NHK news 「飢餓の島」メレヨン島 亡き部下に捧ぐ(2017/08/10)~勝てない戦争は、しないこと。
日本は、第二次世界大戦で負けた。
勝てない戦争は、しないこと。
ウォレアイ環礁(ウォレアイかんしょう、Woleai Atoll、北緯7度22分 東経143度54分)はカロリン諸島、ミクロネシア連邦のヤップ州にある22の小島の一群[1]。東西8km、南北5kmの域内に点在し、各島海抜は1mから3mである[2]。日本軍の呼称はメレヨン島[1]。太平洋戦争序盤から中旬までは日本軍の小規模な基地が置かれていたが、1944年(昭和19年)4月頃に兵力を増強、だが補給が途絶え兵員は飢餓に苦しんだ。結果的に、日本軍守備隊は飢餓により事実上全滅しており(守備隊約7000名中、約5000名戦病死)、戦わずして玉砕した悲劇の島と言われている。 現在の人口はおよそ800名。
戦後
1946年(昭和21年)、文部大臣安倍能成は雑誌『世界』2月号において「メレヨン島の悲劇」という記事を発表、メレヨン島生存者の手紙を引用しつつ「同島将校は食糧を独占してほぼ全員復員した」と述べる。
現職文部大臣の執筆であるため、反響は極めて大きく復員局法務調査部が調査を開始した。調査の結果、戦況から違反者(食糧統制を乱す行為)に対する処罰はやむを得ず、将校に責任を問う根拠もなく、違法性なしという結論に至った。
同年7月18日、メレヨン島海軍側指揮官宮田嘉信海軍大佐は自決。
安倍大臣は時事新報(昭和21年7月20日附)に『メレヨンの悲劇について』を寄稿、幹部の「兵は唯己一人のみを考へればよかったが、将校には部下があり、任務があって良心的将校は絶えず部下のこと、任務等が念頭を離れなかったことを訴えたい」という主張を引用し、「そういふこともあらう。」と述べている。
最高指揮官北村勝三陸軍少将は遺族への訪問を一年がかりで終え、1947年(昭和22年)8月15日に自決した。
終戦後、メレヨン島守備隊関係者は六次にわたるメレヨン島訪問を実施。草鹿任一海軍中将を団長とした第二次南方方面遺骨収集派遣団がメレヨン島を訪れた際。島民は水深8mに沈んだ二式大艇を特攻機と説明したが、これは3月12日に水没処理された機体であり、搭乗員は潜水艦で帰還している。
1966年(昭和41年)5月29日(慰霊碑文面4月10日附)、全国メレヨン会員一同によって福山市(備後護国神社)に慰霊碑が建設された。1974年(昭和49年)には札幌市、1982年(昭和57年)にはメレヨン島に慰霊碑が建立された。