今日もArt & Science

写真付きで日記や趣味を勝手気ままに書くつもり!
徒然草や方丈記の様に!
あるいは寺田寅彦の様に!

東山花灯路

2016-04-08 16:30:56 | まち歩き

八坂の塔とも呼ばれている法観寺の五重塔である。近くの中華料理屋の主人が私財を提供してライトアップしたのが始まりで、今では3月の伝統行事になっている。当寺は聖徳太子が如意輪観音の夢のお告げにより建立したといわれている。この法観寺は592年、奈良の法隆寺などを建てた聖徳太子が五重塔を建てたのが始まりと言われている。平安京ができる200年以上前というとその古さがうかがえる。このことからこの法観寺の五重塔は京都最古の塔とも言われています。そのあと広大な敷地にお寺が広がっていたそうですが、衰退や焼失の後、現在は再建された五重塔の周りに建物が少しだけ残るだけとなっている。京都のシンボルとも言われる八坂の塔は高さ46m。五重塔では京都東寺・奈良興福寺の五重塔に次ぐ高さで、現在のものは室町時代の1440年、足利六代将軍義政により再建されたもので国の重要文化財に指定されている。
前にある石畳の坂道と一緒に映る写真は京都の代名詞になっている。ライトアップの姿は殊の外幻想的である。

 

 


今年の漢字2015

2016-01-13 11:18:34 | まち歩き

今年の漢字「安」を揮毫する森清範貫主(15日午後2時5分、京都市東山区・清水寺)

この1年の世相を漢字一字で表す「今年の漢字」が「安」に決まり、京都市東山区の清水寺で15日、森清範(せいはん)貫主が揮毫(きごう)した。今年の漢字は今回が21回目。日本漢字能力検定協会(同市)が毎年公募しており、全国から12万9647票の応募があり、「安」が5632票で最多だった。

 安全保障関連法案の審議に全国が注目したほか、相次ぐテロや異常気象で人々を不「安」にさせたことなどを理由に挙げた人が多かったという。このほか、中国人の「爆買い」や自爆テロなどが相次いだことから「爆」が2位、戦後70年や安保関連法から連想させた「戦」が3位となった。

