今日もArt & Science

写真付きで日記や趣味を勝手気ままに書くつもり!
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明治初期にイサベラバードは従者一人で日本を踏破!

2015-02-21 10:23:35 | ちょっといっぷく

図1 英国の旅行家イサベラバード(ウィキペヂアより抜粋)

 

図2 イサベラバードの辿った北日本旅行ルート(http://www.aganogawa.info/archives/17789)。

昨年、日本を訪れる外国人は1300万人を超えた。日本印象の第一は清潔、第二は女性にとって安全・安心が挙げられている。イザベラ・バードは、イギリスの女性旅行家&紀行作家である。明治時代の東北地方北海道、関西などを旅行し、その旅行記"Unbeaten Tracks in Japan"(日本語題『日本奥地紀行』『バード 日本紀行』)を書いて、日本の印象を”清潔、安全、安心”とまとめている。1881年に妹の侍医であったジョン·ビショップと結婚。1881年以降イザベラ・バード・ビショップIsabella Bird Bishop)、ビショップ夫人とも称す。イギリス・ヨークシャーで牧師の長女として生まれる。妹の名はヘニー。幼少時に病弱で、時には北米まで転地療養したことがきっかけとなり、長じて旅に憧れるようになる。アメリカカナダを旅し、1856年、"The Englishwoman in America"を書いた。その後、ヴィクトリアン・レディ・トラヴェラー(当時としては珍しい女性旅行家)として、世界中を旅した。1893年英国地理学会特別会員となる。1878年(明治11年)6月から9月にかけて、通訳兼従者として雇った伊藤鶴吉を供とし、東京を起点に日光から新潟へ抜け、日本海側から北海道に至る北日本を旅した(所々で現地ガイドなどを伴うこともあった)。また10月から神戸、京都、伊勢、大阪を訪ねている。これらの体験を、1880年 "Unbeaten Tracks in Japan" 2巻にまとめた。第1巻は北日本旅行記、第2巻は関西方面の記録である。この中で、英国公使ハリー・パークス、後に明治学院を設立するヘボン博士(ジェームス・カーティス・ヘボン)、同志社のJ.D.デイヴィスと新島夫妻(新島襄・新島八重)らを訪問、面会した記述も含まれている。その後、1885年に関西旅行の記述、その他を省略した普及版が出版される。本書は明治期の外来人の視点を通して日本を知る貴重な文献である。また、清国、クルディスタンペルシャチベットを旅した。中国への再度の旅行を計画していたが、1904年に73歳の誕生日を前にして死去した。1878年(明治11)6月から9月にかけ『日本奥地紀行』は執筆され、1880年 "Unbeaten Tracks in Japan"(直訳すると「日本における人跡未踏の道」)として刊行された。冒頭の「はしがき」では「(私の)全行程を踏破したヨーロッパ人はこれまでに一人もいなかった」としるし、また「西洋人のよく出かけるところは、日光を例外として詳しくは述べなかった」と記し、この紀行が既存の日本旅行記とは性格を異にすることを明言している。栃木県壬生町から鹿沼市の日光杉並木に至る例幣使街道では、よく手入れされた大麻畑や街道沿いの景色に日本の美しさを実感したと書いている。また日光で滞在した金谷邸(カナヤ・テージ・イン)にはその内外に日本の牧歌的生活があると絶賛し、ここに丸々2週間滞在して日光東照宮をはじめ、日光の景勝地を家主金谷善一郎および通訳の伊藤とともに探訪した。日光滞在10日目には奥日光を訪れるが、梅雨時の豊かな水と日光に育まれた植生、コケ、シダ、木々の深緑と鮮やかに咲き誇る花々が中禅寺湖、男体山、華厳滝、竜頭滝、戦場ヶ原、湯滝、湯元湖を彩る様を闊達に描写し絶賛している。街道の終点である湯元温泉にもたいへんな関心を示し、湯治場を訪れている湯治客の様子を詳らかに記している。またその宿屋(やしま屋)のたいへん清潔である様を埃まみれの人間ではなく妖精が似合う宿であると形容し、1泊したうえで金谷邸への帰途に就いている。また、山形県南陽市の赤湯温泉の湯治風景に強い関心を示し、置賜地方を「エデンの園」とし、その風景を「東洋のアルカディア」と評した。

