2017年10月12日、石山寺を訪問していた時に帰りのバスの時刻表を確認する為に
バス停に行った時に偶然に堀田義次郎の銅像を見つけましたので写真紹介します。
尚、石山寺の訪問記は下記ブログで書きました。
比叡山延暦寺と坂本 訪問記 on 2017-10-10~1017-10-12 その16(最終回) 石山寺
上の写真は堀田義次郎の銅像です。
所在地は大津市石山寺3丁目2-37
Goo地図を添付しておきます。
Wikipediaによる堀田義次郎の略歴を引用紹介します。
堀田 義次郎(ほりた ぎじろう、1874年(明治7年)4月14日 - 1942年(昭和17年)11月19日)は、
日本の政治家、内務官僚。衆議院議員、滋賀県知事、大津市長。弓道家(大日本武徳会弓道範士)。
福岡県出身。第五高等学校を卒業。1902年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。
1904年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し内務属となる。
以後、愛媛県事務官、島根県事務官・第四部長、長野県事務官・警察部長、三重県内務部長、
滋賀県内務部長、愛知県内務部長などを歴任。
1919年4月、原内閣により滋賀県知事に登用され、1923年10月まで在任。道路改良計画の推進、
各種学校の新設、開墾者への補助金支給、養蚕業奨励策の実施などを行った。
1924年に退官し、同年5月、第15回衆議院議員総選挙に三重県第一区から出馬して当選し、
衆議院議員を一期務めた。1933年に大津市長(第13代で任期は1933年-1942年)となる。
弓道家としては、1936年(昭和11年)5月に大日本武徳会から弓道範士号を授与された。
1933年(昭和8年)9月、当時の弓道界の懸案であった射型統一のため、大日本武徳会会長
鈴木莊六により全国の著名弓道家からなる「弓道形調査委員会」が構成されたが、
堀田もこれに参加した。
上の写真は銅像のある場所付近から石山寺の遠景を撮ったものです。
バス停に行った時に偶然に堀田義次郎の銅像を見つけましたので写真紹介します。
尚、石山寺の訪問記は下記ブログで書きました。
比叡山延暦寺と坂本 訪問記 on 2017-10-10~1017-10-12 その16(最終回) 石山寺
上の写真は堀田義次郎の銅像です。
所在地は大津市石山寺3丁目2-37
Goo地図を添付しておきます。
Wikipediaによる堀田義次郎の略歴を引用紹介します。
堀田 義次郎(ほりた ぎじろう、1874年(明治7年)4月14日 - 1942年(昭和17年)11月19日)は、
日本の政治家、内務官僚。衆議院議員、滋賀県知事、大津市長。弓道家(大日本武徳会弓道範士)。
福岡県出身。第五高等学校を卒業。1902年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。
1904年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し内務属となる。
以後、愛媛県事務官、島根県事務官・第四部長、長野県事務官・警察部長、三重県内務部長、
滋賀県内務部長、愛知県内務部長などを歴任。
1919年4月、原内閣により滋賀県知事に登用され、1923年10月まで在任。道路改良計画の推進、
各種学校の新設、開墾者への補助金支給、養蚕業奨励策の実施などを行った。
1924年に退官し、同年5月、第15回衆議院議員総選挙に三重県第一区から出馬して当選し、
衆議院議員を一期務めた。1933年に大津市長(第13代で任期は1933年-1942年)となる。
弓道家としては、1936年(昭和11年)5月に大日本武徳会から弓道範士号を授与された。
1933年(昭和8年)9月、当時の弓道界の懸案であった射型統一のため、大日本武徳会会長
鈴木莊六により全国の著名弓道家からなる「弓道形調査委員会」が構成されたが、
堀田もこれに参加した。
上の写真は銅像のある場所付近から石山寺の遠景を撮ったものです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます