ぶらいやWATTY 探求の泉

人生も残り少なくなってきたので、単なる近況報告となります。

世界観2

2012年07月14日 16時43分11秒 | 妄想
今回も「妄想」のジャンルで。
もしかしたら、文章が稚拙過ぎて後日書き直すかも。

私は「生まれ代わり」は信じていない。人生はやはり一度きりである。
かつて読んだ本には、過去世の記憶を持つ人達の話を元に調査したら、文献等記録がない事まで知っていたとか、現地へ確認に行った研究者が証言が事実であることがわかったとか書いてあった。

しかし、それは臓器移植時にも言われる記憶保存・伝送が何らかのかたちで行われたのかもしれない。

それにもまして、心情的には、過去の記憶がない為、それを元に因果応報を実感できないということが何よりもそう思う理由である。

過去世であんなことをしたから今はひどい目にあっているとか、こんなことをしたので良い思いをしているということが実感できない。例え「転生」というものがあったにせよ、過去世の記憶が無かったり、次第に全て消失してしまうのでは、反省・後悔または歓喜や溜飲を下げることもできない。

もちろん、生物的因縁を全て断ち切って、別の「役柄」に行くほうが、本当は良いと思うが、多少は客観的視点でもいいので過去世の記憶があると良いと思う。

魂の転生というものはなく、例えば、大きな球の表面に数多くの窓が有り、中心からそれぞれの窓から顔を出すようなものかもしれぬ。球の内部が「阿頼耶識」、窓から顔を出し見た景色や印象が「熏習」。
球は均等に大きくなり窓も大きくなるか、それとも歪み縮んで建付悪く窓も開かなくなるのか知らないけど。


過去・現在・未来をいわゆる「現実世界」で同時に生きている人達は、その意識・行為が呪い・妬み・嫌がらせであるならば、永遠に呪縛から逃れられないということ。そんな輩を助けてやろうと思うことはなんと自分を過信した思い上がった発想であるとも言える。人間を甘く見ている。いわゆる「現実世界」は過去・現在・未来は相互に連関しているとはいえ、区別して考え多少なりとも進歩すべきではなかろうか。進歩したくない、むしろ退歩したい、「ずっとうずくまっていたい」(松任谷由美:「最後の春休み」の歌詞抜粋)場合もあるのでなんとも言えませんけど。
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