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糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

ドラムスティックのことなど

2010-06-20 22:04:07 | 奉樂(賛美)の覚書
ドラムはスティックがなければ演奏できません。スティックを購入する時には、私は次のようなことを確認しながら買います。

 先ず材質ですが、教会で賛美の奉仕のために用いることを考えると、ヒッコリーかメイプル(おそらくソフトメイプルだと思うのですが)が良いと思います。オークなどの硬くて重い材質は、音が必要以上に大きくなったり、シンバルの鳴りが必要以上に鋭くなったりします。また、チップ(先端の部分です)がプラスティックのものが有りますが、それも音が硬くなる傾向が有って、あまり賛美には向かないように思います。
 チップの形状は、卵型、丸型、俵型などのバリエーションが有り、また、その大きさもいろいろです。卵型は打面が広くなり、少しパワーが有る感じがします。スティックを傾ける角度によって、打面の広さを調節すると、幅広い応用ができるように思います。俵型もパワーが有りますが、卵型程の多様性は出せないかもしれません。丸型のチップは、打面がほぼ一定していますので多様性は出せませんが、打面が狭い分少し音が小さく、繊細な感じが出ると思います。いろいろ使ってみて、自分の目的に有ったものを見つけていくのが良いと思います。
 スティックは長さや太さも微妙に違います。自分の手に馴染むグリップがどんなものか、いろいろ試しながらみつけていく必要が有ります。グリップの部分だけ少しすぼまっているいうようなモデルも有ります。長い物、太い物の方が力が伝わってパワーの有る音になる傾向が有ります。自分が力一杯叩いて表現したいタイプであれば、スティックの方は少し細めで短めのものにし、丸型チップのものを選ぶなどの工夫をすると、あまり騒がしいドラミングになりません。
 購入時に気をつけていることが他に幾つか有ります。スティックは、湿気を吸い込んだり、保管時に外部から力が加わったりして反ってしまうことがあります。反ってしまったスティックを購入してしまうことがないように注意しなければなりません。店内の平らな床の上で転がしてみたり、二本のスティックをくっつけてみて、不自然な隙間ができてしまわないかを確認します。
 また、一本一本の重さが微妙に違うように感じると気になってうまく使えないという場合が有ります。購入しようとしているスティックの重さが二本とも同じに感じるものを選ぶと良いと思います。また、同じ重さだと思っても、重心の位置が違う物が有るかもしれません。指の上に乗せてバランスを取って、どの辺りに重心が有るかを比べるのも良いかもしれません。
 私はもう一つ拘っている部分が有ります。それは木目の詰まり具合です。年輪の幅が密であるか疎であるかということです。密な方がより固めの音になり、長持ちだと思います。疎な方が柔らかめの音で、少し消耗が早いかもしれません。その辺りの感覚は別として、購入する二本のスティックの木目の詰まり具合も、ほぼ同じものを選ぶようにしています。

 ドラムの演奏に用いるものは、スティックの他にもいろいろ有ります。ホットロッドといって、細い木材を束ねたものも有ります。木材の細さやによって、全体の太さや音質が変わります。いろいろ試しながら良いものを選ぶことになります。スティックよりも音は柔らかい印象になります。狭い会堂の教会や、穏やかな賛美を好む教会では、ホットロッドを多様している場合が有ります。意外と値がはることが有るので、自作をしている人もいます。DIYショップで目ぼしい材木を買って自分でテープで束ねたり、熱で縮むテープで束ねたりしています。ヘッドを傷つけて、消耗が早くなったりしないように、よく考えて選んだり加工したりする必要が出るかもしれません。
 もっと繊細な表現を狙える上級の人は、ブラシも使うかもしれません。金属のものが昔ながらのブラシですが、ナイロンの物などもあります。音量は稼げません。それを逆手にとって、わざとブラシでストロークをする人もいます。
 ティンバラス用のスティックを用いることも可能ですが、細さの割りには、チップが無いので、思ったよりパワフルな音になってしまうことが有ります。意外とコントロールしにくいかもしれません。
 マレットいうのでしょうか、フェルトの頭のついたものを用いる人もいます。打撃音は鋭くありませんが、タムに用いると、ティンパニーのような強い音を出せる場合も有ります。また、静かにクラッシュシンバルを鳴らしたり、連打して徐々に音量を上げるなどの使い方ができます。この効果を狙うために、ゴム製のパーツを着けたりする人もいます。
 他にも、自分の狙った音や音量を出すために、いろいろな物を試している人達がいます。太い天麩羅用の箸を用いているプロのドラマーがいますが、その例に倣っている一般のドラマーも割合多くいます。
 いずれも、より良い賛美の表現をするための工夫です。表現のバリエーションを増やすことによって、更に賛美の空気を豊かなものにすることができるとしたら、いろいろな努力をする甲斐が有るというものではないでしょうか。







