図1 エリザ・シドモア(1856-1928)(ウィキペヂアより転写)
ワシントンの桜 余聞ー山口 昭 を加筆編集
(http://aranishi.hobby-web.net/3web_ara/sakura_okitsu.pdf)
興津(静岡)に居たことのある人なら誰でもアメリカ合衆国の首都ワシントンD.C.のポトマック河畔の桜が、興津で接ぎ木育成されたものであることは知っているでしょう。平成4年には、興津支場の構内に「ワシントンの桜誕生の地」碑が建てられ、興津開場90周年記念式典に合わせて、除幕式が行われた。元々、ワシントンに桜の樹が欲しいと言ったのは、当時のアメリカ大統領タフト夫人であり、尾崎行雄東京市長が日米親善のために寄贈したことは知られていますが、誰が中を取り持ったのか、苗木代や輸送費用は誰が負担したのかなどについては、案外知られていない。
エリザ・R・シドモア(図1)
シドモア女史(以下敬称略)は、1856年生まれ、アメリカの有名な写真雑誌「National Geographic」の紀行作家で、世界中を取材していたが、日本にも3回、3年間滞在し、日本中を旅して、こよなく日本、特に桜を愛していた。欧米の読者に明治中頃の日本を紹介した「Jinrikisha Days in Japan」という著書もある(「日本・人力車旅情」恩地光夫訳 昭和61年刊、有隣堂)。彼女はワシントン当局に桜を取り入れるよう何度も進言したが、聞きいれてもらえなかった。そのとき、幸いにも、旧知のタフト夫人が大統領夫人となったことを知り、頼みこんだところ快く受けいれてもらえた。タフト夫人自身もかって日本を訪問した折、桜の美しさに打たれ、ファーストレデイーとなった最初の仕事として、是非桜をアメリカに導入しようと思った。エドモアは1925年、アメリカを去り、スイスに移り住んだが、1928年72歳で死去しました。在日米国領事であった兄とともに横浜の外人墓地の中にある、ワシントンから里帰りした桜の樹の下で眠っている。
高峰譲吉博士と近藤廉平社長
高峰譲吉博士は「アドレナリン」の発見者であり、「タカジアスターゼ」の商品化に成功した科学者として有名である。三共株式会社の創始者でもある。博士の夫人はアメリカ人で、主にニューヨークで仕事をしていた。予てから、桜を日本から入れたいと思っていたが、たまたまワシントンに導入される話を聞き及び、これが実現するよう、アメリカ領事館の水野幸吉総領事と相談し、外務大臣小村寿太郎に手紙を書き、東京市長尾崎行雄から日米親善のためワシントン市に贈呈することが決まった。このとき、博士は、苗木代および輸送運賃を持つことを申し出た。この話を聞いた日本郵船株式会社の近藤廉平社長は桜の苗木を無料で運ぶことを申し出た。しかし、1回目の苗木はアメリカに到着後、害虫がついていることが理由で、すべて焼却された。この失敗を繰り返さないため、当時の農事試験場古在由直場長の名で興津の恩田鉄弥園芸部長に苗木作成の命が下ることになったが(後述)、この2回目の輸送も、日本郵船の好意で無料でなされた。
田中彰一博士の推薦で熊谷八十三翁に感謝状贈呈
桜苗木の作成の依頼を受けた恩田部長は、これを熊谷八十三技師に命じました。品種の選定は東大教授三好學博士にはかり、素性のたしかな荒川堤の桜から穂木を採り、台木の養成は兵庫県川辺郡稲野村之内新田中野村字東野(現在伊丹市)に依頼した。当時、農薬もない頃、十数品種、六千数百本の健全な苗木を作成することは至難のわざ、非常に責任の重い仕事でした。2回目に届いた苗木を検査したアメリカ検疫陣は、その見事さに驚嘆したと伝えられている。この労苦に報いてもらおうと、元興津支場長田中彰一博士は、1962年、当時のエドウイン・オー・ライシャワー駐日特命全権大使に当てて、直接手紙を書いた。その結果、幸運にも翌年、尾崎記念館で開催された「ワシントンサクラ植樹五十年記念式典」の日にワシントン特別市理事会議長ワルター・エヌ・トプリーナの名で感謝状が熊谷八十三翁に贈られました。この感謝状には、ライシャワーさんの署名がついている。(田中彰一著「随筆八十路越えて」北泉社、1984 )。
(註 1)この小文を書くに当たって、興津桜会会員安東和彦氏、元三共株式会社石田三男取締役から示唆・資料をいただきました。厚くお礼申し上げます。
