16世紀にヘンリー八世がローマ教皇から独立し,「イギリス国教会」を立てたあと,イギリスのアイルランド支配には宗教色が加わります。イギリスは敬虔なカトリックの国アイルランドに対して露骨な宗教弾圧を行ったのです。1536年,「アイルランド国教会制度」を導入し,改宗に従わないカトリックの地主から土地を没収しました。
その後のクロムウェルとウィリアム3世による弾圧はさらに過酷でした。クロムウェルは,カトリックに対し宗教的憎悪に燃える清教徒の兵士を率いて侵攻し,女子供も容赦なく虐殺したそうです。クロムウェルという名前はアイルランド人にとって今もなお,悪魔の代名詞になっています。カトリックの土地はすべて取り上げられ,カトリックのアイルランド人は土地所有,公職への就職,大学教育など重要な権利を奪われ,徹底的に差別されました。そして,北アイルランドへは新教徒の植民が大規模に行われました。
それに続くウィリアム3世も無用の殺戮を繰り返し,この二人の極悪人の侵攻によって,アイルランドの全人口の3分の1が死亡または国外流出したと言われています。
クロムウェルとウィリアム3世は,さしずめ韓国人にとっての豊臣秀吉と加藤清正でしょう。
イギリスがかくも徹底的な宗教弾圧を行った背景には,地政学的な理由があります。当時,イギリスと覇を争っていたスペインとフランスは,大陸におけるカトリックの大国でした。アイルランドは,イギリスにとって,カトリック国家の進出拠点になりうる「匕首」のような存在だったからです。
これは19世紀,朝鮮半島がロシアの手におちれば,「日本の心臓を狙う短剣」になると,日本の指導者が考えていたことと通じます。
アイルランドの宗教問題を複雑にするのは,北アイルランドの新教徒です。彼らは長老派と呼ばれるプロテスタントで,イギリス国教会とは一線を画していたために,やはり宗教的な弾圧を受けました。彼らアングロ・アイリッシュ(入植したイギリス系アイルランド人)は,この点ではカトリックのアイルランド人と利害が一致し,18世紀後半になると,ともに自治要求に立ち上がります。その結果,アイルランドは一時的に自治を獲得しましたが,18世紀末の「独立」を求める蜂起をきっかけに,1801年,イギリスに併合されてしまいます。
カトリック差別政策は,公職追放,遺産相続,借地権への制限,選挙権剥奪など多岐に及びましたが,もっとも大きかったのは土地所有の制限でした。18世紀初頭,全人口の4分の3を占めるカトリック系アイルランド人が所有する土地はわずか14%。このような差別の中で,アイルランド人の多数がカトリック信仰を維持したというのは驚きです。
ところが,宗教弾圧は,イギリスによる併合(1801年)の前後に,むしろ緩和されます。「カトリック救済法」により,いくつかの差別的な規制が撤廃され,1829年「カトリック解放法」が成立したあとは,カトリックのアイルランド人にも議員,閣僚,裁判官,陸海軍の将官への道が開かれました。さらに68年には宗教解放令,69年には国教会廃止令が出されて,カトリックからも長老派からも反発のあった「10分の1税」(国教会に納める税金)が撤廃されました。こうして,カトリックのアイルランド人にとっての問題は,「土地問題」に絞られるようになったのです。
さて,日本の韓国支配における宗教政策はどういうものだったか。
朝鮮時代,仏教は迫害されており,僧侶は賤 民階級であって,寺は山奥に追われていました。日本の植民地時代,仏教に対する迫害政策は改められ,仏教は保護されましたが,日本が仏教を積極的に布教したわけではありません。
また,3・1運動が起こったとき,キリスト教徒や天道教徒が弾圧されました(堤岩里教会虐殺事件)が,これは独立運動に対する弾圧であって,宗教弾圧というのとは違うでしょう。
むしろ,日本が朝鮮に持ち込み,韓国人に屈辱をあたえたのは,「天皇教」たる「国家神道」の強制でした。
