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ちょっといっぷく34 京都盆地ー京の名水地図

2012-08-26 08:10:28 | まち歩き

Meisuitizu

 

 

図1 京都の名水地図をコンパクトに編集して掲載。なお、枯れてしまった名水は省いた。

 

http://www.kyoto-meguri.com/kyounomeisui/meisuimap.html

(空色をクリックすれば、各名水にリンク写真と解説が楽しめる)。

 京都盆地全体が大きな扇状地で水盆の形をしており、琵琶湖の大きさにに匹敵する。市内のあちこちで名水が楽しめるので、代表的な湧き水を紹介する。

名 称: 下鴨神社 御手洗水

住 所:京都市左京区下鴨泉川町59  Tel.075-781-0010

賀茂川と高野川の合流地にある糺森に鎮座する世界遺産下鴨神社では、古来より糺の森から湧き出る神水御手洗が有名で、土用の丑の日には足をつけると無病息災が得られるといわれる「足つけ神事」も行われます。
 手水鉢は船形盤座(いわくら)をかたどったもので、樋は糺の森の杉で復元されています。まろやかで冷たい水は地元の人たちがよく汲みにこられます。

 

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名 称: 貴船神社 神水(きぶねじんじゃしんすい)

住 所:京都市左京区鞍馬貴船町180  Tel.075-741-2016

貴船川上流に鎮座する貴船神社は、賀茂川の水源に祀られていることから水の神様として醸造業、農漁業など幅広い信仰を集めてきました。本殿前には、貴船山からの御神水が湧き出ています。夏は冷たく冬は温かい水は涸れたこともなく、一年汲み置きしても変質しないとも言われています。古来より茶人が茶を点てるのに珍重したのも納得できます。この御神水、自由に飲めて、持ち帰りも出来ます。また、横には若い女性に人気がある水占い場があります。御神水にくじを浮かべると水の霊力によって文字が浮かんで吉凶を占います。

 

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名 称: 千代乃井 西陣五名水

 

住 所:京都市上京区智恵光院通五辻上る紋屋町  Tel.075-441-5762

 

西陣にある本隆寺は法華宗(真門流)の総本山で、享保15年・天明8年の二度にわたる大火にも奇跡的に難を逃れたことから、不焼寺(やけずのてら)とも言います。本堂の前に井桁を残す「千代乃井」は、天明の大火から本堂を守ったと伝えられています。千代乃井の名は、無外如大尼(千代野姫)が満月の夜、この井戸で水を汲んでいたとき、桶の底が抜け水面に映っていた月影が水とともに消えたことをきっかけに仏道に入ったとの逸話から名づけられたといわれています。

 

名 称:北野天満宮の神水 

 

住 所:京都市上京区馬喰町931  Tel.075-461-0005

 

学問の神様として有名な北野天満宮。その境内には数多くの井戸がある。大鳥居の左にある茶席「松向軒」の中にある「三斎井戸」は、天正15年(1587)、秀吉が大茶会を催したとき、細川三斎が使った井戸、千利休が掘ったのが「太閤井戸」。  楼門を入った右手には、「梅香水」。天満宮の神事に用いる水を汲む井戸が「御神用水」などがある。なかでも東門を入ったところの手水鉢は、涸れることもなく今なお涌き出ており、水を汲みに来る近隣の人は多い。手水舎の井筒には、寛文10年(1670年)と彫ってあり、古くから飲用されていたらしい。

名 称:平野神社 手水 

住 所:京都市北区平野宮本町1 Tel:075-461-4450

桜の名所として有名な平野神社は、平安京遷都の折、奈良から遷座。当時は現在の京都御所ほどの敷地があり朝廷もしばしば参拝したという古社。社殿は平野造とよばれ本殿は重文。東門から入ると左手に手水鉢があり滾々と水が涌き出ている。地下約100メートル掘り下げて涌き出た水は、ほどよく冷たくてまろやか、手水だがおもわず飲み込んでしまう名水です。

名 称: 西陣五名水 染殿井

住 所:京都市上京区上立売通智恵光院西入聖天町

 

雨宝院は、弘仁12年(821)嵯峨天皇の病気平癒を祈願し、弘法大師空海が歓喜天(聖天)を安置した大聖歓喜寺が始まりとされています。その後、広大な境内は荒廃して現在の雨宝院のみとなりました。「染殿井」は西陣の五名水に挙げられ、涸れることなく涌いている。この水を染色に使うとよく染まるとされ、以前は西陣の染物関係者が水を汲みに来ていましたが、現在は清めの手水に使われています。

 

名 称: 白峯神宮 飛鳥井・潜龍井 

 

住 所:京都市上京区今出川通堀川東入飛鳥井町261  Tel.075-441-3810

 

白峯神社が建つ以前には、ここには蹴鞠で有名な飛鳥井家の屋敷があり、その屋敷内に「飛鳥井」と呼ばれる名水が湧き出ていました。清少納言も、『井は、ほりかねの井。走り井は逢坂なるがをかしき。山の井、さしも浅きためしになりはじめけむ。飛鳥井「みもひも寒し」とほめたるこそをかしけれ。玉の井、少将ノ井、櫻井、后町の井。千貫の井。』と九つの名水の中にあげています。現在手水舎から涌き出ている水は、近年に35メートルまで掘り下げた水脈ですが、味はまろやかで水を汲みに訪れる人も多い。飛鳥井から50mほど離れている潜龍大明神の前にある潜龍井は、同じ境内でも水脈の深さが違うので味も温度も異なっています。その違いを飲みわけるのもいいでしょう。

 

名 称:祇園神水・八坂神社

 

住 所:京都市東山区祇園町北側625  Tel.075-561-6155

 

八坂神社の本殿東にある祇園の涌き水・祇園神水は「力水」とも呼ばれ、水を飲んだ後、隣接する美御神社にお参りすると美人になるといわれている。祇園の芸妓さんや舞妓さん、化粧品業界人などが古くから熱い信仰を寄せている名水で、ペットボトルに入れて持ち帰る女性も多い。 本殿の下には龍穴と呼ばれる深い井戸があり、神泉苑と繋がっているといわれています。八坂神社のある東山は四神相応の土地で、東の青龍の地にあたり、この龍穴を青龍が守っているともいわれています。

