ、中堂という
名前が残ったとされる。比叡山延暦寺の中心であることから根本中堂といい、比叡山では
東塔という区域の中心的建築物である。


平成28年度から約10年かけて大改修工事が実施されています。

上の写真は改修工事中の根本中堂 撮影:2017-10-11


上の写真は根本中堂の概要説明


上の写真は根本中堂の歴史


上の写真は江戸期の根本中堂


上の写真は改修前の根本中堂


上の写真は根本中堂の変遷 (現地説明板より)






上の3枚の写真は根本中堂の建物と回廊に関する解説(現地説明板より)


上の写真は改修工事の概要説明も記載されている支援要請文


宮沢賢治と根本中堂に関する掲示

大講堂と鐘楼

上の写真は大講堂(重要文化財)の建物外観
5年に1度の法華大会をはじめ経典の講義などが行われる学問修業の道場。
現在の建物は昭和31年(1956)の焼失後に坂本にあった讃仏堂を移築したものです。
堂内には比叡山で修業した各宗派宗祖の木像が安置されています。


上の写真は鐘楼の外観






上の3枚の写真は大講堂の現地説明板

戒壇院







上の4枚の写真は戒壇院と現地説明板
「戒壇」とは正式な僧になるため高僧から必要な戒律を授けるために設置された
施設である。

日本で最初の戒壇は天平勝宝5年(753年)12月20日に仏舎利を携え薩摩坊津で
来日に成功した唐僧鑑真が、同じ年の12月26日に太宰府を訪れ筑紫戒壇院の地で初の
授戒を行った。奈良に招かれた鑑真の提唱で754年に東大寺に臨時に戒壇が設けられた。
ここで鑑真が聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇に戒律を授けた。

天台宗の僧がここで戒律を授かる場所である。
創建は天長5年(828)、御本尊は釈迦牟尼仏

法華総持院東塔・阿弥陀堂

上の写真の右手が阿弥陀堂、左手が法華総持院東塔(多宝塔)
東塔、灌頂堂、寂光堂を総称して法華総持院と言われています。






上の3枚の写真は東塔(多宝塔)のアップと現地説明板


上の写真は六所の宝塔と伝教大師と表した解説板


上の写真は灌頂堂 東塔(多宝塔)の左手にあります。




上の2枚の写真は解説板と鎌倉時代の絵図による東塔の姿を示したもの


上の写真は境内の鐘楼など

前唐院



上の2枚の写真は前唐院と現地説明板
慈覚大師 円仁の住坊であった院です。


上の写真は慈覚大師 円仁の尊像

瑞雲院



上の写真は瑞雲院と現地説明板
延暦寺の法華三昧道場

文殊楼







上の4枚の写真は文殊堂


上の写真は文殊堂より観た根本中堂


上の写真は谷崎潤一郎の「二人の稚児」に出てくる文殊堂の解説板

大黒堂



上の2枚の写真は大黒堂と現地説明板

萬拝堂と無料休憩所


大書院







上の4枚の写真は大書院関連の建物と現地説明板


上の写真は昭和天皇と今上天皇の御行幸の碑


上の写真は宿泊させていただいた延暦寺会館の建物外観




上の2枚の写真は総持坊
延暦寺東塔地区に住む僧侶に食事を提供している坊





上の2枚の写真は蓮如堂と現地説明板




上の写真は法然堂の遠景(東塔西谷にあります)
法然の師である皇円が住んでいた功徳院と伝えられている跡地に昭和初期、浄土宗の
知恩院、西山、深草の3派が勧進してお堂を建設し法然ゆかりの旧跡としたものです。




上の2枚の写真は法然堂の近景
毎月第2日曜日に「法然堂のつどい」が開かれています。


上の写真は浄土宗開基の法然上人の説明板

Wikipediaより延暦寺で修業するまでの過程を記した部分を引用させていただきます。

保延7年(1141年)9歳のとき、土地争論に関連し、明石源内武者貞明が父に夜討を
しかけて殺害してしまうが、その際の父の遺言によって仇討ちを断念し、菩提寺の
院主であった、母方の叔父の僧侶・観覚のもとに引き取られた。その才に気づいた
観覚は出家のための学問をさずけ、また、当時の仏教の最高学府であった比叡山での
勉学を勧めた。
その後、天養2年(1145年)[注釈 5]、比叡山延暦寺に登り、源光に師事した。
源光は自分ではこれ以上教えることがないとして、久安3年(1147年)に同じく
比叡山の皇円の下で得度し、天台座主行玄を戒師として授戒を受けた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岩国行波の神舞

2019年02月15日 03時51分29秒 | 岩国情報
2019年2月9日(土)朝のNHKテレビの番組小さな旅「童の笑顔~シリーズ 三つの物語~」
で山口県岩国市で神楽を舞う中学生で岩国行波(ゆかば)の神舞が紹介されていました。
山口県岩国市行波では、過疎の集落に住む人々を結びつける「神楽」を大切に守る中学生
として紹介。旅人は山本哲也氏

岩国情報を主テーマの一つに掲げている本ブログで最近は岩国情報に関する記事を書いて
いないので今回このテーマを選びました。


岩国行波の神舞(いわくにゆかばのかんまい)は国の重要無形民俗文化財として
昭和54年(1979)2月3日に指定されています。

岩国行波の神舞の解説を文化庁の国指定文化財などのデータベースより引用紹介します。
解説文:
 周防に伝承される神楽の一つで、七年に一度執行される年期神楽である。
毎年十月十四日に小神楽として荒玉社境内でその一部が上演されるが、七年目の大きい神楽
の時には、錦川の川原に赤松の柱九本で約八メートル四方の神殿を建て、屋根を藁のこもで
葺いて中央に天蓋を飾る。さらに神殿より約二十五メートル川上に、非常に高い赤松を
一本立て、八関の舞の時に、この松柱に登る曲芸的な舞を演じる。曲目には、
荘厳【かんごん】(神殿【かんでん】入り)、六色幸文祭【ろくじんこうぶんさい】、
諸神勧請【しよしんかんじよう】、注連灑水【ちゆうれんしやすい】、
荒霊豊鎮【こうれいぶちん】、真榊対応内外【まさかきたいおうないがい】、
日本記、天津岩座【あまついわと】、弓箭【ゆみや】将軍、三宝鬼人、五竜地鎮、
愛宕八幡【あたごはちまん】、八関【はつせき】の舞【まい】、湯立【ゆたて】、火納が
あるが、このうち八関の舞以下は、七年目の神楽の時だけに演じられる。
周防地方に伝承される神楽の中でもきわめて優れた内容を持ち、地方的特色の濃い神楽として
重要である。



最近の7年に一度の第37回年期神楽は2013年4月8日~9日に実施されたようです。

紹介サイトへリンク:
 https://kintaikyo.iwakuni.info/archives/3265

Wikipediaによれば
毎年10月中旬、行波の荒玉社の例祭においても神楽が奉納される。秋の例祭で奉納される
演目は以下の12座である。  

荘厳
六色幸文祭
諸神勧請
注連灑水(ちゅうれんしゃすい)
荒霊豊鎮
真榊対応内外(まさかきたいおうないぎ)
日本紀
天津岩座
弓箭将軍
三宝鬼人
五龍地鎮
愛宕八幡


岩国行波の神舞の歴史をWikipediaより引用紹介します。
起源:以下の2つの説がある。

  室町時代以降に京都地方で始まり、岩国地方に伝えられたとする説。
  荒神神楽として、豊後の国(現在の大分県)から大島郡を経て伝えられたとする説。
1791年:記録に残る最古の神舞。以降、7年毎の願舞は、途切れることなく奉納されている。
     (当時の神舞は神主が主体で執り行なう社人神楽であった)
明治維新の頃:世襲制の廃止に伴い、神舞が神主から里人(地元住民)へと伝授され、
       奉納の主体も地元住民に移る。
  古式がよく守られ、その形態を変えることなく伝承している神楽として、
  以下のような指定、選択を受ける。
1971年(昭和46年):岩国市指定無形民俗文化財に指定される。
1973年(昭和48年)3月30日:山口県指定無形民俗文化財に指定される。
1976年(昭和51年)12月:「記録作成等の措置を講ずるべき無形民俗文化財」に選択される。
1979年(昭和54年)2月3日:国の重要無形民俗文化財に指定される。
2007年(平成19年)4月8日:直近の願舞の行なわれた日(前日は前夜祭)。
2013年4月8日:直近の願舞の行なわれた日(前日は前夜祭)。
2020年4月?:次回の願舞の年(予定)。



前置きが長くなりましたが上記番組の写真を添付していきます。



上の2枚の写真は岩国行波の神舞




上の2枚の写真は練習の様子


上の写真は練習の会場「岩国行波の神舞伝承館」
錦川鉄道の行波駅を降りたすぐの所にあるようです。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ランチパスポート神戸版(Vol.18)を利用した500円ランチ その11(最終回) Cafe B.B.T

