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糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

ヤベツの祈りに倣う (歴代誌前四章九節、十節)

2021-12-18 17:51:07 | 奥義書講解・旧約
導入)
  西暦二千年出版の「ヤベツの祈り」という本は、これまでに一千万部以上売れたということです。一方、この本におけるヤベツの祈りの取り上げ方は、繁栄の神学に結び付けられているという批判も出ました。
  真面目に聖書的福音的信仰を目指す忍者として、この箇所はどのように理解できるのか見てみましょう。

本論)
  歴代誌は、バビロン捕囚から帰還した人たちに、先祖に恵みを施された神に信頼するように奨励するために書かれたと考えられています。
  二章からは、ユダ族の人たちの系図が記録されています。四章からは、あまり注目されていない系図の本流から外れた人たちが記録されているように思われます。ところが、その中で、記者は突然ヤベツという人物を、父親の名前の紹介も無しに記録したばかりか、この人物の説明のためだけに2節も費やしています。それだけヤベツは重要な人物であったということです。歴代誌の記者は、捕囚から帰還した人々に、それだけヤベツのことを心に留めて欲しいと思ったのです。

九節 ヤベツは兄弟たちより重んじられたとされています。兄弟というのは、親類縁者まで含んだ表現と考えられます。しかし、続く母親の言葉を見ると、彼の人生の初期は惨めなものであったようです。母親の言葉が示す通り、ヤベツという名前は悲しみ、もしくは苦痛という意味が有ります。それは、肉体的な痛みと精神的な痛みの両方に用いられる言葉です。どのような悲しみや痛みが有ったのでしょうか。ある学者は、ヤベツは妾の子だったのではないかと考えます。或いは、ヤベツが生まれる頃には、父親は亡くなっていたのかもしれません。いずれの場合でも、彼の母親の心の苦しみは大きいものであったでしょう。そのような境遇に生まれた子供の生活は、惨めなものであることが多かったのです。それでは、どうして彼が「重んじられる」人物となったのでしょうか。

十節 彼が重んじられることとなった理由は、この節が示しているイスラエルの神に祈ったという部分に有ると考えられます。呼ばわったと訳された語は、大声を出す、音読する、呼びかける、助けを求める等の意味が有ります。おそらく、彼の周囲の人たちは、ヤベツの祈りの声を聞いただろうと思われます。彼が祈りの人であることを、人々は知っていたでしょう。彼の祈りの内容を確認してみます。
  第一に、神の大いなる祝福により、地境を広げることができるように祈りました。ヤベツはヨシュアや士師の時代の人だと考えます。その時代には、ユダヤ人たちは、カナン人たちを追い出して、神に割り当てられた領土を獲得しなければなりませんでした。そうでなければ、ヤベツの願いは意味をなしません。各部族、氏族に割り当てられた土地の地境は、律法によって変更することが禁じられていたからです。ヤベツは欲張りや自己中心の気持ちから祈ったのではありませんでした。彼は、神に与えられた使命を果たしたかったのです。私の地境と言いましたが、ユダ族全体が協力して戦わなければならない状況でした。この祈りの結果、ユダ族が割り当て地を得ることができたので、ヤベツは重んじられることになったと考えられます。
  第二に、苦しむことのないようにと祈り求めました。苦しみ、悲しみという意味の名を持つヤベツが、神に祈って、肉体的な苦しみや精神的な苦しみから守ってくださるようにお願いしたのです。御手という表現をした時に、ヤベツの思いの中には、出エジプト記の記述などが有ったことでしょう。(出エジプト記13章3節、9節等参照)神の守りと導きの手を信頼し、求めて祈ったのです。
  第三に、わざわいから遠ざけてくださるように祈りました。わざわいと訳された語は、さまざまなわざわいを意味します。土壌が悪い、水質が悪い、災害や大問題、道徳的退廃、悲しみ、不親切、負傷などが含まれます。多くの物事が私たちにわざわいをもたらすことが有り得ます。もちろんそういうわざわいは好ましいものではありません。霊的問題としては、それらが信仰を失わせるような場合も考えられます。だからこそ、守りを祈り求めたのでしょう。その祈りの姿勢は、「われらを試みに合わせず、悪より救いい出したまえ」という主の祈りにも見出されると思います。

  祈りの結果はどんなものだったでしょうか。神は彼の願ったことをかなえられたなっています。かなえると訳される語には、実行に移す、もたらす、来る、下って来る、入る、行く、という意味が含まれます。まるで、神のご臨在が下って来て、彼と彼の祈りの生活に入って来られたと述べているかのようです。そのような祈りの生活をしたヤベツの願いを、神はかなえてくださり、そのゆえに、人々は彼を重んじたというのです。

まとめ)
  ヤベツのように祈りに倣うとは、どのように祈ることでしょうか。簡単に以下の三つを挙げておきたいと思います。

一、神だけが苦しみと悪に満ちた世における真の解決である知って祈る
  バアルでもなくネボでもなく、また、自分の能力でもなく、創造主だけに信頼する姿勢を持って祈ることです。
二、神に与えられた使命を果たすことができるように祈る
  神の子供、イエスの証人、聖なる祭司の国民等、私たちの在るべき姿を指す言葉が奥義書には示されています。そのような者になれるように祈ります。
三、絶えず祈る
  ヤベツが祈りの人であったことは、周囲の人たちに知られていたと考えられます。声を上げて祈っただけではなく、絶えず祈ったからではないでしょうか。





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予告篇「救世主のしてくださること」(エレミヤ書三十三章十四節~十八節)

2016-12-19 23:00:20 | 奥義書講解・旧約
 旧約聖書にいくつも有るキリスト預言ですが、エレミヤ書に記録された神の言葉は、その中でもキリストのなされる中心的な事柄を預言している面が有ると思います。

 十四節は、神が繰り返し約束し、保証しているキリスト預言の成就を再度確約している言葉です。イスラエルの家とユダの家という表現は、一致を意味する表現です。実際には十二部族が再度統一イスラエルを再興するということは起こりませんでしたから、これは、キリストの恵みを受ける全人類を念頭に入れたものと考えても良いと考えられます。約束したこと(口語訳)というのは、原義は「良いこと、良い言葉」というもので、それまでに繰り返し語られたキリスト預言のことを指しています。それは必ず成就するという約束の言葉を神は繰り返しているのです。

 さて、その約束の成就の中に、キリストの為されることが三つ示されていると考えることができます。その三つの事柄を確認してみたいと思います。

 一つ目は、十五節に有ります。最初の記述はキリストはダビデの家系から出ることを再確認しています。「正しい枝」というのはキリストを表す言葉です。そして、そのキリストがすることは、「公議、正義を行う」ということです。抽象的な表現ですが、その実際はどんなことでしょうか。
 先ず一般社会の話を考えてみます。重罪を犯した人間が、何等かの理由でその刑罰を逃れたら、人々は正義が行われなかったと怒ります。逆に、そういう人間がいかに巧妙に処罰を免れようとしても、捜査機関の努力によって検挙され、裁判所の判決も妥当だと考えられるものだと、人々は正義が行われたと考えます。
 ここで、私たちと神様の関係を考えます。私たちは最初の両親を通して神との断絶という罪を持って生まれて来ます。それを正すこと、その処罰を受けることが正義と言えます。しかし、神に対して行った罪の償いをたかが人間である私たちができるわけがありません。できなければ正義は行われないことになります。それを、神の御子であるキリストが代わって全人類の罪を贖うために十字架に掛かって死に、その代価を払いました。必要な処罰が行われたのです。ですから、正義が行われたことになるのです。
 エレミヤ書では抽象的な表現になっていますが、実際にキリストが成し遂げられたこと救いの御業と合致する記述になっているのです。

 二つ目は、十六節に有ります。信じる者達に神の名を与えられるということです。ユダは救いを得るということが述べられています。ユダという名前は賛美・礼拝の意味が有ります。そして、賛美・礼拝は救いに伴うものです。例えば、エジプトを出たイスラエル人は、エジプトの追撃部隊を見てパニックに陥りますが、神が紅海を渡らせる奇跡を与えて救い出します。対岸に渡ったイスラエル人たちは賛美・礼拝をします。そのユダの救いが、どのように私たちと関係有るものと考えることができるのでしょうか。それはエルサレムは安らかにおる、という部分から考えることができます。 
 ここでエルサレムが象徴しているのは神殿です。先に見た賛美・礼拝とのつながりからも理解できます。その神殿こそが私たちとのつながりになっています。第一コリント六章十九節には、私たちが聖霊の宮、神殿であると述べられています。私たちはキリストを通して救われ、聖霊の宮、神殿となりました。だから安らかにおることができるのです。
 さらに十六節は、そのエルサレムが、換言すれば私たちが、「主は我々の正義」という名前を与えられるということが述べられています。「主は我々の正義」という称号は、旧約聖書においては父なる神の名前として出てきます。(イザヤ書二十四章十六節参照)また、新約聖書においては、イエス・キリストの称号としても用いられています。(第一ヨハネ二章一節参照)
 このことは、私たちに二つの意味で関わりが有ります。先ず、私たちの義はキリストにのみ有るということです。義人は一人もいないと聖書は述べています。しかし、キリストによって私たちは義人にしていただきました。それ以降は、キリスト以外の事柄で自分を守ったり良くしようとしてはいけないのです。次に、私たちの呼称です。私たち忍者は、一般にクリスチャンと呼ばれます。キリストに属する者、キリスト主義者というような意味の言葉です。その呼称には、私たちの神、キリストが含まれているのです。私たちは、その神の名をもって呼ばれている存在です。この箇所の預言は、そのことをも見通した記述になっているのです。
 