 

名 称: 梨木神社境内 染井

 

住 所:京都市上京区寺町通広小路上ル殿町680-1  Tel.075-211-0885

 

京都御所の東側、梨木神社境内にある「染井」は、京都三名水の中で千年以上も沸き続けている唯一の井戸で、毎日多くの人々が水を汲みに訪れます。梨木神社は、三条実萬(さねつむ)、実美(さねとみ)父子を祭神として明治18年に建立された新しい神社だが、この地は九世紀後半に栄えた藤原良房の娘明子(清和天皇の御母染殿皇后)の里御所の跡で「染殿」といわれたところで、宮中の染所としてこの井戸の水が用いられていたようです。「染井」の西には御所三名水の「染殿井」の遺構があり、昔は同じ水脈の井戸だったのでしょうか。

 

名 称:晴明神社 晴明井

 

住 所:京都市上京区堀川通一条上ル晴明町806-1 Tel.075-441-6460

 

平安期の天文陰陽師で、六代の天皇の側近を務めた安倍晴明を祀る晴明神社。本殿の北にある晴明水は晴明の念力により湧きだしたとされ、難病平癒の水とされる。利休も湧き出る水を茶の湯に用いたとか。立春に神職が五芒星をかたどった井戸の上部を回転させて、取水口がその年の恵方を向くようになっています。

 

名 称:麩嘉の滋野井

 

住 所:京都市上京区西洞院通椹木町上ル

 

洛陽七名水の1つとして有名な滋野井は、京都府庁の近くにある。この地は平安時代には公卿の滋野貞主の邸地だった。その後、ここには蹴鞠の名人藤原成道が住み、滋野井のほとりに鞠の神・精大明神の社が建ったが、いまは白峯神社に祀られているという。滋野井は、明治時代に埋められてしまったそうだが、昭和55年に涸れかけていた古い井戸を掘りなおしたという。現在ここにある生麩の老舗・麩嘉では、麩作りに良質な井戸水を多量に必要とするそうで、ここの井戸は「滋野井」を更に40m掘り下げて地下60mの水脈より取水を行っているそうです。名 称:

 

下御霊神社の御香水

 

住 所:京都市中京区寺町通丸太町下ル下御霊前町634  Tel.:075-231-3530

 

下御霊神社は仁明天皇の創建とされる。当初上京区の御霊神社の南にあったのでこの名前がついたという。社地は転々と移動したが1589年の秀吉の都市改造により現在地に遷座した。境内に湧き出る「香水」は、「染井」で有名な梨木神社より800mほど南にあり、こちらも人の絶え間がないくらいに水を求めて賑わっている

 

名 称:桃の井 キンシ正宗堀野記念館

 

住 所:京都市中京区堺町通二条上ル亀屋町172 Tel:075-223-2072

 

ここは、天明元年(1781)にキンシ正宗の創業者・初代松屋久兵衛が創業した地です。敷地内にある「桃の井」は、淡麗な切れ味を持つ数々の名酒を生み出してきた名水で、大きな桃の木の下にあったところから名づけられたという。桃の井は、いまなお水温16度、毎分3トンの水が涌き出ており、その味は、京の名水ならではのまろやかな口当たりです。堀野記念館では、この水から作った地ビールが飲めます。

 

名 称:柳の水

 

住 所:京都市中京区西洞院通三条下る東側

 

 このあたりは、織田信長の三男信雄の屋敷跡で、江戸時代の貞亨年間以後は紀伊徳川家の京屋敷となり、現在は馬場染工場が建っています。
 柳の水は、千利休(1522~91)も茶の湯に用いた名水として有名で、井戸のそばに直接陽が射すのを避けたりために柳を植えたためこの名で呼ばれるようになったそうです。現在、柳の水は、地下25メートルの位置からポンプで汲み上げられており、蛇口から柔らかい水が味わえる。

 

名 称:錦天満宮の神水

 

住 所:京都市中京区新京極通四条上る中之町537  Tel.075-231-5732

 

菅原道真を祀り、「錦の天神さん」として親しまれている錦天満宮は、繁華街の真中にある。境内に湧き出る「錦の水」は、真夏でも18度前後に保たれており、手水の周りには観光客や修学旅行生、外人さんなどでいつも賑わっています。立札には「この井戸は地下30数メートルより湧出、昼夜の別なくこんこんと湧き、霊験あらたかで、水温年中17.8度を保つ。検査の結果、無味、無臭、無菌。飲用に適する良質の御神水、お持帰り自由(無料)」とある。味わうと、京都の名水ならではのまろやかさと、ほどよい冷たさが喉を潤してくれる。

 

名 称:亀屋良長の井戸「醒ヶ井水」

 

住 所:京都市下京区四条堀川東入ル(醒ヶ井角) TEL.075-221-2005

 

四条堀川を東に入った醒ヶ井通にある京菓子店の店先には、地下80mから汲み上げた「醒ヶ井」の水があります。「左女牛井」とは少し離れたところにありますが、京の名水ならではの味わいがあります。この店の和菓子は、この水を使っているそうです。 

 

名 称:祇園神水・八坂神社

 

住 所:京都市東山区祇園町北側625  Tel.075-561-6155

 

八坂神社の本殿東にある祇園の涌き水・祇園神水は「力水」とも呼ばれ、水を飲んだ後、隣接する美御神社にお参りすると美人になるといわれている。祇園の芸妓さんや舞妓さん、化粧品業界人などが古くから熱い信仰を寄せている名水で、ペットボトルに入れて持ち帰る女性も多い。 本殿の下には龍穴と呼ばれる深い井戸があり、神泉苑と繋がっているといわれています。八坂神社のある東山は四神相応の土地で、東の青龍の地にあたり、この龍穴を青龍が守っているともいわれています。名 称:

 

音羽の滝(おとわのたき)

 

住 所:京都市東山区清水一丁目(清水寺内)  075-551-1234

 

