今日もArt & Science

写真付きで日記や趣味を勝手気ままに書くつもり!
徒然草や方丈記の様に!
あるいは寺田寅彦の様に!

賀茂川にツバメが戻ってきた!

2014-03-31 08:52:58 | まち歩き

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図1 早春の堀川通り。上方左の山は如意が岳(大文字山)。下方右はお土居!ここもツバメの餌場である。朝夕はツバメが乱舞する!

 

やっと春が来た!

早咲きの山桜が賀茂街道のあちこちに咲きだした!

そして、いつの間にかユリカモメが居なくなった!代わりに、

ツバメが賀茂川に戻ってきた!

上賀茂の農家の軒先は深い!

カラスの襲来から子供を守るには格好の場所である!

上賀茂のあちこちには蚊柱が立つ!格好の餌場である!

御土居の上部空間も昆虫にとっては居心地がよさそう!食物連鎖でツバメが集まる!

やっと春が来た!

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図2 賀茂川の水が緩むと御園橋下手に、70cmクラスの緋鯉、真鯉が集まる。

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図3 転落止めのレンギョウの花。賀茂川では堰堤の両側によく植えられている。早春の今が満開!

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ユビセミキノンの機能(1)

2014-03-21 13:16:30 | ラジカル

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図1 呼吸鎖複合体I内の電子伝達機構の模式図。図中Q はユビキノンを表す。

ユビキノン(UQ:図1)はミトコンドリア内膜や原核生物の細胞膜に存在する電子伝達体の1つで、呼吸鎖複合体I内の電子伝達の仲介を果たしている。ベンゾキノンの誘導体であり、比較的長いイソプレン側鎖を持つので、その疎水性のために膜中に保持される。酸化還元電位 (Eo') は+0.10V。ウシ心筋ミトコンドリア電子伝達系の構成成分として1957年に発見された。還元型のユビキノンは『ユビキノール』とも呼ばれる。また、補酵素Q、コエンザイムQ10、ビタミンQ、CoQ10、ユビデカレノン等と呼ぶこともある。

UQの酸化還元に関わるベンゾキノン誘導体部位はパラ型に酸素原子が結合しており、C2にはメチル基、C5,C6にはメトキシ基が結合している。C3にはイソプレン側鎖が結合しており、生体膜中に保持されるように長い炭素鎖を持つ。

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図1 ユビキノン(UQ)の構造。

イソプレン側鎖の数(n=)は高等動物では10、下等動物では6~9であり、イソプレン側鎖が長くなればなるほど黄橙色を呈するようになる。なおn=10のユビキノンは『UQ10』と略記される。ユビキノンは一電子還元を受けて中間型(ユビセミキノン)となる。中間型はプロトンキノンサイクル機構で機能している。ユビキノンの酸化還元様式を以下に示す。

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酸化型のユビキノンは275nmの波長の紫外光を吸収する。したがって、ユビキノンに電子伝達を行う酵素群の活性測定はこの波長に類する吸収帯を使用する。

ユビキノンはミトコンドリア内膜や原核生物の細胞膜から単離され、膜内の電子伝達に関与することが古くから知られており、特に、電子伝達系の呼吸鎖複合体I(NADH脱水素酵素)から呼吸鎖複合体III(シトクロムbc1複合体)への電子伝達に寄与している。

呼吸鎖複合体Iにおける反応

NADH + ユビキノン(UQox) → NAD+ + ユビキノール (UQred)

ユビキノンは日本では1970年代から医療用医薬品として軽度及び中等度のうっ血性心不全症状などに用いられてきた。また、複数の製薬メーカーが、一般用医薬品(OTC医薬品)・医薬部外品として、一般消費者向けの商品を発売している。安全性は比較的高く、米国ではコエンザイムQ10の名称でサプリメントとして広く用いられており、医師の処方箋なしに消費者が直接店頭などで購入できる。日本でも2001年に医薬品の範囲に関する基準(いわゆる「食薬区分」)が改正され、さらに2004年化粧品基準が改正されて、健康食品や化粧品への利用に道が開かれた。その結果、抗老化作用を訴求したユビキノン(コエンザイムQ10)含有の健康食品や化粧品がブームとなり、原材料の品薄で入手しにくいほどの人気を博していた時期があった。しかしながら、そのような薬効を臨床的に検討したデータはまだ乏しく、詳細な効果についてはまだ詳しくわかっていない。

2009年11月に、ユビキノンの抗酸化作用がマウスの老人性難聴の予防に効果があることを、東京大学が実験で明らかにした。それによると、人間にとっては1日20ミリグラムにあたる量のユビキノンを生後4ヶ月から与えられ続けてきたマウスは、人間の50歳に相当する生後15ヶ月の時点で、同じ月齢のマウスが45デシベル以上の音しか聞き取れないのに対し、12デシベルの小さい音を聞き取れるようになった。2013年7月16日に、小児性線維筋痛症発生の原因がユビキノンの欠乏にあることが、東京工科大学応用生物学部山本順寛教授らと、横浜市立大学医学部小児科との研究チームにより発見された。