 三つ目は、十七節、十八節に有ります。キリストは私たちを継続的に回復させてくださるということです。この二つの節は一まとまりの記述と考えれますが、ヘブル語では、最初に理由を示す接続詞が有ります。それは、十六節に示された、私たちが「安らかにおる」その根拠、理由を示す節を導いています。
 その第一の理由は、十七節です。ダビデ王家の王が永遠に続くと考えられる記述が有ります。実際にはダビデ王家は途絶えていますから、これはキリストのことであると考えられます。王に期待することは何でしょうか。イスラエル民族が王を求めた時のサムエル記の記述に見られるように、守られることです。キリストは王の王として、私たち忍者をあらゆる場面で守ってくださるのです。キリストは、私たちを悪魔の働き、悪魔の告発からも守ってくださる方です。だから、私たちは「安らかにおる」ことができるのです。
 第二の理由は、十八節です。ここでは、祭司が絶えることがないと述べています。しかし、実際には今やイスラエル人たちの間には、ラビは存在しますが祭司も祭儀の様式も継承させていません。ですから、この箇所もキリストのことであると考えるのが妥当です。祭司は、民のために神への供え物を奉げることが務めです。ここには二種類の供え物が記されています。一つ目は罪の赦しのための供え物で、二つ目は感謝の供え物です。キリストご自身が罪のなだめの供え物になってくだり、また、イエス・キリストの御名によって祈る私たちの感謝を神に取り次いでくださっていることに一致した内容になっています。そのことの故に、私たちは、審判の日にも恐れることなく神の前に出ることができるのです。だから、私たちは「安らかにおる」ことができるのです。
 キリストは今も神の右に座しておられ、私たちのために執り成し、いつも私たちの霊的回復を支えてくださっています。


 エレミヤ書三十三章のこの記述は、キリストがこの地上に来られて成し遂げられることの予告編になっています。そして、それは今日の忍者である私たちのためにも為され、実現しているのです。今からでも、キリストを救い主として受け入れ、キリストへの信仰を告白すれば、その予告は、あなたにも実現するのです。






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ダビデの福音宣教(詩篇2篇から)

2016-12-08 12:46:44 | 奥義書講解・旧約
 新約聖書には、詩篇2篇の引用や隠喩と考えられる箇所が二十箇所ほど有ります。そして、それはイエス・キリストに関わる記述になっています。メシア的詩篇の一つ目のものということになります。表記は有りませんが、これはダビデの詩篇と判断されています。その内容は、ダビデ王とイエス・キリストの二重写しのようになっています。そういう訳で、この詩篇はダビデを通して語られた福音宣教の面が有ります。その福音宣教の組み立ては三段階で述べられています。


第一段階:神に敵対することは無駄である(一節から六節)
 ダビデは一節から国民の反逆を「むなしい事」と述べています。二節では、王たちや司たちが「油注がれた者」に逆らうことが示されています。直接的には油を注がれて王に任命されたダビデのことですが、この言葉がキリストをも意味するものになっています。キリストそして神に対する反逆の基本的な姿勢は、「われらは彼らのかせをこわし、彼らのきずなを解き捨てるであろう」(口語訳)という言葉に表されています。「かせ」は統治を表します。「きずな」は縄などを表すことができる語ですが、関係、結びつきを表す言葉でもあります。この言葉は、神とダビデ、更にはイエス・キリストとの関係、結びつきを否定するものになっており、人間の原罪を象徴した内容となっているのです。
 四節を見ますと、そのような態度を神は先ず嘲笑うということです。たかが人間が、創造主である全能の神に立ち向かうなどということは、いかに滑稽なことでしょうか。そして、しばらくの後に、五節では神が彼らに裁きを下す様子が述べられています。怒りを持って臨むというのです。そして、ダビデ王、ひいてはイエス・キリストは神ご自身がその権威を持って立てられたということを宣言されるのです。
 全能の神が立てたダビデ王、そしてイエス・キリストに立ち向かうということは、その背後に在り、全てを治めておられる神に立ち向かうことになります。当然人間が神に対して勝利することは有り得ませんので、やはり、それは無駄であると結論するしかないのです。


第二段階:神は必ず御心・ご計画を成就される(七節から九節)
 ここでダビデ王は、神に立てられた者として神の言葉を取り次ぎ、その使命を果たす決意を述べています。それは、イエス・キリストが繰り返し「父のみこころを行う」ということを述べられたこととも重なってきます。(ヨハネ伝 五章十九節、六章三十八節、八章二十八節等参照)
 七節の神の言葉は、イエス・キリストの洗礼の時と変貌の時に語られた言葉と重なると理解されています。父と子の関係を、人間的生物学的関わりで捉えてはいけません。父というのは、財産や権利を与える、相続させる立場は権威を象徴しています。神は正にそういうご性質をお持ちの方です。ですから、八節では国や地を所有として与えるという宣言が出てくるのです。子というのは、その権威のもとに財産や権利を受け取った存在を象徴しているわけです。生んだというのも、任命した、権限を授けたという意味で理解することになります。ダビデ王の場合で考えても、それははっきりしています。彼が王とされた時に出生したのではないことは明らかです。ダビデ王は統一イスラエルを与えられました。そして、九節の述べる通り、神の力によって周囲の国々を従わせました。イエス・キリストは福音を語り、神の国を広げ、現代の私たちが天に国籍の有る忍者として世界中に存在しているということになります。
 このように、神の詔(口語訳)、神の御心、計画は必ず成就されるのです。八節の「地のはてまでも」という部分はダビデ王には当てはまりませんでしたが、イエス・キリストにおいて成就しました。残すところが有るとしたら、それは、黙示録に九節の引用が有るのですが、イエス・キリストが再臨されて、反逆する者たちを打ち砕く、裁きを下す部分になります。


第三段階:神は敵に子を敬うように警告し招待している(十節から十二節)
 ここではダビデ王が敵対する勢力に呼びかけています。賢くあれ、戒めを受けよというのです。それは、真の神に立ち返ることを促しています。ダビデ王の息子であるソロモン王も、箴言一章七節で「主を恐れることは知識のはじめである、愚かな者は知恵と教訓を軽んじる」(口語)と述べています。
 十二節には、足に口づけをすることが要求されています。これは、尊敬、敬意を表す行為で、王や王子がそういう形で表敬されることが有りました。もちろん、これはイエス・キリストに敬意を表し敬うことをも表しています。ルカ伝七章には、実際にそういうことをした女性の話が記録されています。罪深い女と呼ばれている人物が、イエス・キリストの足を洗い、香油を塗り、繰り返し口づけしました。著名なラビや教師の足に口づけして敬意を表すことはその時も普通のことでした。そして、イエス・キリストは、この女性に対して「あなたの罪は赦されている」と宣言されています。
 このようにして、敵対する者たちへの警告と招待が述べられましたが、この後にも警告と招待が繰り返されていると考えられます。
 締めくくりの十二節は、そしなければ神の怒りが彼らを滅ぼすであろうという警告を発しています。しかし、一番の締めくくりは、「すべて主に寄り頼む者は幸いである」となっているのです。神は裁きだけをもたらそうとしているのではなく、幸い、幸福への招待をし続けておられます。そして、この詩篇もそのような言葉で閉じられているのです。
 
まとめ
 ダビデ王は自分に注目をしてこの詩篇を書いたかもしれません。しかし、同時にこの詩篇は神の霊感によって書かれ、神とイエス・キリストを示す内容になっています。イエス・キリストが地上でなされたことは、父なる神の御心を成就することでした。私たちを救うために十字架にかかられ、そのご計画を成就されました。また、神の怒りを警告され、福音を信じて神の国に入るようにという招待をし続けられました。神は今も、イエス・キリストを通し、聖書を通して私たちを幸いに、福音に招き入れようとし続けておられます。神との関係を拒絶するのではなく、その招待を受け入れて、その幸いを生きられるようにとお祈りいたします。
 






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詩篇二十二篇 (聖金曜日に)

2016-03-25 22:24:05 | 奥義書講解・旧約
詩篇二十二篇は、キリスト預言の詩篇と考えられています。そこには、十字架の苦難の描写と重なる表現が出てきます。そこで、次の三つの点からこの詩篇を確認してみたいと思います。
一、預言の成就
二、詩篇二十二篇の大まかな流れ
三、イエス・キリストが思っていたであろうこと

一、預言の成就
ダビデの賛歌とされています。ダビデ王を直接示していると考えると、イエス・キリストの出現のおおざっぱに言って千年ほど前に書かれた詩篇ということになります。それだけの時間を超えて、ここに記述されていることが、キリストの十字架の苦難と重なるということは、預言の成就であると我々忍者は考えるわけであります。故に、イエス・キリストをメシア、救世主と信仰するに足りると考えるのです。

細かい部分は割愛して、三つの一致を取り上げてみたいと思います。関心の有る方は、奥義書詩篇二十二篇を開きながらご確認ください。

七節とマルコによる福音書十五章二十九節の一致
-私を見る者はみな、私をあざけります。彼らは口をとがらせ、頭を振ります。
-道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。