清水寺の寺号ともなった音羽の滝は、古来から「黄金水」「延命水」とよばれ、 ”清め”の水として尊ばれてきました。「洛中洛外図屏風」(上杉本)などには、現在と同じ3本の筧や、滝に打たれる行者が描かれています。近世にはお茶の水として重用され、界隈に住む人はいまなお飲用水として使用しています。観光客が絶えることのない音羽の滝の奥には、不動明王や行叡居士が祀られており、参詣者が行列をつくって柄杓に清水を汲み、六根清浄、諸願成就を祈願しています。1000年以上にわたって涌き続けている名水はいまなお衰えることはありません。

 

 

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名 称:「亀の井」・松尾大社

 

住 所:京都市西京区嵐山宮町3  Tel.075-871-5016

 

秦氏が創建したとされる。賀茂社と並び京都最古の神社。中世よりは特に酒の神として名高く、現在も醸造関係者に厚く信仰されている。亀の井は、涸れることのない霊亀の滝の手前にある霊泉で、酒造家はこの水を酒の元水として造り水に混ぜて使ったといわれています。また延命長寿・蘇りの水としても有名で、いまなお、近隣の人たちが汲みに訪れています。

 

名 称:市比賣神社「天之真名井」

 

住 所:京都市下京区河原町通五条下ル一筋目西入ル本塩竈町593  Tel.075-361-2775

 

市比売神社は、平安京の左右両市場の守護神として、桓武天皇の勅命により延暦十四年(795年)に創建。その後、天正九年(1591年)に太閤豊臣秀吉によって、現在の地に移転された由緒ある神社。祭神がすべて女神様であることから、女性の守り神とされ、女人厄除けの神社として有名です。境内にある井戸「天之真名井(あめのまない)」は、古来皇室において皇子・皇女誕生の折には、この水が産湯に用いられたという。絵馬を掛け、「天之真名井」のご神水を飲んで手を合わせると、一つの願い事が叶うと伝えられる一願成就の井戸として信仰されている。

 

名 称:「神供水」 若一神社

 

住 所:京都市下京区七条御所ノ内本町98番地  Tel.075-313-8928

 

平安時代末期に平清盛がここに別邸を造営し「西八条殿」と称し、仁安元年(1886)に紀州熊野詣りの折りの御告げにより土中より若一王子が現れ、その御霊を祀ったのが始まりとされている。境内にある「神供水」(じんぐすい)は、近隣の人たちが絶えず訪れる名水、夏に訪れいただいたが、冷たくてまろやか、期待以上の水でした。以前の井戸を、20メートルほど掘り下げると一日中水が出るようになったそうです。

 

名 称:「満仲誕生水」 六孫王神社

 

住 所:京都市南区壬生通八条角八条町509  Tel.075-691-0310

 

六孫王神社が鎮座するこの地は、源経基(つねもと)の邸宅「八条亭」の跡地。経基は清和天皇の第六皇子貞純(さだずみ)親王の子であり、天皇の孫であることから「六孫王(ろくそんのう)」と呼ばれたが、臣籍に下って源姓を賜った。境内には神龍池があり、その側に源満仲誕生のおり井戸の上に弁財天を勧請し、安産を祈願し産湯に使ったといわれる誕生水弁財天社がある。
 井戸は、古くから京都名水の一つとされているが、初代の井戸は新幹線の高架橋の下になってしまい現在は2代目ですが同じ水脈から汲み上げています。

 

名 称: 城南宮 「菊水若水」

 

住 所:京都市伏見区中島鳥羽離宮町7  Tel.075-623-0846

 

平安時代末、白河上皇により鳥羽に壮大な離宮が造営され、その鎮守として社が祀られ、古くから方除け・交通安全の神として信仰されている神社。伏見八名水の一つ『菊水若水』が湧き出る手水鉢の水を飲むとあらゆる病が治るといわれ、そのご利益を授かるために水を持ち帰る参拝者も多い。

 

名 称:藤森神社「不二の水」

 

住 所:京都市伏見区深草鳥居崎町609  Tel.075-641-1045

 

社伝によると、神功皇后によって創建されたともいわれる古い神社です。また、菖蒲の節句発祥の神社としても知られ、今では勝運と馬の神様として、競馬関係者(馬主・騎手等)の参拝者でにぎわっています。境内東側にある「不二の水」は、「2つとないおいしい水」という意味。ここには昔から井戸があったが何度か枯れてしまい、地下90mから湧き出るいまの神水は3代目だという。氏子はもとより、遠方より水を汲みに来られる人々が後を絶たない。地元の人たちに人気の水汲み場として守られている。

 

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ちょっといっぷく33 琵琶湖に匹敵する水盆ー京都盆地

2012-08-25 13:14:15 | まち歩き

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図1 鴨脚(いちょう)家庭園。 水位によって水面の形が変わるーいわば水位計である。

 

 下鴨神社の境内に湧く水が京都の水の源であるといわれ、それを守ってきたのが鴨氏である。都の水の守り手として天皇に重んじられる一族である。鴨氏は神社に社家として奉仕していながら、一部は御所に仕えていた。鴨氏の末裔鴨脚(いちょう)氏が下鴨神社の傍に今も暮らしている。鴨脚家が残した御所の図面には合計110に及ぶ井戸の場所が細かに記されているそうである。鴨脚家の先祖は代々御所の井戸の水を管理していたと伝えられている。

 

 京都の中心につながるという池。地下水が湧いている。昔から、この水位が京都御所の水位と同じであるとされている。以前は水が満々とあり、崖の線までずっと水があり、架けてある橋から先祖が神事や神のお勤めの時に、禊をしてお仕えしていた。

 

 この池は水かさに従い姿が変わる。初めは丸、水が増えると真四角に、さらに増えると自然な池に変わる。水面を一目見ただけで水位がわかるようになっている。言わば水位計である。鴨脚家ではこの地で都全体の水の恵を祈り続けてきた。

 

 

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図2 京都盆地の南北断面図(反射法地震探査ー防災危機管理室データ)

 

