深夜。クララは一人、客室にいた。
ベッドルームとリビングルームに別れた部屋の扉が開け放たれている。
皺ひとつないベッドはクララが一度も眠ろうとしていないことを語っている。
床に置かれたトランクもパーティの前に着替える為に開いた、そのまま。
クララは着替えもせず、客用の応接セットの深い椅子に頭をたれ力なく座っていた。
目の前の低いテーブルにはシビルの亡骸が・・・亡骸だと知っているのはクララだけだったが・・・ダラリといかにも縫いぐるみの熊らしく置かれていた。
ブラインズ婦人の付き添いを断るのは骨を折った。パーティの客の1人だった、国立病院の院長とか言う医者には見てもらうしかなかったけれども、鎮静剤を打たれるのは頑強に断った。みんな、私がいかれている・・・いっそのこと精神病院の医者にかかるべきだと思ってるんだわ、とクララは悲しく考えていた。
涙はもう枯れていた。
シビル。シビルなくして私に何ができるのだろう。
2歳のときからずっと・・・母よりも父よりもシビルは私の良き理解者だった。
クララは考えを巡らせる。
つかの間、自分が見た・・・見せられた映像。あのベッド。あれはシビルの記憶ではないのかしら。産まれ来る妹。
あれは私のことだ。
シビル。
目の前の片目が欠けた縫いぐるみを見つめた。あの後、随分と色々な人々がシビルを叩いてくれたのだが、ビロードの生地の足の裏には今もキラキラした硝子のほんの小さな欠片が刺さっているのが見えた。力の入らない指を伸ばしてそれを取りさる。それから・・・やっぱり大好きな手触り。
ゆっくりと柔らかな足を撫でさすった。
大好きなシビル。
本当に死んでしまったの?。私を1人・・クララだけを残して。
クララは自分が見たローズマリーを思い返す。あれはなんなのだろう。最初、ブラインズ婦人に写真を見せられた時にクララは咄嗟に判断が下せなかった。人形に重なる少女の面影は・・・そうまるで投影された映像のようで・・・だから自分はシビルにローズマリーがシビルと同じような未練を残して去った子供であるとは確信を持って言えなかったのだ。
おかしな話だ。あの顔のない少女は。クララはうちから来る震えを必死に押さえつける。あの子が恐ろしい。こんなことは始めてだった。ひとりぼっちなのも。
心細い、怖い。いや、怖くなんかない。負けるものか。
シビルはきっとどこかにいる。
テディ・ベアの容れ物から抜け出ただけ。
絶対にシビルを取り返さなきゃならない。
そうだ。
無意識にクララは立ち上がっている。
シビルが死ぬわけがないのだ。だって、もともと死んでいるんだもの。
シビルは・・・
ふいに確信が閃く。
きっと、あのローズマリーに囚われているに違いない。
シビルを固く抱きしめていた笑顔。見えないのに笑顔だとわかる。
私はあの時、それがすごく不安だった。
それで油断した。情けない。
クララの中に一旦は失われていた闘志がみなぎり始めていく。
シビルは私を守る為に自分を賭けたのだ。
だから自分、クララ・フォッシュは断固として敗北するわけにはいかない。
シビルを取り返すのだ。
今すぐ、あの人形に会わなくては。
クララは意を決すると、テーブルからテディ・ベアを抱き上げた。
しかし、クララが自分の客室の廊下側のドアに向かった瞬間、鍵をかけたはずのドアが外側から勢い良く開かれていた。
「・・・どこに行こうと言うのかな。マドモアゼル。」
立ちふさがっていたのはロシフォード氏だった。
待ち構えていた・・・自分を監視していたのかもしれないその異常にクララは最初はまったく気が付かなかった。むしろ今すぐに人形のもとに案内してもらうには真に都合が良いとさえ思っていた。
「あの!」息を継ぐ。「ロシフォードさん、私すぐに、今すぐローズマリーに会わなくてはならないんです!お願いします、ローズマリーに会わせてください。」
