現在、兵庫県において、斎藤知事が百条委員会に自身の正当(責任回避??)を主張するため、そして委員会からの疑惑・疑問等に答えている。
さて、その場で宣誓をしているけど、あれって誰に対して誓いを立てているのでしょうね。
本来、遵法精神というものはかなり厳しく激しい宗教心で鍛えられるものである。これは本人ということもなく、精神性の高い人であれば、先祖代々の歴史や伝統によっても受け継ぐことができる。だから所属し教育されてきた社会から得ることも可能なのだが、やはり本人の信仰心が最も重要だ。
この宣誓の作法も当然キリスト教文化が祖である。結婚式もそうだが教会で互いの愛を誓っていたりするけれど、お互いに誓うことも今はそうなのだろうが、本来は天主に誓うものである。
もし斎藤元彦が決して嘘をついてはいけないと誓うべき人がいなかったら、あんなもの、只の形骸化した所作に過ぎない。内面的には時間の無駄である。
虚偽の発言をしたらどのような罰則があるか前もって通告するか(ここまでは尋問前に伝えている)亡き祖父に誓えるか、と脅すほうがまだましだ。まあ委員会での虚偽は罰則ありと重々わかっていよう。だけど彼はすぐに記憶が無くなるから念押しとてやらんとな。
この際、裁判の宣誓のときでも「良心に従い」と述べるのだが、これは「正義(を求める)心、「善なる心」と文字が示すとおり、日本人は考えてしまう。
だが、そもそも善悪が存在しない自然界であるが、神の下に生かされている自分が、なにものにも妨げられず、自らが正しい道を歩むと確信しながら言動を行おうという気持ちである。だから、人という動物でなく"神の下で"人間となり生きてきた自分が自由に正直に話すということである。回りくどいが。
しかし、あの斎藤元彦という男は、あんなに威張ったり怒ったりでよく疲れないものだと感心してしまう。
(続く)