ちょっといっぷく55 早春賦

2014-03-17 13:08:54 | ちょっといっぷく

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 図1 加茂川堤の馬酔木(アシビ)の花。早春から釣り鐘型の花を咲かせ、春の到来を告げる。

(早春賦)♪

春は名のみの 風の寒さや
谷の鶯 歌は思えど
時にあらずと 声も立てず
時にあらずと 声も立てず

氷解け去り 葦は角ぐむ
さては時ぞと 思うあやにく
今日も昨日も 雪の空
今日も昨日も 雪の空

春と聞かねば 知らでありしを
聞けば急かるる 胸の思いを
いかにせよとの この頃か
いかにせよとの この頃か

 ようやく、春が来たようだ。

 おそらく今日は20度を越えるかな?!

 暖かくて無風!

 一点の雲もない晴天に、春霞の加茂川の上空を悠々と白鷺が一羽!

 如意が岳を背景にして、南方に向かって飛んでいる!

 時の流れがゆったりしている!

 昨日は暗澹たる気持ちで一日を過ごした!

 早大のコピペ病の記事(*)を読んで、気持ちが滅入った!

 日本の学会はどうなるだろう!日本の若手はどうなるだろう?!

 古希を過ぎた老人がコピペ病に罹っていても誰も文句は言わない!

 ブログのネタ探しとコピペ(コピー&ペースト)は老化防止の日課である!

 誰が考案したか知らないが、インターネットは非常に便利である!

 嵩高くて重い新英和大辞典や理化学辞典を時間かけて検索しなくても、BingやGoogleの翻訳を利用すれば一発で答えが出る!

検索したファイルは魅力たっぷり!

見つかった写真や文章をコピペすればいつでも利用できる!

「てにおは」を訂正するだけで好みの文章が出来上がる!

これは便利!!

いつの間にかコピペ病にかかっているのである!

学生を責めるわけにはいかない!

 むしろ、PCやスマートフォンの使い方、ルールをシッカリ教えるべきである!

今回のSTAP細胞問題も教育が為っていないから!

 シッカリ教えれば日本人はルールを良く守る!

 ここまで書くと気分が晴れた!ようやく春が来た!

 野依理事長も若手研究者をゆっくり教育して将来を託してください!

 

*(匿名)http://anond.hatelabo.jp/touch/20140314233406


ちょっといっぷく54 京都と借景ー修学院離宮

2014-03-05 13:09:36 | アート・文化

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図1 深泥池、宝ヶ池、浴龍池の位置関係。 浴龍池から見える範囲の田畑や山林は借景として宮内庁の管理下にある(google地図をコピー)。

借景とは庭園外の山や樹木、竹林などの自然物等を庭園内の風景に背景として取り込むことで、前景の庭園と背景となる借景とを一体化させてダイナミックな景観を形成する手法である。庭園外の自然物等についても庭園景観の重要な構成要素とするため、近年の都市開発に際して借景とする山そのものの開発やビルなどの高層建築の建設による景観の変化などについて、借景の破壊という面で紛争が生じることが多い。京都では特に借景にうるさい!借景の歴史は古く、千年の歴史がある。平安時代にはわが国最古の庭園秘伝書という「作庭記」には自然の景観を庭に移す「縮景」の考えが主として記されている。この考えが発展して借景に結びつく。平安時代末期に書かれた「今鏡」には、この作庭記の編著者と考えられている橘俊綱が白河上皇と庭園についての問答をしたことが記されており、そこでは庭の外の景観、眺望と地形を基準に高陽院(かやのいん)、伏見邸を優れた庭として挙げている。庭の外の景観を含めて庭の優劣を決めるということであるから、この当時すでに借景の考え方はあったと思われる。

鎌倉時代以降は借景の考えを明確に取り入れた庭がいくつも誕生する。夢想国師の京都嵯峨天龍寺など、借景技法が確立するのは桃山から江戸時代である。ただし「借景」という言葉は中国明代(17世紀半ば)の庭園書「園治」(えんや)で初めて登場するので、その言葉が日本に伝わり、日本の庭園で「借景」という言葉が用いられるのは江戸中期以降である。ということで平安時代半ばには「借景」の概念はあった。言葉としての「借景」は江戸中期以降使われるようになった。

