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洛中洛外図舟木本の作者はこんな人!(情報追加)

2013-05-31 15:51:20 | うんちく・小ネタ

(追加情報)

特別展 京都-洛中洛外図と障壁画の美

日本テレビ開局60年特別美術展 国宝、重文でつづる天下人の都

日程:10/8(火)~12/1(日)

会場:東京国立博物館 平成館

http://www.ntv.co.jp/kyoto2013/

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Iwasa_matabei_self_portrait(クリックで拡大)

図1 岩佐又兵衛の自画像(重文)。作品群から醸し出される独特のブラックユーモアからは想像も付かない生真面目そうな爺ちゃんである。

岩佐又兵衛は摂津国河辺郡伊丹(現在の伊丹)の有岡城荒木村重の子として生まれた。誕生の翌年(1579年)、村重は織田信長の家臣であったが、信長に反逆を企てて失敗した。落城に際して荒木一族はそのほとんどが斬殺されたが、数え年2歳の又兵衛は乳母に救い出され、石山本願寺に保護された。成人した又兵衛は母方の岩佐姓を名乗り、信長の息子織田信雄(おだ のぶかつ/のぶお)に近習小姓役として仕えたらしい。文芸や画業などの諸芸をもって主君に仕える御伽衆(おとぎしゅう)のような存在だったと考えられる。信雄が改易後、浪人となった又兵衛は勝以(かつもち)を名乗り、京都で絵師として活動を始めたようである。大坂の陣の直後の40歳のころ、福井藩松平忠直(あの有名なご乱行の忠直)に招かれて、あるいは後に岩佐家の菩提寺になる興宗寺第十世心願との出会いがきっかけで、北庄(現福井市)に移住した。忠直配流後、松平忠昌の代になっても同地に留まり、20余年をこの地ですごした。寛永14年(1637年)2代将軍徳川秀忠の招き、あるいは大奥で地位のあった同族の荒木局の斡旋で、3代将軍徳川家光の娘千代姫尾張徳川家に嫁ぐ際の婚礼調度制作を命じられ、江戸に移り住む。20年余り江戸で活躍した後、波乱に満ちた生涯を終えた。家は福井に残した長男岩佐勝重が継いだ。また、長谷川等伯の養子になった長谷川等哲も又兵衛の子といわれている。戦国時代という激動の時代を、彼の才能が命を救い、73歳まで生き延びた。

 

Photo(クリックで拡大)

 

図2 岩佐又兵衛「豊国祭礼図屏風(部分)」(重文:徳川美術館蔵)。 画面に躍動感があり、踊り子が喜びに満ち溢れている 。

主な作品

  1. 「彦根屏風」(国宝)彦根市
  2. 洛中洛外図屏風(舟木本)(重文)(東京国立博物館 蔵)
  3. 「豊国祭礼図屏風」(重文) (徳川美術館
  4. 「伊勢物語・梓弓図」(重文) 文化庁
  5. 「官女観菊図(重文) 山種美術館
  6. 寂光院」(重文) MOA美術館
  7. 「人麿・貫之像(重文) MOA美術舘 
  8. 「湯女図」(重文) MOA美術舘
  9. 「山中常盤物語絵巻(重文) MOA美術館 12巻 
  10. 「浄瑠璃物語絵巻(重文) MOA美術館 12巻
  11. 「三十六歌仙図額」(重文) 仙波東照宮 
  12. 「伝岩佐又兵衛自画像(重文) MOA美術館