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今日もArt & Science

写真付きで日記や趣味を勝手気ままに書くつもり!
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ツタンカーメンは「宇宙の剣」を持っていたことが判明!

2016-06-04 10:48:05 | インポート

http://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%e3%83%84%e3%82%bf%e3%83%b3%e3%82%ab%e3%83%bc%e3%83%a1%e3%83%b3%e3%81%af%e3%80%8c%e5%ae%87%e5%ae%99%e3%81%ae%e5%89%a3%e3%80%8d%e3%82%92%e6%8c%81%e3%81%a3%e3%81%a6%e3%81%84%e3%81%9f%e3%81%93%e3%81%a8%e3%81%8c%e5%88%a4%e6%98%8e%ef%bc%81-3400%e5%b9%b4%e9%96%93%e9%8c%86%e3%81%b3%e3%81%aa%e3%81%84%e8%ac%8e%e3%81%8c%e6%98%8e%e3%82%89%e3%81%8b%e3%81%ab%ef%bc%81/ar-BBtO0Uz?ocid=U206DHP

ツタンカーメンは「宇宙の剣」を持っていたことが判明! 3400年間錆びない謎が明らかに!過去にトカナが報じたとおり、古代エジプト人たちは、地球に落下した隕石を用いて宝飾品を作っていたことが判明している。そして今回、彼らが隕石を用いた武器さえも生み出していたことが最新の研究によって判明し、注目を集めているようだ。しかもその証拠が、あのツタンカーメンの墓から出土したナイフにあったというのだ。

【その他の画像はコチラ→http://tocana.jp/2016/06/post_9919.html

■ツタンカーメンのナイフに秘められた謎

 1922年、考古学者ハワード・カーターによって発見されたツタンカーメンの墓だが、ミイラの右大腿部分に、1本のナイフが収められていた。現在、エジプト考古学博物館が所蔵するこのナイフの柄(つか)や鞘(さや)は水晶や金で作られており、ユリや羽根の模様が描かれた見事な工芸品だ。しかし、その刃の部分に研究者を悩ませ続けてきた大いなる謎が秘められていた。

 なんと、3400年以上前に作られた鉄製のナイフであるにもかかわらず、刃がまったく錆びていなかったのだ。しかも、鉄器時代の幕開け(紀元前8世紀)から遡ること600年、紀元前14世紀に作られたものと考えられており、世界史の通説とも合致しない。

 今回この謎に挑んだのが、ミラノ工科大学(伊)、ピサ大学(伊)、エジプト考古学博物館の研究者たちからなる共同研究チームだ。ツタンカーメンのナイフを蛍光X線による組成分析(非破壊分析)にかけた彼らは、結果を先月20日に学術誌

■ナイフは隕石で作られていた!

 論文において研究チームは、ツタンカーメンのナイフが隕石から作られたと結論づけている。組成分析の結果、刃の部分に鉄隕石と同等割合のニッケルやコバルトが含まれていることが判明したのだ。

 通常、地上の鉱山で採掘される鉄鉱石から作られた鉄では、ニッケルの含有量が4%程度となるが、ツタンカーメンのナイフでは11%の値を示したという。そしてこの値は、宇宙から飛来する鉄隕石と同値なのだ。ミラノ工科大学の物理学者ダニエラ・コメッリ博士は、米・科学メディア「ディスカバリー」に次のように明かしている。

「刃の部分におけるニッケルとコバルトの割合が、鉄隕石と合致します。これは、最初期の太陽系で起きた物質分化の名残でもあるのです」

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■隕石は「神からのメッセージ」だった!?

さらにコメッリ博士たちは、ナイフの材料となった鉄隕石の特定も試みている。実はエジプトの砂漠には、これまで落下してきた巨大な鉄隕石がそのまま放置されているケースも多いのだという。そこで研究チームは20の鉄隕石に着目、同様に組成分析を行った。すると、アレクサンドリアから西に約240kmに位置する港町メルサマトルーの高原で、2000年に発見された鉄隕石「ハルガ」の成分ともっとも近いことが判明、ナイフの原材料である可能性がもっとも高いと考えているようだ。

 一連の結果を受け、研究チームは古代エジプト人たちが隕石に高い価値を見出し、貴重品を作る際に利用していたと指摘。さらに、空から降ってくる巨大な鉄の塊を「神からのメッセージ」と受け止めていたかもしれないと考察している。つまりツタンカーメンの時代、古代エジプト人は鉄の製錬技術を持たなかったが、鉄隕石を「天からもたらされた物質」として珍重し、加工するだけの高い工業技術は有していた可能性が高いというのだ。

 なお、ツタンカーメンの墓からは、隕石が砂漠に落下した際の衝撃で生じる石英ガラスを用いた数々の宝飾品も発見されているのだとか。古代エジプト人たちは、現代を生きる私たち以上に、大宇宙を身近に感じながら暮らしていたのだ。最新の科学は、古代人の宇宙観までも明らかにしつつある。


日本料理は味だけではない!繊細で美しい・・・中華料理との違いは中国メデイアピックアップ(2)

