神月の5月
季節は禍々しい事件に関係なく、進んでいく。若葉が萌え出る美しい緑に覆われていた山々は濃い初夏の色へと。柔らかな風はスギ花粉とは違う、次のものを乗せて。
それは山梨のはずれにある神月の土地でも変わりはない。GWはもう終わる。
鈴木トヨが神月に来るのは予定よりかなり遅れ短くなった。
田町の家だけではなく、鈴木の家も子供の誕生で忙しかったからだ。
トヨが無事に帰り、父親はトヨを手放すのを嫌がった。常に目の見えるところに置こうとする。そうこうしている間に、トヨの母親は順調に男の子を産み落とした。
トヨが待望していた弟。
だから本当ならば鈴木トヨは神月に行かなくても別に良かったのだ。
トヨの誘拐事件のことは家出事案にすり替えられて地域では周知され、事実を知る人間はわずかになった。そのわずかの人間の配慮によって、父親が大学に申請し出た長めの産休が実現する。母親の真由美は産後の体をいたわらなくてはならないが、トヨはもともと手のかからない子供なのだ。しかし、さらわれたばかりの子供を誰が遠くにやりたいものか。
ところが、トヨが行きたがった。
学校が始まらない、その前に少しでも、一泊だっていい、お願いだからお父さん!
それはもう、熱心に。勿論ハヤトは行かないし、一人なのに。
母親は新生児に手一杯だったし、トヨの面倒を見ていた甘い父親は結局、折れる。
神月から母親真由美の友人であり、事情を全て知らされた寿美恵がわざわざ家まで迎えに来てくれることを快諾してくれたこともある。
『全くおかしな関係だな』と誠治は苦笑するしかない。
神月に行けば、トヨの義理の兄弟である保育士になった加奈枝がいるはずだし、GW中はいとこの渡も大学から帰っている。旅館には綾子や祖父母、渡の友人たち、ユリ、離れの住人たちもいた。一人になることは絶対にない。そう須美江は保証した。
つまるところ、近頃の誠治は寿美恵との現在の距離感が嫌いではないのだ。
トヨ、来る
タトラこと寅さんから客の到来を告げられた、アギュこと阿牛蒼一が神月のリニューアルされた屋敷の和洋折衷の階段を下りていった時。
ちょうど、鈴木トヨは渡とユリに連れられ客間に入ろうとしているところだった。
距離があっても渡がなんだかソワソワしているのがわかる。彼の目は落ち着きなく、輝いている。このなぜか気になる、義理いとこの子供を見たいのだが見てはいけないような感じだ。
それを見まもる阿牛ユリの表情は剣呑。こちらも一目瞭然。ものすごく機嫌が悪い。子供を凝視する時、ユリの目は鈴木トヨを撃ち殺さんばかり。
子供がそれに気づいているのか、全く気がつかないのか、涼しい表情なのが救いだった。
渡とユリはGWの間中、ほぼ毎日、互いの家を行き来していたのだ。二人だけでなかった日も入れれば、会ってなかった日はない。二人は既に互いの親も周囲も認めるカップルなのだから。
ユリはトヨが来ないものと思って安心しきっていたのだろう。
明日は二人で仲良く東京に帰るつもりだった。それが今日になって。突然、渡と自分のテリトリーに侵入して来た子供が許せないのだ。単純に気に入らないのだけならまだいい。
渡の夢の話や変化に敏感なユリは、この子供が渡にとって危険であることがわかっている。
トヨに会う事で、渡の運命が動くことを本能的に恐れる。
そのユリがドアを支えながらこちらを見上げる。
ユリの目はアギュに『なんとかしてよ』と言いたげだった。最近になって、渡からどうにかデモンバルグを遠ざけることに成功したと思いこんでいる阿牛ユリである。もう渡の生を脅かすものはないと、安心しきっていた。それなのに。また別の『脅威』が誕生するなんて!と、ユリは言いたいのだろう。渡の守護者を自認するユリには我慢が出来難い状況だ。
忙しいことだとアギュには、微笑ましかった。
当然のごとく、デモンバルグこと神恭一郎はこの席に招かれていない。
ユリが頑張って渡から遠ざけたと安心仕切っているデモンバルグがだ・・・その『悪魔』がトヨの命を狙っているのだとユリが知ったならば一体どうするだろうか。
トヨが死ぬことまでは願わなくとも、渡から遠ざけるためにユリは『悪魔』と和解し共闘するかもしれない。そうとりとめなく考える。思わずクスリと笑った。
アギュはトヨの目にごく普通の中年男性の世帯主、ユリの父親として写るはずだ。アギュに出会うと自動的に脳の視覚野にハッキングがなされる。タトラが神月に施していたちょっとした脳の錯覚は今や・・・小惑星帯がこの星全体に・・・『果ての地球人』全般に対してだ・・・そのような仕組みを張り巡らせていた。臨界進化体の秘密はそれぐらいの価値があるということ。
だからアギュはためらいなく、普通に歓迎の声をかけた。
渡はおもはゆく、気持ちを持て余していた。
不機嫌なユリの仏頂面は最初から目に入っていたが、それをなだめるいつもの余裕が彼にはない。なぜなら、昼すぎ、子供が旅館『竹本』に到着した。以来、彼はずっと心が乱れ続けている。
鈴木トヨの到着は渡にも不意打ちだった。
若者らしく彼も大人達の会話にはあまり興味を払わなくなっている。
入学したばかり、これまでとは違う難しい勉強もある。
幼い頃から困っていた機械と相性の良すぎる性質は、アギュたちのおかげで抑えることができている。そうでなければ、工学科になど進学できない。理屈でなく動かせた機械たちの、その動く理屈がわかってくると面白くて仕方がない。そんな機械たちを設計し、一から造ってみたいのだ。それは単なる設計や組み立てではない。渡にとっては、命を生み出し、育むことに近い。
そしてさらに、渡は青春の真っただ中にいる。
大学で出会った新たな交友関係が新鮮だ。旧友や交際中のユリとのやりとりも忙しい。
前日は幼馴染のあっちょやシンタニ達と飲み倒した。離れを借り上げている社員たちが留守の間の、気の置けない男子会だ。友人らが帰ったのは朝ごはんを『竹本』で揃って食べてから。
そのあとは母親に呼ばれるまで部屋でいぎたなく眠っていた。
その日、誰かが来るとは察していたが、もともと旅館なので特に気にはしていなかった。母と叔母が揃って迎えに行ったというのもせいぜい大月駅までだと思っていたのだ。
だから、母の綾子や須美江叔母と一緒にお茶とケーキを囲んでいる『客』の姿を目にして初めて渡は驚いたのだった。
挨拶もそこそこに義理従兄弟であるトヨくんの面倒を見てやってと母から頼まれる。
あたりを案内したり、遊び相手になってやれと。年齢は(母や叔母よりは)近いのだからと。
なんなら、ユリちゃんも一緒にとさりげなく付け加えることも忘れない。
トヨは渡の動揺を知ってか、知らずか礼儀正しく挨拶をしただけだ。
それでもトヨが、以前より興奮しソワソワしているように感じたのは考えすぎだろうか。
渡が毎晩、夢に見る女性の面影とは似ても似つかないトヨだ。
だけども、この子供に会ってから子供の時以来、見なかった夢が再び蘇った。その内容も格段に具体的になったことはまぎれもない事実なのだ。
それだけではない、この子供は間違いなく問答無用で落ち着かない気分にさせる。渡にとってそれは、夢から地続きした罪悪感であり、前世の虚無感のような複雑な気持ちだ。
頼りになりそうな加奈枝はいない。朝から友達と出かけていると言われる。
困り切った渡が阿牛邸に行くことにしたのは、母からユリの名が出たことからだ。
それにこの子供を巡る自分でもどうしようもない困った心の動きを知っているのも、それを相談できるのもユリだけだったから。
それになぜか、子供も会いたがっていた。
『あのおねえちゃんはどうしているの?おねえちゃんの家に遊びに行ってみたいよ。』
これ幸いと電話するともちろん、ユリは断らなかった。
渡を救うのは自分の使命と思っているユリなのだから。
渡のピンチに、付き添わなくてどうする。