2019年02月14日 03時53分10秒 | 神戸情報
ランチパスポート神戸版(Vol.18)を利用した500円ランチをシリーズで記載します。
本日はその第11回で「Cafe B.B.T」でのランチを写真紹介します。
初訪問です。

訪問日:2019年2月8日(金)
ランパス有効期間:2018年11月15日~2019年2月14日

今回が最終回となります。

過去の訪問記:

第1回 ランチパスポート神戸版(Vol.18)を利用した500円ランチ その1 ボウルズキッチン

第2回 ランチパスポート神戸版(Vol.18)を利用した500円ランチ その2 ON THE CURRY

第3回 ランチパスポート神戸版(Vol.18)を利用した500円ランチ その3 よくばりKitchen しりとり

第4回 ランチパスポート神戸版(Vol.18)を利用した500円ランチ その4 ガンジ Gange

第5回 ランチパスポート神戸版(Vol.18)を利用した500円ランチ その5 ボールズキッチン(2)

第6回 ランチパスポート神戸版(Vol.18)を利用した500円ランチ その6  おうどん処 たべよし

第7回 ランチパスポート神戸版(Vol.18)を利用した500円ランチ その7 

第8回 ランチパスポート神戸版(Vol.18)を利用した500円ランチ その8 Mamezo & Cafe 大丸神戸店 

第9回 ランチパスポート神戸版(Vol.18)を利用した500円ランチ その9 よくばりKitchen しりとり(2回目)

第10回 ランチパスポート神戸版(Vol.18)を利用した500円ランチ その10  おうどん処 たべよし(2回目)

Cafe B.B.Tの基本情報

住所:神戸市中央区三宮町1-7-3 B1 TEL:078-331-9137
営業時間:11:00~O.S21:00 (ランパスは17:00まで) 定休日:なし(1/1を除く)
料理ジャンル:軽食、スイーツ 
ランパス掲載ページ:Page46


Goo地図を添付しておきます。



上の写真はランパスメニューの「オムライス」

デミグラソースも美味しくGoodでした。
(ただ店が満客でだいぶ待たされました)


上の写真はお店(地下)への入口
サンドラッグの右手です。




上の2枚の写真は入口に掲示のメニュー表
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ランチパスポート神戸版(Vol.18)を利用した500円ランチ その10  おうどん処 たべよし(2回目)

2019年02月13日 03時39分28秒 | 神戸情報
ランチパスポート神戸版(Vol.18)を利用した500円ランチをシリーズで記載します。
本日はその第10回で「おうどん処 たべよし」でのランチを写真紹介します。
「たべよし」へは第6回に続き2回目の訪問です。

訪問日:2019年1月25日(金)
ランパス有効期間:2018年11月15日~2019年2月14日

過去の訪問記:

第1回 ランチパスポート神戸版(Vol.18)を利用した500円ランチ その1 ボウルズキッチン

第2回 ランチパスポート神戸版(Vol.18)を利用した500円ランチ その2 ON THE CURRY

第3回 ランチパスポート神戸版(Vol.18)を利用した500円ランチ その3 よくばりKitchen しりとり

第4回 ランチパスポート神戸版(Vol.18)を利用した500円ランチ その4 ガンジ Gange

第5回 ランチパスポート神戸版(Vol.18)を利用した500円ランチ その5 ボールズキッチン(2)

第6回 ランチパスポート神戸版(Vol.18)を利用した500円ランチ その6  おうどん処 たべよし

第7回 ランチパスポート神戸版(Vol.18)を利用した500円ランチ その7 

第8回 ランチパスポート神戸版(Vol.18)を利用した500円ランチ その8 Mamezo & Cafe 大丸神戸店 

第9回 ランチパスポート神戸版(Vol.18)を利用した500円ランチ その9 よくばりKitchen しりとり(2回目)

「おうどん処 たべよし」の基本情報

住所:神戸市中央区三宮町2-5-13 香月ビル2F TEL:078-391-5509
営業時間:月曜~土曜11:00~15:00  日曜・祝日11:00~20:00
料理ジャンル:うどん オープン:2015年7月
ランパス掲載ページ:Page21



上の写真はランパスメニューの「ぶっかけおろしうどん」です。

「鶏天」と「ちくわ天」が2つづつ付いています。
さすが讃岐うどんの名店だけあり美味しい

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小山田高家の碑と田辺福麻呂の歌碑  in 処女塚(神戸市東灘区)

