goo blog サービス終了のお知らせ 

糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

他所の里の大忍の説教から(列王記上十九章一節~十八節)

2009-08-24 16:30:31 | 奥義書講解・旧約
知り合いが推薦してくれた教会が有りましたので、先日は研修ということで、そちらの里の礼拝や説教を学びに行きました。説教の覚書からお分かちさせていただきます。

主こそ神であることを、主からの火の応答によって示し、バアルの預言者に勝利した後のエピソードからです。力強い神の働きを見て気持ちが高揚していたであろうエリヤは、王妃イゼベルが彼を殺そうとしているという知らせを受けて、絶望的な気持ちになってしまいました。絶望の時にどうするのか、という説教シリーズの第一回ということで、この聖書箇所を通して語られた四つの要点を紹介します。

導入
先ず、絶望しやすい状況を確認してみます。それは次の四つだそうです。
一、疲れている。仕事などで疲れている。難しい状況で疲労困憊している。
二、一人ぼっちである。孤独である、もしくは孤独感を持っている。
三、否定的な考え方をし、悲観的である。
四、神を忘れる。その存在、もしくは性質、属性を忘れる。

そんな絶望の時、神が私達に望んでおられることを確認してみましょう。

要点一 神は私達の回復を望んでおられる(五節~八節)
絶望して眠ってしまったエリヤに、神様は焼いたパン菓子と水を備えられました。しかも、二度そうしてくださったのです。皆がこのような経験をするということではありませんが、時には何かの回復の道やそのために必要な物を備え、あるいはそれに気づくようにしてくださるのではないでしょうか。たとえ具体的に神様が御手を伸ばしてくださらないにしても、神様は私達の回復を望んでおられます。絶望の時には、先ず、肉体的、また、精神的な疲労からの回復を考え、また、神様に求めることから始めるのが良いでしょう。

要点二 神は私達の思いの告白を望んでおられる(九節~十四節)
神様がエリヤの告白を引き出すためになされたことは、「ここで何をしているのか。」という問いかけでした。単純に何をしているのかを尋ねられたのであれば、「寝ています」とか、「隠れています」などの回答でも良い場面であったと思われますが、エリヤは心にある思いを神様にぶちまけています。神は、その機会を二度彼に与えています。十節と十四節に、同じ告白がなされています。そういう告白こそが、神様の期待し、望んでおられた事柄です。ダビデによる詩篇を読めば、そのような心の思いが神の前に注ぎ出される時に、嘆きは祈りになり、絶望は希望になることがそこに現れていると思います。

要点三 神は私達が神の言葉を聞くことを望んでおられる(十五節~十八節)
エリヤが思いを告白すると、今度は神が語りかけました。神は私達に語り掛けたい、そして、語り掛けておられる方です。私達が絶望している時に神が語り掛け、私達に気づいて欲しいと思っておられることの中心は二つ有ります。
 第一は、私達の中に有る偽りの認識を、真理もしくは事実をもって正すことです。エリヤは告白の中で、「ただ私だけが残りました」と言っています。しかし、それは事実ではありませんでした。ですから、神は語り掛けの中で、エリシャという、彼に代わって預言者となる者が居ること、七千人の神に忠実な仲間が居ることを示しました。(七千という数字は、実際の人数ではなく、大勢のという意味だと考える立場もあります。)
 第二は、私達の人生の目的を再確認させることです。神はエリヤに仕事の指示をしています。あなたは預言者であるから、預言者の仕事をしなさいと言っていることになります。私達は預言者ではありませんが、キリスト者です。聖書を読めば、キリスト者がどういう存在で、どう生きなければならないかは示されています。絶望の時にこそ、そこに立ち返り、それを再確認することです。


要点四 神は私達に仲間を与えることを望んでおられる(十五節~十八節)
神がエリヤに与えた命令の中には、二人の王を立てることと、一人の預言者を立てることが入っています。この人達は、全き神の僕とは言えなかったかもしれませんが、バアル信仰に対抗する勢力としては仲間でした。しかし、それよりももっと励ましになることは、エリシャという預言者が起こされるということでした。友達とも言えそうな、近い間柄の人が与えられるということでした。十九節を見ると、十二くびきの牛を使っていたことが書いてあります。十二くびきということは、単純に一つのくびきに二頭の牛があてがわれると考えても、二十四頭の牛の幅を耕すことができるということですから、エリシャは相当熟練した家畜の使い手であり、また腕力、体力も有ったであろうと思われます。そういう要素も、エリヤにとっては大きな励ましであったかもしれません。そして、それだけに止まらず、七千人のバアルに礼拝をしたことのない者が居ると言われたのです。