 京都盆地は古来より地下水の利用が盛んな地域である。それは平安京の時代から今も変わらない。現在、京都盆地ではどれくらいの地下水が利用されているのか。その用途は上水道、農業、工業をはじめ飲食、酒造り、豆腐造り、友禅、茶道など多岐に亘る。また、京都市内には堀川、清水、出水、泉殿、小川、河原町、御池、今出川、川端、白川、泉川等、水に関係する地名が多い。
 関西大学の楠見晴重学長はその砂礫層の分布から、見えざる水の流れを読み取れないかと、市内8000ヶ所を調べた。砂礫の多い場所(水が豊に流れる場所)をつなぐと、水脈が浮かび上がる。最大の水脈は、盆地の北部、京都の中心部にあった。下鴨神社、御所、神泉苑、3ヶ所全てがこの水脈の上にあった。天皇は、見えざる水脈の上に、水の要所を置き、京都千年の礎を築いていたのだ。

 

 京都は水に纏わる文化を1200年の間育んで来た。なぜ京都盆地には地下水が豊富に存在するか? NHKは関西大学の楠見晴重学長の三次元表示を取り入れて、「京都の地下に眠る巨大水がめ」という番組を作り、水の都である平安京をコンピュータ・グラフィックで再現した。以下に、三洋化成ニュースNo273~278に掲載された記事を編集して紹介する。

 

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図3 京都盆地地下水のCG。京都水盆の地下水賦存量は約211億tである。琵琶湖が約275億tであるから地下水量はほぼ匹敵する。

 

 もともと盆地は地形的に地下水が富んで、京都盆地は盆地の大きさもさることながら、地下水の賦存量は他を圧倒している。京都盆地は南北約33km、東西約12kmの縦に長い形をしており、地質は上から約三万年前に薄く堆積した沖積層、約150万~500万年前に堆積した洪積層、約1億~1億5000万年前に堆積した岩盤から成る古生層が分布している。地下水は主に沖積層、洪積層の砂礫層に多く包蔵されている。この南北方向(堀川通)の地下の様子は(京都市消防局防災対策室(現・防災危機管理室)が人工的に地震を起こして活断層を探る反射法地震探査を用いて行った)図2の通りで、岩盤までいちばん深い場所は巨椋(おぐら)池(宇治の辺りにあった大きな池で、埋め立てられて今はない)付近で約800m、その上に砂れき層は何層にも分布していることがわかる。また、京都盆地に入ってきた地下水が流れ出る個所は桂川、宇治川、木津川の三川が合流する幅約1kmの天王山―男山辺りである。天王山と男山は同じ古生層から成り、地下わずか30mのところで繋がっている。即ち、幅約1kmの天然の地下ダムが存在していることになるのである。ほかの地震探査資料、重力探査資料、約8000本のボーリング資料から、京都盆地の地下水賦存量を計算した結果、約211億tとなっった。琵琶湖が約275億tであるから、京都盆地の地下には琵琶湖に匹敵する水量の地下水が存在していることになり、しかも天然の地下ダムによってほんのわずかな量しか流れ出さないため、京都盆地には多量の地下水が貯留されていることになる。このように、自然の作用によって形造られた地下水の豊富な京都盆地は「京都水盆」と名付けられた。

 

 京都水盆の地下水賦存量は琵琶湖に匹敵する約211億tであるが、当然、これをすべて利用することはできない。地下水を有効に利用し、長く維持していくためには、地下水の入る量、出る量を正確につかんでおくことが大切である。但し、お金のように人がすべて管理できるものなら正確に把握できるが地下水はそんなに簡単に収支を求めることはできない。種々の推定した値を用いて収支を求めていくことになる。京都水盆に流れ込む水は、淀川流域(猪名川水系は除く)に降った雨が元となる。淀川流域とは、降った雨が最後には淀川を流れて海に出て行く区域のことをいう。すなわち、滋賀県の余呉辺りに降った雨は、琵琶湖に注ぎ、瀬田川、宇治川から淀川へと流れる。琵琶湖には流入する川は多くあるが、流出する川は瀬田川の一カ所である。瀬田川はいずれ宇治川に変わり、それから淀川となる。また、亀岡辺りに降った雨も保津川から桂川、そして淀川となる。さらには三重県伊賀辺りに降った雨も木津川から淀川へと流れて行く。京都水盆の地下水は、この約7,050平方kmの面積に降った雨のうち、一部が地下に浸透して供給される。この地域の年平均降水量は約1700tなので、年間降水量は約120億tとなります。一方、京都水盆から流出する水は淀川のみで、旧建設省近畿地方整備局枚方流量観測所における約30年間の観測データによれば、年間平均流出量は約90億tとなっている。流入、流出の差は単純に蒸発量30億となる。降った雨の表面流出量と地下浸透量との比率は湖面、山地、耕地、市街地によって大きく異なりますが、それらを平均して大まかに考えると、ほぼ同じ量とすることができる。したがって、この流域に降った雨水が表面流出する量と地下に浸透する量は、それぞれ約45億tとすることができる。一度浸透した地下水も他に出口がないことから、何らかの形で再び淀川水系に戻って流れ出していくものと考えられる。このように多量の地下水が京都水盆に流入するうえ、京都水盆にたまった地下水の出口は、上記三川合流地点の天王山―男山からの非常に狭隘な一カ所のみなので、理想的な地下水盆構造を呈している。従って、昔はこの三川合流地点の背後には、地下水が自噴していた個所が多くあったようである。今は干拓でなくなったが、巨椋池もこの地下水の自噴によってできたものと思われる。このように多くの地下水の存在が明らかになったが、これらをすべて使用することはできない。地下水の適正な維持管理と有効利用はこれからの課題である。

 