比叡山の麓、東山連峰の山裾に造られた修学院離宮は上御茶屋(かみのおちゃや)、中御茶屋(なかのおちゃや)、下御茶屋(しものおちゃや)と呼び習わす3か所の庭園からなり、面積は54万平方メートルに及ぶ壮大な庭園である。各御茶屋の間には田畑が広がり、細い松並木道が各御茶屋を結んでいる。上御茶屋と下御茶屋は、後水尾上皇(第108代天皇)の指示により、1655年)から1659年にかけて江戸幕府が造営した離宮である。後水尾上皇は女中に変装して輿に乗り、造営中の離宮を自ら訪れて造営の指図をしたというが、真偽のほどは定かでない。上・下御茶屋は1884年、宮内省の所管となった。一方、中御茶屋は、同じ頃後水尾上皇の皇女の御所として造営されたもので、1885年に修学院離宮に編入された。修学院離宮は、第二次大戦後は、京都御所、桂離宮などと同様、「皇室用財産」(所有者は国)と位置づけられて、宮内庁が管理している。

下御茶屋は池泉観賞式庭園で、門・塀以外の建物と柿葺(こけらぶき)の屋根を乗せた簡素な建物である。水墨の襖絵は後水尾上皇時代のものではなく、江戸後期の絵師・岸駒(がんく)および岡本豊彦の筆になる。寿月観前庭の飛び石や、庭に立つ袖石灯篭も有名である。

中御茶屋は後水尾上皇の第8皇女・光子(てるこ)内親王のために1668年造営された朱宮(あけのみや)御所が前身である。この地にはそれ以前、上皇の第1皇女である梅宮が出家して円照寺という尼寺を構えていたが、上皇の離宮建設の意思を聞いて、奈良八島の地へ移っていた。朱宮御所は上皇の死後、林丘寺(りんきゅうじ)という寺に改められた。1885年、楽只軒(らくしけん)と客殿を含む、林丘寺境内の約半分が宮内省に返還され、修学院離宮の一部となった。なお、林丘寺は門跡尼寺として今も存続している。楽只軒は前述の朱宮御所の一部で、1668年頃の造営である。書院造の客殿、1677年造営された東福門院(後水尾天皇女御、徳川2代将軍秀忠娘)の女院御所の奥対面所を移築したものである。客殿一ノ間の霞棚は、桂離宮の桂棚、醍醐寺三宝院の醍醐棚とともに「天下三棚」の一として知られる。

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図2 借景の典型例:浴龍池の眺め。音羽川を堰き止めて池を形成し、北山や岩倉を借景にした壮大な眺め。上離宮背後の山、借景となる山林、それに三つの離宮を連絡する松並木の道と両側に広がる田畑は借景としてとして宮内庁が管理している(写真はhttp://www.eonet.ne.jp/~shujakunisiki/m-34.htmlより引用)。

上御茶屋は、ダムで谷川を堰き止め山腹に巨大な人工池(浴龍池)を造ったもので、15m程の深さの池を四段の石垣を積んで土留めされている。その武骨な石垣をあらわにしないために、三段の高生垣を仕立て、上部傾斜は大刈込みで覆って美しく仕上げている。大刈込みは数十種の樹木の混植で造られているので各季節ごとに、それぞれ趣の異なった彩を楽しむことができる。連絡路の終点御成門は杮葺き屋根、花菱形のくり抜きのある欄間、木の扉は下御茶屋御幸門にそっくりの造りである。御成門を入り、石段を登りつめると、隣雲亭に達する。ここは海抜149m。修学院離で最も高いところである。正面には山端(やまばな)、松ヶ崎、宝ヶ池、深泥池が望まれ、岩倉、鎌倉、貴船の山々が続き(図2)、左手には京都市街、愛宕山、西山に至るまで広々と見晴らすことが出来る。その雄大な展望は、季節により、天候により刻々と変化する。後水上皇が実に70数回もこの地を訪れたのも頷ける。借景の妙ここにありと言える。

関連するページ:ちょっといっぷく22 & 23。

http://blog.goo.ne.jp/bigarrowhiro/d/20091013

因みに、近くの岩倉にある円通寺は後水尾天皇の山荘であった幡枝御殿であり、枯山水庭園(重要文化財)もその頃に造営されたものである。修学院離宮の造営に伴い、幡枝山荘は近衛家に譲渡された。 庭園は枯山水式の庭園で国の名勝に指定されている。苔を主体に刈込みと石を配し、大小40余りの庭石は上皇となった後水尾天皇が自ら配したといわれる。また、刈込みと立木の背後に望む比叡山を借景としており、上皇は最も比叡山の眺望に優れた地を求めて、この幡枝に山荘を設けたといわれている。とりわけ、この円通寺庭園は借景の美しさで名高い。そのため、高層マンション建築など急速に進む都市開発は、貴重な借景を壊してしまう懸念材料になると危惧されていた。そのため、京都市は円通寺庭園など借景を保護するための眺望条例(正式名称は京都市眺望景観創生条例)を制定するようになった。円通寺は同条例の対象地となり、周辺区域では高さだけでなく、屋根の形式なども制限されている。上皇は良いときに修学院に移られた。最近、京都市は円通寺の借景の維持に悪戦苦闘しているらしい。