(註 2)私も、1979年から4年余、興津に勤務しましたので、ワシントンのサクラのことには関心を持って調べていますが、アメリカのホームページ「The Story of Cherry trees in Washington D.C.」にも興津の果たした役割についての記述が非常に少ないことを残念に思っています。もっとPRする必要があるように思います。
図2 ワシントンの桜
ソメイヨシノの起源、特徴
江戸末期から明治初期に、江戸の染井村(現在の東京都豊島区駒込)に集落を作っていた造園師や植木職人達によって育成された。初めサクラの名所として古来名高く西行法師の和歌にもたびたび詠まれた大和の吉野山(奈良県山岳部)にちなんで「吉野」「吉野桜」として売られ、広まったが、藤野寄命による上野公園のサクラの調査によってヤマザクラとは異なる種の桜であることが分かり(1900年)、この名称では吉野山に多いヤマザクラと混同される恐れがあるため、「日本園芸雑誌」において染井村の名を取り「染井吉野」と命名したという。翌年、松村任三が学名をつけた。ソメイヨシノは種子では増えない。各地にある樹はすべて人の手で接木(つぎき)などで増やしたものである。自家不和合性が強い品種である。よってソメイヨシノ同士では結実の可能性に劣り、結果純粋にソメイヨシノを両親とする種が発芽に至ることはない。このためソメイヨシノの純粋な子孫はありえない。不稔性ではなく、結実は見られる。ソメイヨシノ以外の桜との間で交配することは可能であり、実をつけその種が発芽することもある。これはソメイヨシノとは別種になる。ソメイヨシノとその他の品種の桜の実生子孫としては、ミズタマザクラやウスゲオオシマ、ショウワザクラ、ソメイニオイ、ソトオリヒメなど100種近くの亜種が確認されている。ソメイヨシノの実生種からソメイヨシノに似て、より病害などに抵抗の強い品種を作ろうという試みも存在する。すべてのソメイヨシノは元をたどればかなり限られた数の原木につながり、それらのクローンといえる。これはすべてのソメイヨシノが一斉に咲き一斉に花を散らす理由になっているが、特定の病気に掛かりやすく環境変化に弱い理由ともなっている。森林総合研究所などによるDNAマーカーを用いた研究では、各地から収集されていたソメイヨシノが同一クローンであることが確認された。明治以降、日本では他のサクラを圧倒する人気種である。街路樹、河川敷、公園の植え込みなどに広く用いられている。また、全国の学校の校門近くにも植えられていることが多い。ソメイヨシノは花を咲かす時期や、散らすまでの時間が早いために、学校などでは本種と本種より1週間程度花の咲いている期間の長いヤエザクラの両方を植えて、入学式にいずれかの桜を咲かせることができるようにしていることが多い。広く植えられている種であることから、花見に一番利用される木となっている。葉より先に花が咲き開花が華やかであることや若木から花を咲かす特性が好まれ、明治以来徐々に広まった。さらに、第二次世界大戦後、若木から花を咲かせるソメイヨシノは爆発的な勢いで植樹され、日本でもっとも一般的な桜となった。ソメイヨシノは街中では他種より目にする機会が圧倒的に多いことから、以前からその起源についてとともに、可否好悪についても愛桜家の間で論争の絶えなかった品種である。ソメイヨシノは多くの人に人気があり、多くの公園などで花見のための木になっている一方で、ソメイヨシノ一種ばかりが植えられている現状やソメイヨシノばかりが桜として取り上げられる状態を憂慮する声もある。欧米には1902年にカンザンと共にわたっている。欧州やアメリカに多くのソメイヨシノが寄贈されており、ワシントンのポトマック川のタイダルベイスンで毎年春に行われる全米桜祭りでのソメイヨシノが有名である。現在もほぼ日本全域に植えられている最もポピュラーな桜であり、さらにすべての個体が同一に近い特徴を持ち、その数が非常に多いため「さくらの開花予想」(桜前線)に主に使われるのもソメイヨシノである。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/usa/sakura100/pdfs/fox_120316.pdf
https://www.youtube.com/watch?v=JRe-3JBFP0w