日本を創った人々0ー聖徳太子

2012-08-16 09:22:51 | うんちく・小ネタ

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図1 聖徳太子像

 船形送り火に端を発した、日本を創った人々のシリーズはどうしても聖徳太子を除くわけにはいかない。592年,推古天皇が豊浦宮(とゆらのみや)で即位し,甥(おい)の廐戸皇子(うまやどのみこ-「聖徳太子」)が皇太子となった。廐戸皇子は推古天皇の摂政となり,政治を行った。聖徳太子は大王(天皇)中心の政治をめざし,遣隋使派遣,冠位十二階や十七条憲法を制定した。また,四天王寺・法隆寺などを建立した。飛鳥時代は渡来人が活躍した時代でもある。その渡来人たちが伝えた仏教は日本に大きな影響を与えた。大和王権の有力な豪族に蘇我氏と物部氏がいる。蘇我氏は渡来人の東漢氏(やまとのあやうじ)や西文氏(かわちのふみうじ)とつながり,大陸の文化を多くとりいれようとしたり,仏教を崇拝し自宅に仏像をおいたりした。物部氏は石上神宮を氏神とし,中臣氏や忌部氏とともに排仏を主張した。こうして蘇我氏と物部氏の対立が激しくなっていく。この動乱の中で廐戸皇子が登場し,大王を中心とした争いのない国づくりを目指していく。ここに、聖徳太子の政治哲学である「十七条憲法」 を紹介し、日本のあるべき姿を模索したい。

中村元(哲学者)「世界史の中の聖徳太子」より、「十七条憲法」口訳を抜粋:

(特に第1条および第17条に注目)

 第一条

おたがいの心が和らいで協力することが貴いのであって、むやみに反抗することのないようにせよ。それが根本的態度でなければならない。ところが人にはそれぞれ党派心があり、大局を見通している者は少ない。だから主君や父に従わず、あるいは近隣の人びと争いを起こすようになる。しかしながら、人びとが上も下も和らぎ睦まじく話し合いができるならば、ことがらはおのずから道理にかない、何ごとも成しとげられないことはない。

 

第二条

 

まごころをこめて三宝をうやまえ。三宝とはさとれる仏と、理法と、人びとのつどいとのことである。それは生きとし生けるものの最後のよりどころであり、あらゆる国々が仰ぎ尊ぶ究極の規範である。いずれの時代でも、いかなる人でも、この理法を尊重しないということがあろうか。人間には極悪のものはまれである。教えられたらば、道理に従うものである。それゆえに、三宝にたよるのでなければ、よこしまな心や行いを何によって正しくすることができようか。

 

第三条

 

天皇の詔を承ったときには、かならずそれを謹んで受けよ。君は天のようなものであり、臣民たちは地のようなものである。天は覆い、地は載せる。そのように分の守りがあるから、春・夏・秋・冬の四季が順調に移り行き、万物がそれぞれに発展するのである。もしも地が天を覆うようなことがあれば、破壊が起こるだけである。こういうわけだから、君が命ずれば臣民はそれを承って実行し、上の人が行うことに下の人が追随するのである。だから天皇の詔を承ったならば、かならず謹んで奉ぜよ。もしも謹んで奉じないならば、おのずから事は失敗してしまうであろう。

 

第四条

 

もろもろの官吏は礼法を根本とせよ。そもそも人民を治める根本は、かならず礼法にあるからである。上の人びとに礼法がなければ、下の民衆は秩序が保たれないで乱れることになる。また下の民衆のあいだで礼法が保たれていなければ、かならず罪を犯すようなことが起こる。したがってもろもろの官吏が礼を保っていれば、社会秩序が乱れないことになるし、またもろもろの人民が礼を保っていれば、国家はおのずから治まるものである。

 

第五条 

 

役人たちは飲み食いの貧(むさぼ)りをやめ、物質的な欲をすてて、人民の訴訟を明白に裁かなければならない。人民のなす訴えは、一日に千件にも及ぶほど多くあるものである。一日でさえそうであるのに、まして一年なり二年なりと、年を重ねてゆくならば、その数は測り知れないほど多くなる。このごろのありさまを見ると、訴訟を取り扱う役人たちは私利私欲を図(はか)るのがあたりまえとなって、 賄賂(わいろ)を取って当事者の言い分をきいて、裁きをつけてしまう。だから財産のある人の訴えは、石を水の中に投げ入れるようにたやすく目的を達成し、反対に貧乏人は、何をたよりにしてよいのか、さっぱりわからなくなってしまう。こんなことでは、君に仕える官吏たる者の道が欠けてくるのである。

 

第六条

 

悪を懲らし善を勧めるということは、昔からの良いしきたりである。だから他人のなした善は、これをかくさないで顕し、また他人が悪をなしたのを見れば、かならずそれをやめさせて、正しくしてやれ。諂ったり詐(いつわ)ったりする者は、国家を覆し滅ぼす鋭利な武器であり、人民を絶ち切る鋭い刃のある剣である。また、おもねり媚びる者は、上の人びとに対して好んで目下(めした)の人びとの過失を告げ口し、また部下の人びとに出会うと上役の過失をそしるのが常である。このような人は、みな主君に対しては忠心なく、人民に対しては仁徳がない。これは世の中が大いに乱れる根本なのである。

 

 

 

第七条

 

人には、おのおのその任務がある。職務に関して乱脈にならないようにせよ。賢明な人格者が官にあるときには、ほめる声が起こり、よこしまな者が官にあるときには、災禍や乱れがしばしば起こるものである。世の中には、生まれながらにして聡明な者は少ない。よく道理に心がけるならば、聖者のようになる。およそ、ことがらの大小にかかわらず、ゆるやかなときでも、賢明な人を用いることができたならば、世の中はおのずからゆたかにのびのびとなってくる。これによって国家は永久に栄え、危うくなることはない。ゆえに、いにしえの聖王は 官職のために人を求めたのであり、人のために官職を設けることはしなかったのである。

 

第八条

 

もろもろの官吏は、朝は早く役所に出勤し、夕はおそく退出せよ。公の仕事は、うっかりしている暇(いとま)はない。終日つとめてもなし終えがたいものである。したがって、遅く出仕したのでは緊急の事は間に合わないし、また早く退出したのでは、かならず仕事を十分になしとげないことになるのである。

 

第九条

 

なこと(信)は人の道(義)の根本である。何ごとをなすにあたっても、まごころをもってすべきである。善いことも悪いことも、成功するのも失敗するのも、かならずこのまごころがあるかどうかにかかっているのである。人びとがたがいにまごころをもって事にあたったならば、どんなことでも成しとげられないことはない。これに反して人びとにまごころがなければ、あらゆることがらがみな失敗してしまうであろう。

