『チチ』の企み
トヨの家はいつ来ても居心地がいいな、とハヤトは思う。
あの後、トヨが教師に『知らない男に声をかけられた』と伝えるとすぐさま全てが早い速度で回り始めた。警察とトヨの家に連絡、校長が二人に聞き取りをしてる間にも警察とトヨの母が相次いで到着する。久しぶりに見たトヨの母の外見が変わっていたのでハヤトは少し驚く。トヨの母は突き出たお腹をかばうようにして、歩くのが遅かった。
トヨが『しつこくつきまとってきた』と説明した男の特徴は、ハヤトの父親よりもあの変態のものだったことには軽く驚いたがあの変態がトヨのストーカーなのは事実だからまあいいか。
息を整えるトヨの母が、息子を安心させるために取り乱さないように自分を極力抑えているのがよくわかりハヤトは感心する。
当然ながらハヤトの家は電話すら通じない。
「お留守のようですな。」そう言う教師の声は当惑している。問題のある家庭なら当然というか、諦めが滲むというか。母親が心身の不調で現在は働いていないなどの事情は把握しているのだ。
「おかあさん。」と、トヨが母親のマタニティウェアのスカートを軽く引く。
「ハヤトもうちに連れて帰ってよ、いいでしょ。」
トヨの要望は即座に受け入れられた。むしろトヨの母親もそうしようと思っていたようだ。
大人たちはハヤトの複雑な事情を暗黙に了解している。
帰り道、トヨは母に手を引かれハヤトはトヨに手を引かれて帰る。トヨは母に合わせてゆっくりと歩く。ハヤトの家には寄らず、まっすぐに家に向かった。あえて事件の話はしない。
家に着くとトヨの母が飲み物やお菓子を手早く用意し、トヨは慣れた様子でそれを手伝う。ハヤトもぎこちなくお菓子を応接間に運んだ。知識による『お手伝い』とはこういうことかと。
「ハヤトくん、あなたのお母さんに声をかけてくるから待ってて。」
子供たちがそれらを口にして落ち着いたと見るや、トヨの母親はあくまで自然にそう口にして腹をかばいながら立ち上がる。トヨが僕が行くというが、笑ってそれを止める。
「こういうのは大人に任せて。それよりお留守番、おねがい。」
母親を気遣うトヨ、それは母親の太ったことと関係あるのだろう。
「気をつけてね。」トヨが手を振る。
トヨは母が心配だが、僕のためにここに残るのだ。
トヨはハヤトに向かってニコリと笑いソファの隣にポン飛び乗った。
弾みのついたソファに揺られ体をぶつけ合いながらハヤトも笑う。内心覚悟するしかない。
できれば清潔で居心地の良いこの家にずっといたいけれども。
この家は空気からして甘い良い匂いだ。
父親はまだ大学から帰っていない。だけどもそこここに父親のスリッパや上掛けや湯のみ、応接間の本棚にずらりと並んだ書籍や写真立てに気配がちゃんと感じられた。仲良しの家族。
二人は飲み物とお菓子を口にしながら、満ち足りてしばらく無言でいた。
「いいな、お前んち。」言葉が口から飛び出している。
「そうかな。」トヨはストローをくわえる。「普通だよ。」
その普通が僕にはないんだよな、とハヤトは言いたい。もう直ぐこのくつろぎは終わる。
何か叫びが聞こえた。それから廊下に乱れた足音。次に起きたことは・・・例えいかなるものに動じない宇宙人類だとしても、誰もが悪夢と感じただろう。ハヤトは迎えには『チチ』が来ると思っていたから、『ハハ』が意味不明な声をあげてすごい勢いで飛び込んできた時に驚き慌ててしまった。乱れた白髪交じりのざんばら髪、組み合わせの色がおかしいくたびれた服。血し走った目と顔色の悪いあれた肌。遺伝子上、彼女とは何の関係もないということをハヤトがこの時ほど嬉しく思ったことはない。しかし曲がりなりにも現在、その息子という立場上、平常心ではとてもいられない。トヨとトヨの素敵な家、その母親の手前。
つまり・・ものすごく恥ずかしかったのだ。