「・・・ほおぉ。」氏の口から呆れたような声が漏れた。目が見開かれるがそこに驚きの表情はない。むしろ、それを予想していたかのようである。
「ふん。やはりな、そう来たか。あんたの魂胆は見えすいているんだ。」
その言葉の蔑む口調で、やっと異常に気が付いた。
「あの、ロシフォードさん・・・」
クララは手にした縫いぐるみを差し出しかけるが困惑し口ごもる。しかし、言わなくてはならないシビルの為に。
「私、あの・・このシビルの為に・・あの、これがシビルです・・・実は・・・」
「あんたのその忌々しい縫いぐるみなど知るか!」
彼の剣幕にクララはたじろぐ。
縫いぐるみに憑いていたシビルの・・・自分の姉の話等、この男に通じそうもなかった。
「・・硝子ケースのことでしたら、謝りますわ。」
やっとそういうのが精一杯だった。
「硝子ケースだと!」入り口の男が吠えた。
「あれはイタリアで特注した防弾硝子なんだぞ!」
男が室内に体を無理矢理、押し込むとクララ・フォッシュは後戻りするほかはなかった。男の後ろに両側から戸を塞ぐように現れた二人の大柄な黒服の男達を充分に見て取ることができたからだ。二人とも気質ではなかった。感情を押し隠した無表情な顔には荒っぽい暴力の香りがする。
気を取られた一瞬、ロシフォード氏が乱暴にクララから縫いぐるみを奪う。
「あの硝子には大枚をはたいたんだ。あれはな、ちょっとやそっとじゃ壊れるはずないんだよ!あんたがこの縫いぐるみに爆薬でも仕込んでいたんじゃないのかね。」
あまりの飛躍にクララは驚愕する。
「はあ!なんですって!」クララがシビルと作り上げたお育ちの良い上流階級向けの霊媒師のメッキがはげる。そこにはローザンヌの鉄工所の所長の娘が残された。
「あんた、バカじゃないの!何を言ってるの?」
男の金の指輪を幾つもした無骨な大きな手が縫いぐるみを大雑把に調べあげる。ローザンヌの工員の娘は男が熊を床に投げ出す前にすばやく奪い返していた。
上目使いに相手を射抜いたその視線は冷たく鋭い。
「どうでした?爆弾の欠片でも見つかりました?」クララは皮肉に口を歪めた。
ロシフォード氏は忌々し気に目の前の若い娘を睨み返す。
「どういうつもりか、正直に言えば警察に突き出すのは控えてやってもいいぞ。」
「警察?」器物損壊で?
この熊の縫いぐるみを投げつけて私が防弾硝子を割っただなんて本気でこの男は思っているのだろうか。
「そんな馬鹿げた話、誰も信じるもんですか。」
二人はしばし無言で睨み合う。
最初に折れたのはロシフォード氏だった。
「フン。まあ、いい。」咳払いに誤摩化すが、その嫌な目付きは変わりがない。
「確かにその熊には仕掛けはなさそうだ。しかし・・・共犯者がいないわけがない。」
「共犯者?」
「泥棒だよ。」
「泥棒?」意味を掴めず、クララは間抜けに繰り返す。「泥棒ですって?」
「そうだ。」
「私が泥棒だっておっしゃるんですか?!」
ふいに怒りが込み上げる。
「なんの根拠があって!私を泥棒と決めつけるのですか!」冗談じゃなかった。
「確かにケースを壊したのは悪かったと思います。でも、わざとじゃないんです。
私だってどうして割れたんだかわからないんです。勿論、弁償しろって言うならいますぐに弁償しますわ!」
いったいいくらなんだろうとおののきながらもクララが勇気を持って投げつけた言葉も、ロシフォード氏に大した興味がなさそうに肩をすくめさせただけだ。
「弁償などいらん。」モゴモゴとつぶやくと窓に向けて歩き出す。
「あんたは・・・本当に知らんのか。」
促されクララ・フォッシュは縫いぐるみを腕に後を追った。出口のドアは用心棒二人に完全に塞がれている。
「知るって何をなんです。」追いついたクララの目を覆い被さるように氏は覗き込んだ。