 

第十条

 

心の中で恨みに思うな。目に角(かど)を立てて怒るな。他人が自分にさからったからとて激怒せぬようにせよ。人にはみなそれぞれ思うところがあり、その心は自分のことを正しいと考える執着がある。他人が正しいと考えることを自分はまちがっていると考え、んが正しいと考えることを他人はまちがっていると考える。しかし自分がかならずしも聖人なのではなく、また他人がかならずしも愚者なのでもない。両方ともに凡夫にすぎないのである。正しいとか、まちがっているとかいう道理を、どうして定められようか。おたがいに賢者であったり愚者であったりすることは、ちょうどみみがね〈鐶〉のどこが初めでどこが終わりだか、端のないようなものである。それゆえに、他人が自分に対して怒ることがあっても、むしろ自分に過失がなかったかどうかを反省せよ。また自分の考えが道理にあっていると思っても、多くの人びとの意見を尊重して同じように行動せよ。

 

第十一条

 

下役の者に功績があったか、過失があったかを明らかに観察して、賞も罰もかならず正当であるようにせよ。ところが、このごろでは、功績のある者に賞を与えず、罪のない者を罰することがある。国の政務をつかさどるもろもろの官吏は、賞罰を明らかにして、まちがいのないようにしなければならない。

 

第十二条

 

もろもろの地方長官は多くの人民から勝手に税を取り立ててはならない。国に二君はなく、民に二人の君主はいない。全国土の無数に覆い人民たちは、天皇を主君とするのである。官職に任命されたもろもろの官吏はみな天皇の臣下なのである。公の徴税といっしょにみずからの私利のために人民たちから税を取り立てるというようなことをしてよいということがあろうか。

 

第十三条

 

もろもろの官職に任ぜられた者は、同じくたがいの職掌を知れ。あるいは病にかかっていたり、あるいは出張していて、仕事をなしえないことがあるであろう。しかしながら仕事をつかさどることができた日には、人と和してその職務につき、あたかもずっとおたがいに協力していたかのごとくにせよ。自分には関係のなかったことだといって公務を拒んではならない。

 

第十四条

 

もろもろの官吏は、他人を嫉妬してはならない。自分が他人を嫉(そね)めば、他人もまた自分を嫉む。そうして嫉妬の憂いは際限のないものである。だから、他人の智識が自分よりもすぐれているとそれを悦(よろこ)ばないし、また他人の才能が自分より優っていると、それを嫉み妬むものである。そのゆえに、五百年をへだてて賢人が世に出ても、また千年たってから聖人が世に現れても、それを斥(しりぞ)けるならば、ついに賢人・聖人を得ることはむずかしいであろう。もしも賢人・聖人を得ることができないならば、どうして国を治めることができようか。

 

第十五条

 

私(わたくし)の利益に背いて公(おおやけ)のために向かって進むのは、臣下たる者の道である。およそ人に私の心があるならば、かならず他人のほうに怨恨の気持ちが起こる。怨恨の気持ちがあるし、かならず心を同じゅうして行動することができない。心を同じゅうして行動するのでなければ、私情のために公の政務を妨げることになる。怨恨の心が起これば、制度に違反し、法を害(そこな)うことになる。だからはじめの第一条にも「上下ともに和(やわら)いで協力せよ」といっておいたのであるが、それもこの趣意を述べたのである。

 

第十六条

 

人民を使役するには時期を選べというのは、古来の良いしきたりである。ゆえに冬の月には閑暇があるから、人民を公務に使うべきである。しかし春から秋にいたる間は農繁期であるから、人民を公務に使ってはならない。農耕しなければ食することができないし、養蚕しなければ衣服を着ることができないではないか。

 

第十七条

 

重大なことがらはひとりで決定してはならない。かならず多くの人びととともに論議すべきである。小さいことがらは大したことはないから、かならずしも多くの人びとに相談する要はない。ただ重大なことがらを論議するにあたっては、あるいはおしか過失がありはしないかという疑いがある。だから多くの人びととともに論じ是非を弁(わきま)えてゆくならば、そのことがらが道理にかなうようになるのである。

 

2012ロンドンオリンピックで日本人の礼儀正しさが賞賛の嵐になっている。昨年の地震でも暴動はおろか、テロの類は全く起きなかった。592年、聖徳太子が発した憲法以来、幾多の艱難を経て、現在の日本に至っている。