日本の支配は,800年に渡るイギリスのアイルランド支配に比べれば,35年というわずかな期間ですが,イギリスではアイルランド併合後にカトリックに対する弾圧が緩和されたのに対し,日本の場合は,末期にいくほど過酷になったという点で対照的です。
日本は合併(1910年)後,1918年から8年間をかけて,天照大神と明示天皇を祭神とする「朝鮮神宮」を建立。1938年末までに,58の神社と324の神祠(小さな神社)を作りました。
そして朝鮮人に対しては,神社への参拝を強要,宮城(皇居)遥拝,御真影への最敬礼(腰を90度まげる丁重なお辞儀)をも強制しました。これが本格化したのは,1936年,南総督が「皇民化政策」強化を打ち出してから。さらに対中戦争と大東亜戦争が始まると,いよいよエスカレートしていきます。
1937年には,韓国人用に,「皇国臣民の誓詞」が制定され,小中学校児童に暗唱を義務づけました。
皇国臣民ノ誓詞(其ノ一)〈小学校用〉
一、私共ハ 大日本帝国ノ臣民デアリマス
二、私共ハ 心ヲ合セテ 天皇陛下ニ忠義ヲ尽シマス
三、私共ハ 忍苦鍛練シテ 立派ナ強イ国民トナリマス
皇国臣民ノ誓詞(其ノ二)〈中学校以上用〉
一、我等ハ皇国臣民ナリ 忠節以テ君国ニ報ゼン
二、我等皇国臣民ハ 互ニ信愛協力シ 以テ団結ヲ固クセン
三、我等皇国臣民ハ 忍苦鍛練力ヲ養ヒ以テ皇道ヲ宣揚セン
当たり前のことですが,朝鮮の人々は,この日本伝来の宗教に冷淡でした。しかし,これらの強制に従わなかった人々には,さまざまな差別が加えられたため,渋々従っていた人が多かったのでしょう。
そして,終戦後,神社は次々に焼き払われました。8月15日の夜,平壌神社が焼き討ちされ,翌日,翌々日には朝鮮各地に及び,9月の初めまでに30の神社,総数の60%が灰になりました。
朝鮮神宮は,焼き討ちを恐れて,総督府自らの手で本殿を解体,神体や宝物とともに焼却しました。
その後のクロムウェルとウィリアム3世による弾圧はさらに過酷でした。クロムウェルは,カトリックに対し宗教的憎悪に燃える清教徒の兵士を率いて侵攻し,女子供も容赦なく虐殺したそうです。クロムウェルという名前はアイルランド人にとって今もなお,悪魔の代名詞になっています。カトリックの土地はすべて取り上げられ,カトリックのアイルランド人は土地所有,公職への就職,大学教育など重要な権利を奪われ,徹底的に差別されました。そして,北アイルランドへは新教徒の植民が大規模に行われました。
それに続くウィリアム3世も無用の殺戮を繰り返し,この二人の極悪人の侵攻によって,アイルランドの全人口の3分の1が死亡または国外流出したと言われています。
クロムウェルとウィリアム3世は,さしずめ韓国人にとっての豊臣秀吉と加藤清正でしょう。
イギリスがかくも徹底的な宗教弾圧を行った背景には,地政学的な理由があります。当時,イギリスと覇を争っていたスペインとフランスは,大陸におけるカトリックの大国でした。アイルランドは,イギリスにとって,カトリック国家の進出拠点になりうる「匕首」のような存在だったからです。
これは19世紀,朝鮮半島がロシアの手におちれば,「日本の心臓を狙う短剣」になると,日本の指導者が考えていたことと通じます。
アイルランドの宗教問題を複雑にするのは,北アイルランドの新教徒です。彼らは長老派と呼ばれるプロテスタントで,イギリス国教会とは一線を画していたために,やはり宗教的な弾圧を受けました。彼らアングロ・アイリッシュ(入植したイギリス系アイルランド人)は,この点ではカトリックのアイルランド人と利害が一致し,18世紀後半になると,ともに自治要求に立ち上がります。その結果,アイルランドは一時的に自治を獲得しましたが,18世紀末の「独立」を求める蜂起をきっかけに,1801年,イギリスに併合されてしまいます。
