今日もArt & Science

写真付きで日記や趣味を勝手気ままに書くつもり!
徒然草や方丈記の様に!
あるいは寺田寅彦の様に!

アジサイー植物画の魅力(三訂版)

2011-05-28 16:32:34 | まち歩き

Photo(クリックで拡大)

B01l0256(クリックで拡大)

図1 シーボルトが「日本植物図絵」発刊のために川原慶賀に描かせたアジサイのうちの代表的2種(セイヨウアジサイ(交配種)上とガクアジサイ(原種)下)。

 何とも優雅なボタニカル・アート!もともと絵師の家系であるがシ―ボルトの勧めで植物画の手ほどきを受けた。まさに和洋折衷+α(3Dグラッフィックスの要素)が既に入っている!遠近法は西洋画の技法として馴染みがあるが、フォッグ技法が取り入れられているのが新しい!

ファイル:Hydrangea macrophylla forma normalis 01.jpg

図2 ガクアジサイの典型例:アジサイの原種

 今の梅雨時に、京都の街歩きを楽しみたいと思えばアジサイをインターネットで検索して予備知識を得ておくとよい。京都人は花が好きである。特にアジサイが好きだといっても過言ではない。一回散歩に出れば、10種以上のあじさいが楽しめる。中庭や軒先、それに、特に玄関口に鉢植えのアジサイをよく見かける。何か、そのうちの人の人柄が偲ばれる。

 アジサイ(紫陽花、英名・学名: Hydrangea)とはアジサイ科アジサイ属の植物の総称である。学名は「水の容器」という意味で、そのまま「ヒドランジア」あるいは「ハイドランジア」ということもある。また、英語では「ハイドレインジア」と呼ぶ。

 医師であり、博物学者シーボルトはドイツ人であるが、鎖国時代に長崎にオランダ商館員の一員として日本に渡来し、オランダ人と偽って出島に滞在、医療と博物学的研究に従事した。シーボルトは、オランダに帰還してから植物学者のツッカリニと共著で『日本植物誌』(http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/b01/b01cont.html)を著したが、その際にアジサイ属 14 種を新種記載している。図1はシーボルトがお抱え絵師川原慶賀に描かせた植物画のうち2種を選んだ。上はオランダで改良された交配種(セイヨウアジサイ)と下は原種(ガクアジサイ)である。その中で花序全体が装飾花になる園芸品種のアジサイを Hydrangea otaksa Siebold et Zuccarini と命名している。ここでオペラなどでお馴染みの「お滝さん(otasusa)」の登場となる。


杜若(カキツバタ)の色(恋)

2011-05-21 10:56:54 | まち歩き

(写真はあちこちから、無断で拝借、感謝!)

 

Img_12289_14367645_3_2

 

 

図1 太田の沢にある表札(クリックで拡大すると字が読める)。

 

リハビリの散歩にと、太田神社のカキツバタ見物に出かけた。沢の入口に図1の表札がある。

 

 最初に俊成作の和歌があり、

 

「神山や太田の沢のカキツバタふかきたのみはいろにみゆらむ。」

 

(上賀茂神社の御降臨山である神山の近くにある太田神社のカキツバタは(人々が)よくよくお願いする恋事(いろ)はこの花の色のように何と一途(一色)で美しく可憐なのだろうか)

 

と説明書きがある。

 

 「神山や」とは上賀茂神社の北2キロメールにある独立峰で、当神社のご神体である。まず、これに惑わされるが、「古池や」の程度に理解してよろしい!?

 

Kakitubata

 

 

図2 太田の沢の杜若(1)

 

つぎに「太田の沢のカキツバタ」が本題で、「ふかきたのみ」が本音の述語になる。情が深くていろが濃いな~(綺麗だな~)と訳せばよいだろう。実際に群生しているのを目の当たりにすると本当に綺麗だ!!ひょっとすると青色蛍光を発しているかもしれない(これは一科学者の直感)。

 

 

E0048413_2317488

 

図3 太田の沢の杜若(2)。実際はこの感じの色に近い。

 