八節とマタイによる福音書二十七章四十三節のあざけりの言葉の一致
-主に身を任せよ。彼が助け出したらよい。彼に救い出させよ。彼のお気に入りなのだから。
-彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ。』と言っているのだから。

十八節とルカによる福音書二十三章三十四節の行為の一致
-彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします。
-彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。

イエス・キリストがマタイによる福音書二十七章四十六節で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と言っていますが、これは言語の違いこそ有れ、詩篇二十二篇一節の内容と全く一緒です。当時の人達は、詩篇を暗記していることが多かったのです。ですから、イエス・キリストが詩篇二十二篇を念頭にそう叫んだことは容易に想像がつきます。大事なのは、この言葉が、一連の預言の成就の後に叫ばれたということです。そうでなければ、周囲に居たパリサイ人達もこの詩篇を暗記していたわけですから、その内容に沿うような行動はしなかったかもしれません。ローマ人兵士はそのような背景が有りませんでしたから着物を分け合うのがどの時点でもあまり問題にはなりませんが。


二、詩篇二十二篇の大まかな流れ

前半 観察していみますと、私には次のように読めました。
1-5節
神の助けを求める叫び ・・・・・・     いの一
6-8節
直面している苦難 ・・・・・・     ろの一
9-10節
神への信仰と信頼 ・・・・・・    は
11-18節
直面している苦難 ・・・・・・     ろの二
19-21節
神の助けを求める叫び ・・・・・・     いの二

このような構造の時には、どこに強調点が有るかは内容によって変わりますが、折り返しの部分が大事であると考えられています。すると、この詩篇の前半部分の要点は、「神への信仰と信頼」ということになりそうです。

後半 観察してみますと、私には次のように発展させられているように読めました。
23-24節
神は神を恐れるイスラエルの人々を救い賛美される。  

25-27節
神は神を尋ね求める国々を救い礼拝される

28-31節
神はまだ生まれぬ者を含めて、あらゆる人々を救い礼拝される

救われる対象が、イスラエル人→神を尋ね求める国々→次世代を含むあらゆる人々、というように発展していくことがわかります。
また、イエスという名前が「神は救う」という意味を持っていることを思わせる内容になっています。


三、イエス・キリストが思っていたであろうこと
神への信頼、復活の確信、続く世代を含むすべての国々に救いが届き、永遠の神の国に入ること等を思っておられただろうと推察いたします。後半に見られた救われる対象となる人々を思い、その喜びの故に耐え忍ばれた部分が有ると言えるでしょう。それはへブル人への手紙にも表されています。

イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせず十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。(へブル人への手紙十二章二節後半)


イエス・キリストの十字架の苦難を離れて、詩篇二十二篇だけに注目した場合、私たち忍者の学ぶべき点は何かと考えましたが、次の三点を挙げてみたいと思います。

一、逆境の時も主を信頼して祈ること
二、キリストに希望を置き、忍耐して信仰の歩みを進めること
三、救いを喜び、感謝して、主を礼拝し続けること








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いちじくの葉を捨てて生きる(原始福音的旧約理解)創世記3章より

2014-04-12 23:14:32 | 奥義書講解・旧約
 お世話になっている特別大忍にご意見を伺って、良い評価をいただけたので、ここにアップしておきたいと思います。



(緒論)
「赤毛のアン」を書いたL.M.モンゴメリは、長老教会の牧師の夫人でもありました。作品の中には聖書的比喩や隠喩がところどころに用いられています。その中の一つをご紹介いたします。
 アンが大学生ぐらいの時に住まいのアボンリーを離れて勉強をしますが、長期休暇の時には帰郷します。そんなある時、親友であり後に結婚することになるギルバートと木立の中を散歩することになります。その中で、ギルバートが野生のリンゴをみつけて、アンのためにそれをもいであげるのです。そして、二人は前向きな将来のことを考えながら帰路につきます。
 これがエデンの園の出来事の暗喩であることはお分かりでしょう。園ではありませんが、木立の中に、アダムとエバのように二人でいるのです。善悪を知る木の実のように、野生のリンゴが有ります。しかし、エデンの出来事とは異なり、ここでは、男性であるギルバートの方がそれを取ってアンに与えます。それは愛情に満ちた行為です。エデンではアダムとエバが失望の内に園を去りますが、アンとギルバートは将来の仕事などの希望を持って帰路に就きます。
 作者であるモンゴメリに、信仰者としてのエデンの回復の希望と信仰が有ることが判ります。新約聖書の最後の書であるヨハネによる黙示録では、新天新地が与えられることが示されています。エデンの最終的な回復と考えることができます。それはイエス様を信じている私たちにもこの世の終わりに与えられる希望です。しかし、同時に私たちは日々の生活の中にもエデンの回復を実現しながら生きて行くことを求められている存在です。本日の聖書箇所から、私たちが自覚しているべきエデンの回復の姿を確認いたしましょう。

(本論)
 6節をご覧ください。罪にはいろいろな定義の仕方が有りますが、この節も一つの定義を示していると考えられます。「その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。」と書いてあります。世の中には美味しそうに見えるものはたくさんあります。それが悪いわけではありません。エデンにも他にも美味しそうな果物も有ったでしょうし、目を奪うような美しい花なども咲いていたでしょう。それを食べても愛でても問題はありませんでした。しかし、善悪を知る木の実を食べた場合は罪となったのです。それが神様が禁じられていたことだったからです。ここから判る罪の定義は、「適切な欲求を神の御心に叶っていない方法で満たすこと。」というものになります。その罪の結果は、同様な罪の連鎖となって行きました。
 7節を見るとアダムとエバは罪を犯した結果、「自分達が裸であることを知った」ことが書いてあります。それでは、それ以前の様子はどうだったのでしょうか。それは、2章25節に示されています。「そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなった。」とあります。最初から裸であったのに以前は恥ずかしくはなくて、今になって自分達が裸であることを知ったとは、どういうことでしょうか。彼らにはしっかりした視力が有ったからお互いを見たり、善悪を知る木の実が目に慕わしいという判断ができたのです。それなのに、今になって裸であることを知ったというのはどういうことでしょうか。幾つかの理解が有りますが、今回はその中の一つに従って考えてみます。
 出エジプト記34章35節には、主なる神様と会見をしてきたモーセの顔が光を放っていたということが書かれています。コリント人への第二の手紙3章では、モーセの顔の栄光という表現を用いています。それはイスラエルの民の目に見えるものでした。同様に神様と直接の会見ができる堕落前のアダムとエバは、それと同様かそれ以上の神様の栄光に包まれ、守られていたと考えることができます。
 以前英語版の「漢字に表された旧約聖書の物語」という内容の本を読んだことがあります。そこでは、栄光という字の「さかえ」と言う部分について、次のように説明していました。「栄」という字の上の方は、現在では簡略化してカタカナのツのように書きますが、旧字体では二つの「火」という字の形で表されていました。それは、二人の「人」が神の栄光に覆われている有様だというのです。ワ冠のような部分は場所を表し、その中央に木が有るのです。それは、エデンの園の中央に善悪を知る木が有り、神の栄光に包まれたアダムとエバがそれを下に置く、つまりきちんと制御している有様で、それこそが「栄」の有様であるという理解が隠されているというものでした。事の真偽は別としまして、そういう風にアダムとエバが神様の栄光で覆われて、裸であることが露わではなかったという理解が有るわけです。しかし、二人は神との約束を破ってしまったために、その栄光が取り去られてしまいました。同時に、神の被造物の最も特別な存在としての自己尊厳が、自然には神様に守っていただけない状態になったことを表しています。
 神様に自己尊厳を守っていただくことができない堕落した状態の人間はどうするのでしょうか。アダムとエバはいちじくの葉をつづり合わせて腰の覆いを作ったように、自分の方法で自己尊厳を守ろうとするのです。いちじくの葉はそれなりに大きくて厚みも有りますから、蔓などでつづり合わせれば、十分に腰回りを覆うことはできました。しかし、その効果は束の間です。いくら厚みの有る葉でも、所詮は葉です。何かに引っかかったりすれば、簡単に破れてしまいます。例え破れたりしなかったとしても、時間が経てば葉は枯れてしまいますから、縮んでしまって隠した部分が見えてきてしまったり、かさかさして肌触りが悪くなったり、簡単に千切れてしまたりするようになるのです。それは、自己尊厳を人間的な方法で守ろうとする努力がいかに効果も効力も無く、自分にとっても心地良いものではないかということを表しています。そして、そのことがその後のアダムとエバの態度に如実に現れているのです。
 8~11節 自分の方法で自己尊厳を守らなければならないということは、神様との関係が正しくないということですから、神様との交流を恐れる心が生じます。素直に直接的に神様の御前に出ることができなくなってしまいます。アダムは「私は裸なので、恐れて、隠れました。」と告白しています。神様は創造主ですから、彼らが裸なことは最初からご存知でした。しかし、もうそういう神様のご性質もアダムの眼中には無かったようです。罪は神様のご性質の理解を曇らせてしまいます。隠れるのではなく、泣き叫んで神様に飛び込んで行っても良かったのですが、そういうこともできなくなっている人間の姿を見ることができます。
 12節 自分の方法で自己尊厳を守ろうとすると、自分を正しい方に置きたいので責任転嫁をします。アダムの返答の中の「あなたが私のそばに置かれたこの女」という表現には、神様、あなたも責任が有るのではありませんかというような含みを感じます。また、エバが悪いのですという主張がされています。つまり、自分の方法で自己尊厳を守ろうとする人には「愛」が無いのです。アダムの言葉には、神様に対する愛が有りません。最も愛して守るべきパートナーであるべきエバに対する愛も有りませんでした。本来であれば、最初に創造され、最初に神との約束を持った人として、自分がその責任を全うできなかったことへの赦しを請い、サタンに騙されたエバへの憐れみと許しを請うべきだったのに、エバに矛先を向けてまるで晒し者にするかのような態度を取りました。
 13節 アダムの姿勢に倣ったのでしょうか、エバも責任転嫁をします。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」と言っています。アダムと同じ自己防衛の姿です。人ではなく蛇に責任転嫁をしています。現代で言えば、環境のせいにしているという理解もできるかもしれません。
 アダムとエバの回答から、もう一つ確認したいと思います。二人とも「~ので」とか「それで」と理由を述べていますし、それは事実の陳述であるかもしれません。しかし、理由と自分が取った行動の間に有った自分の思考を抜いて誤魔化しています。「私自身が○○と思い、自分の意思で決断して~しました。」と言うべきところを飛ばして語っているのです。人はいつも自分で判断し、自分の意思で選んで行動しているのです。だから、あなたの行動の最終決断はあなたのものであり、あなたの責任なのです。最後の審判で神様の前に立つときも、あなただけに責任が有り、誰にも責任転嫁はできません。
 ここで神様は、最後の審判ではありませんが、夫々に罪の結果をお告げになられました。しかし、ただ罪の結果を宣言するだけな神様ではありませんでした。神様はここで、自己防衛のために神様にも人にも愛を示せなかったアダムとエバに、愛を示してくださいました。神は愛なのです。21節には、アダムとエバが自己防衛のためにまとったいちじくの葉の代わりに、皮の衣を作り、彼らに着せてくださったのです。
 アダムとエバには、もう最初の神の栄光をまとい、自動的に自己尊厳を神様に守っていただくことはできなくなりました。しかし、それに代わる恵を神様は与えてくださいました。その恵を受け止めるためには、一つしなければならないことが有ります。それは、いちじくの葉を脱ぎ捨てることです。人間的な方法で自己尊厳を守る自己防衛の手段を捨てなければならないのです。罪を悔い改めるというのは、そういう意味が有るのです。
 この皮の衣はイエス・キリスト様の贖いの予表、型です。皮の衣であるということは、その皮を取られ、アダムとエバのために犠牲になった動物がいるとういことです。アダムとエバの裸の恥を覆うために命を取られて死んだ動物がいるというのです。それは、後にイエス様が十字架の贖いの死を通して、私たちの罪を赦してくださり、霊的には義の衣を着せてくださり、神様の目に罪の無いものとみなしてくださることを予告しているのです。
 この十字架の恵を信じるということがイエス様を信じるということです。しかし、そのためには、捨てなければいけないことが有ります。それまでの自分の思いと自分の方法で自己尊厳を守り、自己防衛に努めて来た態度を捨て、神様に全てを委ねて自己尊厳を守っていただく、神様による自己尊厳にのみに立つ新しい生き方、態度を持たなければならないのです。皆様はそれを受け入れて生きているということを自覚していらっしゃるでしょうか。それが私たちに成就しているのです。象徴的に言えば、いちじくの葉を捨てて生きなければならいのです。
 
