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糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

マイク、譜面台

2013-09-22 19:17:22 | 奉樂(賛美)の覚書
 私も何度か注意が足りなかったと反省したことがありますが、マイクや譜面台について書いておこうと思います。あまりこういうことを注意しなくてはならない状況になることは無いのですが、一応の判断材料として知っておくことのは良いことでなはいかと思います。

 比較的会衆と講壇が近かったり、賛美チームの配置が特殊であったりすると、奉仕の後のマイク(マイクスタンド)や譜面台が視覚的に邪魔になったりすることがあります。ですから、奉仕が終わってその場を離れる時には、譜面台やマイクをできるだけ下げておくという配慮をする必要が生じる場合があります。

 どうしてかと言いますと、説教の時間に、会衆は座っていますから、マイクや譜面台が割合高い位置で視線を遮り、説教者やスクリーンが見ずらいということが出てくるからです。すると、説教者の表現や投影された資料などが十分に見えなかったりすることになります。かなり礼拝の心を妨げる要因になる場合が有ります。

 もしあなたの里がyoutubeなどで礼拝ビデオを配信している場合、マイクや譜面台が画面に映りこんで、あまり整わない構図になったりすることも有るかもしれません。

 私の場合は、そういう取り決めるの有る里でのことであったのですが、うっかり忘れて自分だけマイクや譜面台を下げずに席についてしまったことが有りました。親しい人に、「マイクが中忍の顔にかぶって、顔が見えない。」と耳打ちされました。





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賛美チームにおけるボーカル 其の二

2013-08-04 21:29:15 | 奉樂(賛美)の覚書
以前書いたことと重複しますが、より具体的な状況を念頭に入れて書くことにしました。


アシスタントシンガーとワーシップリーダーのバランスに関係して気になることが時々有ります。統一感が無く不自然に感じられることが有ります。どういうことに気を配れば良いのかを考えてみます。


1)先ず、アシスタントシンガーの声がワーシップリーダーの声を邪魔しているように感じられる場合です。音量や音質の問題であるならば、ミキサーがきちんとその状況を敏感に察知して調整してくれることが大事です。ミキサーはそういう気配りをすることを常日頃心掛ける必要が有ります。予め絞り込んだ設定のままでいいと思ってはいけません。立つ人も変われば、気候条件なども変わりますし、それが大きな変化であることも有るのです。毎週、毎回、もっと良いバランスや音質にできるはずだと考えてボードの前に座っていただきたいと思います。シンガーはそういう部分には気付けなかったり、自分で調節できない位置や立場にいますから。良い協力関係を意識してください。

2)次に、シンガーが自分で気を付けるべき部分です。
  一つ目は、自分の唱い方のモードがワーシップリーダーと合っているかということです。リーダーが少し引いた優しめの唱い方で会衆をリードしようとしているのに、アシスタントは割合力いっぱい唱っていたりすることが有ります。そうすると、そのモードの違いが会衆の賛美には邪魔になることがあります。リーダーは賛美の表現を考えて唱い方を考えています。それがどのような唱い方になるかは、その時々で違うのです。自分の知っているCDのアレンジや雰囲気と同じにすれば良いと思っていたり、無意識に同じように唱ってしまっている場合もあるかもしれません。もっとリーダーの唱い方に注意を払い、心を合わせ、一致した共同、公同の賛美を奉げるのだということを強く意識する必要が有ります。
  もう一つは、唱い方の強弱だけでなく、息の混合比にも気を遣うということです。一番息の方の割合が高いのが囁くような発声です。反対は声帯からの直接的な声を使う発声です。優しさや深い思いを表現したい時は、単に音量を下げるだけでなく、少し息を混ぜるような唱い方ができるとまた違った効果が出、より深い表現ができる場合が有ります。リーダーがそういう唱い方をしているのに、アシスタントが単に音量を下げるだけというような場合も、アンバランスな印象になります。表現を合わせ、統一感の有る賛美リードになるように気を配りましょう。
  三つめは、アシスタントシンガーはやたらビブラートをかけないということです。アシスタントシンガーの中に、きちんとビブラートを自在に操れる人は殆どいないのが現状だと思います。ワーシップリーダーがビブラートをかけているとして、それと同じタイミングや深さでビブラートをかけることができますか?多分自信をもって「できる」と答えられる人は殆どいないでしょう。各自異なったビブラートで複数のシンガーが歌うと、ピッチが怪しく聞こえる場合が有ります。そうでなくても、ビブラートの深い人やビブラートになんらかの癖の有る人の声だけ突出して、賛美の邪魔になることが有ります。自分の満足や気持ち良さに任せてビブラートをかけてはいけません。自然に出てしまうというような人も、気を付けて腹筋や横隔膜をコントロールするようにします。  
  四つめは、フレーズの終わりの部分の伸ばし方を揃えるということです。リーダーは、楽譜通りにしっかり伸ばす人、もっと伸ばす人、逆にやや短めに切り上げる人などがいるかもしれません。楽譜通りというのがチームとしては当然やり易いのですが、そういう合意が無い場合は、リーダーの伸ばし方に合わせます。伸ばし方が揃わないことも、雑な印象を与え、賛美の表現として、未熟さを感じさせるることが有ります。
  




ミキサーの方、アシスタントシンガーの方に、是非一度振り返ってみていただきたいと思います。






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ドラムの奉仕について 追加の補足

2013-05-21 22:20:06 | 奉樂(賛美)の覚書
ドラムの奉仕について 追加 という下記のようなエントリーを前にアップしました。

zillai21c/e/256ea209183c4d86beada6cad15c692e

この中でドラムの「チューニングをし直しておきましょう」と単純に書いた部分が有りました。
そこが少々乱暴であったと思いますので、少し補足しておきます。

ドラムのチューニングと一言で言っても、考え方や狙っている効果によって、実際のチューニングの仕方はいろいろ異なります。
細々とした説明をするつもりは有りませんので、関心を持った方は「ドラムのチューニング」等のキーワードで検索してみてください。様々な理解が有りますので、どれが自分にとって良いかは実際に試して、自分の感覚と経験で選択していくしかないと思います。

さて、私がここで取り上げたいのは、奉樂(賛美)においてはどんな方針でチューニングするのが良いかという部分です。里においては、ドラムのポテンシャルを最大に引き出すような演奏はできないと言っても過言ではないと思います。礼拝においては、そのような大きな音を出すことは無いからです。アクリルの遮蔽板を置いて、タムもかなりシビアなミュートを施してあることが殆どであると思います。そうすると、タムの残響が豊かに残るとかいうようなことを考えたチューニングはあまり意味が無いでしょう。比較的残響が少ない設定であっても、単純で素直な音が出る方が賛美のためには相応しいと考えます。すると、表のヘッドと裏のヘッドのピッチが同じになるようにするのが良いと感じます。濁りの無い素直な音になると思います。

ドラムのチューニングにあまり気配りしたこがなかったという方は、一度試してみてはいかがでしょうか。何か違う感じがし、それがより良いものであるとお感じになった場合は、続けて調整することになされば良いと思います。






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ドラムの奉仕について 追加

2013-05-12 20:54:25 | 奉樂(賛美)の覚書
これまで何度かドラムについて書いてきましたが、最近思い出したことがありますので追加しておきます。

複数のドラマーがいる里では、自分の奉仕の番になってみると、セッティングが自分のものと異なっている場合が有ると思います。そういうことで苛立ったすることが無いようにしていただきたいと思います。一人一人が学んだり馴染んだりしているセッティングが異なっていることが有るのは当然です。体格による違いも起きてきます。次に誰が奉仕に入るのかは判らないことも有りますし、判ったからと言って、その人にぴったりのセッティングを他人がすることは難しいことです。毎回早めに行って、奉仕の前に余裕を持って自分なりのセッティングをすることを心がけるのが良いと思います。

セッティングのひとつの要素は、タムやスネアのチューニングであると思います。自分が好きなピッチより高くチューニングしてある場合も有るかもしれません。チューニング・キーは常備しておくのが良いと思います。また、みんながいろいろチューニングをいじっているうちに、表のヘッドと裏のヘッドのチューニングが合わなくてなって、不協和音みたいな効果が出て来てしまう場合があります。気がついた時に、仕える人の心を持って、チューニングし直しておきましょう。それもドラマーの大事な奉仕の一部です。同じ打面でも、締め方のバランスが良くなくなっている場合も有ります。どの位置で叩いてもほぼ同じピッチで鳴るように整えておきましょう。

実際の奉仕中に打つパターンにミスや乱れが出た時の、一つの取り組みを書いてみようと思います。振ったスティックが空振りになったとか、余計な音が付け足されたとかいうこともたまに起こります。その場合、次に同じようなところに戻ってきたら、同じように音を抜くとか足すということをしておきますと、意図してなされた演奏と解釈され、不自然さが出ない場合が有ります。自然なブレイクやパターンとして受け入れられれば良いと思います。会衆が、あれは失敗だったのではないかと思うような気持ちを残すと、少し賛美の思いが妨げられる場合が有りますから、自分のミスを誤魔化すとかいうようなこととしてではなく、賛美のバランス感覚としてそういうことを考えてみるのも奉仕者として意味の有ることではないかと私は思っています。



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賛美としての踊り

2013-03-27 00:05:13 | 奉樂(賛美)の覚書
 踊りも礼拝の表現の一部と考えることができます。奥義書の記述がどうなっているかを調べてみましょう。
 聖書辞典を調べてみると、新約聖書にはあまり踊りに関する記述が有りません。代表的な記述はヘロデヤの娘がヘロデの誕生日に踊ったことと、キリストが教えの中で子供の囃し立てる言葉を引用した部分です。賛美に関係する記述は無いようです。すると、礼拝や賛美の表現としての踊りの起源は、旧約聖書に見出されるということになります。
 聖書辞典によると、聖書における踊りは元来悲しみや喪に服することの反対の状態として認識され、特に旧約聖書の中で見出されます。同時に、それが旧約聖書の比較的早い部分で、賛美と結び付けられて現れます。紅海を渡った後、エジプトを打ち破って助けの手を伸べてくださった神に対する賛美として、ミリアムが女達と踊っていることが記録されています。旧約聖書を通して見ると、ユダヤ人の文化としては、踊るのは主に女性がすることであったようです。サムエル記下においては、女達がイスラエル軍の勝利を喜んで踊り、「サウルは千を撃ち、ダビデは万を撃った。」と歌い交わしている記述が有ります。ダビデが神の箱の帰還を喜んで踊ったことを、妻のミカルが蔑んだのは、ダビデが上着を着ていなかったということだけではなく、男のしないことをしたこからだと考える立場も有るようです。
 踊りには元来直接的な礼拝や賛美の要素はあまり無かったのかもしれませんが、大事な場面で礼拝と賛美の表現として用いられたことが明らかです。そして、時代が進むと、詩篇百四十九篇や百五十篇においては、踊りをもって主をほめたたえるようにという指示が記される程になった模様です。
 この頃の踊りによる賛美の表現は、ミリアムがしたのと同様に、タンバリンを持って踊るということが主流であったようです。喜んで繰り返し飛び跳ねることが、ユダヤ的な踊るということの定義であったようです。私達は、もっと賛美の意味を深めることを目指して、サインダンスやゴスペル・フラというような取り組みをするようになっています。その方が、心を合わせて見る方の礼拝者にも理解し易く、祈りを合わせ易いからです。

 現代の私達が踊りによる賛美、礼拝の実践をする時には、幾つか留意しておかなければならない事柄が有ると思います。
 第一に、先に述べたように、共同、公同の礼拝であることを心に留めるということです。直接踊ることによって礼拝の表現をする者も、それを会衆として見ながら賛美の心を合わせる者にも、共通の理解が得られるものとしてデザインされ、捧げられる必要が有ります。その意味においては、やはり、サインダンスやゴスペル・フラと呼ばれているような取り組みが適切であると思います。
 第二に、元来の喜びの表現の面があまり強くなると、敬虔さよりも興奮につながりやすいことに留意することが必要です。有名な南米のリオのカーニバルなどはその最たるものの一つと言えるでしょう。そうすると、性的な興奮へもつながっていくことが有ります。旧約聖書においては、モーセがシナイ山で神様の戒めを受け取っている四十日の間にイスラエルの民が偶像礼拝にはしる様子が記録されています。出エジプト記三十二章を見ると、アロンが金の子牛の像を作って祭りを執り行っています。「立っては戯れた」という表現が出てきますが、伝統的な理解では、それは踊りを含み、ひいては性的な乱れも含んでいただろうとされています。モーセが近づくと民が踊っているのが見えたということも記されています。ですから、踊りが男女の性的な魅力を引き立てるような様式で用いられることは避けなければなりません。
 第三は、第二と通じる部分が有りますが、衣装にも気を配る必要が有ります。両性の特徴が強く現れるようなデザインは避けるべきです。また、肌の露出が高いものも避けるべきです。肌の露出が高いということは、視覚的な自己情報の開示度が高いということです。進んで自己情報を提供するということは、潜在的には相手に自分を売り込み、また相手を受容する用意が有ることを意味します。それが無意識になされていてもです。しかし、礼拝の中心はそういうことや自己主張に有るのではなく、礼拝すべき神に心と目を向けて賛美するという部分に有ります。そういう心を逸らせ、神に向けられるべき注意を盗むことにならないようにするべきです。

 こうして考えますと、ゆっくりした動きで表現できる日本舞踊やフラの要素を取り入れたサインダンスを、注意して選んだ衣装に身を包んで捧げるというのが、実践としては適切な在り方ではないかと思います。





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礼拝を妨げるちょっとしたこと

2013-01-20 21:35:26 | 奉樂(賛美)の覚書
 音楽による礼拝には直接関係有りませんが、このカテゴリーで残しておきたいと思います。


 礼拝に出席していて、なかなか集中できなくなる時が有ります。そういう妨げになっている要素の一つが臭いです。そういう妨げの源に自分がならないように注意したいものです。

 臭いというよりは匂いかもしれないものは、香水などです。ある程度抑制の効いた香であるならば困りませんが、トワレ等、強めな香を放つものが過度に感じられて困ることが有ります。香水の香の種類は、花、柑橘系、苔、樹皮、皮革、動物、虫など、香そのものや採取原料も様々です。自分の好みの香でも、他人には邪魔なだけということも有ります。控えめな香のものを、控えめな量用いるのがいいと思います。

 腋臭も集中を妨げます。私が大変お世話になった大忍が、ある会合だか聖会に出席した時に、隣に座った女性の役員だかの腋臭が強くて閉口したと言っておられたのを思い出します。私も少しばかり経験は有ります。自分の臭いはあまり気にならないものですが、少しでもそういう傾向が有ることがわかっているならば、注意して備えておくことが必要だと思います。汗拭きシートやデオドラントスプレーなどを使ってから礼拝に出かけるとか、汗拭きシートで拭いてから会堂に入るなどの気遣いが必要な時が有ると思います。季節にもよるかもしれません。デオドラントスプレーは場合によっては匂いがきつく感じられる場合が有りますので、タイミングが大事だと思います。

 もう一つは口臭です。口を開くと出るものですから、賛美や告白の時に臭いが出て、礼拝の表現を妨げることになることが有ります。心から賛美や告白を捧げたいと思うのに、嫌な臭い、嫌な感情が混ざって集中できません。口臭が有ると言われたことが有る方は、前もって気をつけ、口臭予防のうがい液やタブレットを用いるのが良いと思います。家族ですと気軽に注意してもらえるのですが、礼拝に出席するのが自分だけだったりすると、そういう部分はあてにできませんから、自分で注意するしかありません。
 口臭の元になっているのが、嫌気性の細菌である場合が有りますから、その時は静かに口から空気を吸い込んで、口の中を空気に触れさせるようにすることが有効な時も有ります。
 口臭の一種としてよろしいと思いますが、入れ歯の臭いも大変対処が難しいものが有ります。ハンカチで鼻を覆ったり、横を向かなければならない時も有ります。出かける前に入れ歯洗浄をするなどの気遣いが必要になる場合が有ります。


 自分が気をつけて努力をするのはいいのですが、そういう場面に身を置くことになってしまった場合は、どうしたらいいでしょうか。前述の通りハンカチで鼻の周囲を覆うということも一つだと思います。事情が許すならば、席を移動するというのも一つの方法だと思います。






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説教について再確認

2012-09-23 21:17:59 | 奉樂(賛美)の覚書
 説教については以前にもこのカテゴリーで触れたことが有ると思いますが、もう一度確認しておきたいと思います。

 キリスト教会は、文化的歴史的背景の研究や礼拝学の視点からしても、シナゴーグの実践に倣ったところが幾つか有ります。初代教会が長老や執事を置いたのも、シナゴーグの実践に倣った部分が有ります。それが自然であったから、直接の使徒であったペテロやヨハネも自分達を長老と称し、七人の執事を任命しましたし、後から特別に使徒に加えられたパウロも長老と執事の任命について、牧会書簡で指示を出しています。

 シナゴーグの実践の発展やキリスト教への継承は、神様の戦略的なお導きであったと思います。それは、イエスが世に送られ、異邦人が救いに入るようになり、福音が世界に広がっていく時に大きな助けになる部分が有ったからであろうと思います。
 
 説教についても、そういう背景と導きが有ると思われます。モーセを通して律法が与えられた時でも、人々は律法を読み、口ずさむことを要求されました。それが、ネヘミヤとエズラを通して律法の解説が組織的になされるようになり、シナゴーグにもそれが引き継がれて行ったと考えられます。
 イエスはあちこちで神の国の福音を伝え、教えましたが、シナゴーグで教えられる時にはそのような実践を守られた様子が伺われます。イザヤ書を読まれて、それがご自身についての預言であること、それが成就したことを解説しておられます。

 パウロは、テモテに対して「あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに解き明かす、はじることのない働き人として、自分を神にささげるように、努め励みなさい。」(2テモテ2:15 新改訳)と指示をしています。説教の基本はまっすぐな解き明かし、解説であると言えるでしょう。そして、それは、礼拝学的にも意味の有ることであります。

 説教は、牧師が教えて信徒が学ぶという側面が無いわけではありませんが、それが主であってはなりません。説教は、礼拝の一形式であることが主であって、教えの面はそれに比べた時には副次的なものと理解されるべきです。みことばを特別啓示として人間に与えてくださった神様を敬う意味で、それを朗読し、また、敬意を持ってその意味を確認し、みことばを啓示してくださった神を褒め称え、また、みことばに現れる神の御心に感謝して従順して行くのが私達の説教における礼拝の姿勢です。ですから、説教はまっすぐな解き明かしである講解説教が聖書的な礼拝形式としての説教であると考えるべきであると思います。







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ドラムスの奉仕で

2012-09-23 19:31:33 | 奉樂(賛美)の覚書
 随分前の話ですが、礼拝でドラムスの奉仕の当番であった時に、特別賛美の方から、「バンドの賛美が終ったらスネアドラムはひっくり返して布を置いてください。」というようなことをお願いされたことがありました。普通は聞くことのない要求をされて一瞬面食らいました。それから、多分これはスナッピーが共鳴するのを避けたいということだなと思いまして、そういう音が出なければいいのだろうということを確認して、スナッピーを緩めることで対処させていただきました。
 スネアドラムは、独特の衝撃音を出すために、裏側のヘッドに波打った金属の線が何本か張ったものを接するように設定する仕組みが有ります。それをスナッピーと呼んでいます。このスナッピーは、周囲で大きな音が出ると、スネアドラムのヘッドの共鳴もしくはスナッピーの共鳴が起きて、ジーとかザーというような音が出てしまうことが有ります。
 ドラムスの奉仕者は、そのことが礼拝の妨げにならないように気をつける必要が有ります。礼拝の始まりや祈りの時に比較的大きなオルガンの音が演奏されるとか、特別賛美で比較的大きな音が出る金管楽器が用いられる時に、このような雑音が聞こえますと、祈りや賛美の思いが乱されることがあります。
 そういうわけで、ドラムス奉仕者は、リハーサルが済んだところで一度スナッピーを解除しておくのが良いと思います。また、礼拝での賛美の時間が終わったところでも、スナッピーを解除しておくのがよいでしょう。



 また違った話です。ベースやギターなどの楽器は、演奏する指や手が直接的に楽器に触っています。しかし、ドラムスの場合はスティックを介して音がでるようになっています。ある意味では、演奏をコントロールしている手と、実際に音を出す楽器との距離が少しばかり大きい楽器ということができます。すると、時には感覚の狂いが生じることが有り、それが重なると全体的には少々煩わしい感じがするような乱れにつながる場合が有ります。
 それを避けるためには、とりあえず二つのことができるのではないかと思っています。それは、叩くパーツを変える時には、なるべく打点を目で追うことです。また、叩くパーツが変わる時には、もとの手の位置から突然そちらのパーツに移動するようなモーションは避け、叩いている腕や手の移動がリズミカルで流れるような移動になることを心がけることだと思います。その集中して見ることや、流れに乗せて移動していくことも、賛美の姿勢であり、あなたの奉げ物であると私は考えています。





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ボーカルのミキシング

2012-06-09 20:30:04 | 奉樂(賛美)の覚書
 ミキサーはできれば賛美奉仕者の本来の声をいじらないで、音量だけ調整して済むならばそれにこしたことはないと思います。しかし、実際にはなかなかそれではうまく行かないことが多いように思います。
 ボーカル担当者が複数いる場合に、私は二つのことを考えます。
 賛美アシスタントとしてボーカルが立つ場合は、全体の賛美をリードすることを目的としていますから、多くの場合はユニゾンで歌うことが求められます。この時、会堂の周波数特性や、ボーカルの周波数特性でマスキング効果が起きたりして、メインで聞こえるべき人の声が埋もれてしまったり、全員の声がうまくブレンドされないことが有ります。その時は、マスキング効果を起こし易い周波数帯が強いボーカルのイコライザーを少しいじって、その部分をカットします。それでもあと少しブーストしてあげたい時などは、その人のクリアな部分の周波数帯を少し上げてやったりします。これを、少しずつ聞き比べながら調整していきます。必要であれば、全員ではなく、二人ずつ組み合わせて声を出してもらいながら調整したりすると仕上がりがかっちりすることがあります。
 次に、コーラス・ハーモニーの音質の絞込みです。最初に考えることは上に書いたような発想での音の整理です。そして、ハーモニーの場合は、更に少し調整する部分が出てきます。デモCDなどのレコーディングのハンド・ブックにも書かれていることですが、ハーモニーを担当する人の声のイコライジングは、少し高音が立つように調整します。すると、ハーモニーがかちっとまとまった感じになります。

賛美の音が何となくまとまらない、統一感が無い、もしくは音が抜けないという時には、以上のことを考えて調整してみてはいかがでしょうか。
 





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拍手で

2012-06-09 20:10:23 | 奉樂(賛美)の覚書
 賛美の表現の一つに拍手が有ります。賛美の思いが強いと、その拍手の音の大きさ、手を叩く間隔の早さ、拍手をする長さが変わってきます。しかし、いくら自分の気持ちがそういうものであるとしても、礼拝は「共同の礼拝」という性質が有り、一つ思いになって捧げるものであるということを忘れてはいけません。
 共同の礼拝という性質の妨げになる一番の要素は、拍手が大きすぎるということであると思います。私も何度か経験が有りますが、周囲にいる方の拍手が大きすぎると、本当に鼓膜に響く感じで耳が痛いということが起きます。肉体的な苦痛を伴いますので、その気持ちは礼拝から離れてしまいがちです。それが賛美の表現であることが判っているので、なかなか拍手を手加減してくださいと頼むのも難しいものです。
 ここでは、拍手をする人が自分の拍手の大きさが共同の礼拝の妨げになる程大き過ぎはしないかということに気を遣うべきです。また、賛美をリードする立場の牧師などが、時々そういうことについての注意を促すことが必要だと思います。




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