 俊成に関する逸話で有名なのは源平合戦(治承・寿永の乱)の最中の平忠度(ただのり)との最後の対面であろう。この話は『平家物語』巻7『忠度都落』に記されている。平清盛の末弟・平忠度は武勇も優れていたが、俊成に師事し歌人としても才能に優れていた。1183年(寿永2)7月の平氏一門が都落ちした後、忠度は従者6人と共に都に引き返し、師・藤原俊成の邸を訪れた。「落人が帰って来た!」と動揺する家人達に構わず対面した俊成に忠度は「(源平)争乱のため院宣が沙汰やみとなった事は残念です。争乱が収まれば改めて『勅撰和歌集を作るように』との院宣が出るでしょう。もし、この巻物の中に相応しい歌があるならば勅撰和歌集に私の歌を一首でも入れて下さるとあの世においても嬉しいと思えば、遠いあの世からお守りする者になりましょう」と秀歌と思われる歌・百余首が収められた巻物を俊成に差し上げた。翌年に忠度は一ノ谷の戦いで戦死した。

 

 その巻物に勅撰和歌集に相応しい秀歌はいくらでも収められていたが、忠度は勅勘の人だったので、編者であった俊成は忠度の歌を「詠み人知らず」として一首のみ勅撰和歌集(『千載和歌集』)に載せた。その加護があったのか、既に70近かった俊成は更に20年余り生きた。

 


葵祭余談

2011-05-15 09:25:06 | アート・文化

 葵祭りでは、装束の着付け、調度など平安期の文物風俗を忠実に保っている。これが葵祭りの魅力。本来、勅使が下鴨、上賀茂両神社で天皇の祝詞を読み上げ、お供えを届けるのが目的の祭りで、天皇が在京の時代には、行列の飾り馬と出立の舞を見学したりしていたそうである。行列は路頭の儀といい、長さ約1kmにも及ぶ。行列が下鴨神社、上鴨神社に到着すると、勅使の御祭文の奉納、東遊舞の奉納など社頭の儀が神前で行われるのが慣わしになっているらしい。今年も晴天に恵まれて、並木の緑が眼にも眩しい。賀茂街道の並木の緑を借景にして平安装束、牛車の藤の花が一際映えている。庶民による祇園祭とは異なり、上賀茂、下賀茂両神社による儀式であるから静々と進行する。動く「雅」の世界である。

Obj05

 図1 狩野山楽筆「車争い」。 

Img_aoi01_l

図2(京都国立博物館像)「車争い」。「源氏物語」(葵の巻)に、斎王列見物にでかけた葵の上と六条御息所の車争いが起こった。今を時めく光源氏の正妻、葵の上と、源氏の愛が冷めた御息所の衝突。御息所の車は見物の列からハジキ飛ばされた。気のすまない御息所のうらみは生霊となって、やがて葵の上にとりつくのである。

蛇足1)「今昔物語」(巻ニ八ノ二)には、葵祭の翌日、斎王列が帰るというので、頼光四天王で名高い坂田公時ら3人が見物に。でも、馬では野暮だし徒歩では人目がある。「牛車で見物としゃれ込んでは…」。1人の提案に全員が同意。早速に出かけたが、慣れない車にゆられて強者も車酔い。車の中でグウグウ、スウスウ。目を覚ましたときは、行列は過ぎたあとで、文字どおり、あとの祭り!!!

(蛇足2)「枕草子」に出てくる(葵)祭の記述(第4段途中より):

「・・・

四月、祭のころ、いとをかし。上達部(かんだちめ)、殿上人も袍(うへのきぬ)の濃き薄きばかりのけぢめにて、白襲(しらがさね)など同じ様に、涼しげにをかし。木々の木の葉、まだいとしげうはあらで、若やかに青みわたりたるに、霞も隔てぬ空のけしきの、なにとなくすずろにをかしきに、すこし曇りたる夕つ方、夜など、忍びたる郭公(ほととぎす)の、遠く、そら音(ね)かとおぼゆばかりたどたどしきを聞きつけたらむは、なにここちかせむ。
 祭近くなりて、青朽葉、二藍(ふたあい)の物どもおし巻きて、紙などにけしきばかりおし包みて、行き違ひ持てありくこそ、をかしけれ、末濃(すそご)、むら濃(ご)なども、常よりはをかしく見ゆ。童女(わらはべ)の、頭ばかりを洗ひつくろひて、なりは皆ほころびたえ、乱れかかりたるもあるが、屐子(けいし)、沓(くつ)などに「緒すげさせ、裏をさせ」など持て騒ぎて、いつしかその日にならむと、急ぎおしありくも、いとをかしや。あやしうをどりありく者どもの、装束き(そうぞき)したてつれば、いみじく定者(ぢやうざ)などいふ法師のやうに、ねりさまよふ、いかに心もとなからむ。ほどほどにつけて、親、叔母の女、姉などの供し、つくろひて率てありくもをかし。」

