地下鉄南北線に乗り、愛宕橋駅で降りる。
目的はこの駅から約500メートルほど離れた石名坂を訪ねること。
石名(いしな)は吉原の遊女、この地出身だと伝えられている。
本名は石那だともいわれ吉原の遊女として有名だったという。
その碑は曹洞宗、円福寺にあるというのでまず円福寺を探し回った
あまりこの近辺には土地勘がないので、ウロウロと歩き回りようやく見つけた。
山門のすぐ左手に、その碑はあった
石名の名が刻まれ、ひっそりとたたずんでいる。
この石名坂近辺は政宗の隠居所、若林城造営とともに町割りされたところ
近くには足軽屋敷が置かれたという。
話を石名に戻すと寺の境内の一角にある石名の碑には
承応3年(1654)と記されている。
石名は貧しい武家の出と伝えられている
美貌と教養で多くの男どもを魅了し、入れあげて没落した商家なども
数多いという。
石名は没後、墓石を近くの橋の敷石にしてくれと依頼したといわれる
生前の行いを悔い、多くの人に踏みつけられて過ごすためだと語り継がれている
死後、吉原の遊女や旦那衆は大般若経600巻を寺に送り、石名を供養したという
故郷の歴史に、実に多くの事実や言い伝えがあるのだと思いながら
その場を後にした。
目的はこの駅から約500メートルほど離れた石名坂を訪ねること。
石名(いしな)は吉原の遊女、この地出身だと伝えられている。
本名は石那だともいわれ吉原の遊女として有名だったという。
その碑は曹洞宗、円福寺にあるというのでまず円福寺を探し回った
あまりこの近辺には土地勘がないので、ウロウロと歩き回りようやく見つけた。
山門のすぐ左手に、その碑はあった
石名の名が刻まれ、ひっそりとたたずんでいる。
この石名坂近辺は政宗の隠居所、若林城造営とともに町割りされたところ
近くには足軽屋敷が置かれたという。
話を石名に戻すと寺の境内の一角にある石名の碑には
承応3年(1654)と記されている。
石名は貧しい武家の出と伝えられている
美貌と教養で多くの男どもを魅了し、入れあげて没落した商家なども
数多いという。
石名は没後、墓石を近くの橋の敷石にしてくれと依頼したといわれる
生前の行いを悔い、多くの人に踏みつけられて過ごすためだと語り継がれている
死後、吉原の遊女や旦那衆は大般若経600巻を寺に送り、石名を供養したという
故郷の歴史に、実に多くの事実や言い伝えがあるのだと思いながら
その場を後にした。