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ポトマック河畔の桜とエリザ・シドモアの経緯

2015-03-30 15:29:00 | ニュース

図1 エリザ・シドモア(1856-1928)(ウィキペヂアより転写)

ワシントンの桜 余聞ー山口 昭 を加筆編集

http://aranishi.hobby-web.net/3web_ara/sakura_okitsu.pdf
興津(静岡)に居たことのある人なら誰でもアメリカ合衆国の首都ワシントンD.C.のポトマック河畔の桜が、興津で接ぎ木育成されたものであることは知っているでしょう。平成4年には、興津支場の構内に「ワシントンの桜誕生の地」碑が建てられ、興津開場90周年記念式典に合わせて、除幕式が行われた。元々、ワシントンに桜の樹が欲しいと言ったのは、当時のアメリカ大統領タフト夫人であり、尾崎行雄東京市長が日米親善のために寄贈したことは知られていますが、誰が中を取り持ったのか、苗木代や輸送費用は誰が負担したのかなどについては、案外知られていない。

エリザ・R・シドモア(図1)
シドモア女史(以下敬称略)は、1856年生まれ、アメリカの有名な写真雑誌「National Geographic」の紀行作家で、世界中を取材していたが、日本にも3回、3年間滞在し、日本中を旅して、こよなく日本、特に桜を愛していた。欧米の読者に明治中頃の日本を紹介した「Jinrikisha Days in Japan」という著書もある(「日本・人力車旅情」恩地光夫訳 昭和61年刊、有隣堂)。彼女はワシントン当局に桜を取り入れるよう何度も進言したが、聞きいれてもらえなかった。そのとき、幸いにも、旧知のタフト夫人が大統領夫人となったことを知り、頼みこんだところ快く受けいれてもらえた。タフト夫人自身もかって日本を訪問した折、桜の美しさに打たれ、ファーストレデイーとなった最初の仕事として、是非桜をアメリカに導入しようと思った。エドモアは1925年、アメリカを去り、スイスに移り住んだが、1928年72歳で死去しました。在日米国領事であった兄とともに横浜の外人墓地の中にある、ワシントンから里帰りした桜の樹の下で眠っている。

高峰譲吉博士と近藤廉平社長

高峰譲吉博士は「アドレナリン」の発見者であり、「タカジアスターゼ」の商品化に成功した科学者として有名である。三共株式会社の創始者でもある。博士の夫人はアメリカ人で、主にニューヨークで仕事をしていた。予てから、桜を日本から入れたいと思っていたが、たまたまワシントンに導入される話を聞き及び、これが実現するよう、アメリカ領事館の水野幸吉総領事と相談し、外務大臣小村寿太郎に手紙を書き、東京市長尾崎行雄から日米親善のためワシントン市に贈呈することが決まった。このとき、博士は、苗木代および輸送運賃を持つことを申し出た。この話を聞いた日本郵船株式会社の近藤廉平社長は桜の苗木を無料で運ぶことを申し出た。しかし、1回目の苗木はアメリカに到着後、害虫がついていることが理由で、すべて焼却された。この失敗を繰り返さないため、当時の農事試験場古在由直場長の名で興津の恩田鉄弥園芸部長に苗木作成の命が下ることになったが(後述)、この2回目の輸送も、日本郵船の好意で無料でなされた。

