犬鍋のヨロマル漫談

ヨロマルとは韓国語で諸言語の意。日本語、韓国語、英語、ロシア語などの言葉と酒・食・歴史にまつわるエッセー。

韓国の社会科教科書最新版

2011-09-02 23:37:10 | 韓国の教科書

 韓国では、日本同様に、数年ごとに教科書が改訂されます。今年は小学校5、6年生の教科書改訂の年。小学校5年生2学期の社会科の教科書が手に入ったので、本邦初訳でご紹介します。

 韓国の国定社会科教科書については、ソウル大学教授の李栄薫教授がつとに批判してきました。韓国の教科書には「神話」が書かれている、と。

 李教授が「誤り」と指摘した部分は、どのように変わったのか、変わらなかったのか。


韓国国定社会教科書5-2 

4 国権喪失と民族の受難

(前略)

77ページ

日帝の経済収奪政策と影響

 国を奪った日帝は、土地調査事業を実施した。土地を持つ人は、地主として認められるために、土地の持ち主、価格、形、大きさなどを、決められた日までに申告しなければならなかった。

 日帝は、申告内容を調査し、土地税を徹底して科した。そして申告されなかった土地を国有地にしたあと、東洋殖託株式会社に引き渡し、日本人にとるにたらない価格で売った。これによって、わが国に渡ってきた日本人は、多くの土地を持てるようになった。

 一方、昔から農民たちは自分の所有ではない土地で土地使用料を払って長い間農業をすることができた。しかし土地調査事業以後、自分が農業をしていた土地から追い出された農民たちが増え、農民たちは毎年、地主が望む高い使用料を出さなければ農業ができなくなった。高くなった土地使用料と上がった税金負担のために農民たちの生活はいっそう苦しくなった。

語注
経済収奪政策:収奪は「強制的に奪うこと」を意味するが、しばしば日帝がわが国で行った経済政策を収奪政策と言う。

写真
①東洋殖託株式会社:日帝が設立した会社で、朝鮮総督府から引き渡された土地を日本人に廉価に転売し日本人の韓国定着を助けた。
②土地税台帳を制作するようす
③土地を調査している日本人技術者たち

グラフ 農業形態の比率
1916年 地主2.5%、自作農20.1%、自作兼小作農40.6%、小作農36.8%
1932年 地主3.5%、自作農16.3%、自作兼小作農34.5%、小作農42.2%

78ページ

 日帝は、土地調査事業に続いて、米の生産を増やす政策である産米増殖計画を実施した。日帝の命令で、農民たちは貯水池と水路を作り、新しい品種を買って植え、多くの肥料を使用した。

 その結果、米の生産量が増えた。しかし日帝は増えた生産量より多くの量の米を日本へ持っていき、わが国には米がだんだん不足するようになった。農民たちの生活は、上がった米価と貯水池、水路を作る工事費まで負担させられ、いっそう苦しくなった。耐えられなくなった一部農民たちは、都市や満州、日本などへ向かった。

 一方、日帝は、わが国に会社を作ろうとするとき、朝鮮総督府の許可を受けさせた。ところが日本人がわが国に投資する余裕が生じると、自由に会社を作れるようにした。これによって、多くの日本企業がわが国に進出した。

写真 日本へ持っていく米が山のように積まれている仁川港

グラフ
米生産量と日本へ持って行った量
1920年 12,708 1,750(単位:石)
1922年 14,324 3,316
1924年 15,174 4,722
1926年 14,073 5,479
1928年 17,298 7,405
1930年 13,511 5,426

一人当たり米消費量
1920年 0.63(単位:石)
1922年 0.63
1924年 0.60
1926年 0.53
1928年 0.54
1930年 0.45

79ページ

日帝強占期の都市の変化と人々の生活
 日帝は米と綿花を輸出する港と交通の中心地、日本軍が駐屯する所、工場が建てられた所を、都市として発展させた。特に日本人が多く住む所を都市として指定し上下水道を整備し、医療施設を拡張した。

 都市の中心街には、日本人居住地域と商店街を造成した。日本人と少数の韓国人たちは、建物内にトイレと風呂を備えた新式住宅を建てて住んだ。彼らは百貨店と商店街で買い物をしたり、劇場で映画を見るなどの余暇生活を楽しんだ。彼らの子女は西洋式学生服を着て、新しく建てられた学校で勉強をした。