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聖書研究・説教という賛美・礼拝

2009-07-30 00:09:25 | 奉樂(賛美)の覚書
説教者のしていることは、第一印象として、人を教える行為のように思い、礼拝の一部というより、説教者の自己満足のように感じる場合が有るようです。しかし、説教は礼拝の一部であり、礼拝の表現です。説教者は、聖書の内容、真理と権威を敬い、そこに書かれていることの意味を音声にして宣言することによって、その聖書を与えられた神の栄光を表しているのです。
 ある方が祈祷院に行かれた時のレポートを読んだことが有りますが、そこには、朝早くから野山に出て、一人で説教をしている人が居たと書いてありました。その方が一般の信徒であるか牧師であるかは知りませんが、教会堂の礼拝式の中での説教ではないだけであって、その説教も礼拝の表現として受け止められるべきであると思います。

説教の準備として、もしくは個人的な主との対話、聖霊との交わりとして、聖書研究は大事なステップであり、礼拝の形式です。聖書を神の言葉と認め、その意味を幾つかの角度から確認し、神が何を伝えようとさされたのかを確認することは、神に聴き従うことであり、神を尊ぶことであり、神との交わり、また礼拝です。


ここで、少し違った角度から、説教と礼拝の表現を考えてみたいと思います。

教会でミキサーの奉仕を担当すると、時々やり難い説教者に出会うことが有ります。それが、教会の主任牧師であったりすると、更にやり難さは大きくなります。私が想定しているケースは、説教者が、音量に注文をつけ、もっと大きくするように指示したりサインを送ったりすることです。設備が良かったり、技術の有る人達が集まっていれば、有る程度の努力をしてそれなりの効果が出る場合も有りますが、試行錯誤を経て、結局あまり大した効果は上がらなかったというケースも有ります。
 ここではっきり理解しておかなければならないことが有ります。音響システムは、会衆が聴き易いように設定されているということです。説教者は、メイン・スピーカーよりも後方に立ち、自分に向けられているスピーカーが殆ど有りません。また、仮にモニター・スピーカーが有ったとしても、余程きちんとイコライザーのセッティングができていないと、音量を上げるとマイクにかぶり、ハウリングや音質の変化の原因になります。ましてや、説教用のマイクがコンデンサー・マイクであったりしたら大変です。説教者も、自分が置かれている場所が、音響システム的に考えてどういうものであるのかを理解しておく必要が有ります。そして、そんな場所で、自分が満足できる音量を要求することはナンセンスであることを理解する必要が有ります。
 会衆が聴き易い音量設定が終わったと思った時に、音量を上げるようにサインが出たりすると、せっかくクリアに仕上げた音がまた崩れ、余計な音がかぶって、聴衆には気になるエコーが混ざったりするようになり、奉仕者としては大変ストレスになります。
 説教者の務めは、神の言葉を解き明かして神の栄光を現し、礼拝することです。自分の満足する音を聞くことではありません。歌手であれば、モニター音痴でメロディーやハーモニーが崩れると大きな問題ですが、説教者にはそういう問題は有りません。説教者が音に満足することよりも、会衆がクリアな音で神の言葉とその解き明かしに耳を傾け、その御言葉を下さった神をほめたたえ、礼拝することの方が大事です。ですから、説教者は自分の声が聞こえないことに心地悪さを感じることが有っても、諦め、主に委ね、その部分を犠牲にするべきです。
 考えてみてください。もし教会に設備投資する資金が無ければ、そのシステムを使い続けるしかないのです。また、説教者も加齢と共に、聴力が落ちることも有るのです。それを考慮に入れず、説教者の望む音量に合わせ続けるならば、後にはもっとひどい状況になります。聴衆のために設定されている音響機器を、説教者のために設定するという矛盾した取り組みをしては話になりませんし、礼拝の空気を大きく損なうことになりかねません。


音響のことに字数を割いたことには理由が有ります。最初に述べたように、説教が礼拝の一部ではなく、説教者の満足ではないかと感じることが有るわけですが、その理由が、こういう部分にも有るからです。
 しかし、説教は、説教者と会衆が一つになって主を礼拝する賛美の表現の中の一つです。それが、説教者一人の都合で乱されることは有ってはなりません。そういう説教の礼拝・賛美における位置、意味をご理解いただきたいと思うのです。






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礼拝堂の献花

2009-03-09 14:48:40 | 奉樂(賛美)の覚書
礼拝堂に花を飾ることは多くの教会でなされていると思います。これはただきれいに飾って整えるというだけのことではなく、賛美の表現の一つです。ですから、お花を奉げる担当者も、自分が整える花がどのような意味、礼拝の表現を持っているかということを説明できるような心構えや意識が必要です。

花を整える担当の方は、活花かフラワー・アレンジメントの心得の有る方であることが多いと思います。しかし、自分の流儀流派の様式に従うことなどにこだわるのではなく、その花がどのような礼拝、賛美の表現にしようとしているのかをもっと確認する必要が有ると思います。多くの担当者が既に実践しておられることですが、祈りの内に主からテーマをいただいたり、与えられた材料の中からどのようなテーマを見出すことができるかを祈り求めたりして、主との対話の内にお花を整えることが大事です。

