今日もArt & Science

写真付きで日記や趣味を勝手気ままに書くつもり!
徒然草や方丈記の様に!
あるいは寺田寅彦の様に!

渓流魚の魅力:イワナ

2016-01-25 17:12:46 | アート・文化

http://bigarrow.exblog.jp/3163584

イワナには神秘性が宿っている。30cm以上になると、特にその感が強い。
絵画は自由である。イワナのイワナらしさを絵にしたい。
上の絵はその思いに駆られて、手元にある色鉛筆で描き上げた。
 若いときは釣り上げた魚を目の前にして、一気に描き上げたものである。しかし、昨今はデジカメ写真とブログのおかげで、お気に入りの写真が容易に手に入る。ネット上の格好の写真をピックアップし(釣り上げ)て、ヨイトコドリをして一枚の絵に仕上げる。
 死んだ魚を描くとどうしても死んだ魚しか出来上がらない。これは今までの経験則である。色、形、バランス、等々微妙に違う。ピックアップした写真は結果的に生きた魚の姿態が殆どである。上の絵もこの様にして描いてみた。生きているように見えれば幸いであるが?・・・。

 

http://bigarrow.exblog.jp/3163584


奥山に・・・

2015-11-27 09:50:17 | アート・文化
小倉百人一首は子供の遊びの一種であったが、齢70代で読み返すと味のある名句が多い!
猿丸太夫のこの句もその一つである! 
   奥山に 紅葉踏みわけ 鳴く鹿の     声きく時ぞ 秋は悲しき            
 猿丸太夫(5番) 『古今集』秋上・215 
http://www.ogurasansou.co.jp/site/hyakunin/005.html   
晩秋はメランコリーの季節。冬へ向かって暮れゆく時期ですので、
寒さが心にも微妙な変化を与えるのかもしれません。 とにかく、
遠距離恋愛や単身赴任などで恋しい人と離ればなれになっている人には、
秋の山で連れを想って鳴くこの鹿の気持ちがよくお分かりになるかも。   
上の句はメランコリーの一首です。
 ■□■ 現代語訳 ■□■      
人里離れた奥山で、散り敷かれた紅葉を踏み分けながら、雌鹿  
が恋しいと鳴いている雄の鹿の声を聞くときこそ、いよいよ秋は  
悲しいものだと感じられる。   
■□■ ことば ■□■  
【奥山】  人里離れた奥深い山のことです。  
【紅葉踏みわけ】  散った紅葉が地面いっぱいに敷きつめられたところを、雄の鹿が  
踏み分けていくこと。この句では昔から、人が歩いているのか鹿  
なのかが議論されていましたが、鹿と見るのが穏当です。  
鳴く鹿の】  
秋には、雄の鹿が雌を求めて鳴くとされており、そこに遠く離れ  
た妻や恋人を恋い慕う感情を重ねています。  
【声聞くときぞ秋は悲しき】  
「ぞ」は強意の係助詞で、文末を形容詞「悲し」の連体形「悲し  
き」で結びます。「は」も係助詞で、他と区別してとりたてて、  
というような意味になります。ここでは「他の季節はともかく、  
秋は」という意味です。  全体では「(そういう時は他にもいろいろあるけれど)鹿の鳴き  
声を聞くときは、とりわけ秋が悲しく感じる」という意味です。  
 ■□■ 作者 ■□■   
猿丸太夫(さるまるだゆう。生没年不詳)  
伝説の歌人で、三十六歌仙の一人。元明天皇の頃の人など諸説あ  
りますが実際には不明です。この歌も、古今集では「詠み人知ら  
ず」として紹介されています。鴨長明の歌論書「無名抄」には  
「田上(たなかみ)の下に曽束(そつか・現在の滋賀県大津市)  
といふ所あり。そこに猿丸太夫が墓あり」と記されています。  
 ■□■ 鑑賞 ■□■   
人の住む村里から遠く離れた、人の来ない山奥に、絢爛たる紅  
葉がびっしり敷きつめられたように散っている。赤や黄色の絨毯  
のような情景の中から、紅葉を踏みながら鹿が現れる。角の長い  
雄の鹿が、天を仰いで一声寂しく高く鳴く。   
おそらくどこへ行ったのか分からない連れ合いの雌の鹿を求め  
て鳴いているのであろう。   
その声を聞いていると、秋はなんて悲しい季節なのだろうと思  
えてくるのだよ。             
 ◆◇◆  
 秋になると、雄の鹿は雌を想って鳴くとされていました。   
このテーマは「万葉集」にもよく取り上げられており、奈良の  
昔からの定番テーマだったようです。   
さらにこの歌は、秋を美しく彩る「紅葉」が地面いっぱいに散 
り拡がった情景を表現しています。まばらな木の間をすり抜ける  
茶色い鹿と紅葉の赤と黄。   こんな色彩感豊かな世界で、わびしく鳴く鹿の声を聞いて、作  
者は秋の悲しさを全身に感じ取るのです。   
本来、秋は米の収穫の時期で、実り豊かな楽しい季節のはず。  
農村生活からはこうした発想はあまり出てきません。   
この歌は、貴族という都会生活者の感覚から生まれたものとい  
えるでしょう。             
◆◇◆   さて、紅葉の名所はどこでしょう 。  
 