2016-02-19 13:26:52 | インポート

 

日本料理は味だけではない!繊細で美しい・・・中華料理との違いは

2016-02-19 13:11


 味のおいしさだけではなく、見た目の美しさでも外国人に評価の高い日本料理。中国メディアの網易はこのほど、「極限まで精巧な、芸術級の日本料理は文化まで味わえる」と題して、日本を訪れ、宿泊先で極上の日本料理を体験したという中国人旅行客の手記を紹介した。  中国人にとって「畳」のうえで取った食事は楽しい異文化体験となる。靴を脱いで畳に上がり、1人1人の眼前に御膳が置かれ、背もたれが付いた座椅子に座って食事を取るという体験は「中国にはない食事の風景」として非常に新鮮に映るようだ。中国では円卓に座り、みなで皿をつつき合うのが一般的な食事の光景だからだ。  記事は、日本料理で特に感心した点として、随所に見られる「料理へのこだわり」を挙げた。「料理に合わせて異なる器を使う」ことや、器がどれも美しく、鳥の形に作られた陶器はふたをとると中に料理が入っていたり、食前酒の梅酒は、器にそそぐとハートの形になったりと見ているだけで楽しく、「邪念が生まれなくてよかった」と思わず持ち帰りたくなるほど心を奪われたようだ。  料理そのものも繊細で美しかったという。刺身には菊の花が添えられていたり、かぼちゃの煮物が葉の形に、シイタケが花の形になっていたりと、細かなところまで楽しませてくれたという。こうした料理の一品一品が美しいうえ、懐石料理は食欲が増すように順番を考えてコースになって供されることに感心した様子だ。  もう1つ感心したというのが1人用のコンロだ。食事前に火をつけて、長くも短くもないちょうど良い時間に出来上がり、温かい料理を楽しめることはうれしかったようだ。中には白米が入っていて、上に木のふたが付いており、炊き立ての米が食べられたと感心。お米も非常に香ばしく、お米だけでも「おいしい味がした」と振り返った。  同中国人は中華料理の脂っこさが恋しくなり、日本料理に対して物足りなさも感じたようだが、健康的で食材本来の味が楽しめたと称賛。見ても食べても楽しい日本料理を満喫したことが文章の隅々からうかがえた。(編集担当:村山健二)(イメージ写真提供:123RF)

日本の「のれん」・・・簡素な布切れに日本文化が凝縮されている!

2016-02-07 08:25:58 | インポート

日本の「のれん」・・・簡素な布切れに日本文化が凝縮されている!=中国メデイアピックアップ(1)

サーチナ2月17日(水)10時51分(2016)
画像:先日、中国メディアが日本の「ちょうちん文化」について紹介したが、「ちょうちん」と並んで、日本の大衆文化を語るうえで欠かせないアイテムがある。それは「のれん」だ。中国メディア・騰訊網は10日、「日本ではのれんが文化的記号になっている」とする記事を掲載した。(イメージ写真提供:123RF) 
 
 
 先日、中国メディアが日本の「ちょうちん文化」について伝えたことを紹介したが、「ちょうちん」と並んで、日本の大衆文化を語るうえで欠かせないアイテムがある。それは「のれん」だ。中国メディア・騰訊網は10日、「日本ではのれんが文化的記号になっている」とする記事を掲載した。

 記事は、のれんが禅宗と一緒に日本に伝わり、平安時代末期の12世紀ごろには寺社や店、民家などで日よけ、ホコリよけ、風よけ、寒さよけの用途に用いられ、その多くは極めて簡単な作りのものであったと説明。その後、店が特定の時間にのれんを掲げることで営業中であることを知らせる目的で用いられるようになり、それぞれの店が家紋を染め込むようになったとした。

 さらに、江戸時代に入るとのれんに文字が用いられるようになり、より宣伝的な要素が強くなったことを紹介。一方で、のれんは通常2枚で、長さは幅の3倍であることなど、その設計や外観に明確な規定も設けられていたと説明した。

 また、のれんが日本の大衆文化を代表する物の1つであることの例として、作家・山崎豊子が1957年に発表したデビュー作のタイトルが『暖簾』であり、その後『花のれん』で直木賞を受賞したことを紹介した。

 記事は、防寒や風よけといった実用的な機能に加え、各店舗のイメージを表す視覚的機能が備わった日本ののれんは「日本文化の審美の方向性、そして日本のデザインにおける質素な風格を映し出している」と評した。そして、居酒屋をはじめ、さまざまな店の軒先に今も多種多様なのれんが掲げられている写真を併せて掲載した。

 居酒屋に寿司屋、ソバ屋、ラーメン屋、和菓子屋など、今もなおわれわれの日常生活に溶け込んでいるのれん。昼間はもちろんのこと、夜もちょうちんの明かりと相まってノスタルジー漂う雰囲気を醸し出してくれる。のれんはそれぞれのお店の「顔」であると同時に、日本文化の「顔」でもあるのだ。(編集担当:今関忠馬)(イメージ写真提供:123RF) 

 