 神様の愛と恵をいただいたアダムとエバですが、自分の方法で自己尊厳を守り、保とうとする態度は、すっかり人間の中に定着してしまいました。それは、神様との交わりが有っても自然に無意識の内に働くものです。場合によっては、意識していてもそうしてしまうことも出てくるのです。そのことは続く4章のカインの物語に現されています。
 5節を見ると「それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。」と書いてあります。「それで」というのは、神様が自分のささげ物に目を留めてくださらなかったので、ということです。人間は怒った時程、自分の内面を探る必要が有ります。怒りの定義の一つは、「満たされるべきだと思う必要が満たされない時に起きる感情」であるということを読んだことが有ります。カインは神様を差し置いて、自分のささげ物は目と留められるべきだと思ったのです。そして、それが満たされなかったために怒りました。彼は神様の主権を認めていなかったことになります。また、自己尊厳が脅かされたと感じました。
 その時に、彼はどのように自己尊厳を守るべきだったのでしょうか。自分の尊厳は神様にのみ守っていただくものだという心構えができていたならば、神様のもとに出て、「神様、わたしのささげ物にも目を留めていただきたいのですが、どうしたら良かったでしょうか、これからどうしたら宜しいでしょうか。」とお聞きすることもできたはずです。しかし、彼は先に両親がしたように、自分の方法で自己尊厳を守る態度に出ました。ですから、神様に尋ねようともしませんでした。7節では神様の方からお声をかけてくださっているのですが、それも無視しました。自分の方法で自己尊厳を守ろうとする人は神様への愛が持てないのです。神様に対してでさえ愛が持てないのですから、ましてや人など愛せないということになります。
 カインは自己尊厳を自分の方法で守ろうとしました。彼は考えたのです。自分と比較される相手がいるからいけないのだ。この存在が私よりも優っているから自己尊厳が下がるのだ。では、その存在が無くなれば良いのだ。絶対なる方、神様に目を向けないで、相対の世界、相対の価値観に生きている者はそういう不安定で揺れ動く基準の中にいるのです。彼はアベルを殺してしまいました。そして、神様の問いかけに「知りません、私は自分の弟の番人なのでしょうか。」などと答えるのです。自分の方法で自己尊厳を守ろうとする人は、神の力も愛も素晴らしさも信じてはいないのです。自分の方法で自己尊厳を守ろうとする人は、神をも人をも愛せないのです。
 ここに私たちは驚くべき私たちの現実と罪の深さを見るのです。考えてみてください。カインは、私たちと違って、まだ直接神様と言葉を交わすことのできる世代の人間でした。今の私たちが考えれば本当に羨ましい関係を持っていました。それにも拘わらず、神様が直接語り掛けてくださって、愛を示し、警告してくださったのに、彼は自分の方法で自己尊厳を守ることだけに目を留め、自分の思いの中から神様を締め出して、とうとうアベルを殺したばかりか、神様の問い掛けに不誠実な回答をしているのです。神様を信じ、体験していると証できる私たちも、そのような態度になってしまっている時が有るのではないでしょうか。しかし、私たちにはカインには無いイエス様の十字架の贖いと聖霊の内住という恵が有るのです。この御力を信じ、おすがりして、私たちの心にいつの間にか生じるいちじくの葉をまとおうとする姿勢を退け続けて行きましょう。

(結論)
 本日の聖書箇所から私たちが読み取り、心に留めるべき原則やポイントはどのようなものでしょうか。
 第一のポイントは、「神様のご性質を理解し、いつも意識する。」ということです。その理解は、「神様は愛であり、人間との関係を保ち、人間を守ろうとしてくださる方だ」ということです。聖書の主人公は神様ですから、最初にこの箇所に現されている神様のご性質に目を留めるべきです。アダムとエバが堕落した時、神様は無言の内に彼らを抹殺したり消滅させたりすることもできました。しかし、神様は彼らに声をかけて対話してくださったのです。罪の結果を宣言はなさいましたが、彼らから取り去られた栄光の代わりとなる皮の衣を着せてくださいました。この時に、イエス様を通して人類に与えられる救いの計画も既に持っておられました。その神様が愛であることを信じ、神様の愛に頼り切って生きることです。
 第二のポイントは、「人間的な方法で自己尊厳を守ることは、いちじくの葉で体を覆うように無意味で効果が無い」ということです。それは、無意味なばかりか、有害な有様なのです。神様の愛と守りを信頼していないで、自分の力や戦略を信じていることになりますから、偶像礼拝の罪と同じなのです。そして、そういう態度は、自分の最も親しいはずの人への愛をも奪ってしまうのです。夫婦喧嘩なども、じっくり考え直してみれば、自己防衛、自己尊厳を守るという態度の表れであることが殆どです。お心当たりのある方も多いのではないでしょうか。
 第三のポイントは、「人間的な方法で自己尊厳を守ることを捨てて、神様が用意してくださった方法で自己尊厳を守ること」です。アダムとエバは、いちじくの葉を捨てて神様のくださった皮の衣を着ました。私たちはあの手この手で自己尊厳を守るのではなく、イエス様の贖いによっていただいた義だけを自己尊厳の拠り所とするのです。繰り返し繰り返しそうし続けて生きて行くのです。無意識の内に自分の知恵に頼り、それを自慢して生きてはいないかと、いつも吟味して反省して生きる姿勢が大事なのです。