 

『日本奥地紀行』では当時の日本をこう書いている。

私はそれから奥地や蝦夷を1200マイルに亘って旅をしたが、まったく安全でしかも心配もなかった。世界中で日本ほど婦人が危険にも無作法な目にもあわず、まったく安全に旅行できる国はないと信じている

(イサベラバード:ウィキペヂアを引用)


北野天満宮の紅梅白梅

2015-02-17 15:34:51 | ちょっといっぷく

京都では北野天満宮は「北野の天神さん」と親しまれている。947年に創建され、平安時代に学者・政治家として活躍した菅原道真公をお祀りし、全国に約10000社の天神社・天満宮の宗祀(総本社)の神社である。菅原道真公は、幼少の頃より学業に励み、情緒豊かな和歌を詠み、格調高い漢詩を作るなど優れた才能の持ち主であった。
学者出身の政治家として卓越した手腕を発揮し、異例の出世を重ね、899年、右大臣の要職に任命され、左大臣藤原時平と並んで国家の政務を統括した。ところが、突如藤原氏の策謀により、901年、大宰権帥に左遷され、そのわずか2年後、大宰府の配所にて波乱の生涯を閉じた。菅公の清らかで誠実な人柄と晩年の不遇はさまざまな伝説を生み、やがては天神さまと崇められ、現代でも盛んな信仰へと展開している。
菅公の精神は「和魂漢才」の四文字に集約されるように、自国の歴史と文化にしっかりとした誇りを持ち、他国の文化も受けいれる寛容さが特徴である。和歌の才能にも恵まれ、有名な和歌に次のようなものがある

東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春をわするな

北野天満宮は平安時代中頃、京都に住んでいた多治比文子や近江国(滋賀県)比良宮の神主神良種、北野朝日寺の僧最珍らが、当所に神殿を建て、菅公をおまつりしたのが始まりとされる。その後、藤原氏により大規模な社殿の造営があり、987年、一條天皇の勅使が派遣され、国家の平安が祈念された。この時から「北野天満宮天神」の神号が認められ、1004年の一條天皇の行幸をはじめ、代々皇室のご崇敬をうけ、国家国民を守護する霊験あらたかな神として崇められてきた。江戸時代には教育施設として各地に読み書き算盤を教える寺子屋が普及し、その教室には必ず天神さまが祀られ、あるいは神影(菅公のお姿を描いたもの)が掲げられ、学業成就武芸上達が祈られてきた。現在、特に学問の神様としての信仰篤く、学問に勤しむ多くの受験生が参拝に訪れる。国宝・本殿は1607年に豊臣秀頼が造営したもので八棟造と称され絢爛豪華な桃山建築。菅公が殊のほか愛でられた梅と紅葉の名所でもある。

 

図1 寒かった今年も、やっと紅梅白梅がほころび始めた!

(「京歩くアルバム」より引用、http://kyoto-albumwalking2

http://www.cocolog-nifty.com/blog/2015/02/post-8c9a-4.html

 

 


ちょっといっぷく60 「カモ親子よちよち 鴨川へ「引っ越し」」

2014-07-20 08:35:33 | ちょっといっぷく

 

13z20140719gz0jpg000328(クリックで拡大)
図1 恒例の引越しである。母親の凛とした威厳が良く出ている。
http://photo.sankei.jp.msn.com/highlight/data/2014/07/19/15kamo/

 

 京都市左京区の要法寺の清涼池にいたカモの親子が19日、西に約500メートル離れた鴨川へ引っ越した。横断歩道では警察官が車を止め、近隣住民らがよちよち歩く母ガモと8羽のひなを見守った。境内でカモの世話をしてきた住友宏子さん(69)によると、清涼池には9年前から毎春、鴨川からカモが飛来。産卵してひなが育つ6月ごろに戻る。今年は産み落とした卵が何者かに盗まれ、恒例イベントが危ぶまれたが5月に再び産卵。約1カ月遅れとなった。カモの親子は午前8時前、要法寺を出発。京都府警川端署員ら7人が交通整理にあたり、45分ほどかけて無事、鴨川にたどり着いた。<近隣住民に見守られながら、鴨川へ引っ越すカモの親子=19日午前、京都市左京区>