北海道なら阿寒国立公園や函館の五稜郭公園が、東北では青森の 
岩木山や福島の中津川渓谷が有名です。   
また、北陸では新潟県の湯沢高原や富山の高岡古城公園、石川  
県の那谷寺や鶴仙渓、関東では茨城の袋田の滝や東京の高尾山や  
代々木公園、東海地方では愛知の香嵐渓や、三重の伊勢神宮が有  
名です。   また、近畿では京都の神護寺や東福寺、奈良の奈良公園や室生  
寺、和歌山の那智の滝が、中国では鳥取の大山国立公園や広島の  
宮島、山口の長門峡が有名です。   
四国では愛媛の西山興隆寺や高知の中津渓谷が、九州では福岡  
の秋月城や大分の耶馬渓が有名です。11月も半ばですので、見ご  
ろを過ぎている場所もありますが、まだまだ12月まで美しい紅葉  
が堪能できそうです。

これ、河原慶賀作3D植物画!

2014-10-28 12:30:29 | アート・文化

最近、3Dゲームに端を発して、3D描画法が次々発表されている.遡れば、江戸時代末期、シーボルトのお抱え絵師「河原慶賀」に行きつく。リアリズムを極限まで開拓して、光点をも克明に描画すれば視覚の錯覚で3次元物質に見える。例に示したビワの図もその一つで単にアートの域を超えている!慶賀の願いはシーボルトを通して日本の植物(動物)のありのままを世界に示したいという願望が、ひしひしと絵を通じて伝わってくる。シーボルトお抱え絵師「川原慶賀」再考

川原 慶賀は江戸時代後期の長崎の画家で、出島出入絵師として風俗画、肖像画に加え生物の詳細な写生図を描いた。諱(字とも)は種美、通称は登与助(とよすけ)。慶賀は号である。別号に聴月楼...
 

図2は3DクリエータのMarcello Barenghi氏による蜂の図で陰影法、遠近法、ぼかし法、光点を巧みに織りなして3次元描画法に成功している。これは正に慶賀の技法ではないか!3Dアニメ、3Dゲームが慶賀の技法と繋がった!http://www.youtube.com/watch?v=N9_6BtwM8OQ


ちょっといっぷく54 京都と借景ー修学院離宮

2014-03-05 13:09:36 | アート・文化

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図1 深泥池、宝ヶ池、浴龍池の位置関係。 浴龍池から見える範囲の田畑や山林は借景として宮内庁の管理下にある(google地図をコピー)。

