導入)
西暦二千年出版の「ヤベツの祈り」という本は、これまでに一千万部以上売れたということです。一方、この本におけるヤベツの祈りの取り上げ方は、繁栄の神学に結び付けられているという批判も出ました。
真面目に聖書的福音的信仰を目指す忍者として、この箇所はどのように理解できるのか見てみましょう。
本論)
歴代誌は、バビロン捕囚から帰還した人たちに、先祖に恵みを施された神に信頼するように奨励するために書かれたと考えられています。
二章からは、ユダ族の人たちの系図が記録されています。四章からは、あまり注目されていない系図の本流から外れた人たちが記録されているように思われます。ところが、その中で、記者は突然ヤベツという人物を、父親の名前の紹介も無しに記録したばかりか、この人物の説明のためだけに2節も費やしています。それだけヤベツは重要な人物であったということです。歴代誌の記者は、捕囚から帰還した人々に、それだけヤベツのことを心に留めて欲しいと思ったのです。
九節 ヤベツは兄弟たちより重んじられたとされています。兄弟というのは、親類縁者まで含んだ表現と考えられます。しかし、続く母親の言葉を見ると、彼の人生の初期は惨めなものであったようです。母親の言葉が示す通り、ヤベツという名前は悲しみ、もしくは苦痛という意味が有ります。それは、肉体的な痛みと精神的な痛みの両方に用いられる言葉です。どのような悲しみや痛みが有ったのでしょうか。ある学者は、ヤベツは妾の子だったのではないかと考えます。或いは、ヤベツが生まれる頃には、父親は亡くなっていたのかもしれません。いずれの場合でも、彼の母親の心の苦しみは大きいものであったでしょう。そのような境遇に生まれた子供の生活は、惨めなものであることが多かったのです。それでは、どうして彼が「重んじられる」人物となったのでしょうか。
十節 彼が重んじられることとなった理由は、この節が示しているイスラエルの神に祈ったという部分に有ると考えられます。呼ばわったと訳された語は、大声を出す、音読する、呼びかける、助けを求める等の意味が有ります。おそらく、彼の周囲の人たちは、ヤベツの祈りの声を聞いただろうと思われます。彼が祈りの人であることを、人々は知っていたでしょう。彼の祈りの内容を確認してみます。
第一に、神の大いなる祝福により、地境を広げることができるように祈りました。ヤベツはヨシュアや士師の時代の人だと考えます。その時代には、ユダヤ人たちは、カナン人たちを追い出して、神に割り当てられた領土を獲得しなければなりませんでした。そうでなければ、ヤベツの願いは意味をなしません。各部族、氏族に割り当てられた土地の地境は、律法によって変更することが禁じられていたからです。ヤベツは欲張りや自己中心の気持ちから祈ったのではありませんでした。彼は、神に与えられた使命を果たしたかったのです。私の地境と言いましたが、ユダ族全体が協力して戦わなければならない状況でした。この祈りの結果、ユダ族が割り当て地を得ることができたので、ヤベツは重んじられることになったと考えられます。
第二に、苦しむことのないようにと祈り求めました。苦しみ、悲しみという意味の名を持つヤベツが、神に祈って、肉体的な苦しみや精神的な苦しみから守ってくださるようにお願いしたのです。御手という表現をした時に、ヤベツの思いの中には、出エジプト記の記述などが有ったことでしょう。(出エジプト記13章3節、9節等参照)神の守りと導きの手を信頼し、求めて祈ったのです。
第三に、わざわいから遠ざけてくださるように祈りました。わざわいと訳された語は、さまざまなわざわいを意味します。土壌が悪い、水質が悪い、災害や大問題、道徳的退廃、悲しみ、不親切、負傷などが含まれます。多くの物事が私たちにわざわいをもたらすことが有り得ます。もちろんそういうわざわいは好ましいものではありません。霊的問題としては、それらが信仰を失わせるような場合も考えられます。だからこそ、守りを祈り求めたのでしょう。その祈りの姿勢は、「われらを試みに合わせず、悪より救いい出したまえ」という主の祈りにも見出されると思います。
祈りの結果はどんなものだったでしょうか。神は彼の願ったことをかなえられたなっています。かなえると訳される語には、実行に移す、もたらす、来る、下って来る、入る、行く、という意味が含まれます。まるで、神のご臨在が下って来て、彼と彼の祈りの生活に入って来られたと述べているかのようです。そのような祈りの生活をしたヤベツの願いを、神はかなえてくださり、そのゆえに、人々は彼を重んじたというのです。
まとめ)
ヤベツのように祈りに倣うとは、どのように祈ることでしょうか。簡単に以下の三つを挙げておきたいと思います。
一、神だけが苦しみと悪に満ちた世における真の解決である知って祈る
バアルでもなくネボでもなく、また、自分の能力でもなく、創造主だけに信頼する姿勢を持って祈ることです。
二、神に与えられた使命を果たすことができるように祈る
神の子供、イエスの証人、聖なる祭司の国民等、私たちの在るべき姿を指す言葉が奥義書には示されています。そのような者になれるように祈ります。
三、絶えず祈る
ヤベツが祈りの人であったことは、周囲の人たちに知られていたと考えられます。声を上げて祈っただけではなく、絶えず祈ったからではないでしょうか。