日本を創った人々1ー明恵上人

2012-08-15 09:02:28 | うんちく・小ネタ

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図1 明恵上人修行図。

 京都北山にある高山寺の僧、明恵(みょうえ)上人について書いてみたくなった。インターネットで調べてみると沢山のHPがヒットした。独断と偏見で以下に明恵について記事をピックアップする。 明恵上人は、鎌倉時代前期の華厳宗の僧。法諱は高弁(こうべん)。明恵上人・栂尾上人とも呼ばれる。父は平重国。母は湯浅宗重の四女。現在の和歌山有田川町出身。華厳宗中興の祖と称される。 承安3年(1173年)1月8日、高倉上皇の武者所に伺候した平重国と紀伊国の有力者であった湯浅宗重四女の子として紀伊国有田郡石垣庄吉原村(現:和歌山県有田川町歓喜寺中越)で生まれた。幼名は薬師丸。治承4年(1180年)、9歳(数え年。以下同様)にして両親を失い、翌年、高雄山神護寺に文覚の弟子で叔父の上覚に師事(のち、文覚にも師事)、華厳五教章・倶舎頌を読んだ。16歳で出家し、文治4年(1188年)、東大寺で具足戒を受けた。法諱は成弁(のちに高弁に改名)。仁和寺で真言密教を実尊や興然に、東大寺の尊勝院で華厳宗・倶舎宗の教学を景雅や聖詮に、悉曇を尊印に、禅を栄西に学び、将来を嘱望された。20歳前後の明恵は入門書の類を数多く筆写している。21歳のときに国家的法会への参加要請を拒み、23歳で俗縁を絶って紀伊国有田郡白上に遁世し、こののち約3年にわたって白上山で修行をかさねた。26歳のころ、高雄山の文覚の勧めで山城国栂尾(とがのお)に住み、華厳の教学を講じたこともあったが、その年の秋、10余名の弟子とともにふたたび白上にうつった。こののち、約8年間は筏立など紀伊国内を転々としながら主に紀伊に滞在して修行と学問の生活を送っ。その間、元久元年(1205年)、釈迦への思慕の念が深い明恵は『大唐天竺里程記』(だいとうてんじくりていき)をつくり、天竺(インド)へ渡って仏跡を巡礼しようと企画したが、春日明神の神託のため、これを断念した。明恵はまた、これに先だつ建仁2年(1202年)にもインドに渡ろうとしたが、このときは病気のため断念している。遁世僧となった明恵は、建永元年(1206年)、後鳥羽上皇から栂尾の地を下賜されて高山寺を開山し、華厳教学の研究などの学問や坐禅修行などの観行にはげみ、戒律を重んじて顕密諸宗の復興に尽力した。明恵は華厳の教えと密教との統一・融合をはかり、この教えはのちに華厳密教と称された。高山寺の寺号は、『華厳経』の「日出でて先ず高山を照らす」という句によったといわれている。この地には貞観年間(859年-877年)より「度賀尾(とがお)寺」という古寺があったものの年月を経て著しく荒廃しており、明恵はこれに改修を加えて道場としたのである。明恵は、法相宗の貞慶や三論宗の明遍とならび、しばしば超人的な学僧と評されるが、学問としての教説理解よりも実際の修行を重視し、きびしく戒律を護って身を持することきわめて謹厳であった。上覚からは伝法灌頂を受けており、学問研究と実践修行の統一を図った。その人柄は、無欲無私にして清廉、なおかつ世俗権力・権勢を怖れるところがいささかもなかった。かれの打ち立てた華厳密教は、晩年にいたるまで俗人が理解しやすいようさまざまに工夫されたものであった。たとえば、在家の人びとに対しては三時三宝礼の行儀により「南無三宝後生たすけさせたまえ」と唱えるだけで成仏できると説き、後述するように、表面的には専修念仏をきびしく非難しながらも浄土門諸宗の説く易行の提唱を学びとり、それによって従来の学問中心の仏教からの脱皮をはかろうとする一面もあった。なお、松尾剛次は、明恵を祖師とする教団を「新義華厳教団」と呼んでいる。建暦2年(1212年)、法然批判の書『摧邪輪』を著しており、翌年には『摧邪輪荘厳記』を著してそれを補足している。承久3年(1221年)の承久の乱では後鳥羽上皇方の敗兵をかくまっている。貞応2年(1223年)7月、明恵の教団によって山城国善妙寺の落慶供養がおこなわれたが、この寺は、中御門宗行の後妻が承久の乱の首謀者のひとりとして鎌倉への護送中に斬殺された夫の菩提を弔うために建てた尼寺であり、本尊は高山寺に安置されていた釈迦如来像が遷されたものであった。明恵は、仏陀の説いた戒律を重んじることこそ、その精神を受けつぐものであると主張し、生涯にわたり戒律の護持と普及を身をもって実践した。町田宗凰は「比丘という言葉には、インド仏教以来の戒律を守る人という厳粛な意味が含まれているが、その資格を満たすのは、ひょっとしたら長い日本仏教史の中で、明恵ぐらいかもしれない」と述べている。また、当時広がりつつあった浄土諸宗の進出を阻止するために苦慮しており、顕密諸宗とくに密教のなかからありうべき信仰をとりあげて、その普及と宣教に努力した。

 

晩年は講義、説戒、坐禅修行に努め、光明真言の普及にも尽力した。寛喜4年(1232年)1月19日、弥勒の宝号を唱えながら遷化した。享年60(満58歳没)。

 

また、栄西請来の茶の種子を栂尾にまき、茶の普及の契機をなしたことは有名である。

 

承久の乱で敗兵をかくまったことを機縁として、鎌倉方の総司令官として入京した六波羅探題初代長官(のちの鎌倉幕府第3代執権)北条泰時との親交がはじまっている。山本七平によれば、泰時は明恵の学徳を深く尊敬し、明恵は泰時の政治思想、とくに御成敗式目(*)の制定の基礎となる「道理」の思想形勢に大きな影響を与えている。その学徳は後鳥羽上皇・北条泰時のみならず、公家では九条兼実、九条道家、西園寺公経、武家では安達景盛、婦人では平徳子(建礼門院)など多くの人びとからの尊崇を集めた。

 

*)御成敗式目の重要性

 

それまで公家の法律だった律令を、武士の習慣や実態にあわせて作ったものが「御成敗式目」である。御成敗式目は元仁2年(1224年)に執権となった北条泰時が、北条時房や評定衆とともに編纂したもので、貞永元年(1232年)に制定された。はじめは35条までが作られ、そのあと付け加えがあり、全部で51箇条になった。御成敗式目は写しが作られた後、各国の守護を通して全ての地頭に配布された。したがって、全ての地頭がその内容をよく知っていたと言われている。御成敗式目は室町時代・戦国時代・江戸時代と長く武士の法律の手本、寺子屋の教本の手本とされた。これは日本における根本思想の形成を意味する。

 

 オリンピックにおける日本人のマナーの良さ、高校野球での球児のマナーの良さは聖徳太子そして明恵以来の宗教思想が深く関係している。今でも、「道理で!」とか、「道理にかなう」、「無理が通れば道理が引っ込む」、など、日常会話に登場するほどである。

 

 


日本を創った人々2-舟形送り火と慈覚大師

2012-08-13 13:35:28 | まち歩き

 北の窓を開ければ、雄大な船形送り火の火床が見える。今年も8月16日が巡って来た。京都では五山の送り火が点灯される日である。お盆に 冥土に帰る精霊を見送る送り火は「大文字」が最も良く知られ 送り火の代名詞になっているが、その他に「妙法」 「船形」や「 左大文字 」 それに、「鳥居形」がある。 このほか、享保2(1717)年の『諸国年中行事』と いう書物にはこの五山以外でも送り火がされていたと記されており市原野の 「い」、鳴滝の 「一」、西山の 「竹の先に鈴」、北嵯峨の「蛇」、観空寺 の「長刀」があったとされてる。 
 「船形」万燈籠送り火は西賀茂船山(標高は317m)京都市北区西賀茂船山にある。

 

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図1 送り火舟形。 五山の送り火の内、最も古いかも?

