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図1 深泥池、宝ヶ池、浴龍池の位置関係。 浴龍池から見える範囲の田畑や山林は借景として宮内庁の管理下にある(google地図をコピー)。
借景とは庭園外の山や樹木、竹林などの自然物等を庭園内の風景に背景として取り込むことで、前景の庭園と背景となる借景とを一体化させてダイナミックな景観を形成する手法である。庭園外の自然物等についても庭園景観の重要な構成要素とするため、近年の都市開発に際して借景とする山そのものの開発やビルなどの高層建築の建設による景観の変化などについて、借景の破壊という面で紛争が生じることが多い。京都では特に借景にうるさい!借景の歴史は古く、千年の歴史がある。平安時代にはわが国最古の庭園秘伝書という「作庭記」には自然の景観を庭に移す「縮景」の考えが主として記されている。この考えが発展して借景に結びつく。平安時代末期に書かれた「今鏡」には、この作庭記の編著者と考えられている橘俊綱が白河上皇と庭園についての問答をしたことが記されており、そこでは庭の外の景観、眺望と地形を基準に高陽院(かやのいん)、伏見邸を優れた庭として挙げている。庭の外の景観を含めて庭の優劣を決めるということであるから、この当時すでに借景の考え方はあったと思われる。
鎌倉時代以降は借景の考えを明確に取り入れた庭がいくつも誕生する。夢想国師の京都嵯峨天龍寺など、借景技法が確立するのは桃山から江戸時代である。ただし「借景」という言葉は中国明代(17世紀半ば)の庭園書「園治」(えんや)で初めて登場するので、その言葉が日本に伝わり、日本の庭園で「借景」という言葉が用いられるのは江戸中期以降である。ということで平安時代半ばには「借景」の概念はあった。言葉としての「借景」は江戸中期以降使われるようになった。
比叡山の麓、東山連峰の山裾に造られた修学院離宮は上御茶屋(かみのおちゃや)、中御茶屋(なかのおちゃや)、下御茶屋(しものおちゃや)と呼び習わす3か所の庭園からなり、面積は54万平方メートルに及ぶ壮大な庭園である。各御茶屋の間には田畑が広がり、細い松並木道が各御茶屋を結んでいる。上御茶屋と下御茶屋は、後水尾上皇(第108代天皇)の指示により、1655年)から1659年にかけて江戸幕府が造営した離宮である。後水尾上皇は女中に変装して輿に乗り、造営中の離宮を自ら訪れて造営の指図をしたというが、真偽のほどは定かでない。上・下御茶屋は1884年、宮内省の所管となった。一方、中御茶屋は、同じ頃後水尾上皇の皇女の御所として造営されたもので、1885年に修学院離宮に編入された。修学院離宮は、第二次大戦後は、京都御所、桂離宮などと同様、「皇室用財産」(所有者は国)と位置づけられて、宮内庁が管理している。
下御茶屋は池泉観賞式庭園で、門・塀以外の建物と柿葺(こけらぶき)の屋根を乗せた簡素な建物である。水墨の襖絵は後水尾上皇時代のものではなく、江戸後期の絵師・岸駒(がんく)および岡本豊彦の筆になる。寿月観前庭の飛び石や、庭に立つ袖石灯篭も有名である。
中御茶屋は後水尾上皇の第8皇女・光子(てるこ)内親王のために1668年造営された朱宮(あけのみや)御所が前身である。この地にはそれ以前、上皇の第1皇女である梅宮が出家して円照寺という尼寺を構えていたが、上皇の離宮建設の意思を聞いて、奈良八島の地へ移っていた。朱宮御所は上皇の死後、林丘寺(りんきゅうじ)という寺に改められた。1885年、楽只軒(らくしけん)と客殿を含む、林丘寺境内の約半分が宮内省に返還され、修学院離宮の一部となった。なお、林丘寺は門跡尼寺として今も存続している。楽只軒は前述の朱宮御所の一部で、1668年頃の造営である。書院造の客殿、1677年造営された東福門院(後水尾天皇女御、徳川2代将軍秀忠娘)の女院御所の奥対面所を移築したものである。客殿一ノ間の霞棚は、桂離宮の桂棚、醍醐寺三宝院の醍醐棚とともに「天下三棚」の一として知られる。
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図2 借景の典型例:浴龍池の眺め。音羽川を堰き止めて池を形成し、北山や岩倉を借景にした壮大な眺め。上離宮背後の山、借景となる山林、それに三つの離宮を連絡する松並木の道と両側に広がる田畑は借景としてとして宮内庁が管理している(写真はhttp://www.eonet.ne.jp/~shujakunisiki/m-34.htmlより引用)。
上御茶屋は、ダムで谷川を堰き止め山腹に巨大な人工池(浴龍池)を造ったもので、15m程の深さの池を四段の石垣を積んで土留めされている。その武骨な石垣をあらわにしないために、三段の高生垣を仕立て、上部傾斜は大刈込みで覆って美しく仕上げている。大刈込みは数十種の樹木の混植で造られているので各季節ごとに、それぞれ趣の異なった彩を楽しむことができる。連絡路の終点御成門は杮葺き屋根、花菱形のくり抜きのある欄間、木の扉は下御茶屋御幸門にそっくりの造りである。御成門を入り、石段を登りつめると、隣雲亭に達する。ここは海抜149m。修学院離で最も高いところである。正面には山端(やまばな)、松ヶ崎、宝ヶ池、深泥池が望まれ、岩倉、鎌倉、貴船の山々が続き(図2)、左手には京都市街、愛宕山、西山に至るまで広々と見晴らすことが出来る。その雄大な展望は、季節により、天候により刻々と変化する。後水尾上皇が実に70数回もこの地を訪れたのも頷ける。借景の妙ここにありと言える。
関連するページ:ちょっといっぷく22 & 23。
http://blog.goo.ne.jp/bigarrowhiro/d/20091013
因みに、近くの岩倉にある円通寺は後水尾天皇の山荘であった幡枝御殿であり、枯山水庭園(重要文化財)もその頃に造営されたものである。修学院離宮の造営に伴い、幡枝山荘は近衛家に譲渡された。 庭園は枯山水式の庭園で国の名勝に指定されている。苔を主体に刈込みと石を配し、大小40余りの庭石は上皇となった後水尾天皇が自ら配したといわれる。また、刈込みと立木の背後に望む比叡山を借景としており、上皇は最も比叡山の眺望に優れた地を求めて、この幡枝に山荘を設けたといわれている。とりわけ、この円通寺庭園は借景の美しさで名高い。そのため、高層マンション建築など急速に進む都市開発は、貴重な借景を壊してしまう懸念材料になると危惧されていた。そのため、京都市は円通寺庭園など借景を保護するための眺望条例(正式名称は京都市眺望景観創生条例)を制定するようになった。円通寺は同条例の対象地となり、周辺区域では高さだけでなく、屋根の形式なども制限されている。上皇は良いときに修学院に移られた。最近、京都市は円通寺の借景の維持に悪戦苦闘しているらしい。