 日帝強占期の間、都市の数が増え、新しい文物が入ってきて、生活が便利になった。しかし、日本人と少数の韓国人のみがその恵みを受けただけで、大部分のわが国の人々は貧しい生活をした。

写真 日帝強占期に建てられた百貨店(当時の三越、現在の新世界百貨店)
日帝強占期の南大門通り
日帝強占期のソウル忠武路 わが国の人々の大部分は町外れに追いやられ、中心街は日本人のための地域として造成された。

80ページ

 都市の中心部に住んでいた貧しいわが国の人々は、町外れに追い立てられた。わが国の人々が集まって住んでいる大部分の地域は、都市発展の恩恵を受けることができなかった。

 日本人が経営する会社や工場で働く人々は、劣悪な環境の中で、少ない賃金を受け取り、一日12時間を超えるつらい仕事をした。

 農村に住んでいる農民たちは、法外に上がる土地使用料と、科せられた税金を払い、わずかに残った米を売って、満州から入ってきた質の劣る雑穀を買って食べた。端境期になると、食べ物が不足して、草の根や木の皮を食べる人々もいた。

 農村を離れ都市へ押し寄せた人々は、もっと貧しい生活をした。職が見つけられず、日雇い仕事をしながら生活したり、物乞いで食いつなぎ、都市周辺で筵で作ったテントである土幕に住んだ。

語注
端境期(ポリッコゲ):前年秋に収穫した穀物が尽き、食料事情がたいへん苦しい5、6月
日雇い仕事(ナルプム):一日単位で代価を受け取る仕事

写真 当時最も代表的な日雇い仕事である運び屋(チゲックン)

81ページ

 戦争に動員されたわが国

 中・日戦争と太平洋戦争を起こした日帝は戦争に必要な人と物資をわが国から強制的に動員した。

 軍需工場を建設し武器を作るために地下資源だけでなく学校の鉄製の門、教会の鐘、釜、真鍮、匙などの金属製品を強制的に持っていった。そしてじゃがいも、さつまいも、牛、豚など軍人たちの食料になるものはすべて取り立てていった。

 日帝は数十万の学生、青少年を戦場へ引き立てていった。また数百万の人々を炭鉱、軍需工場に連れて行き、賃金もまともに払わないまま、仕事にこきつかった。引き立てていかれた人々の中には女性も多かったが、その中で若い女性は戦場へ送られ日本軍から多くの苦痛を味わわされることもあった。

語注
太平洋戦争:1941年から1945年まで日本と米国、英国、中国などの連合国の間に起こった戦争
動員:国家が軍事活動を支援するためにすべての人的、物的資源を統制したり組織したりする行為

写真 日帝強占期の間に約700万人のわが国の人々が強制的に動員された。
①日帝が強制で取り立てた金属製品 ②金採取に強制動員された人々 ③戦場へ行くために動員された幼い少年たち ④日本の土木工事現場に閉じ込められ強制的に仕事をした人々

82ページ(抜粋)

国外へ移住した韓国人

関東大地震と韓国人たちの死

 日本に渡った多くの人々は、不当な待遇を受け、あらゆる蔑視と冷待の中で生活しなければならなかった。1923年、日本の関東地方で数十万人が命を落とす大地震が起きた。社会は手のつけようもなく混乱した。すると日本政府が「朝鮮人たちが暴動を起こし、井戸の中に毒を入れる」という、根拠のない噂を広めた。興奮した日本人たちによって、6千人以上の韓国人が命を落とした。

[関連記事]
李栄薫ソウル大教授の韓国教科書批判
『大韓民国の物語』
植民地近代化論

「大韓民国の話」書評会
民族主義の終焉
李朝衰退の理由
植民地収奪論の虚構~米
植民地収奪論の虚構~土地

植民地支配の目的と結果


コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 11年8月一覧 | トップ | 韓国社会科教科書の検証 »
最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
おっ? (スンドゥブ)
2012-09-18 13:54:40
こんな記事がありました。

http://japanese.joins.com/article/720/159720.html?servcode=400&sectcode=400
杜撰 (犬鍋)
2012-09-19 22:47:20
昔は国定だった歴史教科書が民営化されたあと、いろんな出版社が参入し、チェックが追いつかなかったんでしょう。

コメントを投稿

韓国の教科書」カテゴリの最新記事