 さて、ここで一度立ち止まって確認したいことが有ります。これまで、自分の方法で自己尊厳を守ろうとする態度には愛が無い様子をアダム、エバ、カインの態度から確認しました。自分の方法で自己尊厳を守ろうとする時、それは自己中心となります。だから、神をも人をも愛せない状態になるのです。
 イエス様は、マタイによる福音書22章36節から40節までの記事において、律法の中で大切な第一の戒めは「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」であり、第二に大切なのは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」であると言われました。更に「律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」と言っておられます。律法とは、創世記から始まる伝統的にモーセが書いたと考えられる五つの書のことです。その最初の本である創世記のほんの出だしの第3章において、既に神と人を愛することが大切であり、しかも、それは自分の方法で自己尊厳を守る人には守れないのだよということを聖書は教えているのです。
 私たちは「神を愛し、隣人を愛する」という目標を持っている者達です。大変重要で、基本的で、中心的な価値と土台に立って歩もうとしていることになります。イエス様がお教えになった一番大切な戒めと二番目に大切な戒めを守って行こうという心構えを持っているのですから。しかし、このモットーを守って行くのだという決意だけに心を向けていては不十分な場合が有ります。このモットーを守ることを最も妨げる事柄は何であるかということも同時に知らなければなりません。それが、本日の聖書箇所で確認してきた「人間的な方法で自己尊厳を守ろうとすること」なのです。私たちは神様を信じています。しかし、同時に、私たちは無意識の内に、また時には意識的に人間的な方法で自己尊厳を守ろうとしてしまう存在です。そして、そういうことに気付いていないこと、また、そういうことが神と人とを愛するという中心的で大事な私たちのモットーを守ることを妨げるのだということに気付いていないならば、所謂看板倒れのモットーになってしまうのです。ですから、このことをいつも意識して、「今の自分の考えや反応は、神様の方法にたよらない人間的な自己尊厳の守り方になっていないか。」という吟味を重ねる習慣をもつことが必要なのです。






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詩篇百二十篇 (都のぼりの歌から)

2011-08-20 21:51:57 | 奥義書講解・旧約
二つ程気になっていたテーマが有ったのですが、確認を始めたらすぐにまとまる内容ではなかったので、そのままだらだら時間が過ぎてしまい、間が長く空いてしまいました。この後も時間がかかると思います。

それで、今回は、今日確認した聖書箇所から書いておこうと思います。


詩篇百二十篇(口語訳)

120:1 都もうでの歌 わたしが悩みのうちに、主に呼ばわると、主はわたしに答えら
   れる。
120:2 「主よ、偽りのくちびるから、欺きの舌から、わたしを助け出してください」。

120:3 欺きの舌よ、おまえに何が与えられ、何が加えられるであろうか。
120:4 ますらおの鋭い矢と、えにしだの熱い炭とである。

120:5 わざわいなるかな、わたしはメセクにやどり、ケダルの天幕のなかに住んで
   いる。
120:6 わたしは久しく平安を憎む者のなかに住んでいた。
120:7 わたしは平安を願う、しかし、わたしが物言うとき、彼らは戦いを好む。



詩篇百二十篇から百三十四篇までは、都のぼりの歌というタイトルがついています。ユダヤ人達がバビロン捕囚を経験した後に発展したと言われています。それは、エルサレムに巡礼する時に、決まった場所で決まった歌が用いられたそうです。

百二十篇は、一連の都のぼりの歌の最初の一篇です。それは、三つの部分に分けられると考えられます。

第一部(一、二節)主は祈りに答えてくださる
ここでは、主は祈りに答えてくださるお方であるという告白と宣言がされています。この箇所における具体的内容は、「主は悪しき人々から守ってくださる」ということです。

第二(三、四節)主は依り頼む者達の主である
主にない者達は、どんなに力強くても主の恵みに与ることがない。

第三(五、六、七節)いかに状況が悪くても、主の恵みは変わらない
自分の周囲は神を畏れない者達で溢れかえっていても、最初に告白し、宣言した信仰と信頼に変わりはないし、主の御性質にも変わりはない。



まとめ

バビロン捕囚の後、約束の地に帰還しなかった人達も多数存在しました。その人達が巡礼して礼拝のためにエルサレム神殿を訪問しました。異邦人の地に残らざるを得なかった人達にとっては、その生活は悪しき者達に取り囲まれた生活で、霊的にも経済的にも困難な生活であったと思われます。
 その人達にとっては、心置きなく気兼ねなく礼拝できる巡礼の時は大きな喜びと恵みでありました。ですから、このような内容の歌から「都のぼりの歌」のシリーズが始まるのもおかしいことではありません。
 こうして巡礼者達は、その巡礼を実現させてくださった主に、主を礼拝する者の祈りには主が答えて守ってくださる方、恵み深い方であることを告白して主に栄光を帰し、礼拝するのです。過去に守られた恵みを告白して感謝をささげることを、その礼拝の第一歩としています。
 この詩篇の中心的な考えは、主は守ってくださった方であり、この先もその御性質は変わることなく、いかなる状況においても引き続き守ってくださることを信じる信仰の告白です。
 礼拝の第一歩が、このような信頼の告白で始まることには大きな意義が有ると思います。日曜礼拝にお出かけになる前に、この信頼と信仰を確認してはいかがでしょうか。







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列王記上 二十章三十五節~の記録の意味

2010-08-04 22:44:08 | 奥義書講解・旧約
 この箇所にも預言者と獅子が出てきます。そして、また一人の人が獅子に殺されるのですが、どうもそれは理不尽な感じがします。どうしてこのようなことが起き、また聖書に記録されなければならなかったのでしょうか。今回はそれを考えて見たいと思います。聖書を開きながらご確認ください。

 前に取り扱った箇所では、預言者が神の命令に従わないヤロブアム王を諌めるという使命を持っていました。今回の状況もそれと同じと言えると思います。今回は、ヤロブアム王と同じ北王国イスラエルの王で、信仰的観点からは相当な悪王として知られているアハブ王を諌めることが預言者に与えられた使命でした。
 アハブ王が諌められなければならなかった直接の理由は何だったのでしょうか。今回取り上げた記録の直前の二十章一節から三十四節までの内容です。手っ取り早く言うと、次のようなことです。敵国アラムとイスラエルが戦争をすることになりました。しかし、神は預言者を遣わして、神の手によって勝利を与えると言われました。強国アラムからイスラエルを救うことができるのは真の神であるということを示すためでありました。二十八節では、敵の大群を「全部」アハブ王に渡すと言われました。つまり、敵をことごとく滅ぼすことを神は命じられたということになります。アラムが真の神を、単なる山地の神としたからでした。しかし、神の恵みによって戦争に勝ったアハブは、敵の王ベン・ハダテを滅ぼさず、停戦と通商条約を結んで国に帰してしまいました。これこそが、アハブ王が諌められるべき内容でした。彼は真の神を尊ばず、その命令にも従わなかったのですから。
 
 さて、ここまで確認いたしますと、私の疑問はほぼ解けてきたように思います。順に確認を進めていきましょう。

 三十五節に「預言者のともがらのひとり」が唐突に登場する感じがします。しかし、この預言者はアハブ王と顔見知りであったことが四十一節を見ると判ります。素顔を現した彼をアハブ王は認識した様子が述べられています。すると、この預言者が十三節、二十二節、二十八節で神の言葉を伝えた預言者や神の人と表現されている人物である可能性が非常に高いと思われます。ユダヤ教の伝統では、この預言者はミカヤであるとされています。
 ミカヤはアハブ王がもう一度アラムと開戦しようとした時、同盟国ユダの王の勧めによって最後に連れて来られた主の預言者でした。アハブ王は二十二章十八節で、ミカヤのことを「悪いことばかり預言する」と評しています。おそらく二十章四十二節の預言がその一つだということです。アハブ王は同時代のもう一人の預言者エリヤとも敵対関係にありましたから、自分の態度を改めず、ミカヤのような預言者からも度々自分の意に沿わない預言を聞かされて来たに違いありません。
 このミカヤと考えられる預言者が三十五節で主の命令によって「仲間」に自分を打つように頼みました。この仲間がそれを拒んだ時、三十六節で「主の御声に聞き従わなかったから獅子に殺される」という内容の言葉が告げられます。このような暴力的な行為をするように頼まれて断るのは普通のことではないかと思うのですが、断った人に対する宣告は厳しいものでした。どうしてそのようなことを神はなさったのでしょうか。
 ミカヤが忠実な神の預言者であることは、それまでの実績から明白であったと考えられます。その預言者のともがらということであれば、ちょっと非常識で乱暴であると思われる指示も、神からの預言であるに違いないということが明らかに判った状況であったと考えられます。そうでなかったとしたら、このような結果を身に招くことは大変理不尽なことです。この人は、神の指示による言葉であるということを明らかに理解した上で断ったと考えるべき箇所だと判断できます。
 この話から導かれる結論は、ヤロブアム王の時と同じような原則であると思います。同じ信仰を持つ預言者のともがらが、神からの指示に従わなかったために獅子に殺されなければならないならば、預言に従わずにアラムの王を生かした悪王アハブは、尚更罰を受けるべき存在であり、必ず命を失うことになるというメッセージがそこに現されているということです。
 また、指示に従わなかった預言者のともがらについては、神の命よりも自分の善や道徳の観念を優先させた罪と、そういう態度への警告が含まれていると考えることができそうです。それは神よりも自分の道徳観念や善の意識を上にすることであり、自分の考え、ひいては自分を神より勝る位置に置くということでした。二人目の仲間は神の言葉の通りに預言者を打って傷を負わせましたが、その後何も咎められていません。そして、何も誉められたりすることなくこのエピソードの舞台から去ってしまいます。しかし、この二人目の仲間によって神の預言の業が進んだのでした。