 森貫主は「今年の不安を払拭して、来年は安全安心な社会をつくっていこうという総意ではないか」と話した。


京都の四神相応図

2015-05-20 08:22:41 | まち歩き

桓武天皇と和気清麻呂が船岡山での壮大な計画―平安京

図1京都の四神相応図

桓武天皇は、道教というか道家の思想を若い頃からしっかり習得していたようである。母親高野新笠が何らかの形で百済王一族と繋がっていて、百済王一族の聖地交野に若い頃から度々遊びに行き、親しく師事する人から、大陸文化を教わった。その中に、きっと道教なり道家の思想があったにちがいない。まず桓武天皇が全力を上げて取り組んだのは、平安京の建設である。長岡京では何故思いもよらぬ不幸な出来事が次々と起こったのか? どうもそれは,風水でしか説明ができないのではないか。風水的に見てもっとも良い地域はないか? 山背(やましろ)は風水的に見てどうか? 陰陽師の出番である。山背の地こそ風水的に見て最高の地である。経済的な背景をもとに、実質的に山背への再遷都を勧めたのは秦氏であった。平安初期、驚異的な地理感と卓越した土木技術のノウハウを駆使して皇室に仕え、桓武天皇の治世に貢献した和気清麻呂は、秦氏らの 協力を得て、平安京の遷都を実現させた。当時、朝廷において強い影響力を持っていた有力者である秦氏は、平安京の造営にあたり、そのプロジェクトを推 進するために平安京の大内裏を含む土地や多くの私財を献上した陰の立役者でった。政治的な決定は、和気清麻呂ならびに大納言藤原小黒麻呂(おぐろまろ)と左大弁紀古佐美(きのこさみ)らが行なった。かくして、桓武天皇の強い意思が、思想的にも経済的にも、さらには政治的にも実力者に支持されて、平安京建設という具体的なビッグプロジェクトとして実現されたのである。桓武天皇の行なった「四神相応の平安京の都市建設」について説明をしていきたい。四神相応の地とは、「東に流水あるを青龍といひ、南に沢畔あるを朱雀といひ、西に大道あるを白虎といひ、北に高山あるを玄武といふ。」がそろう地である。、『 和銅元年(708)に元明天皇が発した「遷都平城詔」(続日本紀)には、『朕、祇(つつし)みて上玄に奉りて、宇内に君とし臨み、菲薄(ひはく)の徳を以て、紫宮の尊きに処(お)れり。(中略)平城の地は、四禽図(しきんと)に叶ひ、三山鎮を作(な)し、亀巫(きふ)並びに従ひぬ」とある。「上玄」は天、紫宮は天帝の居所をいい、いずれも用語は道教的である。四禽とは、青龍(東)・白虎(西)・朱雀(南)・玄武(北)を指すことは言うまでもない。新都造営にあたっての土地の卜占(ぼくせん)は陰陽寮の陰陽師に課せられていたことは、「令義解(りょうのぎげ)に、その職掌として「掌(つかさど)らむこと、占巫して地相(み)ること」とあることからも明らかである。この陰陽師の職掌をもって、道教そのものであるとはいえないとしても、それが道教の方術と共通のものであることは確かである。おそらく、このような土地の占いの方は、推古紀10年(602)10月の条に百済の僧・観勒(かんろく)によって暦の本・天文地理の書・遁甲方術の書がもたらされたとあるように、飛鳥時代には知られていたのであろう。四神については、道教教典「淮南子(えなんじ)」天文訓の五星(木星、火星、土星、金星、水星)についての記述の中にある。また、「抱朴子(ほうぼくし)」の雑応篇には、老君(老子)が神亀を腰掛けにし、どうじ20人を従え、左には青龍が12、右には白虎36、前に24の朱雀、後に72の玄武が控えているとある。いずれにしても「淮南子」や「 抱朴子」においては、四神思想は道教の体系の中に組み入れられていたとみることができる。』『 平安京の建設に当たっても四神相応の地を占ったことはいうまでもない。 大納言藤原小黒麻呂(おぐろまろ)、左大弁紀古佐美(きのこさみ)らを遣わして、山背国葛野(やましろのくにかどの)の土地を調べに行かせた時、東大寺沙門・ 賢(けんきょう)が従ったことが、鎌倉末期の仏教史書「元享釈書(げんこうしゃくしょ)」にしるされている。 村井康彦氏によると、賢は皇太子時代の桓武天皇に、室生の山中で延寿法をほどこしていて、それが機縁となって、賢は密教寺院・室生寺を開創するという。この賢が延寿法をなし得ている点に、道教思想の影響が感じられる。』『 四神相応の地とは、平安時代の陰陽家・安倍晴明撰の「簠簋内伝(ほきないでん)」巻四に「東に流水あるを青龍といひ、南に沢畔あるを朱雀といひ、西に大道あるを白虎といひ、北に高山あるを玄武といふ。」がそろう地とある。(注:平安京はまさに理想的な四神相応の地である。)』。

 

 

図2 みそぎの川:青龍=鴨川。中洲の店開きが活況を呈している!図2は広重の浮世絵。

 


今年のお土居桜

2015-04-24 12:14:07 | まち歩き

  

図1 お土居の山桜。ヤマザクラは花と葉が同じ時期に開くので容易に見分けができる。

今年も桜の季節がやってきた。

写真左手の上堀川通の街路樹の緑が目にも鮮やかである。写真中央にお土居の遺構が見える。これがお土居の北の果てで、南は新幹線の0番ホーム下である。

写真上部が洛中で、下部が洛外に対応する。

お土居には大抵掘か川が並走している。金網の手前が若狭川で、コンクリートブロックで蓋をした暗渠になっている。

お土居には数種類の山桜が植えられており、ソメイヨシノ満開の前後1カ月の間、ヤマザクラ見物が楽しめる。

六階のベランダから眺めると、桜の花の色と、開花度の違いて種類の違いが分かる。

でも、開花度の順序は年によって異なる!

今日は朝から落花盛ん!ベランダまで散ってくる!

やっと待ちに待った春がやってきた!!

 


ソメイヨシノの語源由来辞典参照

2015-04-05 09:57:20 | まち歩き

ソメイヨシノは、江戸末期から明治初期に、江戸の染井村に集落を作っていた造園師や植木職人達によって育成された。初めサクラの名所として古来名高く西行法師の和歌にもたびたび詠まれた大和の吉野山(奈良県山岳部)にちなんで「吉野」「吉野桜」として売られ、広まったが、藤野寄命による上野公園のサクラの調査によってヤマザクラとは異なる種の桜であることが分かり(1900年)、この名称では吉野山に多いヤマザクラと混同される恐れがあるため、「日本園芸雑誌」において染井村の名を取り「染井吉野」と命名したという。翌年、松村任三が学名をつけた。

図1 咲き誇るワシントンDCのソメイヨシノ