借景とは庭園外の山や樹木、竹林などの自然物等を庭園内の風景に背景として取り込むことで、前景の庭園と背景となる借景とを一体化させてダイナミックな景観を形成する手法である。庭園外の自然物等についても庭園景観の重要な構成要素とするため、近年の都市開発に際して借景とする山そのものの開発やビルなどの高層建築の建設による景観の変化などについて、借景の破壊という面で紛争が生じることが多い。京都では特に借景にうるさい!借景の歴史は古く、千年の歴史がある。平安時代にはわが国最古の庭園秘伝書という「作庭記」には自然の景観を庭に移す「縮景」の考えが主として記されている。この考えが発展して借景に結びつく。平安時代末期に書かれた「今鏡」には、この作庭記の編著者と考えられている橘俊綱が白河上皇と庭園についての問答をしたことが記されており、そこでは庭の外の景観、眺望と地形を基準に高陽院(かやのいん)、伏見邸を優れた庭として挙げている。庭の外の景観を含めて庭の優劣を決めるということであるから、この当時すでに借景の考え方はあったと思われる。

鎌倉時代以降は借景の考えを明確に取り入れた庭がいくつも誕生する。夢想国師の京都嵯峨天龍寺など、借景技法が確立するのは桃山から江戸時代である。ただし「借景」という言葉は中国明代(17世紀半ば)の庭園書「園治」(えんや)で初めて登場するので、その言葉が日本に伝わり、日本の庭園で「借景」という言葉が用いられるのは江戸中期以降である。ということで平安時代半ばには「借景」の概念はあった。言葉としての「借景」は江戸中期以降使われるようになった。

比叡山の麓、東山連峰の山裾に造られた修学院離宮は上御茶屋(かみのおちゃや)、中御茶屋(なかのおちゃや)、下御茶屋(しものおちゃや)と呼び習わす3か所の庭園からなり、面積は54万平方メートルに及ぶ壮大な庭園である。各御茶屋の間には田畑が広がり、細い松並木道が各御茶屋を結んでいる。上御茶屋と下御茶屋は、後水尾上皇(第108代天皇)の指示により、1655年)から1659年にかけて江戸幕府が造営した離宮である。後水尾上皇は女中に変装して輿に乗り、造営中の離宮を自ら訪れて造営の指図をしたというが、真偽のほどは定かでない。上・下御茶屋は1884年、宮内省の所管となった。一方、中御茶屋は、同じ頃後水尾上皇の皇女の御所として造営されたもので、1885年に修学院離宮に編入された。修学院離宮は、第二次大戦後は、京都御所、桂離宮などと同様、「皇室用財産」(所有者は国)と位置づけられて、宮内庁が管理している。

下御茶屋は池泉観賞式庭園で、門・塀以外の建物と柿葺(こけらぶき)の屋根を乗せた簡素な建物である。水墨の襖絵は後水尾上皇時代のものではなく、江戸後期の絵師・岸駒(がんく)および岡本豊彦の筆になる。寿月観前庭の飛び石や、庭に立つ袖石灯篭も有名である。

中御茶屋は後水尾上皇の第8皇女・光子(てるこ)内親王のために1668年造営された朱宮(あけのみや)御所が前身である。この地にはそれ以前、上皇の第1皇女である梅宮が出家して円照寺という尼寺を構えていたが、上皇の離宮建設の意思を聞いて、奈良八島の地へ移っていた。朱宮御所は上皇の死後、林丘寺(りんきゅうじ)という寺に改められた。1885年、楽只軒(らくしけん)と客殿を含む、林丘寺境内の約半分が宮内省に返還され、修学院離宮の一部となった。なお、林丘寺は門跡尼寺として今も存続している。楽只軒は前述の朱宮御所の一部で、1668年頃の造営である。書院造の客殿、1677年造営された東福門院(後水尾天皇女御、徳川2代将軍秀忠娘)の女院御所の奥対面所を移築したものである。客殿一ノ間の霞棚は、桂離宮の桂棚、醍醐寺三宝院の醍醐棚とともに「天下三棚」の一として知られる。