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西暦二千年出版の「ヤベツの祈り」という本は、これまでに一千万部以上売れたということです。一方、この本におけるヤベツの祈りの取り上げ方は、繁栄の神学に結び付けられているという批判も出ました。
真面目に聖書的福音的信仰を目指す忍者として、この箇所はどのように理解できるのか見てみましょう。
本論)
歴代誌は、バビロン捕囚から帰還した人たちに、先祖に恵みを施された神に信頼するように奨励するために書かれたと考えられています。
二章からは、ユダ族の人たちの系図が記録されています。四章からは、あまり注目されていない系図の本流から外れた人たちが記録されているように思われます。ところが、その中で、記者は突然ヤベツという人物を、父親の名前の紹介も無しに記録したばかりか、この人物の説明のためだけに2節も費やしています。それだけヤベツは重要な人物であったということです。歴代誌の記者は、捕囚から帰還した人々に、それだけヤベツのことを心に留めて欲しいと思ったのです。
九節 ヤベツは兄弟たちより重んじられたとされています。兄弟というのは、親類縁者まで含んだ表現と考えられます。しかし、続く母親の言葉を見ると、彼の人生の初期は惨めなものであったようです。母親の言葉が示す通り、ヤベツという名前は悲しみ、もしくは苦痛という意味が有ります。それは、肉体的な痛みと精神的な痛みの両方に用いられる言葉です。どのような悲しみや痛みが有ったのでしょうか。ある学者は、ヤベツは妾の子だったのではないかと考えます。或いは、ヤベツが生まれる頃には、父親は亡くなっていたのかもしれません。いずれの場合でも、彼の母親の心の苦しみは大きいものであったでしょう。そのような境遇に生まれた子供の生活は、惨めなものであることが多かったのです。それでは、どうして彼が「重んじられる」人物となったのでしょうか。
十節 彼が重んじられることとなった理由は、この節が示しているイスラエルの神に祈ったという部分に有ると考えられます。呼ばわったと訳された語は、大声を出す、音読する、呼びかける、助けを求める等の意味が有ります。おそらく、彼の周囲の人たちは、ヤベツの祈りの声を聞いただろうと思われます。彼が祈りの人であることを、人々は知っていたでしょう。彼の祈りの内容を確認してみます。
第一に、神の大いなる祝福により、地境を広げることができるように祈りました。ヤベツはヨシュアや士師の時代の人だと考えます。その時代には、ユダヤ人たちは、カナン人たちを追い出して、神に割り当てられた領土を獲得しなければなりませんでした。そうでなければ、ヤベツの願いは意味をなしません。各部族、氏族に割り当てられた土地の地境は、律法によって変更することが禁じられていたからです。ヤベツは欲張りや自己中心の気持ちから祈ったのではありませんでした。彼は、神に与えられた使命を果たしたかったのです。私の地境と言いましたが、ユダ族全体が協力して戦わなければならない状況でした。この祈りの結果、ユダ族が割り当て地を得ることができたので、ヤベツは重んじられることになったと考えられます。
第二に、苦しむことのないようにと祈り求めました。苦しみ、悲しみという意味の名を持つヤベツが、神に祈って、肉体的な苦しみや精神的な苦しみから守ってくださるようにお願いしたのです。御手という表現をした時に、ヤベツの思いの中には、出エジプト記の記述などが有ったことでしょう。(出エジプト記13章3節、9節等参照)神の守りと導きの手を信頼し、求めて祈ったのです。
第三に、わざわいから遠ざけてくださるように祈りました。わざわいと訳された語は、さまざまなわざわいを意味します。土壌が悪い、水質が悪い、災害や大問題、道徳的退廃、悲しみ、不親切、負傷などが含まれます。多くの物事が私たちにわざわいをもたらすことが有り得ます。もちろんそういうわざわいは好ましいものではありません。霊的問題としては、それらが信仰を失わせるような場合も考えられます。だからこそ、守りを祈り求めたのでしょう。その祈りの姿勢は、「われらを試みに合わせず、悪より救いい出したまえ」という主の祈りにも見出されると思います。
祈りの結果はどんなものだったでしょうか。神は彼の願ったことをかなえられたなっています。かなえると訳される語には、実行に移す、もたらす、来る、下って来る、入る、行く、という意味が含まれます。まるで、神のご臨在が下って来て、彼と彼の祈りの生活に入って来られたと述べているかのようです。そのような祈りの生活をしたヤベツの願いを、神はかなえてくださり、そのゆえに、人々は彼を重んじたというのです。
まとめ)
ヤベツのように祈りに倣うとは、どのように祈ることでしょうか。簡単に以下の三つを挙げておきたいと思います。
一、神だけが苦しみと悪に満ちた世における真の解決である知って祈る
バアルでもなくネボでもなく、また、自分の能力でもなく、創造主だけに信頼する姿勢を持って祈ることです。
二、神に与えられた使命を果たすことができるように祈る
神の子供、イエスの証人、聖なる祭司の国民等、私たちの在るべき姿を指す言葉が奥義書には示されています。そのような者になれるように祈ります。
三、絶えず祈る
ヤベツが祈りの人であったことは、周囲の人たちに知られていたと考えられます。声を上げて祈っただけではなく、絶えず祈ったからではないでしょうか。


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