「宝石泥棒だ。『黒金貨』とかいうふざけた名前を名乗っている。」
人々が噂していた言葉の断片が頭の隅に閃いた。
「・・・お金持ちの家を専門に狙うとかいう・・・のですか?」
「その通り!」恫喝するかのように氏は叫ぶ。
「男だと言う話もあるが、女であってもおかしくはなかろう。女が共犯者で事件のお膳立てをするって可能性もある。勿論、あんただ。今夜あそこでローズマリーの声で茶番をし出したときは胆を冷やしたもんだ。盗人が人形を狙っているって最中にあんたはだ、いいかこう言ったんだ。ローズマリーがこの家をキライだとな!ここを出て行きたいと!もうすぐここからいなくなるとだ!こんな偶然があるか?!これをお膳立てと言わずしてなんと言う?!」
クララは思わず目眩を覚え、眉間を指で押さえた。
「そんな・・・私は自分が何を言ったかも覚えていませんのに。」
「そんなこと信用できるものか。」
そう言われても、今のクララはシビルのことであの時も今も精一杯なのだ。
自分が陥った馬鹿らしい立場に溜まらず、ため息が漏れる。
「もう私・・・とても話に付いて行けません。」
「私もだ。」
口調を改め、ロシフォード氏は閉まっていたテラスに通じるカーテンを開く。
「実はだ。数日前に予告状が届いている。」
「予告状・・・?」
「まったくだよ。私を完全に馬鹿にした話だ。あんまり腹がたったんで、また返り討ちにしてやろうと思ってだ、それは私が握り潰した。」
ロシフォード氏はクララの腕を掴むとテラスへと引き出す。クララは氏がもう自分に対しては本気で怒っているわけではないことを察したので黙って付いて行くに任せた。彼が腹を立てているのはその盗人に対してなのだった。
氏が振り返り耳元で言う。
「知ってるのは使用人でも極一部、私の側近だけだ。パーティは罠だ。準備万端、返り討ちって寸法だった。勿論、家内は知らん。だからだ、降霊会などとふざけたことを言い出しおった時は正直困ったよ。どっちみち止めろと言ったって泥棒の話をしないことにはだ、あれは余興を止めるわけはない。せっかくの家内の楽しみだ。私はほっとくことにした。あんたはただのインチキだとさっきまでは思っていたからな。あんたの縫いぐるみがローズマリーを守る硝子を木っ端みじんにするまではだ。」
「では今は・・・インチキではない代わりに泥棒の片棒を担いでいると・・・?」
「あんたには・・あんたの縫いぐるみかも知れんが・・・なんらかの力があることは認めよう。」
氏はテラスから身を乗り出し何かを確認すると、クララにも見るようにと場所を空けた。
「・・!」覗き込んだクララは息を詰める。
下のホールではまだまだ一晩中起きて騒ぐつもりの人々のざわめきが微かに聞こえる。見下ろす開けた玄関ホールには今も帰宅する客達の為に車がひしめき灯りが絶える気配がない。でもよく見るとだった・・・そこここの木の茂み、彫刻の陰にいやに沢山の男達が潜んでいることがみてとれる。
こちらを見上げてロシフォード氏に会釈する夜会服の男が携えているのはどうみてもマシンガンだった。
「これだけじゃない。」後ろに寄り添うロシフォード氏が囁く。
「あちこちに潜ませている。勿論、下の客の中にもだ。」
「そんな・・・巻き添えになる人がでるかもしれないのに。」
「そんな間抜けはせん!敵の狙いは人形だけだ。さっきまではだ、ローズマリーは絶対に安全だったのだ。衆人環視の前で防弾硝子とガードマンにガッチリ守られておった。」
「じゃあ、今はローズマリーはどこにあるんですの?」
「家内と甥が付いて部屋にある。」
あっとクララは口を押さえた。
「ラモン!彼は・・・!彼はいけません!」
「んん?」血相を変えたクララに今度戸惑うのはロシフォード氏だった。
「私の甥がなんですと?」
「彼は不吉です!」クララは叫んでいた。