そんな子供の葛藤も知らない『ハハ』はソファにトヨと並んで座るハヤトを見つける。悲鳴にも似た声(どうやら名前らしい)とともに突進してきた。テーブルにぶつかりソーダのコップが倒れ、お菓子の皿が床に落ちて割れる。ハヤトは穴があれば隠れてしまいたい。伸びてきたシミの浮いた手を子供は反射的にかわしてしまう。ストローをくわえてびっくりして固まってるトヨの後ろへと彼は逃げこんだ。『ハハ』の手が上着を掴み引きずり出そうとする。
「ハヤトくんのお母さん落ち着いて!」
後ろから追ってきたらしいトヨの母親は息を切らしている。
「田町さん!」「おばさん」トヨの声。ハヤトはトヨの背中でそれを聞く。
「大丈夫だよ、心配しないでいいよ。」すごく静かな声。
『ハハ』の手の力が抜ける。ハヤトは身を起こし、おっかなびっくり顔を向ける。
驚いたことにトヨは『ハハ』の腕に手を重ねていた。生理的にハヤトが避けた汗ばんだ肌。
「おばさん・・・もう、怖わくないよ。ハヤトはここにいるからね。」
『ハハ』は僕しか見ていない。いやでも目が合う。腫れ上がり、涙に埋もれた目だ。
そして母の方から視線を外し、その場にストンと腰が落ちる。
「ハヤト、ごめんなさい、ハヤト、ママを許して」
トヨとトヨの家族の素敵な応接間の床で、何を言い出すのかとハヤトは恐れる。
「もう、いいよ。」思えば直接、ハヤトが『ハハ』に声をかけるのは始めてかもしれない。
「ママは悪くない、僕は何ともないから。」
笛のように喉が鳴り、顔を覆い泣き出した。「やめてよ。」ハヤトは『チチ』を恨む。
『ハハ』を送り込んだ『チチ』を。
「田町さん」トヨの母が後ろから『ハハ』の体に手を置く。
「ハヤトくんもうちのトヨも無事なんです。何事もなくてよかったんです。」
『ハハ』の匂いに気づかれるのではないかとハヤトは顔を伏せてしまう。
「どうしたんだ?」男の人の戸惑った声。「これは、どういう騒ぎなんだ?」
研究室から帰ってきたトヨの父が入り口に立っていた。
ハヤトは『ハハ』の手をとれなかった。服の袖を掴んで我が家に向かう。トヨの父が付き添ってきた。家の玄関に『チチ』が立っている。ハヤトは思い切り睨みつけてやったが無視される。
「わざわざ、すいません。」涼しい顔でホムンクルスがトヨの父に頭を下げている。
「奥に入ってなさい。」『チチ』が『ハハ』からハヤトを助ける気がないことがはっきりわかった。渋々、ハヤトは『ハハ』とともに屋内に入る。玄関ドアが閉められた。表でトヨの父と低い声で話をしている。「私も今、帰りまして。」などと嘘をついている。「ああ、私もなんですよ。」疑うことを知らなそうなトヨの父はゆったりと喋る。「お互い何もなくてよかったですな。」
そっちが気になったが、『ハハ』が縋りついてくる。
「おかあさん。」ハヤトは仕方なく話しかけた。ハヤトの中にはトヨの話し方が、『ハハ』への扱いがある。優しくしようと務めている自分を自覚した。
「もう、いいから。僕に済まないとか、悪いとか、もう考えないで。」
『ハハ』の目が見開かれた。充血していなかったらきれいな目なんだろうと思う。
「おかあさんは僕に何にもしていない。」実際、『僕』には何もしていない。
それにもうハヤトは確信していた。『ハヤト』を殺したのは屋敷政則、本物の父親だ。
「僕にはわかってるから。」おそらく『ハハ』は埋められるハヤトを見ていただけ。
「こうして生きているんだから。」
そのセリフを最後まで言う前に『ハハ』に体は包み込まれていた。
「ごめんなさい・・」謝るのをやめさせるのは不可能だと悟る。
「・・・ごめんなさい」それでも『ハハ』の涙はこれまでよりもずっと静かになった。
これまでも何度か書いたがハヤトは触れられることに慣れていない。だからハヤトは体を硬くして我慢して抱かれていた。『ハハ』の汗の匂いと共に遠慮がちに背中のランドセルに指を置くその体の震えが伝わってくる。ハヤトは『ハハ』の背中をその頭越しに見下ろし、ハッとする。トヨの母と比べてこの『ハハ』の体の薄さにだ。