田中彰一博士の推薦で熊谷八十三翁に感謝状贈呈

桜苗木の作成の依頼を受けた恩田部長は、これを熊谷八十三技師に命じました。品種の選定は東大教授三好學博士にはかり、素性のたしかな荒川堤の桜から穂木を採り、台木の養成は兵庫県川辺郡稲野村之内新田中野村字東野(現在伊丹市)に依頼した。当時、農薬もない頃、十数品種、六千数百本の健全な苗木を作成することは至難のわざ、非常に責任の重い仕事でした。2回目に届いた苗木を検査したアメリカ検疫陣は、その見事さに驚嘆したと伝えられている。この労苦に報いてもらおうと、元興津支場長田中彰一博士は、1962年、当時のエドウイン・オー・ライシャワー駐日特命全権大使に当てて、直接手紙を書いた。その結果、幸運にも翌年、尾崎記念館で開催された「ワシントンサクラ植樹五十年記念式典」の日にワシントン特別市理事会議長ワルター・エヌ・トプリーナの名で感謝状が熊谷八十三翁に贈られました。この感謝状には、ライシャワーさんの署名がついている。(田中彰一著「随筆八十路越えて」北泉社、1984 )。
(註 1)この小文を書くに当たって、興津桜会会員安東和彦氏、元三共株式会社石田三男取締役から示唆・資料をいただきました。厚くお礼申し上げます。
(註 2)私も、1979年から4年余、興津に勤務しましたので、ワシントンのサクラのことには関心を持って調べていますが、アメリカのホームページ「The Story of Cherry trees in Washington D.C.」にも興津の果たした役割についての記述が非常に少ないことを残念に思っています。もっとPRする必要があるように思います。

 

図2 ワシントンの桜

 

ソメイヨシノの起源、特徴

江戸末期から明治初期に、江戸の染井村(現在の東京都豊島区駒込)に集落を作っていた造園師や植木職人達によって育成された。初めサクラの名所として古来名高く西行法師の和歌にもたびたび詠まれた大和の吉野山(奈良県山岳部)にちなんで「吉野」「吉野桜」として売られ、広まったが、藤野寄命による上野公園のサクラの調査によってヤマザクラとは異なる種の桜であることが分かり(1900年)、この名称では吉野山に多いヤマザクラと混同される恐れがあるため、「日本園芸雑誌」において染井村の名を取り「染井吉野」と命名したという。翌年、松村任三が学名をつけた。ソメイヨシノは種子では増えない。各地にある樹はすべて人の手で接木(つぎき)などで増やしたものである。自家不和合性が強い品種である。よってソメイヨシノ同士では結実の可能性に劣り、結果純粋にソメイヨシノを両親とする種が発芽に至ることはない。このためソメイヨシノの純粋な子孫はありえない。不稔性ではなく、結実は見られる。ソメイヨシノ以外の桜との間で交配することは可能であり、実をつけその種が発芽することもある。これはソメイヨシノとは別種になる。ソメイヨシノとその他の品種の桜の実生子孫としては、ミズタマザクラやウスゲオオシマ、ショウワザクラ、ソメイニオイ、ソトオリヒメなど100種近くの亜種が確認されている。ソメイヨシノの実生種からソメイヨシノに似て、より病害などに抵抗の強い品種を作ろうという試みも存在する。すべてのソメイヨシノは元をたどればかなり限られた数の原木につながり、それらのクローンといえる。これはすべてのソメイヨシノが一斉に咲き一斉に花を散らす理由になっているが、特定の病気に掛かりやすく環境変化に弱い理由ともなっている。森林総合研究所などによるDNAマーカーを用いた研究では、各地から収集されていたソメイヨシノが同一クローンであることが確認された。明治以降、日本では他のサクラを圧倒する人気種である。街路樹、河川敷、公園の植え込みなどに広く用いられている。また、全国の学校の校門近くにも植えられていることが多い。ソメイヨシノは花を咲かす時期や、散らすまでの時間が早いために、学校などでは本種と本種より1週間程度花の咲いている期間の長いヤエザクラの両方を植えて、入学式にいずれかの桜を咲かせることができるようにしていることが多い。広く植えられている種であることから、花見に一番利用される木となっている。葉より先に花が咲き開花が華やかであることや若木から花を咲かす特性が好まれ、明治以来徐々に広まった。さらに、第二次世界大戦後、若木から花を咲かせるソメイヨシノは爆発的な勢いで植樹され、日本でもっとも一般的な桜となった。ソメイヨシノは街中では他種より目にする機会が圧倒的に多いことから、以前からその起源についてとともに、可否好悪についても愛桜家の間で論争の絶えなかった品種である。ソメイヨシノは多くの人に人気があり、多くの公園などで花見のための木になっている一方で、ソメイヨシノ一種ばかりが植えられている現状やソメイヨシノばかりが桜として取り上げられる状態を憂慮する声もある。欧米には1902年にカンザンと共にわたっている。欧州やアメリカに多くのソメイヨシノが寄贈されており、ワシントンのポトマック川のタイダルベイスンで毎年春に行われる全米桜祭りでのソメイヨシノが有名である。現在もほぼ日本全域に植えられている最もポピュラーな桜であり、さらにすべての個体が同一に近い特徴を持ち、その数が非常に多いため「さくらの開花予想」(桜前線)に主に使われるのもソメイヨシノである。