 私達はミカヤのような著しい神の御業に参加したり用いられたりすることは無いかもしれません。しかし、アハブ王や獅子に殺された預言者のともがらの一人のような態度を持っていないか、いつも警戒することが必要だと思います。また、同時に、繰り返し過ちを犯す私達を、永遠の御手を持って支え、救ってくださったキリストに信頼し続けることが大事です







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士師記の十七~二十一章が記録された意味を考える

2010-07-03 21:43:35 | 奥義書講解・旧約
 カテゴリーが「気まぐれ忍務報告」です。御言葉を学ぶことは私の忍務のひとつであるからです。それを気まぐれとは何事かと思われるかもしれません。気まぐれなのは、ここに電子巻物として残すかどうかを決めるにあたってのことですので、誤解の無いようにお願いしたいと思います。新たなカテゴリーを設定した時に、カテゴリーを変更することも有るかもしれません。それでは内容に入ります。


 士師記の十八章を読み終わった時、ふと、どうしてこのような物語が霊感によって記録される必要が有ったのかという疑問が沸きました。ダン族の行動は傍若無人であると思いました。こんな記録がどうして必要だったのでしょうか。ダン族が新たに領地を獲得した顛末の記録の意味だけで理解して良いのでしょうか。それとも、他に知るべき要素が有るのでしょうか。そこで、そこを中心にいろいろ確認してみました。

 十八章のできごとは、ヨシュアの死後、オテニエルが最初の士師となるまでの期間に起きたことです。レビ人がミカの個人的な家の偶像のための祭司になったり、ダン族がそれを奪っていったりすることから、昔の偶像礼拝の形態が当たり前に蔓延っていた様子が伺えます。
 ここに登場するダン族は、その全部族ではなく、ある結びつきを持った一団でしょう。家族や一族を部族と表現することも有りましたから、そのような結びつきの人々であった可能性が有ります。
 ダン族は、割り当ての地全体を征服できなかったか、征服後に取り返されてしまったかなどの要素が有り、居住地が狭くなってしまったと考えられます。
 斥候に出された五人の所属する集団は、それぞれ人数が多く力が強いものであったでしょう。だからこそ、彼らの問題の解決のためにそのような行動を起こすことができたと考えられます。場所を探すのは、彼らの兄弟の部族の間ではなく、他のカナン人の地でなければならなかったので、彼らはその原則に従って土地を探しました。
 用いられている動詞やダン族のミカの家の祭司への質問から、この祭司とダン族の者達は以前からの知り合いであったと思われます。
 エポデや偶像のある礼拝所の祭司の職を得ていることがわかると、ダン族の斥候は神の御心を求めます。モーセの時代からの信仰に根ざした行動のように見えますが、後の彼らの行動から察するに、それは単なる宗教的儀式に堕していたようです。祭司はその一団の旅行の目的は主の御心に適っていると答えましたが、それは明らかに神の御心に反していました。神の御心はダンが割り当ての地を守ることであったことは明白だからです。それだけではなく、北のダン族の領土は、その後もずっと偶像礼拝の地であり続け、北王国が分離すると、ダンはヤロブアムが作った二つの金の牛の像うちの一つが置かれて、偶像礼拝の中心地の一つとなってしまいました。
 この祭司がモーセの孫に当たるという記述には疑問を呈する者もいるし、ラビ達の中には違う読みを当てたり解釈を施したりする立場も有ったようです。それはモーセへの敬意の表れですが、人間の罪の深さを思う時、モーセの子孫が特別なはずがなく、退けられるべき態度であると思います。
 また、この祭司の子孫が放浪もしくは捕囚の時までその地でダン族の祭司であったという記述が有りますが、その放浪もしくは捕囚の解釈にも複数の説が有ります。一つは、王政が敷かれる前、サムエルの時代に契約の箱がペリシテ人に持ち去られた後、ユダのバアラに安置されていた時期のことだとする。もう一つは、北王国にアッシリアが来て民を捕囚に連れて行った時のことだとします。ダビデやソロモンは、祭司の組み分けなどを新しく組織し、きちんとした礼拝の枠組みを作ったので、アッシリアによる捕囚の時代までその祭司の子孫がダン族の祭司であったということは無理が有るように思います。従って、一つ目の説に強みが有るように思われます。十八章の最後の節に、モーセの天幕がシロに有った間中、ダン族の礼拝の中心はミカの作った偶像であったとする記述も前者の考えを支持すると考えられます。繰り返し記述される「イスラエルには王がいなかった」という言葉も、王政になってからこのようなことは止んだという記者の主張を読むことができるように思われます。
 自分の家の祭司、エポデと家の偶像が持ち去られたことを知ったミカは、それらを取り返しに行きますが、ダン族の脅しに屈して引き返します。最初にミカがダン族を詰問する時、「他に何が残っているだろうか。」と尋ねますが、そこには全能の父なる神への信頼も無いし、家の偶像が彼らを守るものではなかったという虚しさも現れています。
 そのように考えると、二十七節二十八節のダン族がライシを襲ってその土地を自分のものとした様子の説明は、単にライシのシドン人達に十分な援軍や力が無かったからであって、神の御心や助けによったのではないということを述べるためであるように思われます。三十一節に示されている結論が、シロに設置されたモーセの天幕が真の神の命令に従った礼拝であり、ミカの作った偶像は神の御心にかなっていないことを述べていると考えることができます。
 

 十七章から二十一章までには、大きく分けて二つの事件が記録されています。どちらも士師の時代の前に起きたこととする説有力です。そうすると、この二つの事件は時系列を外れて付加された記録であり、記者にはこの二つの事件と師士の時代もしくは後に来る王政の時代を対比させる意図が有ったと思われます。すると、説教のために一つ一つ取り上げることもできますが、大きな流れで捉えるためには、これらを一まとめに考えて、記者の意図を探ることに意義が有ると思います。
 この二つの事件については、それまでの士師の記録にはなかった「そのころ、イスラエルには王がなかった。」という事実の記述が共通しています。サムエルが王を立てる時に、イスラエルの上に立つ王たる者は、いつもモーセの律法を側に置き、それに親しまなければならないとしました。それは代々守られるということ有りませんでしたが、それでも、後の列王記や歴代誌が善王か悪王かは主の御心に従うか否かによって判断されています。そういう期待や前提で立てられる王が置かれない時代であったということで、霊的律法的秩序が無かったことを再確認し、従って、根強い偶像礼拝の元となる事件も起きたし、十九章以降に出てくるレビ人が祭司としてふさわしくない行動を平然と行って大きな災いを民族に及ぼすようなことも起きたということを述べているようです。
 この二つの話で師士記を締め括ることには、師士の時代とその後に続く王政の時代を、神様からの恵みとして肯定し、神の恵みと律法に従って歩み続けるようにというメッセージを読み取るべき部分であると思われます。







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それはエデンで始まった 其の二 (創世記三章一節~六節)

2009-09-15 12:23:06 | 奥義書講解・旧約
前回ご説明した理由で、今回もカテゴリーは「気まぐれ任務報告」です。それから、このシリーズは其の三も考えたのですが、もう一つのものと組み合わせることにしましたので、今回で終わりです。


さて、今回は、サタンの欺きの過程を確認してみようと思います。巷には、もっと整然とした良い説明も有りますが、糸田十八風に確認すると、このような感じになりました。

要点一 欺きは、神の使い、価値有る啓示、のような印象を与える
コリント後書十一章十四節にある、「サタンさえ光の御使いに変装するのです」という表現は、ユダヤ的もしくはラビ的伝統の理解から来ていて、この旧約聖書の出来事に関係しているということです。
 神の使いは光り輝いているという理解が有ります。新約聖書における天使の描写にも、そんな雰囲気のものが散見されます。そういう光り輝く様を表現する言葉がセラフで、故に、天使の中にはセラフィムと呼ばれるものが有るということです。ですから、それまでも、何度か光り輝く動物の形で天使がアダムやエバの所に来たことが有ったのではないかと思われます。そして、この箇所の蛇も同様の有様で現れたとユダヤ人達は理解していたようです。さもなければ、蛇がエバに現れた時、エバが驚きもしなかったことの説明がつかないのではないかと思われます。
 異端的な教えや間違った聖書解釈などの欺きが、多くの人達に受け入れられるのは、そういう理由による部分が少なからず有ると思います。素晴らしい啓示だとか、新しく開かれた悟りであると思うと、無防備になり、或いは心酔していしまうということが有ると思います。