(蛇足3)徒然草41段

五月五日、賀茂の競べ馬を見侍りしに、車の前に雑人立ち隔てて見えざりしかば、おのおの下りて、埒のきはに寄りたれど、殊に人多く立ち込みて、分け入りぬべきやうもなし。かかる折に、向ひなる楝の木に、法師の、登りて、木の股についゐて、物見るあり。取りつきながら、いたう睡りて、落ちぬべき時に目を醒ます事、度々なり。これを見る人、あざけりあさみて、「世のしれ物かな。かく危き枝の上にて、安き心ありて睡るらんよ」と言ふに、我が心にふと思ひしまゝに、「我等が生死の到来、ただ今にもやあらん。それを忘れて、物見て日を暮す、愚かなる事はなほまさりたるものを」と言ひたれば、前なる人ども、「まことにさにこそ候ひけれ。尤も愚かに候ふ」と言ひて、皆、後を見返りて、「こゝに入らせ給へ」とて、所を去りて、呼び入れ侍りにき。

(蛇足4)徒然草137段

花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは。雨に対ひて月を恋ひ、垂れこめて春の行衛知らぬも、なほ、あはれに情深し。咲きぬべきほどの梢、散り萎れたる庭などこそ、見所多けれ。歌の詞書にも、「花見にまかれりけるに、早く散り過ぎにければ」とも、「障る事ありてまからで」なども書けるは、「花を見て」と言へるに劣れる事かは。花の散り、月の傾くを慕ふ習ひはさる事なれど、殊にかたくななる人ぞ、「この枝、かの枝散りにけり。今は見所なし」などは言ふめる。

 万の事も、始め・終りこそをかしけれ。男女の情も、ひとへに逢ひ見るをば言ふものかは。逢はで止みにし憂さを思ひ、あだなる契りをかこち、長き夜を独り明し、遠き雲井を思ひやり、浅茅が宿に昔を偲ぶこそ、色好むとは言はめ。望月の隈なきを千里の外まで眺めたるよりも、暁近くなりて待ち出でたるが、いと心深う青みたるやうにて、深き山の杉の梢に見えたる、木の間の影、うちしぐれたる村雲隠れのほど、またなくあはれなり。椎柴・白樫などの、濡れたるやうなる葉の上にきらめきたるこそ、身に沁みて、心あらん友もがなと、都恋しう覚ゆれ。

すべて、月・花をば、さのみ目にて見るものかは。春は家を立ち去らでも、月の夜は閨のうちながらも思へるこそ、いとたのもしうをかしけれ。よき人は、ひとへに好けるさまにも見えず、興ずるさまも等閑なり。片田舎の人こそ、色こく、万はもて興ずれ。花の本には、ねぢより、立ち寄り、あからめもせずまもりて、酒飲み、連歌して、果は、大きなる枝、心なく折り取りぬ。泉には手足さし浸して、雪には下り立ちて跡つけなど、万の物、よそながら見ることなし。

 さやうの人の祭見しさま、いと珍らかなりき。「見事いと遅し。そのほどは桟敷不用なり」とて、奥なる屋にて、酒飲み、物食ひ、囲碁・双六など遊びて、桟敷には人を置きたれば、「渡り候ふ」と言ふ時に、おのおの肝潰るゝやうに争ひ走り上りて、落ちぬべきまで簾張り出でて、押し合ひつゝ、一事も見洩さじとまぼりて、「とあり、かゝり」と物毎に言ひて、渡り過ぎぬれば、「また渡らんまで」と言ひて下りぬ。たゞ、物をのみ見んとするなるべし。都の人のゆゝしげなるは、睡りて、いとも見ず。若く末々なるは、宮仕へに立ち居、人の後に侍ふは、様あしくも及びかゝらず、わりなく見んとする人もなし。