ハヤトは思わず手を肩に置く・・・突き出た肩の骨。ハヤトの肩に置かれた母の尖った顎の骨。
不意に『ハハ』が弱い、おそらく自分よりもとても弱い存在であるという感情が湧きあがった。トヨと肌が触れ合った時の不思議な気持ちとは違う・・・あの時の胸の内が熱いような思いとは。ハヤトの力が抜けると同時に、背後のドアが開く。
「女、子供を放せ。」
冷たく見下ろす『チチ』の視線が背後からでもわかる。
『ハハ』が体を離そうとしないのでハヤトは自分で引き剥がそうと力を入れる。その方が『ハハ』にとって安全なんだと伝えたかった。「大丈夫、離れて。」
『ハハ』の目にうなづく。『チチ』に気づかれないように。
『ハハ』はおとなしく体を引いて離れ、目を伏せた。
そんな二人の様子に『チチ』がじっと目を注いでるのが痛いほどわかる。
「いつの間に・・うまくしつけたな。」
「別に。しつけたわけじゃない。」ハヤトは乱暴に靴を脱いで廊下に上がる。
「来てくれなかったじゃないか。」「当たり前だ。」『チチ』が笑う。
「女、お前も上にあがれ。ハヤトのメシとやらを作れ。」『ハハ』がのろのろと廊下を歩き出す。「・・実の父親だった。」小声に『チチ』が首をかしげる。「ハヤトの・・・僕の。」
「それがなんだ?。」ああ、こいつは僕を監視してたんだったとハヤトは苦く。
「・・彼、ハヤトと僕がわからなかった。ハヤトを殺してたのは奴だった。」『ハハ』の記憶は違っている。「私は、最初から人の記憶など全面の信用は置いいてなどいない。まして狂った女の記憶など。ただでさえ、人間は簡単に自分の都合で記憶を書き換える。宇宙人類だろうが原始人類だろうと同じだ。完全に抽出するには殺さないとな。」『チチ』の目が『ハハ』から移動する。「ただ、今回は狂っている方が都合が良かった。あの女の実態をあの家族に見せることも計算のうちだからな。」『チチ』がハヤトに自分の計画をベラベラと喋ることなど珍しいことだった。自分を『選民』とする宇宙人類もさすがに退屈の極みに達したのか。
ハヤトはそんなことを考えた。「ふぅん。」ハヤトはランドゼル越しに『チチ』を振り返る。
「うまくいったぞ。」確かに『チチ』は己の手腕に悦に入っていた。
「お前を神月に招待させた。」「何のこと?」
「あの父親にお願いしたのさ。俺はお前の実の父親ではないからな。実の母親は頭がおかしい。もう直ぐ、『入院』することになる。さしあたってお前の精神状態が心配だとか、何とかな。鈴木トヨの父親はいたく同情した。GW、息子を神月に預ける予定だから、お前も一緒にどうかと言いださせた。」
急展開に僕はついていけない。「そうなの?」あと2週間もない。
「母親が腹の子を分娩する間だ。」「そうか。あのお腹・・・」
子供がいるんだ?トヨみたいな?あっいや、あそこまでは大きくないか。頭の中のこの星の常識をかき集める。見たことはない、小さな弱々しい赤ん坊という存在。
「お前とあの特殊能力者の子供とはすでに充分な信頼関係ができたようだ。夫婦は揃ってお人好しだ、二人は息子の友達であるお前のことを自分の家族の延長線上のように心配するようになるだろう。」「そういうもの・・なの?。」
「そういうものだ。だが、安心するのは早い。神月に行ってからが正念場だ。」
「あなた、ハヤトをどこにやるの?」怒りのこもった強い言葉。僕は飛び上がった。いつの間にか『ハハ』がすぐそばに戻っていた。
「ハヤトをどうしようというの?」『ハハ』は僕に手をまわす。
「この子はどこにもやらない、どこにもやるもんですか!」
『チチ』が『ハハ』の反抗に驚いたのだとしても外面には何の影響もでなかった。
「黙れ、女。」そう言って伸ばした指が『ハハ』に伸ばされる。『ハハ』は逃げなかったが、習慣的に視線をそらした。眉間に火花が散り、『ハハ』は震え頽れた。
「・・・何をしたの?」ハヤトは声がかすれた。