要点二 欺きは、神への不信を引き出す質問・思索から入ってくる
蛇がエバにした質問は、不正確な情報を元にしたくだらない質問のように見えます。しかし、その質問には神への不信の思考が隠されており、それはエバが持っていたのかもしれない神への不信の思いを揺さぶり、露にしたようです。
 サタンの質問は、「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」というものでした。手っ取り早く言えば、神は禁止されたのか?ということです。しかし、神が善悪を知る木の実を食べることを禁止したのは明らかですから、聞くまでもありません。実際の意図は、「園のどんな木からも」という誇張表現を加えたりしながら、神の禁止の姿勢は過剰ではないかという意識を誘発させることであったと考えられます。
 続く二つの節に出てくるエバの回答は、その罠にみごとにはまってしまったと思える内容になっています。先ず、「園の木から」取って食べてよいという回答ですが、神様は、「どの園の木から」でも食べてよいと言いました。しかも、それは「思いのままに」、つまり自由に食べてよいというものでした。(二章十六節)そういう恵みの言葉を割引した表現をエバは使っています。続いて、三節では、「園の中央にある木については」という曖昧な表現を使いました。実際は「善悪を知る木」についての禁止事項でしたのに、それをはっきりさせませんでした。それは、命の木から取って食べてよいという恵みを割引した表現でした。更に、エバは神の言わなかった言葉を使って、内容を誇張しています。それは「それに触れてもいけない」というものでした。神は過剰に厳しくてけちくさいとでも言いたげな感じがすると受け止める学者も居ます。断定できないまでも、そういう理解は可能なのではないかと思います。そして、締め括りの言葉に至るまで、神の言葉の内容を軽いものにしてしまっています。「死ぬといけないからだ」という表現は、死ぬかもしれないという可能性の表現と理解されます。原文ではあまりそういう印象を受けないような気がしますが、ラビなどの伝統的理解もそういうもののようです。実際の表現は「必ず死ぬ」という断定だったのです。
 エバの方が、命を得て後の日が浅かったということは有るであろうと思いますが、アダムから十分にその内容は聞いていたはずです。しかも、エバもその当時は直接神様との交わりも有ったはずです。ですから、これを無知の故であると考えるのは無理であろうと思われます。
 テモテ後書三章の最初に良くない要素を持った人物のリストが列挙されています。その中に「恩知らずな者」もしくは「感謝を知らない者」と訳せるものが入っています。他の要素と比べると、私達の生活感覚からすると、この部分だけ少し軽い内容ではないかと思ったりするかもしれません。しかし、エバが神の愛や恩恵を割引した態度を示し、その結果、神の禁止したことを実行に移し、最初の罪を犯したことを考えると、これは決して軽く考えてはいけないのではないかと思います。私達も、神の恩恵を割引しない考え方、生き方をしたいものです。


要点三、欺きは、神の言葉を真っ向から否定し、虚偽の約束をする。
エバの心の揺らぎを確認した蛇は、四節で「あなたは決して死にません。」という神の言葉を真っ向から否定します。それは同時に虚偽の約束になっています。また、五節には、善悪を知るようになると約束しています。この部分については、確かにその通りであったでしょう。しかし、悪を知ることになってしまった時、それが如何に破壊的で絶望的であるかということまでは隠されていました。蛇の姿を取って現れたサタンは、もうすでにそれを知っていたのですが、それまでは語らず、良いと思える部分だけをさもそれが全てであるかのように示しているのです。
 私達の中に欺きが入って来る時、我々はそれが欺きであることにすぐ気がつかないかもしれません。しかし、それが、今まで学んできたことと違うということに気がついた時には、果たしてそれが神の言葉と同じことを語っているか、そして、その約束が果たして現実的であるかを仔細に考えて見る必要が有ります。


要点四、欺きは、それまでの神の概念は頼り甲斐のないものであり、自ら神のように振舞うように誘導する。
同じ五節に語られている蛇の言葉は、神は人が能力を持つことを厭うけちで矮小な存在であるかのような表現になっています。それは神の善なる性質を否定しています。そのような神やその言葉は信頼するに足りないという思いを導きます。そして、「あなたが神のようになり」という言葉が、お前にもできる、お前には悟りが与えられる、あなたが主体である、場合によってはあなたは神になれるという理解にまで導くことになります。
 現在幾つか問題視されている異端的キリスト教のグループの中にも、「あなたは神となる」という考えが混入されているものが有ります。また、ニュー・エイジなどの理解にもそういう部分が有るという指摘をする声が有ります。
 また、リベラルなキリスト教神学者は、神を我々が考えるような意味において全能の存在とは考えていない場合が有ります。



まとめ
私達は、明らかに非聖書的であると思う解き明かしにはあまり欺かれることはないかもしれません。しかし、もしかして、これが忘れられていた聖書の原則や真理の啓示ではないかと思うと、本当にそれが聖書的であるのか、神の言葉の示す方向に合致するのかということを考えもせずに、その教えや解き明かしを受け入れてしまう場合が有ると思います。
 現在カルト化教会の問題でよく取り上げられる理解の中に、十分の一献金の問題や牧師は油注がれた器で、逆らってはならないなどというものが有ります。聖書神学の手法によって、詳細に調べれば、実はそういう考えは間違っていることがわかります。しかし、それを聖書から説明されるので、それまで知らなかった、忘れられていた真理の啓示のように感じ、目が開かれたと思って喜んでその教えに従ってしまうことが有るのです。実は、私もそういう時期が有りました。
 どうして、そのようなことが起きてしまうのでしょうか。そこには、「私は善でありたい。」という思いが潜んでいるからだと思います。しかし、その善の源が何であるかということが問題なのです。実は、私達はキリストに在るのでなければ無に等しいのです。ですから、そのような教えが開かれてそれを実践するという行いによっては善であることはできないのです。それをあたかも自分の行いで、神の性質である善に与る者になれると思うことが間違いの始まりであり、自分を神の位置に置くことなのです。
 あるブロガーが述べていました。そういうカルト化教会にはまった人は、確かに被害者であるが、それでも、その人達も悔い改めなければならない部分が有るというのです。キリストならぬ、偽りの教えによって、より良い自分、善なる自分を求めようとした罪の故に、悔い改めなければならないという内容であったと思います。このブロガー自身が、そういうカルト的教会から開放されて、自分を省みた時の言葉です。まことに鋭い、貴重な指摘であると思います。

私達の善、私達の義、それは全てキリストに有るということを考え続け、自分の心の騒ぐ全ての瞬間に、もしかして、自分はキリストに拠らずに善、義となろうとしている部分がないだろうか、欺きの言葉に耳を貸していないだろうかと点検し続けることが大事ではないかと思います。







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それはエデンで始まった 其の一 (創世記二章二十四節、二十五節)

2009-09-04 13:24:04 | 奥義書講解・旧約
主題説教をいくつか考えましたが、一つの書の連講ではありませんので、カテゴリーの設定は忍務報告にさせていただきます。少しでもお役に立てればと願っています。



それはエデンで始まった 其の一:結婚 (創世記二章二十四節、二十五節)

二十四節 それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。
二十五節 そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。

要点一 神は結婚を特別なものとして創造された
「それゆえ」と書いてありますから、何ゆえなのかから確認しなければなりません。それは、この節より前の、それまでの説明や記述の中に有ることになります。
 最初の記述は、一章二十七節にあり、神は人を男と女に創造されたという内容です。つまり、神は人を最初から男と女に創造されたのです。しかし、その様子は他の動物達とは違いました。動物達は、同時に雌雄に創造されましたが、人間の場合は、時間の差を設けられました。それは、結婚を、また配偶者を特別な存在とするためでした。

次の結婚に関連する記述は、二章十八節からです。神は人が一人でいるのは良くないということと、ふさわしい助け手を造るという判断をされたことが書かれています。しかし、これはアダムの様子を見て、後からそう判断したということではありません。神は全知全能の神です。この部分も、結婚が特別なものであることを男性もしくは人類に教えるためのステップとして神が意図を持って設けられた段階であると考えます。
 続く節には、神が男性をどのような存在として創造されたかが述べられています。男性の前には動物達が連れてこられました。神はアダムがどんな名前をつけるかを見るためにそうしたという表現になっていますが、神は全知全能ですから、好奇心でそうしたのではありません。これは、男性がどのような存在であるかを確認させる意図が有ります。
 名前をつけるということは、単に一組の音声を与えるということではなく、特徴などを確認分類して、ラベルを貼るような行為です。結婚カウンセラー達が、男性の思考や心を箱や棚に例えることがあります。男性の思考や心は、何かを型にはめ、分類整理し、解決を求める傾向が強いのです。神の創造を信じるのであれば、神はまた、男性に、そういう決定をする権限、権威を与えたと考えることになります。
 二十節に目を移すと、アダムがすべての動物に名前をつけたということが書かれています。アダムはその与えられた男性の特性をきちんと発揮し、その仕事を成し遂げる完全な能力が有ったということを示しています。しかし、そのような特性や能力を持っているだけでは足りない部分が有るということを神は男性、もしくは人間に教えようとしたのです。ですから、アダムには助け手が必要だったわけです。ここで述べていることは、助け手をさがすために動物が連れてこられたということではありません。

二十一節からは、結婚が特別なことであることを示すもう一つの記述が加えられます。「そこで」と書いてありますが、それは、助け手が見つからなかったので、という意味合いではありません。単純に考えれば、動物たちのように異なった性が存在しなかったということであり、創造の意図、段階から考えれば、アダムが自分の特性だけではうまく運営できない、もしくは不足している何かに気づいた時点で、と考えるべきであると思います。

続いてエバがアダムのあばら骨から創造されたということが書かれています。神は、アダムの創造の時のように、土を取ってエバを創造することはしませんでした。これもまた、神が結婚を特別なものとして創造、制定したことを示しています。動物達の創造には無かったプロセスです。
 アダムにしてみれば、自分の一部が神の手によってエバになったのですから、自分と同じ、自分の一部というような深いつながりを感じたはずです。それが、「私の骨からの骨、肉からの肉」と表現された理由です。