 

http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/usa/sakura100/pdfs/fox_120316.pdf

https://www.youtube.com/watch?v=JRe-3JBFP0w

 

 


世界の食卓を変えた日本発の技術:「 魚群探知機」

2015-03-28 13:32:26 | ラジカル

世界の食卓を大きく変えた日本発の技術 魚群探知機のルーツ 

(写真:キヨヒロ/ Imasia)© 東洋経済オンライン (写真:キヨヒロ/ Imasia)

闇市で探し当てた「音響測探機」

「おじさん、これは何の機械ね?」。終戦間もないある日のこと、闇市を歩き回る兄弟がいた。兄の名前は古野清孝、弟は清賢、2人は長崎県口之津町(現・南島原市)で小さな電気店を営んでいた。漁船の電気工事などを請け負っていた2人だが、敗戦直後でなかなか資材が手に入らない。そこで、軍の放出品が出ているという闇市で、何か使えるものはないかと探していたのだ。

写真左の男性が兄の古野清孝、右が弟の古野清賢© 東洋経済オンライン 提供 写真左の男性が兄の古野清孝、右が弟の古野清賢  

2人の目に留まったのは、戦時中に海軍が開発した「音響測探機」という機械だった。超音波を水中に発射し、跳ね返ってくる音波を受信して海中の地形などを把握しようとするもので、敵の潜水艦を探し出す目的でも研究が進められていた。自分たちには関係ないと立ち去ろうとする弟に、兄は「潜水艦ばね……そりゃすごかねー」と興味津々で、結局買って帰ってくる。このときに手に入れた「音響測探機」が、のちに世界中に広がる画期的な製品の礎となった。「魚群探知機」だ。「潜水艦を見つけられるなら、魚の群れだって見つかるんじゃないか」。兄の清孝は、「音響測探機」の機能を応用すれば、魚の群れを探知できるのではないかと考えていた。もし、魚の群れを超音波で把握できれば、漁師の長年の経験と勘によってきた漁は劇的に変化し、漁獲量は飛躍的に向上する。しかし、潜水艦とは異なり、「魚の体は大半が水分でできているため、超音波は容易にすり抜けてしまうから、魚の探知など不可能」というのが、意見を聞いた大学教授などの意見だった。「やっぱし無理のごたるね……」という弟の清賢に、兄の清孝は、「無理かどうかは、やってみらんとわからん」と譲らない。

 手探りで始めた「魚群探知機」の開発

開発初期の魚群探知機。TBSテレビ60周年特別企画「ものづくり日本の奇跡」は、第1夜から第4夜までが、3/23(月)~26(木)の夜10時54分から、第5夜は3月28日(土)夜9時から放送© 東洋経済オンライン 提供 開発初期の魚群探知機。

