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ちょっといっぷく20 堀川に水が戻ったv2!

2009-05-24 16:06:15 | まち歩き

 堀川に水が戻った!ここ数十年間、二条城・ホテルなどのある観光地のど真ん中に「枯山水」になっていた堀川に水が戻り、京都市内に憩いの場所がまた一つ増えたのである。京都市公式サイトのよると、これは、京都市の「堀川水辺環境整備事業」(事業費は18億円) によるとのこと。

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図1 ワークショップのメンバーによる整備以前の堀川の点検。二条城の真ん前にこのような開渠部があった。筆者もまだ見ていないが、これがどのように整備されたか二条城のバス停を降りて一度見てみたい。

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図2 長さ約4kmの「堀川水辺環境整備計画」。

  堀川の今出川通(西陣界隈)から二条城までの開渠部に水流を復活させ、親水公園として整備する事業が京都市によって進められた。琵琶湖疏水分線から賀茂川をサイフォンでくぐり、紫明通、堀川通の地下に導水路を設けて水を引く。二条城から下流では二条城の外堀を経て西高瀬川に放水する。2002年度から事業が始まり、今年、2009年3月29日、に通水式典が行われるとともに通水が開始され、事業が終結したのである。

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図3  新堀川(仮称)の起点。サイフォンの原理で賀茂川をわたった疏水は北区・松の下町で地上に汲み上げられ川となる。もとは琵琶湖の水(図のクリックで拡大)!紫明および堀川通の一部(図2のEゾーン)にある中央分離帯に人工の川を流し、イチョウなどの並木道に水辺の雰囲気を醸し出している。正面に比叡山が見える。

  堀川は元来、治水と物流を考慮した人工河川なのである。桓武天皇は784年(延暦3年)に平城京から長岡京を造営して遷都したが、これは天武天皇系の政権を支えてきた貴族や寺院の勢力が集まる大和国から脱して、新たな天智天皇系の都を造る意図があったといわれる。しかしそれから僅か9年後の793年(延暦12年)の1月、桓武天皇は臣下を集め、再遷都を宣言する。場所は、長岡京の北東10km、二つの川に挟まれた山背国北部の葛野(かどの)であった。事前に桓武天皇は京都市東山区にある将軍塚から葛野を見渡し、都に相応しいか否か確めたと云われている。日本紀略には「葛野の地は山や川が麗しく四方の国の人が集まるのに交通や水運の便が良いところだ」と桓武天皇の言葉が残っている。平安京の造営はまず宮城(大内裏)から始められ、続いて京(市街)の造営を進めたと考えられる。都の中央を貫く朱雀大路の一番北に、どこからでも見えるように大極殿を作り、天皇の権威を示した。都の傍の川沿いには、淀津や大井津などの港を整備した。これらの港を全国から物資を集める中継基地にして、そこから都に物資を運び込んだ。運ばれた物資は都の中にある大きな二つの市(東市、西市)に送り、人々に供給される。このように食料や物資を安定供給できる仕組みを整え、人口増加に対応できるようにした。また、長岡京で住民を苦しめた洪水への対策も講じ、都の中に自然の川がない代わりに東西にそれぞれ、水量の調整ができる人工の「堀川」(現在の堀川と西堀川)をつくり、水の供給を確保しながら洪水を抑えようとした。そして長岡京で認めなかった仏教寺院の建立を認める。仏教の知識と能力に優れ、政治権力とは無縁の僧である空海たちを迎え、東寺と西寺の力で災害や疫病から都を守ろうと考えた。794年(延暦13年)10月22日に桓武天皇は遷り、翌11月8日に「この都を平安京と名付ける」と詔を下したのである。云わば、堀川は平安京の大動脈だったのである。

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図4(a) 通水式直後の新堀川(仮称)(図のクリックで拡大)。遠方に一条戻橋(*)が見える。左側に堀川通があり、高さ制限されたマンション群が屹立している。これからゆっくりと京都らしい環境整備がおこなわれるであろう。楽しみである。

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図4(b)新堀川水辺の一つ、一条戻橋の上流側。まだ、周りとしっくりしていないが、時とともに「環境整備」がおこなわれるであろう。

*名前の由来は、今は昔、葬送の死者がこの橋の上まで来て、生き返った(命が戻った)ことによる。表札には伝説の一つが紹介されているが、平安より昭和まで10指に余る伝説が伝えられている。