 

 「船形」は船山の麓にある西方寺開山の慈覚大師円仁(*) が承和6 ( 839 ) 年、唐からの帰路、暴風雨に遭い 南無阿弥陀仏と唱名を唱えたところ、暴風雨がおさまって無事お帰りできたという故事にちなむと伝えられて、その船を形どったのが始まりと されている。歴史と伝統維持は西賀茂船山麓にある西方寺 ( 浄土宗 )と船形万灯籠保存会を中心に維持されている。

 

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 *円仁は、延暦13年(794年)下野国都賀郡(栃木県下都賀郡)の豪族・壬生氏にうまれ、9歳から都賀郡小野の大慈寺の住職広智について修行を積み、大同3年(808年)、15歳で比叡山に登って伝教大師最澄の弟子となった。承和5年(838年)遣唐船で唐に渡り、山東省の赤山法華院や福建省の開元寺、中国仏教三大霊山に数えられる五台山で修行し、承和14年(847年)に帰国した。長安滞在中、唐の十五代皇帝武宗の仏教排斥にあい苦渋を強いられたが、円仁は、在唐9年間の紀行を日記「入唐求法巡礼行記」全4巻にまとめ、帰国後、当時の中国の有り様を克明に伝えた。当書は、マルコポーロの「東方見聞録」、玄弉三蔵の「西遊記」とともに、三大旅行記として高く評価されている。帰国後、円仁は朝廷の信任を得、斉衡元年(854年)61歳の時に延暦寺の座主(江戸期までの大寺の住職の公称。官命により補任)となり、清和天皇に菩薩戒(大乗の菩薩としての心構えなるもの)を授けた。後に「金剛頂経疏」などを著したが、貞観6年(864年)に71歳で没した。その2年後の貞観8年(866)、生前の業績を称えられ、円仁に日本で初の大師号・慈覚大師の諡号(しごう)が授けられた。関東以北には、日光山、埼玉県川越市の喜多院、福島県伊達郡の霊山寺、松島の瑞巌寺、山形市の立石寺、岩手県平泉町の中尊寺、毛越寺、秋田県象潟町の蚶満寺、青森県恐山の円通寺など、慈覚大師が開祖(または中興)とされる寺が数多くあり、立石寺のある山形県においては、山形市の柏山寺や千歳山・万松寺、南陽市二色根の薬師寺など10を越える寺を開いている。これは、慈覚大師が天長6年(829年)から天長9年(832年)まで東国巡礼の旅に出、この折に、天台の教学を広く伝播させたことが大きな基盤となっている。慈覚大師円仁が開山したり再興したりしたと伝わる寺は関東に209寺、東北に331寺余あるとされる。浅草の浅草寺はそのひとつで、北海道にも存在する。

 

 因みに先のアメリカ大使エドウィン・ライシャワーは円仁の日記「入唐求法巡礼行記」全4巻を学位論文のテーマにして円仁の存在を世に広めた。

 

【追記】 円仁は偉大な人である。この船形万燈籠をはじめた人であるというのがひとつの大きな理由であるが、もっと重要な理由がある。そうではあるが、まずはこの点に触れておきたい。舟形万燈籠は、800年もの永きにわたって受けつがれてきている。一体そういうものが全国にどれほどあるのだろうか。「劇場国家にっぽん」ではそのようなイベントが数多く必要であると考えているのだが、このようなビッグイベントを演出できる演出家というものが現在どれほど全国に居るのであろうか。円仁のような演出家がはたして現在どれほど居るのであろうか。皆無であるかもしれないではないか。そう考えると、円仁は、ビッグイベントの演出家としても超一流の人物であったということができるのである。

 

 円仁が偉大な人物である第二の理由は、先にも述べたが、台密すなわち天台宗における密教の創設者であるということだ。ご承知のように、最澄は、天台宗における密教的要素の導入に努めたが、空海の協力が得られず失敗する。さまざまな悪霊のはびこる平安時代初期において密教的なものが社会から求められていたのであり、密教的要素の導入が不完全であった天台宗は、空海は東寺の真言宗の陰にかくれてもうひとつパッとしなかったのである。それを救ったのが円仁である。円仁が居なければ・・・・、おそらく・・・・・・比叡山延暦寺天台宗のその後の隆盛は到底おぼつかなかったのではないか。台密すなわち天台宗の密教は円仁に始まり、その延長線上に浄土教がある。浄土教といえば源信をすぐに思い出すのだが、実は、浄土教は前に述べたように円仁に始まるのである。源信は浄土教を不動のものに育て上げた。その後、法然のような異端児も出るけれど、観念念仏としての光明真言に傾倒する明恵が出てくる。誰あろう、この明恵こそ、今後世界的にもっとも注目されて然るべき宗教家ではなかろうかと思われる。浄土教の源流に円仁が居る。

 

 円仁が偉大な人物である第三の理由は、東北文化の源流に円仁が居るという点である。東北文化の一つの底流はいうまでもなく縄文文化だ。これに円仁の台密が加わり、現在の東北文化が生れた。東北文化を再発見し、東北文化の復興を図る必要がある。そのことが、前に述べたように、21世紀におけるわが国の「モノづくり」に繋がっていくはずである。「劇場国家にっぽん」は、前に述べたように、感動システムづくりである。そうであるならば、東北こそ国土づくりのフロンティアとしてさまざまな可能性を有しているのではないか。私は、今後、円仁をキーワードに東北文化を掘り起こさなければならないと考えている。21世紀におけるわが国の「モノづくり」を考える上でのひとつのキーワード・円仁・・・・、円仁はそういう未来に繋がる奥深さをもっている人である。

 

(http://www.kuniomi.gr.jp/より抜粋)