自分の芸術的表現に拘り過ぎると、会堂のほかの部分との調和が失われたりすることが有ります。そういうことが無いように、注意しなければなりません。例えば、置く位置によって、人々の気持ちがその花の美しさに惹かれて礼拝に集中できなくなるようなことが有ってはいけません。また、視野に入ると華美な感じになって、心が落ち着かない、礼拝の邪魔になるということも有るかもしれません。置く位置を講壇から少し離すなどの工夫が必要になる場合が有ります。
 また、会堂にある講壇、聖餐卓、その他の器具にも、礼拝のシンボルや表現が施されている場合が有ります。例えば、講壇に十字架が着いているというようなことです。お花がそれを隠してしまうようなことは、できるだけ避けるべきであると思います。

花の中には、強い香りを放つものが有ります。季節の花であるとか、教会暦に合うものであれば、その香りがその意味を強化する場合も有りますが、特にそういう意味が無い場合は、香りが邪魔になることが有ります。香りが強すぎると気持ちが悪くなるという人もいますので、配慮が必要です。賛美奉仕者、ソングアシスタント、聖歌隊などの近くに匂いの強い花が有ると、集中して奉仕できなかったり、喉の調子がおかしくなる人が出るということも有ります。また、匂いは関係無くても、奉仕者の中に花粉症などのアレルギーが有って、奉仕の都合上近くに花が有ると困るという人も居ます。その人の都合によって、花が最初に置いた場所からずらされる場合も有りますので、お花の担当者は、そういう場合に気分を害したりせず、何か事情が有ったに違いないと考える心の余裕も必要です。

花の形状や色彩の組み合わせ、全体の形などで、来会者がその賛美の意味を感じ取ることができる場合もありますが、整えた本人にしかわからない賛美の表現になっていることも有ると思います。どうしてそういう風に整えることになったか、祈りや瞑想を通してどのような導きをいただいたのかを、時には他の信徒と分かち合うことも、会衆の礼拝の表現への理解を深めることになり、意義が有ります。牧師などの指導的立場にある方が、愛餐会などの時に、そのような機会を設けるようにするのも一つの方法だと思います。

礼拝堂に入った時、信徒が花を見て心整えられ、賛美と礼拝の心を共有して祈り、礼拝の準備ができるような、教会全体の意識付けが有ると良いと思います。






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賛美リーダーのコメントについて

2009-02-20 03:42:35 | 奉樂(賛美)の覚書
賛美リード中に賛美リーダーが言葉を発するとしたら、それは、賛美の流れを整え、賛美の表現を促し、会衆の心を賛美、ひいては賛美を奉げる対象である主に向けさせるためになされるべきです。

賛美リーダーの中には、どこかの賛美集会で見てきたからだと思いますが、証や聖書的な例話や説明を分かち合おうと腐心する人がいます。しかし、これは賛美リーダーがするべきことではありません。
 リーダーが話し出せば、その内容を確認するという機械的な読み取り作業のために、賛美の焦点は主から離れます。これは賛美の妨害です。それまで建て上げてきた賛美の流れや霊調が乱されます。
 証は、個人に焦点が有ります。勿論そこに働かれた主の御業につながるのですが、人間に焦点が行きがちで、ともすると自慢話のようになってしまう危険性があります。そうなってしまっては、主への奉げものに混ぜ物をし、また、栄光を盗むということになってしまいます。
 例話などを挿入することも、説教の中では有効であっても、賛美リードにおいては妨害になることの方がはるかに多いのです。賛美リーダーの役割は、教えることではありません。教える必要が有るならば、別に機会を設けるべきです。

賛美の歌は、その歌詞が十分にメッセージを持っています。賛美リーダーによって補足され必要は有りません。会衆が一体となって主を見上げること、賛美の表現をすることを促す以外のことは不要であり、場合によっては越権行為です。

長時間にわたる賛美集会などでは、よく訓練された賛美リーダーが教えるような時間が有っても良いのですが、教会における普段の礼拝においては、それは避けるべきです。賛美集会と礼拝は区別されるべきです。

サムエル記に登場する大祭司エリの息子達は、神への奉げ物である肉を、横取りしていました。そのような行為の故に、彼らは罰を受けました。賛美リーダーがコメントを入れることで栄光を盗むようなことが有れば、それもこのエリの息子達の行為に擬えることができると考えます。主はそのような奉仕を喜ばれません。会衆も心を注ぎだして主を賛美することが難しくなります。

賛美リーダーの役割が何であり、何でないのかを、時々確認していただきたいと思います。







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賛美の奉仕の後の拍手

2009-01-30 17:26:49 | 奉樂(賛美)の覚書
私が賛美の奉仕を始めた頃から留意していたことが有るのですが、以前私が在籍していた単里の大忍も、また、現在の奉仕している単里の大忍も、私と同じ理解をしており、また、それを里の衆に指導していました。

礼拝の中で賛美の奉仕が有ると、その終わりに会衆が拍手をすることが殆どどこの里でも有るのではないかと思います。この拍手の礼拝の表現における意味を確認させていただきたいと思います。

このような拍手は、賛美の奉仕者への称賛や労いの拍手ではありません。もしそういう気持ちで拍手しておられたら、改めなければならないことだと言わせていただきたいと思います。

賛美の奉仕の後の拍手は、賛美の中で表現された神の素晴らしさ、神への賛美にアーメンと同意することであり、その賛美を通して讃えられた神に捧げる礼拝の表現としての拍手であることが第一の意義でなければなりません。

礼拝は、公同の礼拝であり、また、共同体としての礼拝です。賛美の奉仕者は、会衆から離れて成立しているのではなく、会衆と一体なのです。彼らは、例えて言えば、代表祭司のような立場で捧げ物をする人(達)です。ですから、会衆は、コンサートの聴衆のようにその賛美に耳を傾けていてはいけません。その賛美に表される神への信仰、敬虔な思いや賛美の表現を理解することに努め、そこに自分の気持ち、感謝や礼拝の言葉、祈りの言葉を合わせていかなければなりません。そして、会衆が代表祭司である賛美奉仕者(達)の捧げ物への「アーメン、ハレルヤ」という同意の集大成としてその終わりに拍手を主に捧げるのです。

現在私が奉仕している里では、賛美の奉仕の直後に拍手を捧げることはせず、大忍が講壇に立って、「主に栄光を捧げる拍手をいたしましょう。」と言って、拍手の意味を確認してから拍手を捧げることになっています。

代表祭司として奉仕をした賛美奉仕者達を労いたい、励ましたいと思う時は、礼拝の後にそれを表現するのが良いと思います。その時も、言葉は慎重に選ぶ必要が有ると思います。「素晴らしい賛美でした。」という言い方は避ける方が良いと思います。真実に素晴らしいのは、賛美ではなく、賛美に表された主であるはずです。私自身は、賛美の奉仕の後にそう言われた時、「感謝します。でも、素晴らしいのは主です。」とお答えしたことが何度か有ります。
 では、どんな言葉が主の栄光を盗まずに賛美奉仕者を労い、励まし、もしくは祝福する言葉になるのでしょうか。決まった言い方が有るわけではありませんが、好感を持って聞いた言い方を書いてみます。「主に対する誠実なご奉仕でしたね。」というようなお言葉をいただいたことが有るような気がします。「礼拝の霊的な流れによく合っていて、御霊の一致を感じました。」という言い方も聞いたことが有るように思います。「主だけを見上げて、賛美の心に溢れていました。」と表現してくださった方もいらっしゃいました。もっと主を知って奉仕したい、もっと御霊の一致の中で奉仕したい、もっと忠実で誠実な礼拝者でありたいと互いに願わされるような言葉が選ばれるべきではないかと思います。






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グラフィック・イコライザーの設定

2008-12-18 15:38:23 | 奉樂(賛美)の覚書
ミキサーを購入した時についてくるマニュアルのセッティング例や、実際に音響屋さんに組み込みをお願いした時のことを振り返って見ると、基本的にはモニター・スピーカーの方にだけグラフィック・イコライザー(以下、グライコと略)をかませ、メイン・スピーカーは直に出力する場合が多いようです。しかし、大きな会堂を持つ教会は、両方のスピーカーにグライコをかませていたり、割合小さなパワード・ミキサーでも、メインとモニターの両方にグラフィック・イコライザーがついていたりします。このグライコが、きちんと調整されていないことが案外多いように思います。ミニコンポの5バンドのグライコをいじるような感覚で設定されていて、音が不明瞭になっているケースを二三見たことが有ります。

本当にプロフェッショナルに、シビアに設定する場合には、解析機のような器械を用いて、会堂の周波数特性を割り出して調整しますが、ここまでお金をかけることが難しい教会が多いのではないかと思います。また、フリーソフトで、特定の音を発信させて、PCに接続したマイクを通して、建物の周波数特性を確認できるものをダウンロードできるサイトを紹介されたことが有りますが、実際に試したことはありません。接続のためのアダプターや、試して見る時間が有れば、こういうものを用いることがより良いセッティングにつながるかもしれません。

今回は、そういう補助的な機材は無いという前提で、グライコの、私たちアマチュア・レベルでもできるセッティング手順を書いて見ます。なお、これは私が友人に教えてもらった手順ですので、より知識と経験の有る方がお読みになると、まるでなってない部分もあるかもしれませんが、そのような部分はご容赦ください。コメントなどで、ご教授いただければ幸いです。


先に書きましたとおり、メイン・スピーカーにはグライコをかませないことがあります。ですから、両方にかませる場合でも、モニターから先に調整します。私が見たプロの方は、モニター・スピーカーにマイクを向けてわざとハウリングを起こさせて、「何キロヘルツを何デシベル絞って」とミキサー担当者に指示していましたが、我々には想像のつかない世界です。普通に使うマイクの位置にマイクスタンドでマイクを固定し、音量を上げながら調整するので良いのではないかと思います。
 イコライザーというのは、均等化させるものという感覚です。スピーカーから出る音や建物の中で反射する音が、特定の周波数成分が突出しないように、均等化するという感覚です。その突出した周波数成分を見つけ出す方法が、ハウリングを起こすことなのです。

