母さんは仕事帰りの道ばたで死んだ。
誰かが気がついたときは手遅れだったの。
あたしは知らせを受けて、大学から駆けつけた。
自宅のベッドに横たわった母さんはいつもよりも、もっともっと小さく見えた。
どんなにか、無念だっただろう。
あたしが大学を卒業する日をどれだけ楽しみにしていたことか。
それに、残されたあたしのことを思ったら。
かあさんはまだまだ、あたしを一人ぼっちにする気などなかったのだから。
あたしは胸が張り裂けるほど泣きたかったけど、泣いてる場合じゃなかった。
貯金はわずかしかなかったわ。近所のヒスパニックの母さんの元友達が葬儀の手はずを整えてくれた。あたしのことで絶交していた人達だった。黙って黙々と働いてくれたおばさん達に助けられて、簡素ながら母さんを見送ることができたわ。
牧師さんもあたしの喪服姿にも文句ひとつ言わず、努めてくれたし。教会の墓地に母さんは眠っている。物見高い噂好きの集団も来てあたしをジロジロ見たけど、それだって葬儀の後にご近所さん達との会合程あたしを打ちのめさなかった。母さんの友達にはあたしほんと感謝してる、心底ありがたかったのよ。でも、彼らとあたしは相容れなかったの。
あたしがちゃんとした男のかっこに戻って、世間から後ろ指さされないように生きるなら母さんに免じて、大学の教材費や生活費のわずかな援助とか勉強しながらできる仕事とかであたしを助けてあげてもいいと彼らは言ってくれた。でも、あたしはそんな嘘はもう付きたくなかった。だって他ならぬ、母さんの葬儀の後なんだもの。あたしの最高の戦友を裏切ることはできないわ。何より、自分がそんなことはもう嫌だったの。
それで、とうとう大家さんはすまなそうにしながらもはっきりと言ったわ。自分の持ち家たる建物はあたしのようなものにはふさわしくないんだよと。
アパートはなるべく早くでなくてはならなかった。
なのにあたしは家を借りたこともないときた。勿論、働いたことも。
かなり割安にしてもらったとはいえ母さんの葬儀代を支払った後、引っ越して家賃を払ったら貯金が底を付いてしまうことは充分わかってた。大学は奨学金があったからまだ何とかなるけど、生活費の当てはなかった。
つまり、あたしはすぐにでも・・このあたしのままで働ける仕事が必要だった。
あたしは途方にくれてしまったけど、泣き言は言えなかった。
近所の人々もあたしの母さんには借りがあったけど、あたしにはなかった。特に、馬鹿げた女のかっこをやめようともしない息子には関わりを持たないと言った後ではなおさらね。
あたしはいっそ死んじゃおうかと思った。本当よ。その場の勢いってやつよ。
でも、それはそれで母さんが望んではいないような気がしたから。
母さんの葬儀の次の日、どこをどう歩いたかわからない。
あたしはただひたすら街をさまよい歩いた。日が暮れて寒くて、お腹が減って寂しかった。大好きな母さんがもういない、冷たい土の下にいるなんて。信じられなかったの。それがすべて、2、3日で変わってしまったことが・・・あたしに現実に降り掛かっている運命なんだということがどうしても飲み込めなかった。いえ、飲み込みたくなかったんだと思う。
女のなりでウロウロしているあたしに変な親父が声をかけて来たのはそんな時。
身なりはちゃんとしていたけど、嫌な眼をしていた。あたしは振り切って逃げたんだけど、そいつはしばらく後を付いて来た。あたしを娼婦かなんかと勘違いしてると思ったからあたしは怖かった。だから、広場に出た時巡回している警官がこっちに歩いて来るのが見えた時、そこからも思わずあたしは逃げたの。女の身なりをしていることが警官にわかれば、助けになるどころかもっと不愉快なことになると思ったから。その時は、これ以上もうたくさんだった。
