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大田神社の杜若(カキツバタ)(藤原俊成と平忠度の逸話追加)

2013-05-14 15:44:16 | まち歩き

Kakitubata_2(クリックで拡大)

 

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図1 大田神社のカキツバタは蛍光物質が蛍光を発しているほど青い!

 

古代、上賀茂神社や大田神社がある上賀茂一帯は沼地で、葛城より移り住んだ賀茂氏によって開墾されたと言われている。大田神社の東側には今も約2千平米の沼沢地が残り「大田の沢」と呼ばれている。この沢には古代より野生のカキツバタが美しく群生しており、新緑のころには観光客が絶えない(図1参照)。昭和14年より国の天然記念物に指定されている。

 

平安時代の和歌の大家で『千載和歌集』の編者として知られる藤原俊成(ふじわら の としなり)も大田神社のかきつばたを歌に詠んでいる。

 

「神山や大田の沢のカキツバタふかきたのみはいろにみゆらん」(神山(近くの御降臨山)の近くにある大田神社のかきつばたにふかくお願いする恋(いろ)はカキツバタの色のように一途で美しく可憐なんだろう) 

池の入り口には、図2に示す標札があり、全てを物語っている。

 

Img_12289_14367645_3(クリックで拡大)

 

図2 池の入り口にある標札。拡大するとどうにか解読できそう。

俊成に関する逸話の第一は源平合戦の最中、平忠度との最後の対面である。この話は『平家物語』巻7「忠度都落」にある。平清盛の末弟・平忠度は武勇も優れていたが、俊成に師事し歌人としても才能に優れていた。寿永2年(1183年)7月の平家一門が都落ちした後、忠度は従者6人と共に都に引き返し、師・藤原俊成の邸を訪れた。「落人が帰って来た!」と動揺する家人達に構わず対面した俊成に忠度は「(源平)争乱のため院宣が沙汰やみとなった事は残念です。争乱が収まれば改めて『勅撰和歌集を作るように』との院宣が出るでしょう。もし、この巻物の中に相応しい歌があるならば勅撰和歌集に私の歌を一首でも入れて下さるとあの世においても嬉しいと思えば、遠いあの世からお守りする者になりましょう」と秀歌と思われる歌・百余首が収められた巻物を俊成に託して立ち去った。翌年に忠度は一ノ谷の戦いで戦死した。その巻物に勅撰和歌集に相応しい秀歌はいくらでも収められていたが、忠度は勅勘の人だったので、俊成は忠度の歌を「詠み人知らず」として一首のみ勅撰和歌集(『千載和歌集』)に載せた。

 

「さざ波や滋賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな」。

 

その加護があったのか、既に70近かった俊成は更に20年余り生きた。