Syuugakuinnriguu(クリックで拡大)
図2 借景の典型例:浴龍池の眺め。音羽川を堰き止めて池を形成し、北山や岩倉を借景にした壮大な眺め。上離宮背後の山、借景となる山林、それに三つの離宮を連絡する松並木の道と両側に広がる田畑は借景としてとして宮内庁が管理している(写真はhttp://www.eonet.ne.jp/~shujakunisiki/m-34.htmlより引用)。

上御茶屋は、ダムで谷川を堰き止め山腹に巨大な人工池(浴龍池)を造ったもので、15m程の深さの池を四段の石垣を積んで土留めされている。その武骨な石垣をあらわにしないために、三段の高生垣を仕立て、上部傾斜は大刈込みで覆って美しく仕上げている。大刈込みは数十種の樹木の混植で造られているので各季節ごとに、それぞれ趣の異なった彩を楽しむことができる。連絡路の終点御成門は杮葺き屋根、花菱形のくり抜きのある欄間、木の扉は下御茶屋御幸門にそっくりの造りである。御成門を入り、石段を登りつめると、隣雲亭に達する。ここは海抜149m。修学院離で最も高いところである。正面には山端(やまばな)、松ヶ崎、宝ヶ池、深泥池が望まれ、岩倉、鎌倉、貴船の山々が続き(図2)、左手には京都市街、愛宕山、西山に至るまで広々と見晴らすことが出来る。その雄大な展望は、季節により、天候により刻々と変化する。後水上皇が実に70数回もこの地を訪れたのも頷ける。借景の妙ここにありと言える。

関連するページ:ちょっといっぷく22 & 23。

http://blog.goo.ne.jp/bigarrowhiro/d/20091013

因みに、近くの岩倉にある円通寺は後水尾天皇の山荘であった幡枝御殿であり、枯山水庭園(重要文化財)もその頃に造営されたものである。修学院離宮の造営に伴い、幡枝山荘は近衛家に譲渡された。 庭園は枯山水式の庭園で国の名勝に指定されている。苔を主体に刈込みと石を配し、大小40余りの庭石は上皇となった後水尾天皇が自ら配したといわれる。また、刈込みと立木の背後に望む比叡山を借景としており、上皇は最も比叡山の眺望に優れた地を求めて、この幡枝に山荘を設けたといわれている。とりわけ、この円通寺庭園は借景の美しさで名高い。そのため、高層マンション建築など急速に進む都市開発は、貴重な借景を壊してしまう懸念材料になると危惧されていた。そのため、京都市は円通寺庭園など借景を保護するための眺望条例(正式名称は京都市眺望景観創生条例)を制定するようになった。円通寺は同条例の対象地となり、周辺区域では高さだけでなく、屋根の形式なども制限されている。上皇は良いときに修学院に移られた。最近、京都市は円通寺の借景の維持に悪戦苦闘しているらしい。


ちょっといっぷく46 cyt c でScientic Artを試そう

2013-06-29 11:34:44 | アート・文化

 

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図1 cyt c(PDBID:2B4Z)の1.5A高分解能結晶構造図。Chem3Dを用いて、Protein をcartoon, ligand moleculeをspace filling 指定で描いてみた。蛋白の色はへリックス、シート、コイル全て白色。リガンドのみatom color を用いた。バックは空色を白色にミックス。遠近、フォッグの3Dソフトを使用。

 

何ともはや、芸術的(我田引水?)である。cyt cに限らず、芸術的なProteinが多い!

 

Abstract:

 

Cytochrome c is one of the most studied proteins probably due to its electron-transfer properties in aerobic and anaerobic respiration. Particularly, cytochrome c from bovine heart is a small protein, M(r) 12,230 Da, globular (hydrodynamic diameter of 3.4 nm), soluble in different buffer solutions, and commercially available. Despite being a quite well-studied protein and relatively easy to manipulate from the biochemical and electrochemical viewpoint, its 3D structure has never been published. In this work, the purification, crystallization and 3D structure of one of the cytochrome c isoforms is presented to 1.5 A resolution. It is also shown how the presence of isoforms made both the purification and crystallization steps difficult.