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行者堂 on 2019-2-9

2019年02月19日 04時10分28秒 | 神戸情報
本日は神戸市垂水区朝谷町9にあります行者堂を紹介します。
所在地は朝谷町の一番北側の東よりの第2神明道路に近いところにあります。
(住宅街の一角)



上の写真は道路側から観た行者堂の遠景です。


上の写真は奥側から観た行者堂の遠景です。






上の3枚の写真は行者堂の祠の近景です。


上の写真は現地説明板。
大和団地株式会社から寄贈

以下現地の説明板より要約引用
行者堂は神変大菩薩役行者をおまつりする堂である。
修験道の祖で欽明天皇の時代の欽明5年(633)大和国に生まれ仏道に帰依し
各地で厳しい修行を積み32歳で座禅三昧の中に大黒天の法力を感得し、大菩薩に
なったという行者を祀ってあるお堂です。
この行者は大宝元年(701)6月7日に68歳で入寂されたそうです。
寛政11年(1800)朝廷は神変大菩薩の号を与えられました。

このお堂は昭和61年(1986)4月吉日に当地に遷座されました。

信仰する人には諸願成就、福徳円満、悪病消除の功徳が授けられると
されています。


役行者についてWikipediaの解説を引用紹介します。
役 小角(えん の おづの /おづぬ /おつの、舒明天皇6年(634年)伝 –
大宝元年6月7日(701年7月16日)伝)は、飛鳥時代の呪術者である。
役行者(えんのぎょうじゃ)、役優婆塞(えんのうばそく)といった呼び名でも
広く知られている[1]。姓は君。 修験道の開祖とされている。 実在の人物だが、
伝えられる人物像は後世の伝説によるところが大きい。
天河大弁財天社や大峯山龍泉寺など多くの修験道の霊場に、役行者を開祖として
いたり、修行の地としたという伝承がある。


役行者は山へ籠もって厳しい修行を行う事により、様々な「験」を得る事という「修験道」
という神仏を融合させた新しい宗教形態を確立させた。
山を神として敬う日本古来の山岳信仰と神道・仏教・道教・陰陽道などが習合して奈良時代に
成立した日本独特の宗教である。
修験道は、明治5年(1872)に太政官名で「廃止」を命じられ、この時点で17万人を数えた
修験先達は激減し、太平洋戦争終了時まで、宗教法制上は非公認となった。


上の写真は行者堂の境内に祀られている山の神の祠

山の神は山に宿る神聖の総称で、農民・山民・漁民と信仰する人々によってその性格や
祀り方は異なっています。農民の信仰する山の神は作物の神で毎年山と村との間を往復し、
春になると村に降りてきて田の神となって稲の成育を守り、秋に稲が実ると、山に帰って
休むと信じられています。

朝谷町(あさたにちょう)について神戸史学会編の神戸の町名(2007)より引用紹介します。
下畑の旧集落の少し南で、塩屋谷川の支流にあたる。鉄拐山への登山道があったこの谷筋には、
朝谷をはじめ雲星・向井・関東林山・栗ノ木山・奥唐戸などの旧小字があった。
朝谷は浅い谷から、栗ノ木山のクリは土砂が崩れ落ちる所をさすのか。奥唐戸のカラトは、
枯れるとか干上がったの意で河川が伏流している様子からか。あるいは、穴・釜・鍋・唐の
つくものは、崖地に因むものが多いという(松尾俊郎説)。また落合重信氏によれば播州地方
では古墳のことをカラトといっている。なお下畑町には塩屋谷川の西に唐ケ谷・唐ノ谷・
唐ケ谷山の小字があり、水の無い川に由来すると考えられる。さらに美ノ谷の小字もあったが、
これは北区山田の箕谷とおなじく「水(み)の谷」からと考えられる。
谷間であったこの地を利用し、鉄拐山の下をトンネルでくぐり、県道神戸明石線が作られた。
その後、昭和57年から60年に「須磨西ネオポリス」が造成され、昭和60年から小字の朝谷を
町名にした。






最後に、2014年4月3日に訪問した吉野山で撮った役行者関連の写真を添付して
終了します。

上の写真は金峰神社の役行者像


上の写真は行者堂 岩組総講




上の2枚の写真は大峰奥駆道の説明板

関連ブログ:後藤大峰研修の碑 on 2014-4-3



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