まとめ
あなたは絶望していますか?絶望に陥りやすい四つの要素を確認し、キリストにあってそれを取り除くように心掛けましょう。そして、神が私達に望んでおられる四つの要点を再確認して、自分の方向を正し、必要であれば休み、神に告白し、神に聞き、再確認して、歩もうではありませんか。同時に、これらの要点を踏まえて、私達が他のキリスト者を絶望させるのではなく、励まし、希望を持たせる存在であることができるように求めましょう。







にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へにほんブログ村

    ↑
よろしかったらクリックにご協力ください。

モリヤの山

2009-04-03 15:33:55 | 奥義書講解・旧約
忍士が創世記二十二章から説教をしましたので、次のようなことを再確認してみました。


旧約聖書にモリヤの山という場所が出てきます。この山の名前である「モリヤ」の意味は諸説有るようですが、よく使われる旧約聖書ヘブル語辞典では、「神に選ばれた」という意味であるとしています。そして、その意味の示すように、この山の上で特筆すべき出来事が幾つか起きています。

一つ目は、アブラハムがイサクを捧げるように神の指示を受けた時、その場所として指定されました。アブラハムは信仰を持ってこの指示に従順しました。その信仰は、新約聖書のヘブル書十一章十七節から十九節にも記されています。ヘブル書では、「これは型です」という記述が有ります。一人息子を捧げようとすること、また、身代わりの雄羊が神によって与えられたこと、息子のイサクの無抵抗、アブラハムの神はイサクを生き返らせるという信仰などが、イエス・キリストの予表となっています。

二つ目は、ダビデの統治の時代に、エルサレムの一部となったモリヤの山が、エブス人アラウナもしくはオルナンという人の地所であった時のことです。ダビデが神に頼る信仰を一時的に離れ、自分の力を知るため、もしくは誇るために、人口調査を命じた時のことです。この不信仰の業の故に、神の罰が下ることになりました。預言者ガドが三つの罰の中から一つ選ぶように伝えると、ダビデは具体的な回答を避け、「私を主の手に陥らせてください。」と言います。その結果、疫病がイスラエルに下されました。
 このことはダビデの不信仰から始まりました。そして、ダビデが民の長老たちと一緒にひれ伏して神に災いは自分が受けるということを申し出ます。神は預言者ガドを通して、かつてモリヤの山と呼ばれたオルナンの脱穀場に祭壇を作り、ささげ物をするようにダビデに指示をします。ダビデが指示に従って、祭壇を築き、全焼のいけにえ(罪の赦しのためです)と和解のいけにえを捧げると、神御自身が天から火を送ってその捧げ物を受け入れ、疫病は止みました。
 この出来事にも、身代わりの申し出と、罪の贖いと和解の捧げ物がなされており、イエス・キリストの予表となっています。

三つ目は、この場所にエルサレムの神殿が建設されたということです。二つ目の出来事の時に、ダビデは神が指定して祭壇を作らせ、捧げ物を受け入れられたことを見て、「これこそ神である主の宮だ。」と言っています。そして、ここに神殿を建設することを計画し、宣言しています。
 ソロモンは父ダビデの遺志を継いで、神殿を完成させます。ソロモンがこの神殿の奉献をする時の祈りで、神殿を思って悔い改めと罪の赦しを求める祈りをする時に、神が聞いて応えてくださるようにと求めています。この時も、捧げ物のために神は天から火を送っています。
 ソロモンが祈り求めたように、この神殿を思って祈る悔い改めの祈りに神が応えられるように、後の人達がイエス・キリストを思って祈る時に、罪の赦しが与えられるという部分が、イエス・キリストの予表になっています。

四つ目は、イエス・キリスト御自身が、かつてモリヤの山であったダビデの町エルサレムの郊外で十字架に掛かって人類の罪の贖いのために死なれたことです。そして、これが私たちキリスト者にとって一番大事な出来事です。私たちはこのイエス・キリストが神の御子であり、贖いの羊となってくださり、私たちの身代わりに死なれたこと、よみがえられたことを信じる信仰によって救われるからです。

四つの出来事の内、最後のものがいわば本番、本物であり、前の三つが予表、予告ということになります。そして、この三つの予表、予告にも大事な意味が有ります。聖書においては、三は神の数字であり、完全数です。三回の繰り返しは、十分で確かな約束を意味します。三人の証人によって事が確かに起きたことを認定するように、三回の予表、予告によって、確かにイエス・キリストの贖いは与えられるのであるという約束になっているわけです。従って、信仰する私たちにとっては、イエス・キリストの十字架の贖いの成就は偶然ではなく、長い期間を掛けて約束を重ねられ、予告されてきた、確かな神の計画、神の業であるということになるのです。

ですから、このこれらの予表が指し示すキリストの十字架の贖いの業の性質や意味を思い出し、繰り返し十字架を思い、悔い改めて神と和解して罪の赦しを得ることを心に留め、実践し続けることが、私たちの従順であり、愛の応答であり、私たちがキリスト者である所以なのです。





にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へにほんブログ村

    ↑
よろしかったらクリックにご協力ください。