祇園祭 2014(4) 蟷螂山

2014-07-07 14:20:03 | インポート

蟷螂山は、「蟷螂の斧を以て隆車の隧(わだち)を禦(ふせ)がんと欲す」という中国の故事にちなんでいる。その起源は南北朝時代で、足利義詮軍に挑んで戦死した当町在住の公卿、四条隆資(たかすけ)(1292~1352)の戦いぶりが「蟷螂の斧」のようであったことから、渡来人で当町居住の陳外郎大年宗奇(ちんういろうたいねんそうき)が卿の死後25年目の永和二年(1376)、四条家の御所車に蟷螂を乗せて巡行したのがはじまりといわれる。
その後、蟷螂山は再三の戦火に遭うが、そのつど再興され、巡行を続けてきたのであるが、元治の大火(1864)でその大部分を焼失してしまい、昭和56年、117年ぶりに再興された。蟷螂山の特徴は、かまきりと御所車の車輪が動くなど、祇園祭の山鉾としては、唯一のからくりが施されていることである。前懸、胴懸、見送は共に羽田登喜男作の友禅で、瑞苑浮遊図などがある。

Gikamakiri2(クリックで拡大)
図1 蟷螂(とうろう)山。四条隆資(1292~1352)の戦いぶりが「蟷螂の斧」のようであったことから、四条家の御所車にその蟷螂を乗せて巡行したのがはじまりといわれる。
http://kyoto-k.sakura.ne.jp/gion111.html

F1(クリックで拡大)

図2 上杉本(国宝)に描かれた蟷螂山。人気があったのかその他の洛中洛外図にも描かれている。 http://shugakuin.blogzine.jp/blog/cat10428945/ 

This float derives its name from an old saying in China that a praying mantis, though small, is courageous enough to raise its ‘hatchets’ high in the air and stand in front of a marching army to try to stop it.
The origin of this float dates back to the mid-14th century, when Shijo Takasuke (1292-1352), a high-ranking aristocrat from this neighborhood, courageously fought for a cause and was killed. A rich local merchant named Chin-uirou Tainensouki, who was an immigrant from China, sympathetically associated Shijo Takasuke with the proverbial praying mantis (known as a “Toro” or “Kamakiri” in Japanese), and made a figure of the insect. The praying mantis figure was displayed on a cart owned by the Shijo family, and paraded along with Gion festival floats in 1376, the 25th anniversary of the death of the valorous courtier.The greatest feature of this float is the fact that the praying mantis and the wheels of the mounted court cart are linked to move together mechanically, which is unique among the Gion floats.

http://www.gionmatsuri.or.jp/yamahoko/toroyama.html


ちょっといっぷく22 148回を数える「京都いっぴん物語」

2009-07-29 10:30:47 | インポート

 毎週月曜日の夜9時が楽しみである。KBS京都の人気番組で京都のスグレモノを紹介する「京都いっぴん物語」という25分番組がある。出演は羽田美智子さん(*)でナレーションは芦屋小雁師匠(*)である。京の街には町衆の知恵と工夫が創り上げた「いっぴん(逸品・一品)物が満ち溢れている。番組では毎週ひとつ、京都独自の「いっぴん」を掘り下げ、興味深く紹介しており、7月27日で148回を数える。

 (*)羽田さんは千葉県出身であるが京都人よりも京都らしい。芦屋師匠は生粋の京都人。

 全国の皆さんに是非とも「いっぴん(一品、逸品)」に込めた京都人の心を知って戴きたいと思って下記HPを紹介する。

http://www.kbs-kyoto.co.jp/tv/ippin/top.htm

 第一回は「ニシンそば」に始まり、今回148回目で「借景」が取り上げられた。筆者はつねづね京都文化の神髄は「借景」にあり、と断言していたので、今回の放映を機に、上記HPを紹介し、京都の文化、延いては日本の文化を育んでいただきたいと思うのである。

 さて、148回目の「京都いっぴん物語」が「借景」と聞いて、著者自身、「むべなるかな」と共感したのである。取り上げられた話題は1)嵯峨野の天竜寺、2)西賀茂の正伝寺、3)南禅寺の無鄰菴、そして4)植物園、それぞれ有名な借景の名勝地である。しかし、しかし、筆者はどうしても修学院離宮の上、中、下離宮をつなぐ松並木の周りに広がる田畑(図1参照)を紹介してほしかった。昭和39年、宮内庁は上・中・下の各離宮間に展開する8万㎡に及ぶ水田畑地を買い上げて付属農地とし、景観保持の備えにも万全を期している。調べていないが、他にも借景の対象となる景色の保全に細心の注意を払っているとの由。これぞ京都の神髄である。後水尾上皇はここの農作業風景を殊の外好まれたとか。京都人は借景・調和にうるさい!小は料理を盛る器にある。北大路魯山人ならずも、料理と器の調和により、料理の味を最高度に引き出し、賞味する。大はJR京都駅・京都タワーの設計である。東寺の五重塔と調和するか否かで長年論争があった。

図1 景観保持のために買い上げられた修学院離宮の周りに広がる水田風景(http://poron55.exblog.jp/11686669/より拝借。図のクリックで是非拡大してください)

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