手順
1)ミキサーの音質調整のポットを一度全部フラットにします。つまみについている印を、12時の位置に揃えます。中音域のポットには、どの周波数帯の音を調整するかを指定するミッドレンジ・スイーパーが付いている場合がありますが、それも12時のところに合わせて良いと思います。

2)マイクに向かってアーアー等と声を出しながら、普段使っている音量レベルの設定から、徐々にボリュームのフェーダーを上げていきます。ハウリングし始めたら、その音が低い音か高い音かなどに合わせて、見当をつけて、グライコのフェーだーを上げ下げして、ハウリングを起こしている周波数帯を見つけ出します。

3)ハウリングを起こす周波数帯は、その音の成分が、その建物の中では、他の音の成分より突出しているということです。その周波数帯の所のグライコのフェーダーを、ハウリングがすーっとなくなるポイントまで、ゆっくり下げます。

4)普通にアーという声には含まれない成分も有ります。低い声、高い声も試し、また、とても高い音の成分は、「チェック」と言ったり、舌打ちをしたりして確認ながら、2)3)の手順を繰り返します。

5)これらが終わったら、実際の練習などの時に、フラットにしたミキサーの音質調整のポットを再調整します。


モニター・スピーカー用のグライコの設定が終わったら、メイン・スピーカー用のグライコ調整に移りますが、様子を見たい場合は、メインのグライコはフラットでもいいかもしれません。真ん中に揃えるということです。


メイン・スピーカーが、使用するマイクより後ろに有ったりすると、スピーカーから出た音がマイクにかぶって、ハウリングが起きます。スピーカーの位置にも気を配ります。実を申しますと、私が奉仕している里の会堂は、どういうわけか、メイン・スピーカーより前に説教台のマイク(しかもコンデンサー・マイクです)が有り、イコライジングには苦労しています。


季節によって湿度が変わったり、気温が変わったりすると、突出する周波数が変わる場合が有ります。変わってきたなと思ったら、再調整しなければならない時期かもしれません。


繰り返しいじっていると、その会堂ではどの周波数が突出しているなどの性質が把握できるようになると思います。ヤマハO2RとかO1Vなどのデジタル・ミキサーなどに切り替えた場合でも、そういうことを覚えておくと、その周波数帯から調整して見るということができ、割合早くセッティングがまとまる場合が有ります。


必要な場合はこまめにメモをして、後から確認できるようにしておくと良いと思います。また、調整が他の人に気に入られない場合も考慮して、自分がいじる前の状態もメモをしておくと良いと思います。すぐに元に戻せますし、自分が絞り込んだ結果を加味して、中間的なセッティングを捜すというようなこともできるはずです。


専門に勉強したことが有れば、すぐに解決できるのでしょうが、我々のように、とにかく必要が有るのでいじって見るしかないという状況であれば、試行錯誤を繰り返しながらより良いセッティングをみつけていくしかないと思います。仮に分析器とか、調整用のフリーソフトが使えそうだという場合はチャレンジしてみるのも良いのではないかと思います。予算が有れば、一度音響屋さんに、そういうセッティングをしてもらえるのでしょうが、なかなか機会が無いのが実情ではないでしょうか。会堂建築、もしくは機材設置の時に、お金を惜しまずにプロに頼むという決定ができると、後で楽なのではないかと思います。






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直属の大忍のお話から

2008-11-11 04:00:47 | 奉樂(賛美)の覚書
良い賛美の条件は、
1)多くの会衆
2)良い賛美の曲を集めること
3)上手な賛美チーム
の三つであるという解説読んだことが有るが、本当にそうだろうか。

むしろ、一人でも、感謝の心を持ってする賛美を良い賛美とするべきではないだろうか。

或る人が、入院生活が長引いて9週間に及んだ。うんざりして、気分も落ち込んでいた。その病院に、定期的に掃除をしに来る職員が居た。その人は、掃除中感謝の賛美の歌を小声で歌っていた。それで、入院患者が言った。「私はここに入院して9週間になる。こんなうんざりすることは無い。だから感謝の賛美なんか聞きたくないんだ。止めてくれないか。」すると、その職員は答えて言った。「入院こそしていないが、私だって、あんな苦労やこんな苦労を抱えて生活しているんだ。私だってうんざりするような毎日さ。だけど、感謝すること見つけられる喜びと力が有るからこうやって感謝の賛美を歌っているんだよ。」
 その言葉を聞いた入院患者は、そういうことがあるなら、どうせ病床では何もできやしないのだから、感謝からしてみるかと考えた。そして、落ち込んだ気分から開放された。