2019年02月12日 03時47分58秒 | 神戸情報

2013年3月20日、神戸市東灘区にある3世紀後半の前方後方墳である処女塚を
訪問しています。その時に撮影した小山田高家の碑と田辺福麻呂の歌碑に焦点を当て
ブログ記事を作成していきます。

まず、処女塚古墳について簡単に記載していきます。

処女塚古墳の基本情報

住所:神戸市東灘区御影塚町2-10  
形式:前方後方形 墳長:約68m 後方辺約39m 高さ 7m
                 前方幅約32m 高さ 4m
後方部 3段  前方部 2段 方位はほぼS
立地:砂堆上 標高8m 周辺低地からの比高 2~3m
外表施設:葺石あり(大半は黒雲母花崗岩)
     埴輪は置かれていないがスタンプ文が施された壷が出土(山陰地方の特徴)
     後方墳丘より鼓形器台(山陰地方の特徴)が出土
埋葬施設:後方部中央 棺は未調査のため不詳 
     後方部 南北13m、東西約2.5m花崗岩円礫と粘土 埋葬施設の上面か?
     前方部東側中段に箱式石棺 長さ1m 幅0.25m 板石5枚
     石棺の蓋石上から滑石勾玉比定築造年代:4世紀後半

史跡名勝天然記念物:大正11年(1922)3月8日に指定 
整備事業:昭和54年度(1979)から国の補助金(60.4百万円)を得て整備された。
     昭和59年度(1984)に完成したが完全な復原に至らず


所在地のGoo地図を添付しておきます。



古墳の際には、湊川の戦いに敗れた新田義貞を逃すためにこの地で討ち死にした小山田高家
の石碑と万葉歌人の田辺福麻呂の歌碑が建っています。
上の写真の右手が小山田高家の顕彰石碑、左手が田辺福麻呂の歌碑です。




上の2枚の写真は小山田高家の顕彰石碑と田辺福麻呂の歌碑の近景


上の写真は現地説明板。内容は下記のとおり。

小山田高家の碑
延元元年(1336)、湊川の戦いに敗れた新田義貞は、生田の森から東に
敗走して東明(処女塚付近浜辺)まで来た。しかし、近づいた追手の矢で
馬はたおれ、義貞は馬を降りて、処女塚に登って敵を防いだ、その窮状を
はるかに眺めた小山田太郎高家は、これまでの義貞の恩義を思い出して、
塚に駆け寄って自分の馬に義貞をのせて、東に逃れさせた。高家は塚上
に留まって敵を防いだが、味方の敗色は濃く、ついにこの処女塚の上で
討たれてしまった。
「太平記」の描くこの武勇を記念して、弘化3年(1846)の代官竹垣三左衛門
藤原直道が東明村塚本全左衛門・豊田太平・牧野壮左衛門に命じて
建てさせものである。

田辺福麻呂(さきまろ)の歌碑
 「古の 小竹田荘士(しのだをとこ)の 妻問ひし 兎原処女(うねひおとめ)の
      奥つ城ぞこれ」
この歌は、万葉の歌人、福麻呂が旅の途中で処女塚に立ち寄った時の現況と、
それから受けた感動を歌ったものである、古くから処女塚古墳には、東灘区住吉宮
町一丁目の東求女塚古墳と灘区都通三丁目の西求女塚古墳にまつわる悲恋の伝説が
言い伝えられている。

この伝説は、二人の男性が一人の女性を慕ったため、女性は身を処しかね、
嘆きつつ死んでしまった。
それを知った男性の墓を東西に造ったという物語である。側面には八十一 
 叟正四下位加茂季鷹とある、その左方に建碑年号と思えるものがあるが明
らかではない。               
 平成6年3月 神戸市教育委員会


ここで処女塚古墳についてもう少し詳しく記述していきます。

発掘調査
発掘調査時期:昭和54年度、昭和56年度、昭和57年度

トレンチ図

出典:昭和56年度遺跡現地説明会資料

前方部発掘状況

上の写真は前方部東斜面上段と小段(手前は箱式石棺)
北側より南側に向かって撮影されたもの
出典:史跡処女塚古墳 神戸市教育委員会(2010)
出土遺物は土師器、壺形土器破片、勾玉
特記事項としてはスタンプ文をもつ土器(山陰系の影響)の破片が見つかったことです。


上の写真は同じ場所の図
出典:昭和56年度遺跡現地説明会資料(1981)