カトリック差別政策は,公職追放,遺産相続,借地権への制限,選挙権剥奪など多岐に及びましたが,もっとも大きかったのは土地所有の制限でした。18世紀初頭,全人口の4分の3を占めるカトリック系アイルランド人が所有する土地はわずか14%。このような差別の中で,アイルランド人の多数がカトリック信仰を維持したというのは驚きです。
ところが,宗教弾圧は,イギリスによる併合(1801年)の前後に,むしろ緩和されます。「カトリック救済法」により,いくつかの差別的な規制が撤廃され,1829年「カトリック解放法」が成立したあとは,カトリックのアイルランド人にも議員,閣僚,裁判官,陸海軍の将官への道が開かれました。さらに68年には宗教解放令,69年には国教会廃止令が出されて,カトリックからも長老派からも反発のあった「10分の1税」(国教会に納める税金)が撤廃されました。こうして,カトリックのアイルランド人にとっての問題は,「土地問題」に絞られるようになったのです。
さて,日本の韓国支配における宗教政策はどういうものだったか。
朝鮮時代,仏教は迫害されており,僧侶は賤 民階級であって,寺は山奥に追われていました。日本の植民地時代,仏教に対する迫害政策は改められ,仏教は保護されましたが,日本が仏教を積極的に布教したわけではありません。
また,3・1運動が起こったとき,キリスト教徒や天道教徒が弾圧されました(堤岩里教会虐殺事件)が,これは独立運動に対する弾圧であって,宗教弾圧というのとは違うでしょう。
むしろ,日本が朝鮮に持ち込み,韓国人に屈辱をあたえたのは,「天皇教」たる「国家神道」の強制でした。
日本の支配は,800年に渡るイギリスのアイルランド支配に比べれば,35年というわずかな期間ですが,イギリスではアイルランド併合後にカトリックに対する弾圧が緩和されたのに対し,日本の場合は,末期にいくほど過酷になったという点で対照的です。
日本は合併(1910年)後,1918年から8年間をかけて,天照大神と明示天皇を祭神とする「朝鮮神宮」を建立。1938年末までに,58の神社と324の神祠(小さな神社)を作りました。
そして朝鮮人に対しては,神社への参拝を強要,宮城(皇居)遥拝,御真影への最敬礼(腰を90度まげる丁重なお辞儀)をも強制しました。これが本格化したのは,1936年,南総督が「皇民化政策」強化を打ち出してから。さらに対中戦争と大東亜戦争が始まると,いよいよエスカレートしていきます。
1937年には,韓国人用に,「皇国臣民の誓詞」が制定され,小中学校児童に暗唱を義務づけました。
皇国臣民ノ誓詞(其ノ一)〈小学校用〉
一、私共ハ 大日本帝国ノ臣民デアリマス
二、私共ハ 心ヲ合セテ 天皇陛下ニ忠義ヲ尽シマス
三、私共ハ 忍苦鍛練シテ 立派ナ強イ国民トナリマス
皇国臣民ノ誓詞(其ノ二)〈中学校以上用〉
一、我等ハ皇国臣民ナリ 忠節以テ君国ニ報ゼン
二、我等皇国臣民ハ 互ニ信愛協力シ 以テ団結ヲ固クセン
三、我等皇国臣民ハ 忍苦鍛練力ヲ養ヒ以テ皇道ヲ宣揚セン
当たり前のことですが,朝鮮の人々は,この日本伝来の宗教に冷淡でした。しかし,これらの強制に従わなかった人々には,さまざまな差別が加えられたため,渋々従っていた人が多かったのでしょう。
そして,終戦後,神社は次々に焼き払われました。8月15日の夜,平壌神社が焼き討ちされ,翌日,翌々日には朝鮮各地に及び,9月の初めまでに30の神社,総数の60%が灰になりました。
朝鮮神宮は,焼き討ちを恐れて,総督府自らの手で本殿を解体,神体や宝物とともに焼却しました。
アイルランドの状況はもっと根が深くて複雑だし
状況や背景がわりと違うし逆にわかりにくくなると思います
状況や背景がぜんぜん違うにもかかわらず,妙にアナロジーが成り立ちそうなところが面白いかな,と思いました。
読みとばしていただければと思います。