でも入った路地は袋小路だったから、あたしはそこの塀を乗り越えた。
後はどこをどうしたんだか、そんな風に目暗滅法に垣根の穴を通ったり隙間に潜り込んだりしてあたしは逃げた。恐怖で夢中だったの。
気がついたら、どこかの公園のような場所にいた。噴水があって街灯が配置された花壇を中心に、放射状に広がる茂みに薔薇が咲いていた。うっそうとした樫の枝葉があたしを包むように多い隠していた。
そこは本当にとても静かだった。私がさっきまで彷徨っていた同じ街中とは思えないくらい。噴水の小さな水音以外は、風の音もなかった。湿った落ち葉の匂いの中に花の香りが微かにただよっていたわ。
風景が涙で滲んでまるで夢の中にいるみたいだった。
ほっとしたら、すごくお腹が空いたのを覚えている。そして初めてしみじみと母さんのことで心から泣ける気がした。泣いてもいい気がしたの。
そこはほんとうに迷い込んだお伽の国のように美しかったから。
白亜のヴィクトリア調の建物も現実離れして見えたし。月に照らされたその建物は
気持ちのいいくらいに完璧なまでのシンメトリーだった。
あたしはそこのテラスに吸い寄せられるようにフラフラと歩いて行った。
ひどいカッコをしていたと思う。翌朝見たら、スカートはかぎ裂きがあちこちにできてボロボロ、靴もドロドロだった。むき出しの腕や膝も傷だらけ、髪も落ち葉や蜘蛛の巣だらけで爆発したみたいだった。でも、その時はまったく痛みも何も感じなかった。
テラスは暗い灯に照らされて白く輝いていた。あたしはクラリサを始めて見た壇上のステージを思い出して胸が痛くなった。母さんを失った今、あたしの心の支えはクラリサだけになった。でも、ステージに立つクラリサ・デラとあたしの差はあまりにも歴然としていた。クラリサはあたしには遠い星だった。
テラスには大理石のベンチが置いてあった。足下にウサギと花と背にかけて優雅な鹿が彫られたとても凝った彫刻に覆われていてそれは美しいベンチだった。
でも、そこに座るのはためらわれたわ。だって、灯りは一つも付いてなかったけど、人がいるかも知れなかったもの。そしてもしも人がいたら、あたしは絶対に招かざる侵入者以外の何でもないんだから。
あたしはテラスを避けて、窓の下の茂みを目指すことにしたの。露で下着が濡れないようにスカートを巻き付けて、自分の膝を抱え込んだ。それでも露は冷たかった。冷たさが体の隅々に染み渡るまで待って、それから泣いたわ。心行くまで。
母さんを思って。情けない自分を思って。
最初は静かに泣いてたと思うんだけど、気がつくとあたしは押さえきれなくなって嗚咽していたの。
物見高い見物客の前で泣けなかったぶん、あたしは心置
きなく慟哭したわ。
「ボブ?」
そんな時突然、上から声が振って来た。
「ボブ・ギルバート?」
あたしの感覚はまだ麻痺していたから、あたしは呼ばれるままぼうっと涙に曇る眼を上に上げたのを覚えてる。
天使があたしを見下ろしていた。
それはクラリサ・デラだった。
顔は白く青い目は宝石のように煌めいて見えた。
渦巻く金髪が光輪みたい月の光りで輝いていた。
そのとき、彼女は笑っていなかったと思う。
多分、戸惑っていたんじゃないかしら。
でもあたしの目にはクラリサであることしか目に入らなかった。
ああ、なんて美しいんだろう。
クラリサの存在があたしのヒビだらけの心に
しみ込んでいくのがわかった。
この時のことをなんと言ったらいいんだろう?
あたしは一生、忘れないだろうと思うの。
神様っているのかもしれないって初めて思ったこと。
もし、神様でないとしたら
きっと母さんがあたしを守ってくれているんだって。
あたしは呆然と彼女を見上げていたの。
暗闇の中のあたしの天使。
それはもう、馬鹿みたいに口を開けて。