上の写真は箱式石棺(北から)
出典:史跡処女塚古墳 神戸市教育委員会(2010)
小型のもので 長さ:92.5cm 北側の幅:30cm 南側の幅:25cm
材質は凝灰質砂岩と花崗岩。蓋石の真上より勾玉1個が発見された。
中段の段築を掘りこんで造られていることから古墳が造られたあとから追葬されたもの 


上の写真は東側下段(北から)
出典:史跡処女塚古墳 神戸市教育委員会(2010)


上の写真は西側下段(北から)
出典:史跡処女塚古墳 神戸市教育委員会(2010)

後方部発掘状況

上の写真は後方部西側斜面(西から)
出典:史跡処女塚古墳 神戸市教育委員会(2010)



上の写真は西側下段(北から)
出典:史跡処女塚古墳 神戸市教育委員会(2010)
くびれ部の東西両下段から壺形土器が出土


上の写真は墳頂(南から)
出典:史跡処女塚古墳 神戸市教育委員会(2010)
墳頂から鼓形器台が出土


上の写真は墳頂石組(南から)
出典:史跡処女塚古墳 神戸市教育委員会(2010)
 埋葬施設の一部と考えられるがどのような構造であったかは確認できず

莵原処女の悲恋伝説
処女塚古墳は西求女塚古墳・東求女塚とともに万葉集や大和物語などに登場する悲恋伝説
「菟原処女の伝説」の舞台としても知られている。
昔、小竹田男(しのだおとこ又はささだおのこ)と血沼丈夫(ちぬのますらお)という
二人の青年が菟名日処女(うないのおとめ)に恋をして、二人は同時に恋文を送りました。
女はどちらにも靡かず、生田川のオシドリを射当てた人に従うと答えますが、
すると二人の矢は同時に鳥を射止めます。
女は悩み抜いて川に身を投げ、その遺体は塚に築きこめられました。
その後、男たちも互いに刺し違えて死んだという…。

 彼ら三人を葬った墓が処女塚と東西の求女塚の古墳だと言われています。
これら3つの古墳は大体等間隔で並んでいます。

また、謡曲「求女塚」などにも登場する古墳です。



上の写真は上述の伝説の場面を絵にしたものです。
出典:摂津名所図会


上の写真は処女塚古墳と東・西求女塚古墳の位置図
出典:史跡処女塚古墳 神戸市教育委員会(2010)

東求女塚古墳は処女塚古墳の東約1500mの位置する前方後円墳で一部が残っています。
万葉集に掲載の高橋虫麻呂の歌では処女塚の墓を中心におき菟名負処女(うなひおとめ)を
めぐって争った2人の男性のうち信太壮士(しのだおとこ)=小竹田男の墓だといわれて
いわれていますが実際のところはこの地方の豪族の墓であると思われます。

西求女塚古墳は処女塚古墳の西約2,000mにある前方後円墳で全部が残っています。
処女塚古墳を中心に西求女塚古墳の前方部が東向きに向いており東求塚古墳の前方部は
西向きに向いているのが面白い。
上記の地図をご参照ください。

関連ブログ:東求女塚古墳 on 2011-4-30

      西求女塚古墳(求女塚西公園)訪問記 on 2011-4-30

参考写真:

上の写真は東求女塚古墳
出典:史跡処女塚古墳 神戸市教育委員会(2010)


上の写真は西求女塚古墳
出典:史跡処女塚古墳 神戸市教育委員会(2010)


2013年の処女塚古墳
詳細は下記ブログ:史跡 処女塚古墳 on 2013-3-20



上の写真は史蹟 処女塚古墳の遠景です。撮影:2013-3-20


上の写真は前方部(南側)より北側の後方部に向けて撮った写真です。撮影:2013-3-20






上の3枚の写真は処女塚道標とその説明板です。 撮影:2013-3-20

昭和初期の処女塚古墳
甲南漬の高嶋酒類食品(株)の3代目高嶋平介氏が「うはらの歴史再発見 ~ちょっと昔の東灘~」
という2000年に発刊された本のPage40-41で昭和初期の処女塚古墳について次のように
回想されています。

昔は処女塚古墳の南側のところまでが海辺であった。
莵原処女の悲話について両親から語り継がれていた。
処女塚古墳は当時、草ぼうぼうで周りは田んぼであった。
女の人は夜、塚付近を通ることを避けていた。
近所の人がお稲荷さんを祀っていた。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする