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糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

個人の賜物・召命も?(ローマ書十一章二十九節)

2008-07-30 12:34:23 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
本文:神の賜物と召命とは変わることがありません。(新改訳第二版より)

この聖書の言葉を引用して、個人に与えられた賜物と召命は変わらないのだと説明することがあります。私自身は、スキャンダルが有った日本の牧師が、その後もラジオで宣教の働きをしているという話が出た時に、この言葉を引用しているのに出くわしたことがあります。しかし、この聖書個所から、単純にそのような理解をして良いのでしょうか。

この個所は、前後のかなり長い文との関連で考えなければなりません。直接的には、前に示されている二十六節の「こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。」(新改訳第二版)の説明になっています。つまり、「イスラエルはみな救われる」という事実を神の「賜物」であり「召命」であると言っているのです。

こういう特殊で特別な「賜物」と「召命」に関わる説明になっている言葉を引用して、はたして、「個人への賜物と召命」が変わらないという説明をして良いのでしょうか。例えそういう霊的事実が有るとしても、安易にこの聖書個所を引用することは適切ではないと思われます。





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どっちの意味だろう!?(ホセア6章1-3節)

2008-07-29 05:28:32 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
本文(3節のみ掲載 引用は新改訳第二版)

私たちは、知ろう。
主を知ることを切に追い求めよう。
主は暁の光のように、私たちのところに来、
後の雨のように、地を潤される。


5章では、ホセアは、北王国イスラエルの不誠実な信仰を責める予言をしています。その直後の6章にこのような言葉が述べられているのです。


この箇所の理解は、3通りほど有ります。
1)誠実な信仰者の呼び掛け、奨励
2)不信仰なイスラエルの民の悔い改め
3)不信仰なイスラエルの民の、偽りの告白

3)が出てくるのは、直後の4節にイスラエルの民の誠実は、朝もやのようにすぐ消え去るようなものだということを責める神の言葉が記録されているからです。神は、次のように宣言しています。

それゆえ、わたしは預言者たちによって、彼らを切り倒し、
わたしの口のことばで彼らを殺す。わたしのさばきは光のように現われる。 (5節)

80年代には、この箇所にメロディーを付けた賛美が盛んに歌われた記憶があります。でも、3)の理解の可能性を考えると、思わず歌うのを躊躇してしまいますよね。





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祈りの勧めではない! (マタイ伝十八章二十節)

2008-07-28 17:12:29 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
(お願い)できれば、聖書も一緒にご確認ください。

本文「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」

この聖書個所は、二、三人の信徒が居合わせた時に、祈りを促すために引用されることが多いのですが、この個所の文脈上の意味には、あまり目が留められていないようです。この個所の文脈は、はたして、心を合わせて祈ることに主眼が有るのでしょうか。

この個所の文脈は、15節から始まる、兄弟が罪を犯した場合の対処という流れに有ります。「兄弟」という語の理解も色々ですが、ここでは、イエスが弟子達に語りかけている場面であることが、18章1節からわかります。ですから、今で言えば、キリスト教徒同士という意味合いです。

この個所では、キリスト教徒が罪を犯した場合、もしくは教義に反した場合、どのように諌めるのかという手順が示されています。しかし、その人が、どうしても教えに従わなかったら、キリスト教徒として扱わず、再教育、再伝道の対象としなさいという指示をキリストは与えています。別の表現をすれば、除名しなさいということです。そういう厳しい対処を指示した後に、キリストは、18~20節の言葉を付け加えたのです。

ここでキリストが伝えたかったことは、「そのような厳しい対処をする決定になってしまっても、お前達が、きちんと手順に従って事を為し、正しい処置を祈って願い求めるなら、その決定にわたし(キリスト)も共にいるから、安心しなさい。」ということと読み取ることができます。神が裁きに伴っていると言う部分は、歴代誌Ⅱ十九章六節の感覚にも一部通じる部分が有るように思います。『さばきつかさたちにこう言った。「あなたがたは自分のする事に注意しなさい。あなたがたがさばくのは、人のためではなく、主のためだからです。この方は、さばきが行われるとき、あなたがたとともにおられるのです。

この祈りに関するキリストの言葉が、キリスト教徒が諌め合うという文脈の中に有ることは、続くペテロの話からもわかります。もう一度、「兄弟(キリスト教徒)が別のキリスト教徒に罪を犯した場合」という設定が出てきています。また、平行記事がルカ17章1~4節に出てきますが、3、4節の展開が、マタイ18章15~22節の大変簡潔なまとめになっている点も、このことを支持していると考えられます。

キリストは、別の所では、奥まった自分の部屋に入って祈れと指示しています。すると、一人で祈ることになります。キリストがそう指示しているのですから、一人で祈る時には、キリストは一緒にいてくださらないということにはならないでしょう。

こういうことを考え合わせると、やはり、このマタイ18章20節は、心を合わせて祈るということが主眼となるキリストの指示ではないと言えます。また、心を合わせた祈りだから、神がかなえてくれるという一般的な約束の言葉ではないと言えます。祈りを促すために、聖書の言葉を引用したい時に、この個所を引用するのは、少なくとも、ぴったりの引用とは言えないでしょう。


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