「それゆえ」の直接的な内容は、エバがアダムから創造されたことであり、男と女が一体となることの説明となっていますが、ここまでの内容の全体的理解を含むと考えて良いと思います。再確認してみます。
一、神は動物が対をなすのと異なり、結婚は神が特別に制定なさったものであり、男女はお互いに特別な存在であること。
 動物ですと、生まれて直ぐに立ち上がり、一年ぐらいのうちに子供を産むような場合が多く有りますが、人間は成長、成熟するまでに二十年近い歳月を必要として、また、その中で異性の必要を感じていくように創造されていることにも、結婚が特別なものであり、男女が互いに特別で大事な存在であるという神の創造の意図を理解できると思います。

二、男性には物事を決定したり、解決を求めたり、分類整理する傾向が有ること。また、その特性もしくは権威を神によって与えられているが、それだけでは足りない部分があるので、それとは違う特性や傾向を持った存在である女性が必要であること。
 結婚カウンセラーなどの表現では、女性はスパゲッティーであると言われます。いろいろな事柄が心の中で微妙に繋がっていて、ある部分をいじると、思いもしない部分が反応するというようなことが有るということです。これこそが、箱型思考的特性を持つ男性にできないことであり、足りない部分であると言えると思います。
 ある牧師婦人が、「男性ばっかり集まって会議するからおかしくなるのよ。」と言われたそうです。こういうことを考えると、そういうことも十分考えられると思わされます。

三、神は、女性が特別な存在として創造され、エバをアダムの一部から創造された。
故にアダムが「私の骨の中の骨、肉の中の肉」と表現した。

四、アダムとエバは神に創造され、故に両親を持っていない。


要点二 結婚は父母を離れて独立した者がするべきである
「それゆえ」の後に示された第一の事柄もしくは原則が「父母を離れ」であることは、単にそれが物事の順序であるというだけでなく、大事な要素が含まれています。
 一つには、神は結婚を父母を持たないアダムとエバの結合の再生と位置づけ、父母ではなく、神との関係に立ち、神との関係を深め、神との関係に目を留めてなされ、営まれるべきものとして意識されることを願っておられると考えられます。
 また、これは、男に限らず、結婚する男女は、経済的にも精神的にも両親から独立していなければならないことを示しています。経済的に独立していても、精神的に依存していたり、親の言いなりになったりする時、結婚がうまく行かないということは、例を示すまでもなく、しょっちゅう聞かれることです。
 両親との同居が結婚の条件になる場合が有るようですが、これは聖書的な在り方ではありません。両親が高齢になれば、そのお世話をすることは当然聖書的に求められていることでありますし、その必要のために同居したりすることは生じますが、新婚の時から同居するようなことは避けるべきであると思います。 
 独立した個人、もしくは夫婦としての在り方を守らなければならない時に、両親の意思に沿わない決断をすることになる場合が有ります。それをやましく思う必要は有りません。「父と母を敬え」という教えは、何でも言うことを聞きなさいという意味ではありません。感謝と敬意を持って接するのであれば、それが聖書的価値判断に従おうという意図によるものである限り、両親の意思に沿わないことが有っても良いのです。

要点三 結婚は受容と信頼の継続的再創造と護持である
こういうことは、自然にできることではありません。だからこそ、結婚は契約関係なのです。妻と結び合うということは、単に結婚したから同居して夫婦関係が有るということではありません。
 受容と信頼の関係は、二十五節に表されています。二人とも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった、ということが記されています。裸であるということは、象徴的には、全面的自己開示と無防備を意味します。全面自己開示をしても、攻撃されたり不利な扱いを受けることが無く、したがって防備する必要がまったく無い関係が二人の間には有ったということです。体の特徴などが嘲笑の対象とされた場合、それは大変な侮辱となることは誰でも知っていることではないでしょうか。しかし、そのようなことも心配しなくてよい受容と信頼の関係が確立されていたのです。そして、それが結婚した二人の姿でなければなりません。
 キリスト者の結婚は、もう一度この受容と信頼の関係を、キリストにあって継続的に再創造し、護持することです。しかし、それは簡単なことではありません。神によって与えられている性差などの要素が揺るがされると、それが難しくなるのです。そして、アダムとエバもその困難を経験しました。この結婚における裸の関係、受容と信頼の障害となる基本的な事柄を、続けて聖書から確認してみたいと思います。

先ず、男性にとっての障害を確認してみます。このことは、エバがサタンにに騙され、誘惑された時に起きています。エバはアダムに何の相談もしないで善悪を知る木の実をとって食べました。思い出してください。アダムは動物に名前をつける、物事を分類したり、判断したり、決定する権威を神に与えられました。それがアダム、ひいては男性の特性であり意識でもあるのです。ですから、エバがアダムに何も相談しないで決定をしたということは、アダムの権威を無視したり損なったりしたことになります。それは、アダムという存在への攻撃と考えられ、彼は無防備でいられなくなりました。おそらくアダムは、そういう決定は私がすることなのだということの提示の行為としてエバが渡した実を食べたという側面が有るのではないかと考えられると思います。
 現代の男性達も、女性が自分の決定を優先したり、男性を見下したりすると、健全な関係を維持することが難しく、それが受容と信頼の関係の障害となることは、数多く見られるのではないでしょうか。
 次に、女性にとっての障害を確認してみます。これは、神がアダムとエバに呼びかけられた時に起きています。十二節において、アダムは自分の責任を正直に認めることをせず、「この女が私にくれたので食べたのです。」という具合に、エバを保護せず、責任転嫁と攻撃の対象にしました。妻は愛と保護の対象であるのが聖書的な理解であり、安全が保障されていることが大事な要素となりますが、アダムはそれをみごとに打ち壊してしまいました。要点二で述べた、独立した責任の取れる男性であるという条件を、アダムはここでしくじったことになります。付け足しておきますと、妻に相談せずに何でも決めてしまう男性がいますが、これも問題です。男性の特性を発揮しているということにはなりますが、女性に安心を保障しないということで、無形の攻撃になっており、妻が受容と信頼の関係を維持することが難しくなります。
 妻が有形無形の攻撃に大変弱く傷つくことも、我々は体験や伝聞で理解していると思いますが、一つの例を挙げさせていただきたいと思います。これはある結婚カウンセラーの男性の紹介している自分の失敗談です。ある日、ご夫人が午後に、サンドイッチを作り始めました。ご夫人は自分の分と子供たちの分を作ると、彼には目もくれず食べ始めました。自分の分も当然のように期待していた彼は、少々面白くない気持ちで、「僕の分は無いのかい?」と尋ねました。すると、ご夫人は目を見開いて「冗談でしょう!?」と答えたそうです。理由を尋ねた彼がご夫人から聞いた説明は次のようなものでした。彼女がサンドイッチを作ると、彼はいつでも「レタスが乾いているな。」とか「~が足りないな。」という文句の言葉を必ず一つ着けていたというのです。だから、サンドイッチを作るたびに彼女はそれを攻撃の言葉として聞いては傷ついていたというのです。そして、彼は自分の作るサンドイッチが嫌いなのだと思ったのだということでした。彼は知らないうちに、何気なくそういう言葉を使っており、自分では気がついていなかったそうです。
 男性は、目的意識が強く、解決を求める傾向が有ります。妻が愚痴をこぼしたりすると、ついそれにアドバイスをしたり、その考えを正そうとしてしまいます。しかし、それが、妻にとっては攻撃と同じことになります。受容と信頼を感じられないからです。男性は聞きさえすれば良いのです。妻は愛と保護の対象です。女性は女性なりに物事を理解しており、キリスト者であれば、キリスト者なりの問題も自分で理解しています。ただ、それを聞いてもらいたいだけなのです。
 考えてみてください。神様やイエス様が、私達の告白をいちいち正したりされる方であったらどうでしょうか。ダビデの詩篇は書かれなかったことでしょう。私達の心は粉々に砕かれてしまって、絶望してしまうのではないでしょうか。しかし、神様は私達の告白を聞いてくださる方です。私達も同様に聞くに早く、語るに遅いことが大事であると思います。そして、夫婦は一体と言えど、最後の審判の時に神様の前に立てば、妻は一人の人間として立つのです。夫が妻の弁護人になることはできません。執り成してとして立てる存在はイエス・キリストしか居ないのです。ですから、妻の愚痴を正して導こうなどということはキリストに委ねて、キリスト者夫婦は受容と信頼の関係の再創造に心を向けるべきです。


まとめ
このような事柄は、新約聖書にも説明されています。簡潔なまとめと言える表現がエペソ書に有ります。「あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。(五章三十三節)」五章二十二節から妻と夫に対する勧め、命令として幾つかのことが書かれています。それは、二つのことを表していると思います。一つ目は、ここにも創世記に見出される男女の特性、また、受容と信頼のための鍵が確認されているということです。そして、二つ目は、更にそこに新約の光と、神の奥義が付け加えられています。結婚は、キリストと教会の関係をも表すものだということです。この事柄を心に留め、アダムとエバが持っていた完全な自己開示と無防備の関係、受容と信頼の関係の再創造に、キリストにあって全力を尽くすことが夫婦の努めであると言えると思います。
 
先に挙げた要点だけを再掲します
要点一 神は結婚を特別なものとして創造された
要点二 結婚は父母を離れて独立した者がするべきである
要点三 結婚は受容と信頼の継続的再創造と護持である







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