「ちょっとショックを与えただけだ。上書きした記憶が溶けてきたようだからな。脳に信号を送り初期化する必要もあるかもしれない。」『チチ』が覆いかぶさるように見下ろす。
「まさか、お前・・この星でいう『情』とかいうものが湧いたわけではないな。」「まさか。」
「お前には『父』も『母』もない。お前は寄せ集めからつくられた、ただの『木偶』だ。この『星』とも、この『女』とも何の関係もない。」
「わかってる。当たり前だろ。」「安心しろ。この女も、もういらなくなる。」
ハヤトの目が黒々となる。
「大切な『親友』には父親もなく、母親もいなくなった方がいい。内縁の夫にすぎない俺はお前の引き取りを拒否し姿を消す。あの父親によるとだいぶ前から、あの子供はお前を神月に誘ってくれたら嬉しいと言ってたらしいぞ。行き場がなくなったお前をあの夫婦は引き取りたいと必ず言い出すだろう。いや、言いだすのさ。そういう風に持って行く。」
自分の体が唾をに見込むのをハヤトは感じる。
「そうか。うまくいくといいね。」
「うまくいくさ。お前の役目を、うまくやれ。普通に振舞うだけだ、誰だってできる。余計なことは何もしなくていい、簡単な仕事だ。」誰だってできる仕事、僕でなくても。
ハヤトはもう『ハハ』を見ない。早足で遠ざかる。後ろから声が追った。
「あの子供の友達として、できるだけいろいろなところを見るんだ。そこにいる人間と会え。私に情報を渡す、ただそれだけだ。ただし、決して疑われるな。そんなことすら・・・できなければ、わかるな?」
返事はしなかった。痛いほど、わかってる。
そのために作られた。トヨの家族に取り入り、神月に近づく。
だけども。だけどもだ。
たとえドギーバッグに戻されるとしても。
『チチ』にこころの動きを悟られても構わない。
ハヤトは、自分の役目がすごく嫌になってきている。
リビングのドアが閉まった。『チチ』は足元の『ハハ』を見る。
その目は細められ、さらに冷たくなる。
「女、起きろ。」『ハハ』の目が開かれる。頭が持ち上がる。
視界は膜が覆ったようにぼんやりとし、ロボットのようなぎこちない動きだ。
「よく聞くがいい。今日、ハヤトに近づいた男は、屋敷政則だ。」
「・・・屋敷!」目の焦点が合って行く。
「そうだ。ハヤトの実の父親だ。お前の前でハヤトを殺し、ハヤトを埋め、ついさっきまでハヤトが死んだと安心仕きっていた男だ。そいつが今はハヤトが生きていることを知ってしまった。さて、どうなると思う?」
「あの人が・・・!」『ハハ』は両手を強く揉みしだいた。「なんで!・・・なんで、今更?」
自分と子供への恐怖を思い出し、心配と苦悩で。「あの人、またハヤトに?!」
「そうだ、また殴る。お前とハヤトを殴るために戻ってくるぞ。今度こそ、失敗しないためにだ。屋敷政則はハヤトを、殺すために戻ってくる。」
『苦悩』が『ハハ』の顔を歪ませ、歯をむき出しにする。
「そんなことさせない!」歯噛みする口元から漏れるヒステリックな唸り。
「そんなこと・・・2度とさせない・・・!させるもんかっ!」
「殺せ。」『チチ』が『ハハ』の目を捉えるとゆっくりと言葉を繰り返す。
「いいか。屋敷政則がハヤトを殺す前に女、お前が殺せ。それしか、お前がハヤトを救う道はない。わかったか。」「殺すしか・・・道はない。」
『ハハ』はうなづき、ギラついた目は再びどんよりと曇っていく。
言葉が『ハハ』の脳にゆっくりとしみ込んでいく証拠だ。
「さぁ、ハヤトの飯を作れ。」その言葉に答え、『ハハ』が立ち上がる。
それを背後から凝視する『チチ』は思案気だ。
「もともと提督が考えた、くだらない簡単な作戦だ。私に言わせれば造作もない。あともう少しだというのにだ。もともと信頼などはしていないが・・・用心することに越したことはない。原始人どもは私の理解を超える。」
ホムンクルスの中での『チチ』の思考がどこかへと放たれる。
「念のためだ。いつでも稼動できるように、スペアも用意する。」