自分の状況はマイナスに決まっていると思わず、感謝する心を持つ時、本当に賛美を神に奉げることができるようになるのである。ファニー・クロスビーは沢山の賛美を作ったが、彼女は盲目であった。盲目であることは、大きなハンディであるはずであるが、その中で彼女が感謝の心を持っていたことが、賛美の源泉になっていたのである。


糸田十八の感想
感謝は賛美の扉であると思ったことがありました。「良い賛美の条件」という表現で良いのかという点に疑問が残らないわけではありませんが、それが真実な賛美であるかどうかということを考えると、人数や技術が高いか等の条件を先に挙げるのは、本質を見失っていると思いました。
 しかし、同時に、あまりに気軽に賛美に取り組み、技術も目も当てられないという状況も目にする時があります。本当に感謝の心で賛美に取り組むならば、そういうことも起きないのではないかと思います。 







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賛美リーダーの選曲

2008-11-08 06:03:30 | 奉樂(賛美)の覚書
賛美チームのメンバーは、リーダーの選曲に表れる礼拝の表現、霊的な流れを理解して、一致して賛美する必要が有ります。逆に、リーダーの方も、それがよく伝わるような選曲を心掛ける必要が有ります。そのままでは伝わり難い場合や、メンバーの経験が浅い場合などは、リーダーが進んで練習の最初に説明をすることが望ましいと思います。賛美チームがそういう理解を共有して賛美する時、会衆もそれをもっと理解し、その賛美の流れと恵みの中に、より深く入って行くことができます。

リーダーは、単に自分が好きな曲を並べて選曲しているのではありません。祈りと瞑想の中で、次の奉仕で賛美する霊的な流れはこれではないか、ということを感じ取り、そのテーマに合わせて選曲するのです。時には、テーマに沿って選曲し出したのに、何か行き詰まる時が有ります。その時は、委ねて、少しずつ方向を修正しながら選曲します。こいういう奉仕は、自分の感想を無にして、委ねることが必要なことを多く感じられると思います。例えば、選曲が説教のテーマにもぴったり合致して、すごく恵まれて奉仕できたと思っても、会衆は案外何も感じて居なかったり、逆に、選曲が全く整っていなかったと落胆していると、会衆がとても恵まれていたりすることが有ります。自分の感想は捨てて、主に委ねながら選曲することの方が大事ではないかと思います。



選曲の中で考える流れは、いろいろなパターンが有りますから、これが標準だと一概に言うことはできません。しかし、選曲の経験が少ない時は、次のようなパターンを基本にするのが良いかもしれません。

礼拝への招待の賛美 → 主を賛美する決意と宣言、主への愛告白の賛美 → 主と主の業の素晴らしさを称える賛美 → 主に栄光を帰する賛美

焦点が、会衆の一致、信仰の心、神へと徐々に移って行きます。

賛美のCDやDVDで、どうしてその曲順なのかということを考えたりすると、参考になることが有ると思います。



選曲をする時は、各賛美の歌毎に前奏が入ったりすると、流れが滞った感じになりますから、2,3曲はメドレーのように、続けて歌い継いで行けるようにするのが良いと思われます。そのためには、各賛美の歌のキーを同じにするとか、スムーズな転調の方法を決めておく必要が有ります。勿論、キーがどんどん変わってもすぐ歌い出せるということでしたら、こういうことに縛られる必要はありません。

リズムのパターンやテンポの移り変わりにも注意する必要が有ります。同じようなテンポの曲だからと思って考えずに並べると、違和感を持つことになる場合が有ります。例えば、「(テンポの)早い曲」という大まかな捉え方をして並べたら、真中の一曲だけスイング気味なシャッフルなリズム・パターンの曲だったとかなどという場合、流れや統一感が崩れることがあります。できるだけ、同じ系統のリズム・パターンの曲が並ぶようにする方が、滑らかな流れを作り出すことができます。

締め括りの賛美の歌は、大音量で賛美して終わるというパターンも有りますが、逆に、ぐっと静まって、皆で瞑想するような静かさの中で終わるというパターンも有ります。礼拝や集会の目的や性質に合わせて、導きを求めて決めることになります。



選曲とは関係有りませんが、滑らかな賛美の流れという点から付け加えさせていただきます。リーダーは、次に何が起きるのかを、賛美チームのメンバーや会衆に理解させる必要が有ります。リーダーが次の賛美の歌に進もうとしていても、それが伝わらなければ、一瞬賛美チームのメンバーや会衆に戸惑いが生じて、賛美の思いが乱される場合が有ります。目配せをするとか、ハンドサインを用いるなどの工夫をすることが必要です。また、賛美チームのメンバーも、リーダーの素振りやサインを読んで対応しなければなりませんから、賛美に専心しつつも、テーマの終わり、リフレインの終わり、曲の終わり等に、リーダーを見て、心を合わせて次のステップに進めるように心掛ける必要が有ります。サインは、リーダーが歌いながら意思表示ができるという利点が有りますが、その動作が目障りだと思う方もいらっしゃるかもしれません。その時は、次に歌う部分の歌詞をさりげなく言うのが良いでしょう。歌いだす直前に歌詞を言うと、リーダーの歌が途切れる場合が有りますが、それを補うためのシンガーが居るのですから、それはかまわないのです。また、本当に強調したい賛美のポイントを示す歌詞の部分は、会衆を力強くリードするために、少し大袈裟に呼びかけるように言うと良いでしょう。






