本日は神戸市垂水区朝谷町9にあります行者堂を紹介します。
所在地は朝谷町の一番北側の東よりの第2神明道路に近いところにあります。
(住宅街の一角)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0b/66/0ead6acb0b661ca97ef1980f32efd62b.jpg)
上の写真は道路側から観た行者堂の遠景です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/88/43ee5cb103c40a21828d0b747d976541.jpg)
上の写真は奥側から観た行者堂の遠景です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/6a/75b7815a2f903aac11dad29541ecb29d.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/86/5ffed614c29b0720d5d66c42747d38fa.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/77/ea/87b1e4ae7519e35255f2d307dc09441a.jpg)
上の3枚の写真は行者堂の祠の近景です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/a8/d0e41393b537b2a345dedf1b19a22db0.jpg)
上の写真は現地説明板。
大和団地株式会社から寄贈
以下現地の説明板より要約引用。
行者堂は神変大菩薩役行者をおまつりする堂である。
修験道の祖で欽明天皇の時代の欽明5年(633)大和国に生まれ仏道に帰依し
各地で厳しい修行を積み32歳で座禅三昧の中に大黒天の法力を感得し、大菩薩に
なったという行者を祀ってあるお堂です。
この行者は大宝元年(701)6月7日に68歳で入寂されたそうです。
寛政11年(1800)朝廷は神変大菩薩の号を与えられました。
このお堂は昭和61年(1986)4月吉日に当地に遷座されました。
信仰する人には諸願成就、福徳円満、悪病消除の功徳が授けられると
されています。
役行者についてWikipediaの解説を引用紹介します。
役 小角(えん の おづの /おづぬ /おつの、舒明天皇6年(634年)伝 –
大宝元年6月7日(701年7月16日)伝)は、飛鳥時代の呪術者である。
役行者(えんのぎょうじゃ)、役優婆塞(えんのうばそく)といった呼び名でも
広く知られている[1]。姓は君。 修験道の開祖とされている。 実在の人物だが、
伝えられる人物像は後世の伝説によるところが大きい。
天河大弁財天社や大峯山龍泉寺など多くの修験道の霊場に、役行者を開祖として
いたり、修行の地としたという伝承がある。
役行者は山へ籠もって厳しい修行を行う事により、様々な「験」を得る事という「修験道」
という神仏を融合させた新しい宗教形態を確立させた。
山を神として敬う日本古来の山岳信仰と神道・仏教・道教・陰陽道などが習合して奈良時代に
成立した日本独特の宗教である。
修験道は、明治5年(1872)に太政官名で「廃止」を命じられ、この時点で17万人を数えた
修験先達は激減し、太平洋戦争終了時まで、宗教法制上は非公認となった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/8e/c8c80c47a75ae1a26850c2c731e841ce.jpg)
上の写真は行者堂の境内に祀られている山の神の祠
山の神は山に宿る神聖の総称で、農民・山民・漁民と信仰する人々によってその性格や
祀り方は異なっています。農民の信仰する山の神は作物の神で毎年山と村との間を往復し、
春になると村に降りてきて田の神となって稲の成育を守り、秋に稲が実ると、山に帰って
休むと信じられています。
朝谷町(あさたにちょう)について神戸史学会編の神戸の町名(2007)より引用紹介します。
下畑の旧集落の少し南で、塩屋谷川の支流にあたる。鉄拐山への登山道があったこの谷筋には、
朝谷をはじめ雲星・向井・関東林山・栗ノ木山・奥唐戸などの旧小字があった。
朝谷は浅い谷から、栗ノ木山のクリは土砂が崩れ落ちる所をさすのか。奥唐戸のカラトは、
枯れるとか干上がったの意で河川が伏流している様子からか。あるいは、穴・釜・鍋・唐の
つくものは、崖地に因むものが多いという(松尾俊郎説)。また落合重信氏によれば播州地方
では古墳のことをカラトといっている。なお下畑町には塩屋谷川の西に唐ケ谷・唐ノ谷・
唐ケ谷山の小字があり、水の無い川に由来すると考えられる。さらに美ノ谷の小字もあったが、
これは北区山田の箕谷とおなじく「水(み)の谷」からと考えられる。
谷間であったこの地を利用し、鉄拐山の下をトンネルでくぐり、県道神戸明石線が作られた。
その後、昭和57年から60年に「須磨西ネオポリス」が造成され、昭和60年から小字の朝谷を
町名にした。
最後に、2014年4月3日に訪問した吉野山で撮った役行者関連の写真を添付して
終了します。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/50/20/e494a895eb53b0e76225620cec437401.jpg)
上の写真は金峰神社の役行者像
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/b4/08e33f262a656f2c19537fa510f41105.jpg)
上の写真は行者堂 岩組総講
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/e0/9db88283b186bae86d3c8cb524d09e34.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/dd/a2018b9170d8d1818b33f3f289b97dc3.jpg)