終戦間もない当時、食糧難で多くの日本人が栄養失調に苦しめられ、餓死する人もいたほどだった。魚も庶民には手が出せないほどの高値で、もし魚群探知機によって漁獲量が増えれば、食糧事情の改善も期待できるだろう。こうして古野兄弟は、手探りで魚群探知機の開発を始めたのだ。闇市で「音響測探機」を見つけてからおよそ1年後、「魚群探知機」の最初の試作機が完成した。協力を取り付けた漁船に乗せて、魚の群れを追う。すると探知機に魚の群らしい影が映し出された。「魚だ……魚ですっ!網ば打って下さい」と興奮する兄弟に、「オイの経験では、こがんところに魚はおらん!」と漁船の漁労長。「絶対おります!網ば入れて下さい!」と、訴える兄弟の言葉を信じた漁労長は、網を打つように指示した。ところが、魚君探知機がとらえていたのは、魚の群れではなく大量のクラゲだった。「古野電気が作っているのは、探知機ではなくインチキ」。この失敗はほかの漁師たちの間にも広がり「古野電気」の信頼は失墜、それまで請け負っていた仕事まで失う事態となってしまう。「結果さえ出れば、風向きはきっと変わる」。懸命に魚群探知機の改良を続ける古野兄弟だったが、協力してくれる漁船はいなくなってしまった。兄弟が望みを託したのが、長崎から西に70km離れた五島列島で、「桝富丸」という船の網元の桝田富一郎だった。東京で銀行に勤めていたが、3年前に故郷に戻り、父親の跡を継いでいた富一郎。しかし、「桝富丸」につけられたあだ名は「ドンビリ船」、港での漁獲高はいつもビリだったことから、こう呼ばれていたのだ。「懸けてみますけん……あんたの夢に」。富一郎は、魚群探知機を作ろうとする古野兄弟の夢に懸けてみることにした。こうして古野兄弟と桝富丸の挑戦が始まったが、魚群探知機は依然として思うように魚の群をとらえられずにいた。

 世界の食卓を大きく変えた古野兄弟の夢

そんなある日のこと、兄弟はついに魚の群れをうまくとらえられない原因を見つけ出した。漁船が進む際に発生する泡だ。泡は破裂する際に超音波を出すため、これに反応することで、魚群探知機の精度が低下していたのだ。泡の影響を回避するためには、漁船の側面に取り付けていた探知機を、船底に取り付けることが必要だった。「船に……穴ばあけろって、言うとですか?」と、絶句する富一郎。漁師の命である船に穴をあけるなど、とてもできる相談ではなかったのだ。しかし、これ以外に方法はないと、古野兄弟は懇願する。その強い気持ちに動かされた富一郎は覚悟を決めた。「あんたの夢に懸ける。必ず最後までやり遂げてくれんね」魚群探知機を船底に取り付けた「桝富丸」は沖へと走り出した。しばらくすると、魚群探知機は魚の群れがいることを示し始めた。しかし、弟の清賢は不安を拭えずにいた。魚の群とクラゲの大群を間違えてしまった時の記憶がよみがえっていた。 しかし、魚群探知機は魚の大群がいることを引き続き示していた。清賢は意を決して、桝富丸の漁労長に告げた。「大群です。とてつもなか大群です!」その言葉に漁労長は、「打とう、網ば打とう!」と決断を下す。魚群探知機の命運を左右する網が打たれたのだった。「頼む、頼む、頼むばい…」。祈るように海を見つめる清賢。やがて、ゆっくりと網が引き上げられ始める。引き上げられた網を見た清賢は興奮した。網は大量の魚であふれていたのだ。大漁旗を掲げて戻ってきた「桝富丸」に、港は歓喜に沸いたという。魚群探知機の力は抜群で、これ以降、桝富丸は漁に出るたびに大漁を記録し、「ドンビリ船」と呼ばれた桝富丸は、漁獲高トップの座についた。古野兄弟が魚群探知機の開発に乗り出してから4年の歳月が流れていた。食糧難に苦しむ人々に、安くて新鮮な魚を届けたい。古野兄弟の夢は実現し、実験成功から7年後に海外へ向け、魚群探知機の輸出を開始する。世界中の漁船から釣りの愛好家に至るまで、広く普及している魚群探知機。これがなければ一般家庭や飲食店などで、今のように魚を食べることは難しかったかもしれない。夢を追い続けた古野兄弟と、彼らを支えた人々の熱い思い。そこで生まれた日本発の魚群探知機が世界の食卓を大きく変えたといっても過言ではない。