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礼拝堂・建築設計における賛美の表現

2008-10-23 04:43:41 | 奉樂(賛美)の覚書
私の仕えている単里の礼拝堂は、50年近く前に建てられたと聞いています。設計士は、賛美の心をもってこれを設計したことが伺えます。そういう設計の意図を理解することも、礼拝と賛美に心を向ける助けとなります。

礼拝堂の正面は、ノアの箱舟を思わせるように、太い木の柱や横木が見えるようにして有ります。ノアが箱舟を通して救われたように、私達に救いの道を与えてくださった神様への感謝を思い出させるようになっています。
 また、大きな柱や横木の間に小さな縦の支柱を入れることで、ノアの箱舟に有ったであろう、各動物達を入れた小部屋、区切りを連想させるようになっています。私達キリスト教徒一人一人に、救いの計画の中に割り当ての分が有り、また、仕えている教会の中に、自分に与えられたはたすべき分が有るという恵みを思わせるようになっています。
 写真では全部は見えませんが、大きな柱は七本で構成されており、神の創造の七日間や、神の完全数の七を想起させ、瞑想を深めるようになっています。
 高い天井は、天に有るものを思いなさいという聖書の言葉を想起させ、天国にある価値や希望に思いを馳せ、また瞑想することを助けるようになっています。
 天井には明り取りの窓が有ります。そこから講壇にやわらかい自然光が降り注ぐようになっています。神が、自分を人間に現されたこと、また人の心と魂の光であることを思わせるようになっています。また、キリストが洗礼を受けた時に、天から神の霊がハトのような形を取ってキリストに下り、「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」と父なる神の声がしたことを思わせます。これは、この講壇から語られる説教が、牧師の考えを述べるのではなく、「ことば」と象徴的に表現されるキリストの教え、神の言葉が説かれる場所であることを思わせるようになっています。
 講壇の床は、赤いカーペット敷きになっています。キリストの血によって贖われた者の集いであることを表し、その贖いによって赦された者が神の言葉から説教していることを表します。キリストへの感謝と礼拝の念を持ちながら説教に耳を傾けることを意図しています。

会堂の座席は、三つのセクションに分かれています。入り口も三つです。三位一体の神を思うようになっています。聖霊によらなければ、イエスを主と告白することはできず、イエスによらなければ、父なる神の御許に行くことができない。この三位一体の神の働きを覚えて感謝することを促すようになっています。また、三という数字は、知、情、意の三つを表す数字でも有ります。その三つのセクションに座っている信徒一人一人が、知、情、意、ひいては全心全霊で神を礼拝しようという心構えを持つことを促すようになっています。

穿ち過ぎかもしれませんが、床は、石を多く混ぜた、コンクリートになっています。音の反射とエコーの効果を狙ったこと以外に、岩なるイエスの上に立つ信仰を表していると考えることもできそうです。

礼拝の表現は様々です。また、礼拝の心を思い出させるシンボルや形を用いることも、礼拝の表現の一つです。このような、礼拝堂の設計の意図を知っていることも、マンネリ化しやすい私達の礼拝の心に、時々新鮮な気付きを与えてくれる、大事な要素です。



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賛美チームにおけるボーカル

2008-10-05 01:33:17 | 奉樂(賛美)の覚書
賛美リーダーではなく、共に賛美するボーカルチームを念頭に入れて書かせていただきます。

賛美チームのボーカルは、「歌うのが好き」というぐらいの気持ちで担当されてはいけません。その役割の一つは、賛美をリードするにあたって、会衆の霊性を高め、賛美の姿勢の模範となることです。何よりも、賛美の心で真心を込めて主を求め、歌う姿の模範とならなければなりません。自分の奉仕が前もってわかっている時には、祈り備えて練習や本番に臨んでいただきたいと思います。

ボーカルチームにおいては、個性の表現よりも一致が大事です。仲間の声をよく聞き合うことが必要な場合も有ります。また、自分の声が聞こえるように、大きな声を張り上げたりするのはよくありません。ボーカルの奉仕は、自分の声を楽しむために有るのではないのです。全体的なバランスは、ミキサーに委ねて、自分の声が聞こえなくても、主を讃えることだけに集中することです。
 但し、自分の声が聞こえないために、音痴気味になっているなどの状況が有れば、ミキサーや担当のリーダーと相談して、全体的な音量を落とす、イコライザーのセッティングを変える、モニターを購入する、もしくは設定を変えるなどの工夫が必要な場合もあります。
 また、メンバー間の、声の質がうまく合わないという場合が有ります。その時には、奉仕者の組み合わせを変えるような工夫が必要です。例えば、一人で歌うと綺麗な声でも、みんなで歌うと周波数特性などの違いで、他の人の声に呑まれてしまい、マスキング効果のために聞こえなくなることが有ります。そういう声を聞こえるようにしようとすると、イコライジングや音量に無理が出て、バランスを保つのが難しくなります。そのような場合は、人数や組合わせを変える方がよい解決になります。