上の2枚の写真は大峰奥駆道の説明板
関連ブログ:後藤大峰研修の碑 on 2014-4-3
所在地は朝谷町の一番北側の東よりの第2神明道路に近いところにあります。
(住宅街の一角)
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上の写真は道路側から観た行者堂の遠景です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/88/43ee5cb103c40a21828d0b747d976541.jpg)
上の写真は奥側から観た行者堂の遠景です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/6a/75b7815a2f903aac11dad29541ecb29d.jpg)
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/77/ea/87b1e4ae7519e35255f2d307dc09441a.jpg)
上の3枚の写真は行者堂の祠の近景です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/a8/d0e41393b537b2a345dedf1b19a22db0.jpg)
上の写真は現地説明板。
大和団地株式会社から寄贈
以下現地の説明板より要約引用。
行者堂は神変大菩薩役行者をおまつりする堂である。
修験道の祖で欽明天皇の時代の欽明5年(633)大和国に生まれ仏道に帰依し
各地で厳しい修行を積み32歳で座禅三昧の中に大黒天の法力を感得し、大菩薩に
なったという行者を祀ってあるお堂です。
この行者は大宝元年(701)6月7日に68歳で入寂されたそうです。
寛政11年(1800)朝廷は神変大菩薩の号を与えられました。
このお堂は昭和61年(1986)4月吉日に当地に遷座されました。
信仰する人には諸願成就、福徳円満、悪病消除の功徳が授けられると
されています。
役行者についてWikipediaの解説を引用紹介します。
役 小角(えん の おづの /おづぬ /おつの、舒明天皇6年(634年)伝 –
大宝元年6月7日(701年7月16日)伝)は、飛鳥時代の呪術者である。
役行者(えんのぎょうじゃ)、役優婆塞(えんのうばそく)といった呼び名でも
広く知られている[1]。姓は君。 修験道の開祖とされている。 実在の人物だが、
伝えられる人物像は後世の伝説によるところが大きい。
天河大弁財天社や大峯山龍泉寺など多くの修験道の霊場に、役行者を開祖として
いたり、修行の地としたという伝承がある。
役行者は山へ籠もって厳しい修行を行う事により、様々な「験」を得る事という「修験道」
という神仏を融合させた新しい宗教形態を確立させた。
山を神として敬う日本古来の山岳信仰と神道・仏教・道教・陰陽道などが習合して奈良時代に
成立した日本独特の宗教である。
修験道は、明治5年(1872)に太政官名で「廃止」を命じられ、この時点で17万人を数えた
修験先達は激減し、太平洋戦争終了時まで、宗教法制上は非公認となった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/8e/c8c80c47a75ae1a26850c2c731e841ce.jpg)
上の写真は行者堂の境内に祀られている山の神の祠
山の神は山に宿る神聖の総称で、農民・山民・漁民と信仰する人々によってその性格や
祀り方は異なっています。農民の信仰する山の神は作物の神で毎年山と村との間を往復し、
春になると村に降りてきて田の神となって稲の成育を守り、秋に稲が実ると、山に帰って
休むと信じられています。
朝谷町(あさたにちょう)について神戸史学会編の神戸の町名(2007)より引用紹介します。
下畑の旧集落の少し南で、塩屋谷川の支流にあたる。鉄拐山への登山道があったこの谷筋には、
朝谷をはじめ雲星・向井・関東林山・栗ノ木山・奥唐戸などの旧小字があった。
朝谷は浅い谷から、栗ノ木山のクリは土砂が崩れ落ちる所をさすのか。奥唐戸のカラトは、
枯れるとか干上がったの意で河川が伏流している様子からか。あるいは、穴・釜・鍋・唐の
つくものは、崖地に因むものが多いという(松尾俊郎説)。また落合重信氏によれば播州地方
では古墳のことをカラトといっている。なお下畑町には塩屋谷川の西に唐ケ谷・唐ノ谷・
唐ケ谷山の小字があり、水の無い川に由来すると考えられる。さらに美ノ谷の小字もあったが、
これは北区山田の箕谷とおなじく「水(み)の谷」からと考えられる。
谷間であったこの地を利用し、鉄拐山の下をトンネルでくぐり、県道神戸明石線が作られた。
その後、昭和57年から60年に「須磨西ネオポリス」が造成され、昭和60年から小字の朝谷を
町名にした。
最後に、2014年4月3日に訪問した吉野山で撮った役行者関連の写真を添付して
終了します。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/50/20/e494a895eb53b0e76225620cec437401.jpg)
上の写真は金峰神社の役行者像
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/b4/08e33f262a656f2c19537fa510f41105.jpg)
上の写真は行者堂 岩組総講
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/e0/9db88283b186bae86d3c8cb524d09e34.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/dd/a2018b9170d8d1818b33f3f289b97dc3.jpg)
上の2枚の写真は大峰奥駆道の説明板
関連ブログ:後藤大峰研修の碑 on 2014-4-3
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