 

琵琶湖:ルーツ新説に「450万年前、東海地方の巨大湖」

2015-03-11 15:24:12 | まち歩き

琵琶湖:ルーツ新説に「450万年前、東海地方の巨大湖」

 「琵琶湖は約450万年前、東海地方にあった巨大湖の一部だった」とする新しい仮説の検証に、滋賀県立琵琶湖博物館(草津市)が取り組んでいる。これまでは現在の三重県伊賀地方に約400万年前にできた小さな湖が、地殻変動で北上して琵琶湖になったというのが定説だった。しかし、琵琶湖固有の生物種の遺伝子解析などから、50万年程度さかのぼる可能性が出てきた。世界有数の古代湖、琵琶湖のルーツに迫ろうとする研究が注目を集めている。

 琵琶湖は、約400万年前に伊賀地方にできた「大山田湖」が、断層運動に伴って伸縮を繰り返しながら移動し、約40万年前に現在の姿になったとされる。琵琶湖の固有生物約60種の多くも、その後誕生したと考えられてきた。

 ところが近年、この定説を覆す研究結果が出された。京大や東大の研究によると、ゲンゴロウブナは約450万年前、イサザは約290万年前、ホンモロコは約170万年前に元の種から分化したと推定された。

 約450万〜200万年前ごろ、現在の濃尾平野と伊勢湾を含む一帯には、学術上「東海湖」と呼ばれる巨大な湖があったとされる。2012年には、津市の約400万年前の地層から琵琶湖固有種「スズキケイソウ」に似たケイ藻の化石が見つかった。発掘地点はこの東海湖の範囲で、直径が通常のケイ藻の約2倍あり、広い湖に適応して進化したとみられる。

 こうした遺伝子研究から、大山田湖は東海湖の一部だったとする説が浮上。スズキケイソウに似た化石も、東海湖と琵琶湖の変遷がつながっている可能性を示唆しているという。

 琵琶湖と東海地方は、鈴鹿山脈が約200万年前に隆起して隔てられた。この地域から東海湖の痕跡を示す堆積(たいせき)物が見つかれば有力な証拠になるが、まだ発見できていない。

 琵琶湖博物館は15年度までの5年計画で仮説の検証を進めている。高橋啓一副館長(古脊椎<せきつい>動物学)は「多くの研究者が琵琶湖の生い立ちには別の可能性があるのではないかと考えている。矛盾を突き詰めると、東海湖の一部だった説が浮かんでくる。決め手となる証拠を見つけたい」と話している。【石川勝義】

 ◇興味深い仮説、多面的な検証を

 東海湖の地層に詳しい星博幸・愛知教育大准教授(地質学)の話 古琵琶湖と東海湖が鈴鹿山系の隆起より前に存在したのはほぼ確実で、同じ湖だった可能性はある。近年は日本列島の成り立ちを、今回と同じように生物の遺伝子から説明する例もある。興味深い仮説で、多面的な検証を期待したい。

 ◇古代湖

 10万年以上にわたって存在する湖。世界で24カ所(2012年時点)が確認されている。最も古いのはバイカル湖(ロシア)で、少なくとも約3000万年前には存在していたとされる。琵琶湖は7番目に古い。一般的に湖は河川から流入する土砂などで埋まっていくため、現存する湖の多くは1万年以内とされる。生物が独自の進化を遂げており、固有種が多い。

 

http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e7%90%b5%e7%90%b6%e6%b9%96%e3%83%ab%e3%83%bc%e3%83%84%e6%96%b0%e8%aa%ac%e3%81%ab%e3%80%8c%ef%bc%94%ef%bc%95%ef%bc%90%e4%b8%87%e5%b9%b4%e5%89%8d%e3%80%81%e6%9d%b1%e6%b5%b7%e5%9c%b0%e6%96%b9%e3%81%ae%e5%b7%a8%e5%a4%a7%e6%b9%96%e3%80%8d/ar-BBi7WBB#page=2