一生懸命歌うことと、力任せに歌うことは違います。自分の声をよくコントロールすることが必要です。
 地声のまま歌うと、個性やあくが強く出過ぎ、余裕の有る声になりません。リードされる会衆にとっては、気になって賛美に集中できないことが有り、賛美の妨げになりかねません。発声の方法としては、ELTの持田香織さんのボイス・トレーナーの説明が、個人的にはいいと思っています。軟口蓋を上に押し上げ、広げるようにして、喉にスペースを作るようにして歌います。軟口蓋は、上あごの奥の軟らかい部分です。
 クラシック的な歌唱法は、賛美チームのボーカルには合わないことが多いのです。クラシカルな歌唱法は、体を楽器のように使い、全体的な豊かさを追求する分、声の深みに重点が出て、歌詞を明確に歌うことが難しくなったりします。しかし、賛美リードにおいては、歌詞が明瞭であることの方が優先です。クラシカルな、縦に開いて「お」の口の形で歌うようなスタイルではなく、普通の口の開き方に、ストロー二本分を追加するぐらいの気持ちで、横に開く「え」の口に近い気持ちで歌う方が、歌詞が明瞭になります。

音響機器の中には、コンプレッサーとかリミッターというものが有ります。過度の音量差が出ないように使ったりします。つまり、人間の耳には、あまり音量差の無い、平均的な鳴りが心地よいという部分が有るのです。賛美チームのボーカルも、そういう部分に注意して、力任せに歌わないように気をつけなければなりません。感覚的には、60~80%の力で歌うように心がけると、高音部と低音部の出力の差が少なくなり、また、喉にも無理が無く、歌う方と聞く方の両方がうまく調和することになります。ちょっとした例としては、水道のことを考えてみてください。蛇口を目一杯開いて使うことは殆どありません。目的に合わせて開く量を調節するはずです。水流が乱れない最大限の量のところで使うと、飛沫が飛んだりしませんし、十分に洗い物などができます。また、ブレスを四小節や八小節毎にするとしても、力一杯に歌ってしまうと、息が続かない場合が有ります。給料日に向けて家計を節約するように、狙っている小節の終わりまで、息を節約して歌うようにします。
 
コーラス・ハーモニーを入れる場合は、誰がどの音域を担当するのかを決めておく方が無難に思われます。これも調和が大切ですから、自分のコーラス・パートが気持ちよいとか美しいとかに心を奪われて、声を張り上げたりしないようにします。仮にコーラス・ハーモニーも個々のボーカリストに委ねられているなら、お互いに聞き合って、他の人が歌っているラインを取ってバランスを崩すことにならないように気をつけたいものです。コーラスを取る時の音量も、少し下げる方がきれいに響く場合が有ります。また、マイクの位置や角度によって、音質が変わりますから、マイクに慣れたら、コーラスを取る時には、少し厚みの抜ける、高音がやや立つ位置や角度でマイクを使うようにすると、きれいに響きあうポイントを見つけられる場合があります。
 コーラス・ハーモニーは、賛美の意味を強調する働きが有ります。ですから、内省的で思索的な歌いだしの部分からコーラスを着けたりすると、逆に雰囲気がぶち壊しになり、逆効果な場合が有ります。後半の、強調点に来てからコーラスを着ける方が意味が有ります。コーラスを着けることを委ねられている人は、歌詞をよく吟味して、どの部分でどんな歌詞を強調するべきかを確認することが必要です。また、急にコーラスが無くなり、ユニゾンになることが、曲にメリハリを着けたり、ユニゾンの部分の歌詞に賛美者の焦点を当てさせる効果を持つ場合が有ります。

自分のボーカルコントロールがうまく行っているかどうかは、録音すると確認できます。年に何度かは、練習や奉仕の録音をして、個人もしくはチームで確認することをお勧めします。また、自分の歌声が、自分の声のように聞こえない場合は、口や喉の開き方が不十分な場合が多いのです。ボイス・レコーダーなどを使って、自分の口や喉の開け方を何通りも試しながら録音し、それなりに納得できる声が録れるポイントを見つける努力が必要です。

賛美チームのボーカルは、賛美の表現として目を閉じたり手を上げたり手拍子を取ることなども、適切な場所で率先して行う必要が有ります。その表現を通して、会衆がもっと主を見上げ、主の素晴らしさに心を向けるようにするためです。また、賛美リーダーや音楽主任、牧師などが、賛美の表現について、奉仕や説教の中で、常日頃説明をすることが大事です。

なお、私が書いたことは、経験に基づいてそう考えるということであって、必ずしもみなさんの現実にそった判断・方法であるとは限りません。ご自分のチームの指導者や仲間とよく意思疎通を図り、自分のリーダーの判断に従うことが一致した賛美のためには重要だと思います。







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