 

 何となく葵懸け渡してなまめかしきに、明けはなれぬほど、忍びて寄する車どものゆかしきを、それか、かれかなど思ひ寄すれば、牛飼・下部などの見知れるもあり。をかしくも、きらきらしくも、さまざまに行き交ふ、見るもつれづれならず。暮るゝほどには、立て並べつる車ども、所なく並みゐつる人も、いづかたへか行きつらん、程なく稀に成りて、車どものらうがはしさも済みぬれば、簾・畳も取り払ひ、目の前にさびしげになりゆくこそ、世の例も思ひ知られて、あはれなれ。大路見たるこそ、祭見たるにてはあれ。

 

 かの桟敷の前をこゝら行き交ふ人の、見知れるがあまたあるにて、知りぬ、世の人数もさのみは多からぬにこそ。この人皆失せなん後、我が身死ぬべきに定まりたりとも、ほどなく待ちつけぬべし。大きなる器に水を入れて、細き穴を明けたらんに、滴ること少しといふとも、怠る間なく洩りゆかば、やがて尽きぬべし。都の中に多き人、死なざる日はあるべからず。一日に一人・二人のみならんや。鳥部野・舟岡、さらぬ野山にも、送る数多かる日はあれど、送らぬ日はなし。されば、棺を鬻く者、作りてうち置くほどなし。若きにもよらず、強きにもよらず、思ひ懸けぬは死期なり。今日まで遁れ来にけるは、ありがたき不思議なり。暫しも世をのどかには思ひなんや。継子立といふものを双六の石にて作りて、立て並べたるほどは、取られん事いづれの石とも知らねども、数へ当てて一つを取りぬれば、その外は遁れぬと見れど、またまた数ふれば、彼是間抜き行くほどに、いづれも遁れざるに似たり。兵の、軍に出づるは、死に近きことを知りて、家をも忘れ、身をも忘る。世を背ける草の庵には、閑かに水石を翫びて、これを余所に聞くと思へるは、いとはかなし。閑かなる山の奥、無常の敵競ひ来らざらんや。その、死に臨める事、軍の陣に進めるに同じ。かほどの理、誰かは思ひよらざらんなれども、折からの、思ひかけぬ心地して、胸に当りけるにや。人、木石にあらねば、時にとりて、物に感ずる事なきにあらず。


緑滴る賀茂街道-5月15日は葵祭

2011-05-07 13:27:42 | まち歩き

201105057740881lmisogi

図1 5月4日、京都の葵祭に向け、斎王代が身を清める「御禊の儀」が京都市左京区の下鴨神社で行われた。十二単に身を包んだ第56代斎王代の同志社大4年、金井志帆さん(23)が女官ら約50人と参道を進み、境内を流れる手洗川で、両手の指先を水面に浸した。神事を終えた金井さんは「十二単の重さに伝統と責任を感じました」と話した由

(読売新聞5/5)。

(

)

(

)

(

)

 葵祭は別名、賀茂祭とも呼ばれ、平安の昔より人気があった。この祭の前後、賀茂街道の新緑が最も色鮮やかである。別名萌黄色とも呼ばれ平安の昔から好まれて染色されたほどである。葵祭(あおいまつり)は、京都市の賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)で、5月15日(陰暦四月の中の酉の日)に行なわれる例祭。石清水八幡宮の南祭に対し北祭ともいう。平安時代、「祭」といえば賀茂祭のことをさした。

 行列が賀茂街道の新緑の下を静々と通る姿が何とも雅やかである。この行列の前、5月4日、「御禊の儀」がおこなわれた。新緑のもと、十二単が眩いばかりにひきたった。

F1010034_2

図2 賀茂街道のケヤキ並木(クリックで拡大)。

この緑のトンネルの中を行列が通る。15日が待ち遠しい。詳しくは「ちょっといっぷく9」:2008年5月16日)を参照して戴きたい。葵祭は6世紀から現代まで1500年の歴史があるので、それなりの面白い伝説もたくさん蓄積されている。特に有名なのは源氏物語に登場する物語で、光源氏の昔の妻:六条御息所と、正室:葵上の牛車による場所取り争いである。その他、「徒然草」、「枕草子」にも出てくる。